気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

竹のようにしなやかに、そしてつよく

2022-11-21 23:43:58 | 

 

 

 

 

  もう2か月ばかりも前の話だが、新宿のSOMPO美術館で開かれていた「スイスプチパレ展」という美術展を見てきた。
この絵はその時に見たもの。実は実際に見たその時には感じるものがあったのだが、今こうしてネットで写真を見てみると…あの現場で見ていた時に感じたものを感じられない。これはよくあることで、やはり絵画というものは実物を見るのと複製を見るのとではまるで別の絵を見ているような感覚になる。

 なので、少し悔しい、あのときはいろいろと多忙だったためすぐにこのブログに書くことができなかった。そのために、今こうやって見返してみても、あの時この絵の「何に」心動かされたのかを思い出すことができない。それを思い出すためには、再びこの絵の前に立たなければならない……
 今言えるのは、昔から知っているユトリロという画家がなぜこれほど高く評価されているのか、そのことがあの瞬間!と感じ取れたということだけである。

 そして言うまでもなくこの美術館にはあのゴッホのひまわりの絵が置かれていて、もちろんそれも見てきた。精緻でありながら大胆、大胆でありながら緻密、そしてゴッホの作品特有の彼自身の魂そのものまでをもカンバスに塗りこめたような意識の強烈な集中…本当に圧巻だった。この絵は日本国内にある美術品の一つの宝として永遠に国内から離れていってほしくない。

 美術展といえば、いま、国立博物館で現在開かれている創立150周年記念の展示会にもぜひ行きたいと思う。僕ぐらいの年齢になると、今を逃すともうこの人生では見られない作品がある可能性もあるので、躊躇してはいられない。

 

 実は8月下旬以降、僕の人生は質的にかなり変わってしまったので、今までのような頻度ではこのブログも更新はできないと思う。
多忙に次ぐ多忙で、ものを考えるという時間も少なくなりつつある。

 今思うと自分の時間をたくさん持っているということは、多くの長所があるのだなということ。自分の内的世界を広げていけるからだ。
多忙になると、それが困難になってくる。自分の人生が浅く平坦なものになっていくような気がする。しかし、多忙なだけに充実はしている。じゃぁ、どちらがいいのかというと…やはりバランスの問題だと思う。そのどちらもちょうどいい割合で共存しているのが理想の人生のような気がする。

 

 そうそう、ツイッターだが前回面白くないと書いたが、今は結構はまっている(笑)
今までなぜ面白くないと感じたかというとそれはひとりぽつんと始めたからだろう。やはりツイッターというのは友達などと一緒に始めてこそその面白さを堪能できる。
なにがいいのかというと、たとえばラインやメールだと相手からメッセージが来るとやはり返事を書かなければいけないという気持ちになり、それが時によっては負担に感じるし、相手にとっても同様な場合もあるだろう。

 ツイッターならかなり高確率で相手が読んでくれるので、例えば相手に何かを伝えたいと思った時に、今言ったような負担をかけずにツイッターに投稿すればいい。相手は面白いと思えばいいねボタンを押すかコメントをつけてくれる。なにもかんじなければただ無視していればいい、それで全然失礼にはならない。

 それに短い文章なので気軽に投稿できる。ブログのようにさぁて書くかという気合がいらない。
もちろんそれがコインの両面でもあり、ツイッターにはブログのような奥行きのあるものは書けない。
 ただし、だからといって深いことが書けないかというとそうでもなくて、たとえば俳句か短歌のように短い文章を通じてその奥に拡がる深遠な森をのぞき見させることもできる。

 おもうのは、尾崎放哉や種田山頭火のような自由律詩の天才たちがいま生きていたら、さぞかし名ツイートを発信しただろうなということだ。
前者の「咳をしても一人」や後者の「やっぱりひとりがよろし」なんていう作品などはまさにツイッター向きな作品である。


 今年の紅葉は今がピークだと思うが、僕は今日初めて昭和記念公園で見てきた。ライトアップしていて、多くのカップルが来ていた。
こんなにカップルがいるのになぜ少子化なんだろうなどという下世話なことも考えたが、このカップルの後ろにはこの数倍~数十倍のおひとりさまがいるのであろうし、また、カップルがいても結婚する人々はさらに少なくなっていき、さらに、結婚しても子供を持つカップルは少なくなっているということは様々な統計が示している通りなのだろう。

 そのこととは直接関係ないのだが、大勢のカップルのなかに散見されたおひとり様たちのことが僕の中にある。
彼ら、彼女らもそのようなところに行って100%楽しむということはやはりできないだろう。どうしても自分の孤独というものがコントラストとして浮き上がってくるからだ。
でも…耐えきってほしいと思う。それに負けることなく、孤独のみがもたらす内的世界の充実、豊饒さ、人生の恵みに視線を向けていきてほしいと思う。そうして自分の内面が成長し、成熟した先にはかならず彼ら、彼女らのこころを受けとめてくれる人が現れることを願い続けてほしい。

 そのような人々に最適な動画があった。
https://www.youtube.com/watch?v=GvGhWh6TOV4


さて、僕はこのあと箱根に出かける予定でいる。紅葉がまだ残っていればいいのだが。

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