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気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

あの男が残したたったひとつの、しかしたぶん日本人にとって最重要なこと

2024-02-02 04:49:36 | 日記
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 あの50年間逃げ続けた人のことを未だに考えているのだが(笑)僕にとってはひとつの教訓を教えてくれているように思うのだ。
それは僕の好きな(笑)人間の良心とかそういうことではなく、人が生きていくに当たっての覚悟というか…そういうことだ。日本は先進国でも最も自殺者が多いことは統計的にもしられてる。
 つまりこの国ではあの男ほどの極端なシチュエーションではないにせよ、追い詰められ居場所のなくなった人々が結構多いということだろう。あの男の生き方を思うにつけ、そんなとき我々には自殺以外の選択肢もあるということをあの男の人生は示唆してはいないだろうか…
 
 
 あの男の追い詰められ方はハンパない、文字通り崖っぷちギリギリのところを這うように生きたそんな人生だ。でも、やつは生きた、生き抜けた。普通に働き、自由なときはスナックやクラブにいって酒をのみ音楽に合わせて踊ったりもした。あれほど追い詰められているのにだ。普通ならなん十回自殺してもおかしくない、そんなところまで追い詰められていても『いきることを選択すればいきられる』ということをやつの人生は教えてくれているような気がする。定年までに2000万円なければ生きていけないとか、年金が減らされるとか、いろんなネガティブな情報が流れていて、その度に僕らは不安に駆られる。
 
 でもどんな状況であろうとも『いきることを選択すれば』生きていけるのだ。先のことは考えない、そんな考えても仕方のないことは考えない。ただ、『今』をいきる。生ききる。そこに集中する。それを楽しむ。そしてあとは…開き直る。こういう生き方もあるのだということを、実際にそれができるということをやつの生き方は教えてくれている。
 
 犯罪者の生き方から学ぶなんて!と思う向きもいるかもしれない。相手が誰であろうと関係ない、この世はある種の厳しいサバイバルゲームと同じような世界だ。だからこそ大勢の人がいきることを諦め自らの命たっている。でも、それでも『生き抜いた人もいる。』
 
しかも普通に人生を楽しみながら。『そういう生き方もある、そういう選択もできるのだ、全ては僕らの❪選択❫なのだ』ということをやつの人生は教えてくれているようなきがする。
 あの男がやったことはいうまでもなく絶対に許されないことだ。しかし、そんな男でもひとつだけ、たったひとつだけどこの超厳しい過酷な世界で生きている我々に非常に大切なことを教えてくれたんじゃないかと僕は感じる。
 
 
 
 

健康でいるためのささやかな本質について

2024-01-25 23:10:38 | 日記
 
 
 
 
 
 
 
  16歳になる愛犬の元気な様子を見て自分の健康観、考え方、食事内容等が間違っていないことを実感している。
なるべく加工してない自然なもの(農薬や添加物の入ってないもの)を食べ、発酵食品をとり、野菜中心の食生活をする。具体的には市販のドッグフードを与えるときは必ずオーガニックのもの野菜その他のものも可能な限りオーガニックのものを与える。
 
  そして、現代医学的な治療を必要としない体を維持すること。なぜなら、現代医学が提供する『薬』は表に現れる症状を抑えるためだけのものであり、その病気を[治すものではない]から。病気を治すちからは自分の体に本質的に与えられているのであり、決してどんなに進んだものであっても人工的な外部からもたらされるものではない、という❪ささやかな本質❫に気づいていることが絶対的に必要だからだ。この事がわかっていれば絶対に「薬」に依存しようとは思わなくなる。
 
  『ここ』を押さえているかどうか、人から言われたからではなく自分の頭でわかっているかどうか……そこにかかっている、ということが正しいということを愛犬は証明してくれている。
 
  病気を治す本質的に与えられているちからというのは、ちゃんとバランスのとれている振り子が必ずもとの位置に戻ろうとするちからと言い換えてもいい。『それ、その働き』を理解し信頼できるかどうか…ここにかかっている。
 
