若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

それが「新自由主義」?ほんとに? ~ 組合機関紙正月号より ~

2013年01月04日 | 労働組合
『自治労ふくおかNo.1254 2013.1.1新年号』に、次のような文章が掲載されていた。

○2013年、日本の政治の展望と自治労が進むべき道 「選択肢」をつくる運動へ 九州大学大学院法学研究院教授 出水薫
=====【引用ここから】=====
政策路線でも失われた選択肢

 ただ、有権者に選択肢が開かれていなかったという場合、さらに注意すべきは、単に選べる政党が少なかったというだけのことではない。視点を変えると、政策路線の次元でも、今回の選挙において、有権者には実質的な選択肢がなかったと言える。
 すなわち個別争点としては、原発や消費税増税などが取り沙汰された。しかし、それらを除けば、選挙結果は、新自由主義と、それを補完する新保守主義以外の選択が、実質的にはなかったことを示している。つまり有権者は、せいぜいのところ、新自由主義に重点を置くのか、それとも新保守主義かという程度の違いしか選びようがなく、この両者の「外」に出る選択肢は、なかったのだ。

新自由主義と新保守主義

 自由化、規制緩和、民営化によって政府の役割を最小化し、市場の機能を極大化しようとするのが新自由主義である。新自由主義は、この30年間、世界と日本を席巻してきた。とりわけ冷戦後、世界規模でのマネーゲームに実体経済を従属させようと、新自由主義はさらに猛威を振るい、世界中の多くの人々が翻弄(ほんろう)されてきた。日本の文脈で言えば、新自由主義は公務員たたきと行財政改革という姿をとってきた。財政の「健全化」を口実に消費税を上げようとするのも、その脈絡で新自由主義の一部に位置づけられる。
 一方で新自由主義は、市場競争を促し、旧来の秩序や組織を解体する力を生み出す。そのような「遠心力」を、「国家」や「民族」などを強調することで中和しようとするのが新保守主義である。両者は、お互いに補い合う関係にある。

=====【引用ここまで】=====



出水氏は、「新自由主義」を「自由化、規制緩和、民営化によって政府の役割を最小化し、市場の機能を極大化しようとするのが新自由主義である。
と定義している。古典派自由主義、アナルコキャピタリズム、最小国家論、制限国家論など、個人の精神的自由と経済的自由をともに尊重し、政府の役割に否定的な(あるいは全否定する)リバタリアンが、出水氏の言う「新自由主義」に該当するものと思われる。

ここまでは、良い。
ところがだ。別のところで出水氏は
日本の文脈で言えば、新自由主義は公務員たたきと行財政改革という姿をとってきた。財政の「健全化」を口実に消費税を上げようとするのも、その脈絡で新自由主義の一部に位置づけられる。
と述べている。

リバタリアン(出水氏が言うところの新自由主義者)である私に言わせれば、

こ れ は ひ ど い !

財政健全化のために歳出削減を主張する新自由主義者はいるが、財政健全化のために増税を容認するというのは、新自由主義の文脈では考えにくい。

例えば・・・

○<財政の崖>辛うじて回避も赤字削減策は先送り 課題山積 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
=====【引用ここから】=====
 当初は歩み寄りがみられたオバマ大統領とベイナー下院議長の交渉は、下院共和党の抵抗などで難航。下院では、いかなる増税にも反対する財政保守派の不満が爆発し、「歳出削減が少なすぎる」「増税はのめない」と上院共和党の大多数が賛成した法案への反対論が広がった。
=====【引用ここまで】=====

↑これが、新自由主義の文脈から素直に導かれる、増税に対する基本的なスタンスである。

歳出削減を棚上げして「財政の「健全化」を口実に消費税を上げようとする」というのは、リバタリアニズム、新自由主義の考えからすれば、まず出てこない。

もし、新自由主義者が消費税増税に賛成するとしたら、本来の主義主張を捻じ曲げに曲げた末の政治的妥協の産物か、あるいは、所得税や相続税、固定資産税などなどを廃止して、税体系をシンプルに一本化し、税の総額を減らす過程での消費税増税くらいだろう。

今回の選挙において、有権者には実質的な選択肢がなかったと言える。
選挙結果は、新自由主義と、それを補完する新保守主義以外の選択が、実質的にはなかったことを示している
というのは、新自由主義をちゃんと理解していないことから導かれる世迷言である。
リバタリアンから言わせてもらえば、投票するに値する政党が無くて困っていたというのに。

