(1)院政
院政とは、上皇や法皇となってからも、現天皇に代わって政治をおこなうこと。
それまで摂政・関白が行ってきた「摂関政治」の衰退に伴って出来た政治形態。
・もともとは、自分の系統の皇位継承(父方尊属)の為に出来た。
・藤原摂関家の支配力をそぐ為の政策。
・引退後も、天皇家の家長として権力を持ち続ける。
・律令国家トップの天皇を抑え込むことで、国家そのものを掌握した。
・「治世の君」とよばれた。
・上皇の住まいや、本人を「院」と呼び、院から政治を指揮したため、院政という。
白河上皇が始め、鳥羽上皇、後白河上皇の時に[承久の乱]で終止符を打たれるまで、
1086年~1221年の136年ほど続いた。
白河上皇の院政は、自身の即位後わずか4年で、
8歳の息子「堀川天皇」に即位した時から、
堀川天皇の急死を受けて、孫の「鳥羽天皇」、
ひ孫の「崇徳天皇」までの3代天皇、43年間続いた。
※テスト頻出部分
・後三条がきっかけで、白河が院政を始めた。
・白河上皇が「堀川天皇」に譲位した。
・白河-鳥羽-後白河の3人の院の名前。
・白河院政が、もっとも長い期間。
・約136年程
・承久の乱で終わる
(2)院政の仕組み
【院】
上皇の住まいを院と呼ぶことから、上皇の政治を院制と呼ぶ。
【院庁】
院の仕事をする役所、政治機関。
天皇直轄で政治を執る内裏、朝廷より力を持つ。
【院司(いんし) 】
院庁で政治をとる役人で、上皇が直接指名した為、村上源氏が多い。
【院宣(いんせん) 】
天皇の私文命令書が「宣旨(せんし)」であるのに対して、
上皇の私文命令書が「院宣(いんせん)」である。
上皇からの直接の命令をうけた院司が出し、天皇の「宣旨」より効力が上。
私文書であるが、上皇の直接の意志として、「院庁下文」より格上で、効力が強い。
【院庁下文(いんちょうくだしぶみ) 】
天皇が、太政官を通じて出す公式文書の「詔勅(しょうちょく)」に対して、
上皇が、院庁を通じて出す公式文書が「院庁下文」である。
天皇、内裏、朝廷、宣旨よりも、上皇、院庁、院宣、院庁下文の方が
権力と効力を持つよりになり、朝廷政治に大きな影響を与えていくようになる。
【院近臣(いんのきんしん)】
院の側近やとりまき連中で、摂関時代は四位、五位と身分の低い中~下級貴族だが、
乳母の縁故や、院への荘園寄進、経済奉仕などを通して台頭してきた。
ほとんどは大国の国司であったが、一部に有能な実務官人も含まれる。
政治を執るべき摂関家が没落し、院近臣が政治に割り込み、院の思うままに
なっていくことを『愚管抄』は嘆いている。
源平の武士など、院近臣の対立が、のちの[保元の乱]につながっていく。
※宣旨、院宣、院庁下文、任人折紙の区別をはっきりつけておくこと。
※院司と、院近臣の区別をはっきりつけておくこと。
院司は、院庁で働く役人で、院近臣は院の側近など、とりまき連中。
(3)父方尊属の皇位継承
摂関政治の頃は、天皇の母方の祖父(外戚=母方尊属)が統治したのに対し、
院制は、天皇の父方の祖父(父方尊属)である院が統治した。
その為、院は「治天の君」とよばれた。
白河院、鳥羽院は、この父方尊属を維持する為、
兄弟への横の譲位ができないよう、皇太子(東宮)の弟達を早くに出家させた。
(4)院制の財源確保
国府が集める通常の納税は朝廷に入るので、院は、独自の経済ルートをもっていた。
①院宮分国制
②院分国
③知行国
④院近親
⑤荘園
⑥寺院のとりこみ
⑦国司のとりこみ
①【院宮分国制(いんぐうぶんこくせい)】
院、女院、中宮、斎宮らの皇族の者に、特定の国を与える制度で、
その国からの収入を得る権利を持つ。
荘園の拡大による税収減で、その位に見合うだけの禄の給付が
難しくなった為、一国の支配権を与えたのが始まり。
これが、高級貴族にも広まり、知行国となっていった。
鎌倉時代に、院宮分国は、知行国と同一化する。
平城天皇----大和国を与える
宇多天皇----信濃国と武蔵国を持つ
鳥羽天皇の皇后、美副門院---越後国
②【院分国(いんぶんこく)】
院自身が、その国の支配権、収益を得る院の分国。
