日本郵政社長人事
鳩山総務大臣が日本郵政西川社長の再任に反対している。
法律的には総務大臣に認可権があるので彼が反対すれば再任できない。ところが政府が日本郵政最大の株主であり、取締役を決める株主総会で株主権を行使するのは与謝野財務大臣というねじれがある。つまり両大臣が合意しない限り社長人事は決着がつかない。
ところで両大臣の任免権があるのが内閣総理大臣の麻生さん。だから究極的には麻生さんに日本郵政社長の人事権があると言ってもいい。今のところ麻生さんは西川再任に傾いている。だが盟友鳩山さんを解任するのは忍びない。鳩山さんが折れるのを待っているのではないか。火中の栗を拾いたくない心境だろう。だが鳩山さんは折れないで辞任する公算が高い。
これに関連して自民党の中川泰宏議員が「国民の民意」と言っていた。そんな日本語はない。単に「民意」で十分。
さっき、テレビニュースによると麻生さんは鳩山さんに「そんなに意地を張ると渡辺ジュニアみたいになるぞ」と言って脅したそうだ。でも自民党が政権党でいられるのは高々あと4カ月、自民党内の融和など今となってはあまり意味がない。
相次ぐ建設現場事故
今でもよく覚えている建設現場の事故は10名が死亡した1991年の広島新交通システム橋桁落下事故とほぼ同時期の生コン落下事故(詳細は覚えていていないのでネットで調べていたら去年の8月1日にも芝浦工大の建築現場で類似の事故があったことがわかった)。
ところで最近、クレーン転倒など建設工事現場の事故が相次いでいる。ニュースになるのは死傷を伴うごく一部であるのでニュースにならない事故も調べる必要がある。ハインリッヒの法則もある。
今や建設業界は斜陽産業の代表的なもの。例えば業界トップの鹿島の今日の株価は305円、一方2006年の最高値は2670円、ざっと9分の1まで下がった。
中曽根元首相は鹿島の、竹下元首相は竹中工務店のそれぞれ御曹司に娘を嫁がせたが、今娘を建設業界に嫁がせたがる政治家はいない。因みに小沢一郎氏の夫人は新潟のゼネコン大手福田組の令嬢である。
多発する建設現場事故の原因は推測するしかないが以下のようなことが考えられる。
1.コスト削減のため安全管理がおろそかになっている。
2.団塊世代の大量退職に伴い技術、経験の世代間断絶が生じた。
3.技術が不十分で意思疎通が十分にできない外国人労働者の増加。
談合もやりにくくなり、利幅が薄くなり、コスト削減を目指すのはわかるがこの業界では事故ほど高くつくものはない。工期の遅れ、賠償金、評価点数(一定点数あることが公共工事入札の条件)のマイナス、信用失墜等。
足利冤罪事件被告釈放
冤罪の責任だが、警察と検察が最も重く、次いで裁判官。確度の低い初期のDNA鑑定を証拠採用したからである。裁判官は証拠不十分として無罪を宣告することもできたはずだ。参考までに刑事補償法で拘束期間中、一日当たり最高額12,500円が補償される。
蛇足
杉村太蔵議員次期衆院選挙立候補断念。自民党の現執行部は比例単独を認めないのでやむをえない結果である。無所属で立候補しても当選の可能性は乏しいし、相当の持ち出しとなるので賢明な選択であろう。
もう一人注目されるは前回比例単独で当選した猪口邦子氏だ。彼女も選挙区が未定だし、上智大学復帰の道もなくなった。
ここにきて、国直轄公共事業費の地方負担金のずさんさがクローズアップされている。特に国土交通省は地方出先機関の役人の給料、退職金、年金まで出先自治体に付けを回していた。
もっとも地方は補助金に関しては国にたかっている。当ブログ5月28日版「静岡空港開港延期」を参照されたい。
つまり国と地方は互いにたかりあい、その間国と地方の財政赤字は累増した。
問題は国会が、そのもっとも重要な権能である財政監督の役割を果たしていないことである。以下拙文「日本国憲法論」から引用。
第九十一条(内閣の財政報告義務)内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少なくとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。