世に名医といわれる医者は、理知的にも本能的にもここに気づいているはずだ。
 
 現代医学的な薬はその振り子のバランスのメモリを『ずらしてしまう』働きをもっているということを理解しているかどうか…
これを別な角度から言うと、現代医学的な薬に過度に依存するということは、振り子のバランスの適正位置を正しい位置に戻すのではなく、メトロノーム本体の角度そのものを傾けて振り子の位置を戻そうとするのににている…それを続けていけばやがてそのメトロノーム自体が横転する(病気の重症化)だろう。
 
 ここをわかってないと目の前の欲望を満たすことや、病気の症状をらくをして抑えたい、抑えさえすればその病気を克服したのと同じだという大きな大きな過ちに幻惑されて、本当の病気の治癒に到達できない。

生きています

2023-04-24 21:29:29 | 日記

 

 

 

 

 私は生きています(笑)
しばらく更新してなかったのでもしかしたら?と思った方もいたのではないか。残念ながら、いや、幸いにも私は生きています。
 といっても特に書くことはない。ただ、この間僕が経験したことを思いつくままに書いていきたい。

 といっても...実はそれほど変わったことはない。ただ一つだけ、重大な変化はあった。それはいわゆる「彼女」といわれる存在が僕にもできたことだ。ひかりの時間にあるときはたとえようもないほど幸福だ。自分に深い好意を寄せている異性が自分の人生にいるというこの事実は、やはり大きな幸福を僕に感じさせる。同時に強い責任感も感じている。自分はこの人にふさわしい人間なのかどうか、この人の一生を預かることになった場合、自分はそれをまっとうする力があるのか、とかいろいろ考えさせられる。

 

 

 それ以外では何があるだろう、そうだ、今年の大河ドラマ「どうする家康」は僕にとってとても注目している大河ドラマだが、残念ながら多忙で見る暇がないというのが実情だ。でもこの間2回だけ見た。おもったのはなかなか面白い家康像だなということ。前回の家康を主人公にした大河ドラマで描かれているのがたぶん日本人が一般的に持っている家康のイメージだと思う。

 今回まだ2回見ただけだが、よりいままでのステレオタイプから踏み込んで、もっと深い部分に肉薄しようとしているように見える。
僕自身、本当に家康ってどんな人だったのだろうかと思うことは頻繁にある。
 彼がいま存在していない以上、彼が行ったこと、言ったこと、などから推察する以外にない。

 僕は研究者ではないので、まだまだ読んでいない資料がたくさんあるから本当に数少ない資料、史実から推測するしかない。
一つだけ思うのは、この人は江戸時代以降いわゆる世間一般に広く浸透している「ずるがしこく、慎重で、策士」というイメージとはかなり違う、むしろそれとは正反対の要素を非常に強く持った人物ではないか、というのがぼくがこの数年感じていることだ。彼ほど大きな、滑稽なほど大きな誤解を受けている歴史上の人物はたぶん日本史にいないだろうと思う。

 

 

 しかし、彼がそう誤解されているのはある意味しかたがないのかなという気もする。
というのもかれの精神の根底にある特質は一般的に外側からは見えにくいものだからだ。彼が仮に現在生きていたとしても、おそらくその特質が周りに広く理解され、愛されるということはないだろうと思う。やはりそれは外側からは見えにくいものだからだ。

 中国の偉大な歴史家、司馬遷は中国春秋時代の斉の名宰相、晏嬰(あんえい)をいたく尊敬していて、自分はこのひとの御者になってもいい、というほど敬愛の念を抱いていたという。僕は家康の馬引きか料理人になりたいと思うほど家康に対してつよい敬意を抱いている。

 これからいろんな新しい資料が発見されたり、僕自身が既存の資料を読んで、この人物にたいする印象が変化するのかしないのか、するとしたらどんな風に変化するのか、とても興味がある。そしてその過程が、どれだけぼくを真実の家康像に近づけてくれるのか...ということに興味を持っている。

 

 