知行国主、国司は別にいて、公納物を院庁に収納する国。
③【知行国(ちぎょうこく)】
上級貴族を、「知行国主」として、一国の支配権を与え、
その国の収益を、国からの禄のかわりとして取得させたもの。
「知行国主」に選出されるよう、院に経済的奉仕を求めた。
※別途詳しく
④【院近臣(いんのきんしん)】
摂関時代は下級貴族だった、乳母の一族や、武士、大国の国司などが、
院からの「成功」「重任」を期待して、せっせと院にワイロをおくり、
荘園の寄進や経済奉仕をしたのが、院の財源の一部となった。
平清盛も、院近臣である。
「成功(じょうごう)」--------院より国司に任命されること。
「重任(ちょうにん)」--------国司に再任されること。
⑤【荘園】
「知行国」が国から与えられた支配地であるのに対して、荘園は私有地。
後三条天皇が荘園整理令を出したが、白河天皇~鳥羽天皇の時代には、
荘園の寄進がすすみ、院へ寄進が集中するなか、有力貴族や有力寺社への
寄進も増大していく。
↓
寄進を受けた院は、近親女性や信仰する寺社に、さらに寄進した。
鳥羽上皇が、娘の八条院に寄進した八条院領は、100箇所、
後白河法皇が、長講堂に寄進した、長講堂領は、180箇所あった。
↓
鳥羽上皇時代に、不輸不入の権が一般化され、警察権の排除にまで拡大されて、
荘園の独立性が、さらに高まっていく。
⑥【寺院のとりこみ】
院による「熊野詣」や「紀伊詣」が院の財源になるのは、当時の寺社が、
その地域のとりまとめ的立場で、地元であがる貿易、輸送、流通業務に
深くかかわり、莫大な商業収入があり、それを院に取り込んだ。
(その商業権は、のちに楽市楽座で奪われる)
※院と仏教の関係は、「14章-3」で詳しく
⑦【国司、受領のとりこみ】
国主導の公地公民では、国司が徴税や管理を請負い、莫大な収入を得ていたが、
藤原摂関家の荘園拡大、不輸不入の権の乱用により、収入源を断ち、
また地方での農民との衝突が絶えなくなり、藤原摂関-荘園時代にストレスを抱えた
国司が少なくなかった。
そこで、藤原家の権力をそぎ、荘園を公地に戻す、後三条-白河時代の政治を
国司、受領達は歓迎し、そうした国司達を取り込んでいく。
-----国司、受領が院政を歓迎した理由-----
・「延久の荘園整理令」での荘園の権利縮小と、公領の拡大
・「荘園公領制」による、公領と荘園の区別の明確化。
・国司、受領の権限の復活
・藤原摂関家の弾圧と人事権の剥奪
・低~中級貴族からの、積極的登用
(4)人事権の掌握
白河上皇の院制の強みは、なんといっても、人事権の掌握にあった。
次期天皇の指名権を持ち、院司、側近、国司受領レベルの人事まで掌握し、
かつて藤原摂関家が握っていた権力と資金源を、遥かなる権力で、院が握るようになる。
人事権を握ることで、院からの利益を欲する者達をとりこみ、
巨額のワイロを受け、任命した者の得る利益を、院が吸収していく。
【任人折紙】
上皇が希望する人事について書いたメモを、天皇や摂政に渡し、人事を指揮する。
メモ自体は私的文書であるが、院の直接的な意志として、重んじられた。
院からの指示を受ける私的な院御所の院司(職員)を、公的な太政官と
することで朝廷組織を掌握した。
【藤原閑院流】
白河院制に目だってきたのが、藤原新勢力の「藤原閑院流」で、
その代表が「藤原公成」であった。
藤原北家(摂関家)と、摂関職の座を争う。
【村上源氏】
白河上皇の妻、堀川天皇の母「藤原賢子」は、関白藤原師実の養女であるが、
村上源氏の代表格である「源顕房(あきふさ) 」の実娘である。
この「源顕房」を右大臣として、左大臣、左右近衛大将、
大納言5人中3人、衛府6人中5人を、村上源氏が占めた。
【清和源氏】
藤原純友の乱や、平忠常の乱の平定など、地方での朝廷への反乱を
鎮める追捕使や将軍として派遣するなどして、院政に必要な人材となっていく。
【桓武平氏】
清和源氏ほどめざましい活躍はなかったが、力を巨大化させる清和源氏の
対抗勢力として使われた。
山川 詳細日本史図録P83~84
院政とは、上皇や法皇となってからも、現天皇に代わって政治をおこなうこと。