憲法はわざわざ一章を設けて、財政民主主義の原則をうたう。近代的議会の濫觴を成すイギリスのマグナカルタの経緯に見られるように、税の徴収の仕方とその使い道こそ国民の最大関心事であり、国会のもっとも重要な権能であることからしてこの扱いは至当である。ところで、国会は果たしてこの憲法の付託に応え、その役割を遺憾なく果たしているといえるだろうか。
永く政権与党にあった自民党は、各省庁のOBが多数を占め、それぞれ出身省庁の別働隊として活動する紛れもない公務員の党であった。そうでなければ国民の利益ではなく業界の利益を代表し、役人とつるんでその業界のために予算を分捕ってくるのが政治家の仕事と心得ている輩であった。
その間の最大野党であった旧社会党は、これも官公労を主な支持母体とする、公務員の党であった。このため、財政投融資の使われ方や(特殊法人や公益法人その他の事業)、特別会計等の公的部門の無駄が国会でまともに議論されることが少なかったのは日本国民にとって不幸であった。 以上引用なんとかの一つ覚えで「護憲、護憲」を声高に叫ぶ人が今でも多いが「憲法の条項を一字一句変えるな」という意味の護憲論は無意味であろう。真の護憲とは憲法の理念が蹂躙されている現状を変えることだ。
昨日夜のテレビ東京「ルビコンの決断『知事はなぜ辞めたか?』」はおもしろかった。
静岡空港開港延期の経緯を取り上げていたこの番組を見ながら次のようなことを考えた。狭い日本に100近い空港があることもわかった。
(静岡県に限らない)知事はなぜ空港を作りたがるか?
この番組で反対派地権者も言っていたが、羽田空港や名古屋空港も近く、新幹線もあるので静岡空港の必要性は乏しい。それなのになぜ?
地元負担は半分、あとの半分は国庫負担(補助金)。あらゆる自治体は「せっかくある補助金は使わなきゃ損」という一種のモラルハザードに陥っている。こうしたモラルハザードが今の地方自治体の財政悪化を招いた。それに形あるものを残したいというのが自治体首長の悲しき性(さが)である。建設業者との癒着もある。
利用率といえば、東京に陳情に行く首長や議員くらいしか利用しない空港もある。
役人はミスを認めない
戦前、天皇の官吏として天皇の無謬性を守るをという側面があったが戦後はひたすら責任を逃れようとする保身に過ぎない。
知事が当初立木を残したミスを認めず、「着工後生長した」という見え透いた嘘を言っていたのにはあきれた。この地権者が「県は誠実であってほしい」と言ったのはこうした点を指しているのだろう。
一度決まった事業を決して中止しないのも、組織としての誤りを認めたくないからである。
用地買収の手練手管ー賛成派と反対派を分断
賛成派から順次買収し、反対派を精神的に追い込む。反対派地権者の父親が急死したのも心労と無縁ではなかろう。
地方議会はチェック機能を果たしていない
国と違って自治体首長は大統領制であるので議会はオール与党が多い。
お役所仕事の杜撰さ
縦割り行政で、すべての情報が一箇所に集まる体制になっていないので思わぬ盲点がある。
水戸黄門のドラマでは悪徳役人を一人退治して一件落着だが、組織ぐるみの悪徳は始末が悪い。
拙文「中海干拓堤防開削」を参照されたい。
標記の問題の前に自民党と公明党の関係から。
多くの人には自民党の衆議院議員が選挙で公明党に依存している実態がわかりにくいかもしれないので簡単に説明する。
前回衆議院選挙での公明党の比例区での得票数は900万票弱。これはかなり水増しされた数字(いわゆるフレンド票を含む)であるので公明党プロパー票を仮に400万票とする。
全国の有権者数はおよそ1億。投票率を6割とすると、投票数はおよそ6,000万。これを300小選挙区で割ると1選挙区当り20万。候補者が自民党と民主党だけと仮定すると10万票強とれば当選できる。公明党票400万÷300=13,300票
10万票強とれば当選できる、一人を選ぶ選挙で13,000票余がどっちにころぶかは、特に競っている場合決定的である。これが公明党の自民党に対する交渉力の源泉である。
従来自民党の支持基盤であった農協、建設業界は弱体化し、郵便局長会、医師会等はもはや自民党一辺倒ではない。小泉さんが公約通り「自民党をぶっこわし」たかどうかはともかく自民党の支持基盤をガタガタにしたのは間違いない。