 それ以外では、特にかわったことはない。あぁ、ひとつだけある。それは精神世界系の動画に実に質の高いものがたくさんあるということに最近気づき、大変な感銘と影響を受けている。正直、時代はここまで来ているのか!という思いでいる。僕が小さかった頃、若かったころにはとてもとてもこんな進んだ時代が現実に来るなんて想像だにできなかった。これはたぶん、江戸時代末期に子供時代を生きた人が年を取り老年期を迎えるころには、電話や自動車、電車などが生まれて実際にそれを目にした、そういう感覚に近いだろう。今時代は急速に変化している。ただ、それを見る「眼」をもってないひとには、何も変わっていないようにしか見えないかもしれないが。


犀(さい)の角のように

2022-12-05 03:44:52 | 日記

鎌倉 円覚寺にて

手前は修行中のブッダ

 

 

 

 最近ツイッターにはまっていることはすでに書いたが、そのツイッターで僕がフォローしている発信者の中にブッダの言葉を発信しているものがある。その中で僕が原始仏典に出てくる言葉の中で最も好きな言葉があったので載せていみたい。ツイッターで流れてきたものはもちろんこの中の一部だ。

 

犀の角

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩(なや)ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわ)んや朋友(ほうゆう)をや。犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。

交(まじ)わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍(わざわ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 

朋友・親友に憐(あわ)れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡(あいから)むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

 

林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴(おもむ)くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、遊戯と歓楽(かんらく)とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭(いと)いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々(もろもろ)の苦難に堪(た)えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

 

出家者(しゅっけしゃ)でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者(ざいけしゃ)でも同様である。だから他人の子女にかかわること少く、犀の角のようにただ独り歩め。

葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを棄て去って、在家の束縛(そくばく)を断(た)ち切って、健(たけ)き人はただ独り歩め。

もしも汝(なんじ)が、〈賢明で協同し行儀(ぎょうぎ)正しい明敏(めいびん)な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

 

しかしもしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

われらは実に朋友を得る幸(しあわせ)を讃(ほ)め称(たた)える。自分よりも勝(すぐ)れあるいは等(ひと)しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金(おうごん)の腕輪(うでわ)を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

 

このように二人でいるならば、われに饒舌(じょうぜつ)といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

実に欲望は色とりどりで甘美(かんび)であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱(かくらん)する。欲望の対象(たいしょう)にはこの患(うれ)いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

これはわたくしにとって災害であり、腫物(はれもの)であり、禍(わざわい)であり、病(やまい)であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

 

寒さと暑さと、飢(う)えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群(むれ)を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

集会を楽しむ人には、暫時の解脱(げだつ)に至るべきことわりもない。太陽の末裔(まつえい)(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

相争(あいあらそ)う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

貪(むさぼ)ることなく、詐(いつわ)ることなく、渇(かつ)望することなく、(見せかけで)覆(おお)うことなく、濁(にご)りと迷妄(めいもう)とを除(のぞ)き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

 

義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽(ふけ)り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁(こうまい)・明敏(めいびん)な友と交(まじ)われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

世の中の遊戯や娯楽(ごらく)や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

妻子も、父母も、財宝も穀物(こくもつ)も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。

 

「これは執著(しゅうじゃく)である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

水の中の魚が網(あみ)を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩(ぼんのう)の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

俯(ふ)して視(み)、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護(まも)り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除(のぞ)き去って、出家して袈裟(けさ)の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。

 

諸々の味を貪(むさぼ)ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞(こ)い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

こころの五つの覆(おお)いを断(た)ち切って、すべて付随して起る悪しき悩み(随煩悩(ずいぼんのう))を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過(あやま)ちを絶(た)ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

以前に経験した楽しみと苦しみとを擲(なげう)ち、また快(こころよ)さと憂(うれ)いとを擲って、清らかな平静と安(やす)らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

最高の目的を達成するために努力策励(さくれい)し、こころが怯(ひる)むことなく、行いに怠(おこた)ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具(そな)え、犀の角のようにただ独り歩め。