社会保障の拡充のために消費税増税を推進した民主党旧政権、
公共事業・国債発行・増税容認・金融緩和のアベノミクス新政権、
増税容認と消費税の地方税化を掲げた維新の会、
消費税増税には反対したものの、社会保障の拡充を要求した諸政党、などなど、
いずれも、お世辞にも新自由主義とは言いがたい。

新自由主義の文脈では、まず歳出削減である。社会保障と公共事業のいずれも削減し、削減し、削減し、増税の必要が無くなるまで削減を求めることになる。ほとんどの政党が社会保障の拡充か、減災名目等の公共事業による景気のてこ入れを主張しており、新自由主義に沿って投票できる選択肢はあったかどうか。

続けて、上記の『自治労ふくおか』から引用する。

=====【引用ここから】=====
新自由主義から地域を守る地域政府(自治体)へ

 新自由主義、新保守主義が圧倒的な状況の下、橋下氏らの維新が、独自性を打ち出すのに利用したのは「分権」であった。国そのものを、ムダの塊として攻撃することで、独自性を打ち出したのである。それは新自由主義が、政府の縮小を主張していることと矛盾しない。国の行政機構、官僚を攻撃するために、分権を利用しているだけだ。その点は、みんなの党も同じである。
 そもそも新自由主義は、民営化などの単なる政策手法の集合なのではなく、政府体系の改編を組み込んだ「戦略」である。だからこそ、個別の政策や手法だけを対象に抵抗しても弱い。対抗する側にも、政府体系の改編などを含む「戦略」が必要だ。
 新自由主義とは異なる意味で「国」を相対化することこそが求められている。すなわち、グローバルな市場の暴力から実体経済=人々の生活を守るため、地域政府=自治体と地域の市民社会の共同で、地域の自律性を回復しなければならない。食料、エネルギー、福祉サービスをてこに、自治体が、地域に根ざした小さな循環経済を産み出す、分権的で多元的な福祉国家路線を追求するべきだろう。自治労の「戦略」は、おそらく、そこにしかない。

=====【引用ここまで】=====

まず、出水氏は、新自由主義と消費税増税の関係性を根本的に誤って理解しており、新自由主義は「圧倒的な状況」ではない、というのは前述のとおり。書き出しの時点でズレているので、以下、つらつらと書いている文章は「親亀こけたら皆こけた」状態である。山口二郎氏と同様、批判したい対象に、テキトーに「新自由主義」というレッテルを貼っているだけじゃないの?とすら思えてくる。

その点を割り引いて読んでも、なお、出水氏の分権論は訳が分からない。

「分権的で多元的な福祉国家路線」であれば、「グローバルな市場の暴力から実体経済=人々の生活」を守ることができる、守るためにその路線が必要だ、というように読めるのだが、具体的にどうすることで守れるのか。

そもそも、世界規模のマネーゲームに拍車をかけ、新興国バブルや資源高騰の一因となったのは、事実上政府の一部門である中央銀行の金融緩和だ。「市場の暴力」というが、政府部門たる中銀が大量の資金を供給し、その資金が特定分野に流れ込み、圧力を高めて市場を暴力的にした。市場を批判しても、問題は解決しない。

その「分権的で多元的な福祉国家路線」であるが、福祉国家を単純に言うと、国家による収奪と再分配である。奪わなければ配れない。福祉国家は常に収奪するための富を必要とする。自治体の範囲内に収奪できる富があれば良いが、自治体の範囲内に富が無ければ、福祉国家路線の自治体を実現することはできない。

今までは中央集権路線であり、貧しい自治体も中央からの分配を受けることで福祉国家路線を実施してきた。しかし、出水氏は「分権的で多元的な福祉国家路線」である。運営するための自治体の財源を、どこから調達するつもりなのか。中央が金を集め、中央に集まった金を地方に配分するという中央集権システムを当てにした分権論は、ただの「地方のわがまま」だ。

また、「地域の自律性」「地域に根ざした小さな循環社会」というと美しいが、具体的に何なのか、どういう状態を指しているのか。一歩間違えれば、「地域の閉鎖性」「外部との交易を断たれた縮小社会」である。他自治体からの農産物や工業製品に地域関税でもかけるのだろうか。

こんな具体論を欠いた「絵に描いた餅」を提示されて、「これからの自治労がとるべき戦略はこれだ!」と組合の機関紙で主張されても、これを読んだ組合員は困るだけだろう。山口二郎氏内田樹氏、そしてこの出水氏に共通する、良いとこ取りのご都合主義、具体性の無い主張。これらを「ありがたやー」と拝み、講演に呼んだり機関紙に掲載する人の気持ちが、私にはよく分からない。

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