前回選挙で自民党が300議席を超える大勝を博したのは、ろうそくが燃え尽きる前の最後の輝きだったかもしれない。
幸福の科学が国政選挙に候補者を立てたことはないので得票数を推定するのはむずかしいが、仮に100万票としよう。これまでこの票は自民党候補者に投じられたものと推定できるので、1選挙区当り3300票。自民党候補者はこの票を失うことになる。
日本共産党の前回比例得票数は500万票弱。共産党は全選挙区候補者擁立という方針をやめて当選可能性がある選挙区にしぼることになった。共産党は民主党と公然と選挙協力するわけではないので、共産党候補者がいない選挙区での共産党票の行方を予測するのはむずかしいが、仮に半数が棄権、半数が民主党候補に行くと仮定すればざっと8,000票のかさ上げ効果がある。
以上幸福の科学の候補者擁立と共産党の候補者絞り込みを合わせれば民主党候補者は自民党候補者に対し1選挙区当り1万票以上のアドバンテージが見込まれる。 つまり自民党候補者の公明党アドバンテージをほぼ相殺できることになる。
共産党が候補者をしぼる方針に転換したのは表向きは「選択と集中」だが、本音は没収される供託金を減らしたいのだろう(衆議院小選挙区で300万円)。それに加えて間接的に民主党を支援し、自公政権をくつがえしたいのかもしれない。
共産党が政党助成金を受け取らないのは称賛に値する。武士は食わねど高楊枝。
幸福の科学は、次の選挙によってこれまでベールに覆われていた信者数を白日の下に晒されるリスクを冒すことになる。
昨日の党首討論で麻生首相は西松建設の献金問題にかなり時間を割いたらしい。一国の首相として品性を疑う。
鳩山さんがなんと答えたか知らないが「被告は有罪判決が確定するまで無罪と推定される。裁判を行うのは裁判所であって警察や検察ではない」と言っておけばよろしい。
ただ鳩山さんが冒頭で「意見交換」と言ったのはいただけない。党首討論と意見交換とはまったく違う。
国立メディア芸術総合センターって何?鳩山さんが言ったように「国営マンガ喫茶」と言ったほうがわかりやすい。政府がサブカルチャーを支援しようとする発想は筋が悪い。麻生さんがポケットマネーでやるのであれば何も言わないが。
昨日夜のNHKの歴史番組で水戸光圀をとりあげていた。大日本史の編纂者としての光圀に焦点を当てたのはいいが、肝心な点が二つ落ちていたのではなはだ平板な印象を受けた。
水戸家は大日本史を編纂することで勤皇思想の淵叢となり幕末政治に大きな影響を与えたこと(最後の将軍慶喜が水戸家の出であったことは幕末史を理解する上で見逃せない)、光圀は単なる好学の徒ではなく長幼の序を重んじる儒教倫理を自ら実践し兄の子を世子としたこと。
(尚、自民党の細田幹事長が盧武鉉前大統領は「日韓関係を損なった」と評した。その通りだが喪が明けない中は死者を鞭打たないのが日本的マナーではないのか)
中国も本質的には同じで、政治権力者の周辺には分不相応な公職や大企業の役員ポストにありつくものが多い。韓国との違いは中国が一党独裁であって権力に連続性があるのに対し、韓国はそうではない。だから毛沢東も小平も江澤民も韓国大統領のような目に会うことはなかった。もっとも毛沢東は終身最高権力を手放さなかったが。
中国には「清官三代」という言葉がある。清廉な官吏でも(貪官汚吏でなくても)三代食うに困らないだけの蓄財ができるという意味。
民国建国の父孫文は中国人のそうした傾向を糺すため礼記から「天下為公」の4字を引いた(麻生グループの会名為公会もここに由来する)。司馬遼太郎は「天下為公」はマックスウェーバーいうところの「プロテスタンティズム」に通じると言っているが私はこれを端的に「権力を私物化してはならない」即クローニー政治を戒めたものと解釈している。麻生さんにもその解釈を聞いてみたい。
こうした東アジアのクローニー政治は何に由来するのだろうか。孝を至高の徳目とする(同族を大事にすることは共通の祖先に対する孝につながり、私的倫理が公的倫理に優先する)儒教に求める説がある(司馬遼太郎他)。だがこの説ではフィリピンやインドネシアなど非儒教圏ではこの傾向がもっとひどいこと、更に儒教圏である日本でそうでもないことが説明できない。