 

独坐(どくざ)と禅定(ぜんじょう)を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患(うれ)いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。

妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。

音声に驚かない獅子(しし)のように、網にとらえられない風のように、水に汚(けが)されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。

歯牙(しが)強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥(ざが)に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

 

慈(いつく)しみと平静とあわれみと解脱(げだつ)と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背(そむ)くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

貪欲(とんよく)と嫌悪(けんお)と迷妄(めいもう)とを捨て、結(むす)び目を破り、命(いのち)を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

今のひとびとは自分の利益のために交(まじ)わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

 

 これはスッタニパータといって数ある仏典の中でも最も古い経典の中の一節で、ここに書かれているものはブッダその人が実際に教えたことにかなり近いと考えていいだろう。
僕はたくさんある原始仏典の言葉の中でも、この一節が好きで、とくにこの韻を踏むようにかかれている「犀(さい)の角のように一人歩め」ということばに明確な理由はないのだが強く惹かれる。

 この言葉を思い浮かべるとき、クローズアップされた犀の角が左右に揺られながらもゆっくりと前へ進んでいくビジョンがはっきりと脳裏に浮かぶ。おそらく、いや必ずブッダその人も実際にそういう犀の角を見て、ご自分の人生と重ね合わせるものがあったに違いない。

 ここにかかれていることは、いかにもブッダの説いた仏教の本質の一端をあらわしていて、最初期の仏教徒の修行の厳しさというものが察せられる。
今現在の仏教徒でこれほどの厳しい環境で修行をしている人々がどれほどいるだろう。この「命を失うのを恐れることなく」という言葉通り、修行の途中で命を失う修行者も実際にいたことだろう。

 今でもたまに見るかごを持って路傍にたって托鉢しているお坊さんの修行なども、この最初期の仏教徒の修行を彷彿とさせるし、それを思い起こすためにやっているのかもしれない。

 僕も実は最近、ある非常に難しい人柄の人物とのかかわりの中で苦しんでいて、そんな今の心境でみるとこの、

『音声に驚かない獅子(しし)のように、網にとらえられない風のように、水に汚(けが)されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。』

という言葉がとくに強い力を持って浮き上がって見えてくる。

 

 この全文をあらためて読んでみると、仏教というもの(特にブッダの説いた原始仏教)の核、原理的な本質となる部分をある程度は理解していないと、かなり誤解を受けるだろうと思う。何と反社会的な教えなんだろうというふうに(笑)
 僧侶が仏典(とくにブッダの説いた教え)の教えを人々に説くこともなく、また、その僧侶自身も世俗の中にどっぷりとつかっている人々が多くなってしまっている今では、それはある程度はしかたがないのかもしれない。

 すべての苦悩の根源とは何か?という疑問を若き日に抱き、その探求のために将来は王となる地位を惜しげもなく捨て去って命がけの修行の道に入っていったブッダ(釈迦)のたどり着いた答えは、確かに今の価値観から見れば「反社会的」に見える。しかし、この世俗社会というものの本質的なありようそのものの中に『人間の苦悩の根源』が内包されている以上、この覚醒者(ブッダ)がそこからの離脱を人々に説くことになったのは当然の帰結であろう。

 孤独であることが悪とされる社会の中で生きている場合、こんな生き方をすれば自分は孤立するのではないか、でも、自分の正しいと信じるところに従えば孤立せざるを得ないというような状況の中であえいでいる時、これらブッダの「肉声」は強い指針と勇気を与えてくれる。


三峯神社再々訪と最新のスマホをみて

2022-08-08 10:06:53 | 日記

 

 

 

 友であり、同僚でもある人と秩父の三峰神社を訪れた。
コロナ第7波の時期でもあり、行くかどうか迷ったのだが場所が秩父でありほかの観光地ほどは人がいないと思い、また、しばらく自粛していたので我慢の限界に達していたので行くことにした。