それまで摂政・関白が行ってきた「摂関政治」の衰退に伴って出来た政治形態。
・もともとは、自分の系統の皇位継承(父方尊属)の為に出来た。
・藤原摂関家の支配力をそぐ為の政策。
・引退後も、天皇家の家長として権力を持ち続ける。
・律令国家トップの天皇を抑え込むことで、国家そのものを掌握した。
・「治世の君」とよばれた。
・上皇の住まいや、本人を「院」と呼び、院から政治を指揮したため、院政という。
白河上皇が始め、鳥羽上皇、後白河上皇の時に[承久の乱]で終止符を打たれるまで、
1086年~1221年の136年ほど続いた。
白河上皇の院政は、自身の即位後わずか4年で、
8歳の息子「堀川天皇」に即位した時から、
堀川天皇の急死を受けて、孫の「鳥羽天皇」、
ひ孫の「崇徳天皇」までの3代天皇、43年間続いた。
※テスト頻出部分
・後三条がきっかけで、白河が院政を始めた。
・白河上皇が「堀川天皇」に譲位した。
・白河-鳥羽-後白河の3人の院の名前。
・白河院政が、もっとも長い期間。
・約136年程
・承久の乱で終わる
(2)院政の仕組み
【院】
上皇の住まいを院と呼ぶことから、上皇の政治を院制と呼ぶ。
【院庁】
院の仕事をする役所、政治機関。
天皇直轄で政治を執る内裏、朝廷より力を持つ。
【院司(いんし) 】
院庁で政治をとる役人で、上皇が直接指名した為、村上源氏が多い。
【院宣(いんせん) 】
天皇の私文命令書が「宣旨(せんし)」であるのに対して、
上皇の私文命令書が「院宣(いんせん)」である。
上皇からの直接の命令をうけた院司が出し、天皇の「宣旨」より効力が上。
私文書であるが、上皇の直接の意志として、「院庁下文」より格上で、効力が強い。
【院庁下文(いんちょうくだしぶみ) 】
天皇が、太政官を通じて出す公式文書の「詔勅(しょうちょく)」に対して、
上皇が、院庁を通じて出す公式文書が「院庁下文」である。
天皇、内裏、朝廷、宣旨よりも、上皇、院庁、院宣、院庁下文の方が
権力と効力を持つよりになり、朝廷政治に大きな影響を与えていくようになる。
【院近臣(いんのきんしん)】
院の側近やとりまき連中で、摂関時代は四位、五位と身分の低い中~下級貴族だが、
乳母の縁故や、院への荘園寄進、経済奉仕などを通して台頭してきた。
ほとんどは大国の国司であったが、一部に有能な実務官人も含まれる。
政治を執るべき摂関家が没落し、院近臣が政治に割り込み、院の思うままに
なっていくことを『愚管抄』は嘆いている。
源平の武士など、院近臣の対立が、のちの[保元の乱]につながっていく。
※宣旨、院宣、院庁下文、任人折紙の区別をはっきりつけておくこと。
※院司と、院近臣の区別をはっきりつけておくこと。
院司は、院庁で働く役人で、院近臣は院の側近など、とりまき連中。
(3)父方尊属の皇位継承
摂関政治の頃は、天皇の母方の祖父(外戚=母方尊属)が統治したのに対し、
院制は、天皇の父方の祖父(父方尊属)である院が統治した。
その為、院は「治天の君」とよばれた。
白河院、鳥羽院は、この父方尊属を維持する為、
兄弟への横の譲位ができないよう、皇太子(東宮)の弟達を早くに出家させた。
(4)院制の財源確保
国府が集める通常の納税は朝廷に入るので、院は、独自の経済ルートをもっていた。
①院宮分国制
②院分国
③知行国
④院近親
⑤荘園
⑥寺院のとりこみ
⑦国司のとりこみ
①【院宮分国制(いんぐうぶんこくせい)】
院、女院、中宮、斎宮らの皇族の者に、特定の国を与える制度で、
その国からの収入を得る権利を持つ。
荘園の拡大による税収減で、その位に見合うだけの禄の給付が
難しくなった為、一国の支配権を与えたのが始まり。
これが、高級貴族にも広まり、知行国となっていった。
鎌倉時代に、院宮分国は、知行国と同一化する。
平城天皇----大和国を与える
宇多天皇----信濃国と武蔵国を持つ
鳥羽天皇の皇后、美副門院---越後国
②【院分国(いんぶんこく)】
院自身が、その国の支配権、収益を得る院の分国。
知行国主、国司は別にいて、公納物を院庁に収納する国。
③【知行国(ちぎょうこく)】