ドラマ水戸黄門では決まって私腹を肥やす悪徳役人がでてくるが江戸時代の役人の職業倫理は今の役人よりはるかに高く、「ノーブレス・オブリージ」も徹底していた。
殿様という地位も時代劇に描かれているほどうま味はなかった。だから明治になって殿様の地位を取り上げること(版籍奉還)にほとんど抵抗はなかった。
最近では「アジアは一つ」といったセンチメンタリズムを否定する生態史観もある。
だがこうした当てずっぽうの大胆な仮説(ハンチントンの「文明の衝突」もそう)は論証も反証も不可能であるので付き合うのはほどほどにしてディテールを突き詰めることから出発すべきだと思う。
端的に民度が低いという言い方がわかりやすいかもしれない。
当ブログ今月20日号で高速道路千円政策を総括したが、書きもらしたことがあった。
今日のニュースによるとあの期間高速バスは客が減った上に渋滞に巻き込まれて遅延が発生し大迷惑を被ったとのこと。これもマイナス面としてあの時取り上げるべきであった。
さて政府はエコを口実とした景気対策を実施しようとしている。私の定義では車も電器製品も使わない生活をエコライフと言うけれど、政府の定義は違うようだ。ガソリン或いは電気消費量が少ない製品をエコ製品というらしい。消費者はだまされてはいけない。ガソリンや電気消費が10分の1になるわけではない。せいぜい1割とか2割減る程度の話だろう。エコポイント目当てに買い替えても元を取るには何年かかることか。
今もっている車や家電製品を捨てろとは言わない。せめてメンテナンスに励み大切に使い、買い替えない方がよほどエコロジーに適う。それではGDPが下がる?GDPなど下がっても構わない。大事なことは一人一人の生活の質を高めることだ。新しいマンションで最新の電器製品に囲まれていても月々のローンに追われている生活が豊かと言えるだろうか?
もしかして政府の言うエコとはエコロジーではなくてエコノミー(経済)? 但しエコノミーの元の意味は節約なのだからエコノミーとエコロジーは本質的には矛盾しない。
政府の本音は苦境にある自動車業界と家電業界救済だろう。環境対策なのか景気対策なのか選挙対策なのかわからない。
トヨタのハイブリッドカーの受注が好調らしい。だがハイブリッドカーはコストが高く利益率が低いし、その分トヨタの他の車種を食っているので全体としての売上及び利益増には結び付きそうもないので痛し痒しだろう。
それにしても日本の車ってどうして各社とも同じようなデザインだろう。エンブレムをよく見なければどのメーカーかわからない。ここにも世界に冠たる日本人の横並び意識が表れている。デザインに関する限り進歩を遂げたとは到底思えない。
各社とも電気自動車の開発に力を入れているが、おそらく燃料電池車のほうが実用化で先行することだろう。電気自動車が走行距離の短さと充電時間の長さを克服できるのは近い将来にありそうもない。
FACTA6月号によるとオリックスが苦境にあるらしい。有利子負債が5兆円を超えているとは驚いた。関連会社のオリックス不動産がかんぽの宿を安値で落札しようとしたのも本体の窮状と無関係ではなかろう。
オリックス球団を手放す日も遠くないかもしれない。この数年同球団が不振であったのは補強に割く金が乏しかったからだろう。
さっきNHK総合テレビを見ていたら、シャチハタを取り上げていた(中国進出、電子ハンコなど)。プロジェクトXもそうだが、こうした番組では会社名や商品名を出さないわけにはいかない。そうであればもう一歩進めてNHKは商品名を出さないというコードを廃止したらどうだろう。会社名と商品名が一体化している例も多い。
昔山口百恵が紅白歌合戦にでた時歌詞「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」に変えさせられた。
NHKテレビでアメリカ映画を見ていたら登場人物がドイツ車「BMW」と言っていたのに字幕では「高級外車」となっていた。
もし町の風景やドラマで商品名の看板がでてきたらNHKはぼかすのだろうか?