 行けば西武秩父駅のバス停からすでに列ができていて、この神社に対する人々の信仰の篤さを実感した。
この神社を初めて訪れたときに神様からの歓待のサインを三つ(鹿の出現、本堂前でのタイミングばっちりの降雨、虹の出現)もいただいたので、それらが偶然であったかもしれないにせよ、かってにうれしくなってまた訪れた次第である。

 

 それともう一つの理由は、最近Nikonから動画に特化したカメラが発売されて、一度はしぼんでいた動画をとってみたいという思いが再燃してきたこともある。
なので、自分が今持っているカメラとジンバルを持っていき動画を撮ってきた。友達がいたので撮影に集中しきれなかったためいい動画はほとんどとれなかったが、楽しむことは楽しめた。それと今回は「これはやれそうだな」という実感を得た。こんどは意欲が途中でしぼんでしまうことはなさそうだと感じた。

 
 ただ、当初考えていた1眼レフ機とジンバルでの撮影はあまりにも重量がおもく、長時間の移動しながらの撮影には向かないことがわかった。それと、人に顔をとられることに抵抗が強い人が多い日本では、やはり大きな1眼レフよりもなるべく小さなカメラの方がいいと思った。なのでこれからはスマホとスマホ用のジンバルを使って撮影していくことにした。今持っているスマホでも動画は撮れるのだが、やはりはじめるならそれなりのスマホが欲しいと思っていて、いまどのスマホにするか考え中である。

 調べていて思ったのは、やはりソニーのスマホの優秀さだ。すでに伝統的なカメラで優れたカメラを作っているソニーなら当然なのだが、この分野でもたぶん今世界最先端を走っているといってもいいと思う。僕はずいぶん前から、カメラが売れなくなっている今、スマートフォンやアクションカメラ(小型の動画専用カメラ)でいいものを作らないと、カメラメーカーはやっていけなくなると思ってきた。

 

 しかし、日本の伝統的なカメラメーカーはやはり職人、技術屋の集まりだからだろう、伝統的ないわゆる「あのカメラ(1眼カメラやコンデジカメラ)」に対するこだわりが強く、そちらの方にかじを切ったカメラメーカーはソニーを除いてほぼないといっていい。あのライカでさえついにスマホにカメラを組み込んでいるこの時代にである。みんながチーターのように走っているのに、日本のメーカーだけは(ソニーを除いて)象のようにのっそのっそと歩いている…そんな印象を受ける。

 ただ、すでにもう日本メーカーもわかっているであろうように、スマホでこれほど高画質な写真や動画がとれるようになっている現在、わざわざあの重くて高価なコンデジや1眼カメラなどを買うひとは一部の写真好きな人々を除いてほぼいないといっていいだろう。
 動画用のカメラはスマホだけでなくGoProのように5cm前後の小型のものが発売されていて(それゆえにつかれない)、価格も5万円前後と今までの伝統的なカメラの半額以下で買えるようになっている。そういう状況の中でやはりわざわざ伝統的なカメラを買う人々はどんどん少なくなっていくのは避けられない時代の趨勢といっていいだろう。

 

 『それでも』いまだに伝統的なカメラを作ることにこだわっている日本の主要カメラメーカーはある意味、お見事といって言えないこともないが、資本主義市場というものはメーカーの願望で動いていくものではなく、あくまでも消費者の願望や利便性で動いてくのであり、前者にこだわりすぎるとやがては市場から駆逐されていくという厳しい現実に直面せざるを得なくなるだろうと思う。

 ソニーが作っているXperiaシリーズはまさにソニーの映像技術の粋を集めて作っていて、すごい!の一言である。
たぶんだがいまあれほどの高度な技術を詰め込んだスマートフォンはソニーのXperiaシリーズ以外にはないと思う。いまはブランド力を持つアップルのiPhoneが圧倒的にリードしているかもしれないが、ソニーのこの製品がそれに肉薄するところまで行くのも時間の問題ではないか。