上級貴族を、「知行国主」として、一国の支配権を与え、
その国の収益を、国からの禄のかわりとして取得させたもの。
「知行国主」に選出されるよう、院に経済的奉仕を求めた。
※別途詳しく
④【院近臣(いんのきんしん)】
摂関時代は下級貴族だった、乳母の一族や、武士、大国の国司などが、
院からの「成功」「重任」を期待して、せっせと院にワイロをおくり、
荘園の寄進や経済奉仕をしたのが、院の財源の一部となった。
平清盛も、院近臣である。
「成功(じょうごう)」--------院より国司に任命されること。
「重任(ちょうにん)」--------国司に再任されること。
⑤【荘園】
「知行国」が国から与えられた支配地であるのに対して、荘園は私有地。
後三条天皇が荘園整理令を出したが、白河天皇~鳥羽天皇の時代には、
荘園の寄進がすすみ、院へ寄進が集中するなか、有力貴族や有力寺社への
寄進も増大していく。
↓
寄進を受けた院は、近親女性や信仰する寺社に、さらに寄進した。
鳥羽上皇が、娘の八条院に寄進した八条院領は、100箇所、
後白河法皇が、長講堂に寄進した、長講堂領は、180箇所あった。
↓
鳥羽上皇時代に、不輸不入の権が一般化され、警察権の排除にまで拡大されて、
荘園の独立性が、さらに高まっていく。
⑥【寺院のとりこみ】
院による「熊野詣」や「紀伊詣」が院の財源になるのは、当時の寺社が、
その地域のとりまとめ的立場で、地元であがる貿易、輸送、流通業務に
深くかかわり、莫大な商業収入があり、それを院に取り込んだ。
(その商業権は、のちに楽市楽座で奪われる)
※院と仏教の関係は、「14章-3」で詳しく
⑦【国司、受領のとりこみ】
国主導の公地公民では、国司が徴税や管理を請負い、莫大な収入を得ていたが、
藤原摂関家の荘園拡大、不輸不入の権の乱用により、収入源を断ち、
また地方での農民との衝突が絶えなくなり、藤原摂関-荘園時代にストレスを抱えた
国司が少なくなかった。
そこで、藤原家の権力をそぎ、荘園を公地に戻す、後三条-白河時代の政治を
国司、受領達は歓迎し、そうした国司達を取り込んでいく。
-----国司、受領が院政を歓迎した理由-----
・「延久の荘園整理令」での荘園の権利縮小と、公領の拡大
・「荘園公領制」による、公領と荘園の区別の明確化。
・国司、受領の権限の復活
・藤原摂関家の弾圧と人事権の剥奪
・低~中級貴族からの、積極的登用
(4)人事権の掌握
白河上皇の院制の強みは、なんといっても、人事権の掌握にあった。
次期天皇の指名権を持ち、院司、側近、国司受領レベルの人事まで掌握し、
かつて藤原摂関家が握っていた権力と資金源を、遥かなる権力で、院が握るようになる。
人事権を握ることで、院からの利益を欲する者達をとりこみ、
巨額のワイロを受け、任命した者の得る利益を、院が吸収していく。
【任人折紙】
上皇が希望する人事について書いたメモを、天皇や摂政に渡し、人事を指揮する。
メモ自体は私的文書であるが、院の直接的な意志として、重んじられた。
院からの指示を受ける私的な院御所の院司(職員)を、公的な太政官と
することで朝廷組織を掌握した。
【藤原閑院流】
白河院制に目だってきたのが、藤原新勢力の「藤原閑院流」で、
その代表が「藤原公成」であった。
藤原北家(摂関家)と、摂関職の座を争う。
【村上源氏】
白河上皇の妻、堀川天皇の母「藤原賢子」は、関白藤原師実の養女であるが、
村上源氏の代表格である「源顕房(あきふさ) 」の実娘である。
この「源顕房」を右大臣として、左大臣、左右近衛大将、
大納言5人中3人、衛府6人中5人を、村上源氏が占めた。
【清和源氏】
藤原純友の乱や、平忠常の乱の平定など、地方での朝廷への反乱を
鎮める追捕使や将軍として派遣するなどして、院政に必要な人材となっていく。
【桓武平氏】
清和源氏ほどめざましい活躍はなかったが、力を巨大化させる清和源氏の
対抗勢力として使われた。
山川 詳細日本史図録P83~84
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