このニュースを聞いてルーズベルト大統領がジョセフ・ケネディ(JFケネディの父)を駐英大使に任命したことを思い出した。パパ・ケネディもルーズベルトの大口献金者であったから駐英大使の地位を金で買ったようなものだ(金ができると次に栄誉がほしくなるのは古今東西変わらない)。
ケネディ大使が外交官として立派な仕事をしたのであればともかく、彼は反ユダヤ主義者でナチに同情的、宥和的でヨーロッパの平和維持には何の貢献もできなかった。第二次大戦が始まると彼は「ルーズベルトとユダヤ野郎がアメリカを戦争に巻き込んだ」と発言した。
民主党は、政権をとれば高級官僚の政治的任命を増やすと言っている。そうなれば上に述べたようないわば情実人事(猟官)がおこり得る。
アメリカの場合、任命権者の大統領は任期が少なくとも4年ある。ところが議院内閣制下の日本では首相(内閣)の任期は憲法上定めがなく国会特に衆議院の信任に依存する。従って衆議院各会派の離合集散によって半年で首相は代わるかもしれないし、或いは5年もつかもしれない。仮に内閣が1年ももたず次々に交代しそれぞれが政治的任命を行うとすれば政策の連続性が損なわれ、官僚の士気を殺ぐことは必定。
実は政治的任命制はアメリカを見るまでもなく、日本でも戦前あった。一時期あった政党政治の時代、政権党は内務大臣を通じて都道府県知事(公選制は戦後から)や警察署長に自派の人物を任命して利益誘導にはげみ、選挙の際は反対党の選挙違反を厳しく摘発し自派の違反は目こぼしさせた(現在でも警察は選挙違反で自民党に甘く共産党に厳しい)。これも政党政治への不信を醸成するのに与って力があった。
民主党の官僚政治を打破しようとする意気込みは買うが、先ず「資格任用制(メリットシステム)」が生まれた歴史的経緯を調べたほうがいい。
ゴールデンウィークの高速道路千円政策をまとめてみる。
先ず利用者。高速料金こそ安くて済んだが、大渋滞に巻き込まれ、時間とガソリンを空費した。
道路公団(高速料金の引き下げ分は政府が補填する)、サービスエリア、ガソリンスタンドは売り上げが増えた。
運送業者。料金引き下げの恩典はなく、しかも渋滞が増えて大損害を被った。
渋滞が増えれば大気汚染も増える。環境への影響も考慮して、この政策は失敗であったと総括する。
では民主党の掲げる高速道路無料化案はどうか。少なくとも特定の時期に利用が集中することはなくなる。但し高速道路の利用者が増えて、高速道路が低速道路になってしまうで運送業者は迷惑する(料金負担がなくなる代りに時間コストが上がる)。いくつか対策が考えられる。トラックと乗用車の車線を分ける、鉄道輸送サービスを充実させるなど。
エネルギー効率から言えば船が最善、次いで鉄道、自動車は最悪。そういう意味でも水運が主役であった江戸時代を見直してはどうだろう。
ガソリンを使わない大八車やリアカーも復活させたらいい。但し、車本位の道路政策を見直すことが前提となる。因みにオバマ政権は鉄道の復活を目指している。
以下は余談
中国では今でも大八車とリアカーは重要な運搬手段である。田舎に行くと、三輪の人力車がある。タクシーよりはるかに安いし、どこでも止めてくれるし、車が行けないところも行けるので近距離の市内観光には便利である。後でぼられないように事前に料金をはっきりさせておくこと。三年前鎮江(揚州の揚子江対岸)で市内観光した時2時間で50元(750円)だった。タクシーだったら少なくとも3倍はしたと思う。
ついでに鎮江を簡単に紹介しておく。三国志演義にもでてくる古い町。阿部仲麻呂の歌碑がある。日本人には金山寺、甘露寺などがおなじみの寺がある。今は対岸の揚州との間で橋ができたのでバスで30分足らずで揚州に行ける(バス代は12元)。揚州には鑑真のいた大明寺がある。江沢民の出身地でもある。だから橋ができた。政治家が郷里の公共事業を手厚くするのはいずこも同じ。