 同じスマホで写真や動画を撮るにしても、平凡な写真ではなくすこしでも画質がよくて、それに加えて様々な細かい加工や編集機能を持ったスマホがほしい、そのためになら多少価格が高くても他社ではなくソニーのスマホを買おうという人々が増えていくのは自然の流れではないか。たとえば今の僕のように。特にいままでローエンドの一眼カメラを買ってきた層が、サブカメラとしてこのXperiaシリーズに流れていくだろうと想像する。
 その流れは最初は細く弱いかもしれない、しかし、このXperiaシリーズの評判が根付いていくうちに、そして技術がさらに高機能なものになっていくにつれて、徐々に太く太く強固なものになっていくに違いない。


 以前、あるユーチューブの動画で日本のカメラメーカーもスマートフォンの製造に参入すべきだとコメントしたら、ソニーでさえ利益をあまり出していない分野だからそんなことをしてもあまり意味がないという返事があった。
 確かにいままではそうかもしれない、しかし、それは上述したようなソニーの圧倒的な技術力がまだあまり日の目を見ておらず、それが消費者に認知されてこなかったからではないか。でもこれからは違う、違う段階に入った…と僕は感じる。

 

 日本のカメラメーカーはすべての人がそうでないにせよ、スマホ?なんで我々がそんなおもちゃのようなものを作らなきゃいけないんだ?プライドが許さない、と考えてきたし今も考えているのではないかと僕は想像している。しかし、この考えを払拭できないとやがては市場から手厳しい現実を突きつけられると僕は思う。
 そういったメーカーの経営に携わっている人々の大部分は、スマートフォンが誕生する前に成人した層でありまだまだあの伝統的なカメラに対する愛着が強い層であろうと思う。なのでよけいにこの境界線をまたぐことに強い抵抗を持っているのではないかと想像する。

 一方、ソニーはもともと家電メーカーであり、昔から様々な家電製品を作ってきた。だから、最初からこのような境界線など存在しない。伝統的なカメラに対するいわゆるマニアックな愛着やこだわりはほぼないに等しいだろう。だからこその今の現状があるのだと思う。
 そういうこだわりが悪いといっているわけではない。ただそれにこだわるのであれば、会社の規模がいまよりもずっと小さくなっていく、つまりはかなり大規模なリストラは避けて通れないし、一歩間違えば、会社自体の存続さえも危うくなるというリスクを受け入れなければいけないだろう。
 

 もっと保守的な人々は、そもそも伝統的なカメラとスマートフォンは全く別物であり、その境界線をまたぐなんてできるわけないと考えている人々もいるだろう。
確かにそれは相当の勇気と経営者側の指導力が必要だろうと思う、しかし不可能ではないはずだ。
 普通の家電メーカーだったソニーやパナソニックには、高度な技術を必要とするカメラなど作れるはずがないと伝統的なカメラメーカーはほんの十数年前までは思っていたのではないだろうか。それが今やこの両者は伝統的なメーカーをしのぐ性能のカメラを次々と創り出している。

 もっと言うなら、アップルはもともとパソコンメーカーであり、スマートフォンなどは完全な別業種であり門外漢だった。それがいまや世界で最も愛されているスマートフォンであるiPhoneを販売し、その中には高性能なカメラも入っている。アップルやソニーにできたことができないわけがない。そう考えるのはおかしいだろうか?

 
 ただ……そうはいっても伝統的なカメラ業界には百年を越える伝統があり、ほかの製造業とは違う心理的な特殊性があることも確かだろう。
そしてニコンやキャノンなどの伝統的なメーカーが跳躍できず、衰退の一途をたどっているのもまさにこの特殊性の壁が邪魔をしているのであろうと僕は感じている。
その中にとどまって特殊なマニアだけが買うマニアックなメーカーになっていくのか、それともソニーやアップルのように跳躍して大飛躍していくのか、いま彼らが直面しているのはこの段階ではないかと思う。

 もちろん「本当の」正解は僕にもわからない、だが、どちらを選ぶにしても「意識的な決断」ができずにただ現状に流されていくのは最悪の結果をもたらすと僕は思う。