標記のニュース
鳥取県知事が言っているのは、「政党は政党助成金をもらっている以上一種の公的性格がある。その党首を選ぶ選挙に法的規制がないのはおかしい」ということ。実は自民党総裁選挙についても同じことが言える。
政党は目的こそ公益を目指しているが、法的性格は私的団体であるのでその党首選挙に公職選挙法の適用はない(従って、買収しようが何をしようが勝手である)。昔田中角栄が「50億円あれば天下が取れる(自民党総裁つまり首相になれる)。安いものだ」と豪語したことがある。この意味は50億円あれば有権者(自民党国会議員及び同党都道府県代表)の過半数を買収できるということ。
ただ、いわゆる政治改革の一環として政党助成金という制度ができた今それでいいのかという問題を提起したもの。目的の上でも、法的性格も私的な株式会社でさえ会社法によって規制される。それに引き換え公益を追求する政党がまったく法的に野放しでいいのかという疑問はまことにもっとである。政治資金規正法が規制するのは政党のごく一面でしかない。
これは根本的に現憲法の議院内閣制がはらんでいる問題点である。事実上首相を選ぶ党首選挙に国民は直接関与できないし、買収、地位の約束(自分を支持してくれれば大臣などにしてあげるとか。昔自民党総裁選挙ではこうした空手形が乱発されたが今はだいぶお上品になった。政治家も肉食系が減り草食系が増えたようだ)などで事実上首相が決まることがあり得る。
さらに問題がある。ある政党が衆議院で過半数をとれば普通はその党首が首相になるが、これは憲法の規定によるものではない。党首と首相を分けても憲法上何の問題もない。これはかつて福田赳夫と大平正芳が激しく対立した時真剣に議論されたし、小沢氏が民主党党首を辞任する前にもささやかれていた。つまり民主党が政権を取れたとしても首相には別の人を担ぐのではないかと。
それでもある政党が過半数をとればまだ問題は少ないが、次の総選挙ではどこも過半数をとれないという事態が大いにあり得る。その場合比較第1党の党首が首相に選ばれる保証はまったくない。その時細川内閣成立に似たことが起こり得るのであの時の選挙結果(第40回衆議院選挙)を振り返ってみよう。
自民223・社会70・新生55・公明51・日本新35・民社15・共産15・さきがけ13・社民連4・無所属30(当時定数511、過半数256、中選挙区制)
細川さんが党首であった日本新党はわずか35名、自民党の6分の1以下、比較第5党にすぎなかった。これを仕掛けたのが事実上の新生党党首小沢一郎氏(当時)であった。
その後小選挙区制が導入されたのはこうした小党乱立による政治の不安定を避けるためでもあったが、今あの時と似た情況に進みつつある。小選挙区制と同時に比例代表制を導入したことが少数政党棲息(せいそく)の余地を残した。
次の総選挙で、自民党、民主党ともに過半数が取れず、第3党の公明党がキャスティングボートを握った(自民、民主ともに公明を取り込めば過半数に達する)と仮定しよう。自民党又は民主党が公明党を取り込むために、公明党の党首を首相に推す可能性もゼロではない。かつて小沢氏等が細川氏を推したように。ところが公明党の事実上の党首は永田町にではなく信濃町に鎮座しておられるのである(国会に議席をもたない)。こうした経緯で選ばれた首相が十分な正統性をもてるだろうか。それが現行の議院内閣制の問題点である。
(注 : 前にも書いたが公明党の議員諸侯は国会議員として或いは国務大臣として政治権力を行使しているのであって、創価学会の名で権力を行使しているわけではないので憲法の政教分離(宗教団体が政治的権力を行使してはならない)には触れない)
しかも参議院では、衆議院に先駆けてさっき仮定した情勢(どこも過半数に達しない)が出現していることが政治の混迷を一層深めている。
こうした混迷を打破しようとする試みが大連立(自民と民主が協力して内閣をつくる)である(読売の渡邊恒雄氏など)。だが300の小選挙区で有権者に二者択一(自民か民主か)を迫りながら、中央でくっつくのは筋が通らない。小選挙区制下での大連立など性質(たち)の悪いギャグである。私は大連立ではなく選挙制度をもう一度変えるべきだと思っている。
世界政治の中で日本のプレゼンスが低下する一方であるのも故なしとない。先日も日本の外務大臣は誰か中々思い出せなかった。今も知らない。
追記
幸福の科学の大川隆法氏が政党結成を思案中とのこと。自らは議席をもたず誰かさんと似た立場で国政を動かそうするのだろうか。そうなれば闇将軍の名を献呈しよう。田中角栄が闇将軍と呼ばれたが、その時彼はれっきとした国会議員であった。先ず宗教団体次いで政党という行き方がビジネスモデル(?)として確立されたようだ。
細川(護煕)政権の最初の支持率はすさまじかったが1年も経たずに投げ出した。御祖父さんの近衛文麿そっくり。石原慎太郎の自伝でも最も評価が低いのがこの細川氏と河野洋平氏。
標記のニュース
このニュースで問題にしたいのは天皇陛下の外遊日程が解散時期に影響することである。なぜなら解散は天皇の国事行為であるから(憲法第七条)。私が以前「日本国憲法論」で書いた危惧が現実になろうとしている。解散時期が切迫したこともあるので再掲する。
この章(第一章「天皇」)の核心的部分である第四条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみをおこない、国政に関する権能を有しない」は、統治権の総攬者であった旧憲法の天皇のあり方を否定することを意味する。現行憲法では、天皇は、もはや主権者ではなく象徴にすぎない。そうであるとすれば、天皇の章を冒頭に置くことの体系的整合性が問われよう。旧憲法は欽定憲法であり、統治権の総攬者にして元首であった天皇の章を第一章としたのは理の当然であった。おそらく、現憲法起草者は旧憲法の体裁に引き摺られたのであろう。
天皇も国事行為を行なう一つの国家機関である以上、国会、内閣等他の国家機関と並べて規定すべきではなかったか。そもそも第一条(象徴天皇制)と第四条以外はしいて憲法に規定するほどのことではない。法律に委ねて充分ではないか。ただ第七条の国事行為の中の「衆議院の解散」は問題であろう。一般に衆議院の解散という国政上の極めて重要な行為の根拠はこの条規にあり、実質的には天皇の国事行為の助言者としての内閣にあるというやや迂遠な解釈によっている。昭和27年の第2回解散以来、解散詔書の文言は「憲法第七条により衆議院を解散する」とする例となっている。しかも第六十九条(内閣不信任案の可決)以外に、内閣に衆議院の解散権があるかどうか明文の規定はないが、いわば憲法慣行的に任意的解散権が認められている。これだけ重要な事項は明文で規定すべし。その際、天皇の国事行為としてではなく、内閣単独の行為として行えるようにすべきだろう。現行制度では、実質的には内閣が決定するにせよ、天皇の不在(例:海外旅行)、重病(摂政を置くにしても手続きに多少の時間がかかる)、あるいは代替わりの空白期間等が解散という極めて重要な政治的行為の日程に影響を及ぼす可能性がある。
なお衆議院の解散について、内閣総理大臣の専権事項と俗にいわれるが、第七条の中で特に解散権だけ、他の国事行為と区別し、(内閣ではなく)内閣総理大臣の専権事項と強調する法的根拠はない。単に事柄の性質上内閣で合議すべき事柄ではないという意味にすぎない。