辻井さんの優勝は同慶の至りである。
参考までに、権威ある世界のコンクールを挙げれば、ショパンコンクール、チャイコフスキーコンクールそしてエリザベート王妃コンクールなど。
中でもピアノはショパンコンクールが最も権威がある。ここでの日本人最高の順位は内田光子の二位、次いで中村紘子と小山実稚恵の四位。いずれも世界的に活躍している。特に内田はモーツアルト弾きとして高名だが、最近はベートーベンも録音している。私も彼女のCDを5枚もっている。日本人演奏家では彼女のものしかもっていない。モーツアルトではピアノ協奏曲とバイオリンソナタに好きな曲が多い。
最近国際コンクールで日本人の受賞が多いが、バイオリンが多くてピアノはさほどでもない。世界の音楽界では日本人に限らずアジア系の活躍が目立つ。ショパンコンクールでアジア人が初めて優勝したのは1980年ベトナムのダンタイソン。彼は米軍の空襲下で練習を重ねた。よい環境の中で優れた演奏家が生まれるとは限らない。
チェリストのヨーヨーマは中国系フランス人で漢字では馬友友。今回辻井さんとともに一位受賞したのも中国人であった。その人の名前も辻井さんと合せて報道してもよさそうなものだ。例によって日本人の狭量なナショナリズムを見せつけられた。
ハンディキャップのある作曲家と言えば難聴のベートーベンが最も有名、日本人では盲目の宮城道雄。演奏家では盲目のバッハ弾きとして高名なオルガ二ストヘルムートヴァルヒャ。日本人では同じく盲目のバイオリニスト和波たかよしなど。
演奏家は音感が生命であるので盲目より難聴の方がハンディが大きい。ベートーベンは若いころピアニストとしてもとびっきりの一流であったが、難聴になってからはピアニストとしては活動していない。作曲家としては難聴発症後も数々の傑作を書いている。特にピアノソナタと弦楽四重奏曲に傑作が多い。
ロマンロランの「ジャンクリストフ」は彼がモデル。ロマンロランで思い出したことがある。吉永小百合さんが大学生の頃愛読書にロマンロランの「魅せられたる魂」をあげていた。今のタレントとは教養のベースが違う。
テレビやラジオで「盲目」は使えない。谷崎潤一郎に「盲目物語」という傑作がある。今は「視覚障害者物語」というのかな。八百屋も差別用語でだめらしい。「八百屋お七」ではなく「青果物店お七」ならいい?
中国から持ち帰ったDVDがいくつか見られない。それでもリージョンフリーDVDプレーヤーなら再生可能と聞いた。見られないのは「デカメロン」「風と共に去りぬ」「大進撃(フランス)」「スティング」「ラストエンペラー」。いずれも大好きな作品である。
去年亡くなったポールニューマンと言えば「ハスラー」や「明日に向かって撃て」を代表作に挙げる人が多いが私は「スティング」が一番好きである。彼は天寿を全うし、しかも幸福な晩年をおくった数少ないハリウッドの大スターであろう。
ちょっと前、日本で著作権の切れた古い名画が500円で売られていたが、最近見かけないのはなぜだろう。著作権を現行の50年から70年に延長しようという動きがあるのと関係があるのだろうか。あの時まとめて買っておけばよかった。買ったのはイタリア映画「自転車泥棒」だけ。もっとも「恐怖の報酬」「大いなる幻影」「無防備都市」「カサブランカ」は上海で買った。
以前中国で007シリーズは買えなかったが、最近はぼちぼち見かけるようになった。冷戦時代007シリーズで中国又は中国人は悪役として描かれることが多かったからだろう。
最近松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」を見ることがほとんどなくなった。こっちの関心分野とあまり重ならないから。それに悪いけれど少しボケてきたのかなとの印象をもっている。やたら誤字が目立つ(まだそんな歳ではないけれど)。誰もチェックしないのかな。3年前あのサイトの誤字表一覧をメールで送信してあげたが何の反応もなかった。本人が私のメールを読んだかどうかもわからない。
久しぶりに覗いてみたところ「マグダラのマリア(岡田温司)」の書評の中でイタリア女優モニカベル-チの話が出てきたのにはおどろいた。私も大好きな女優で彼女のDVDを4枚もっている。ここに出てくる映画「キリスト最後の誘惑」でモニカが出てくるのを知った。これはまだ見たことがない。DVDを探してみることにする。
中国ではDVDの価格は5元~10元(75円~150元)。CDも同じようなもの。上海音楽院の正門前にクラシック専門のCDショップがある。価格は12元~50元くらい。私は新譜には興味がなくマエストロ(ピアノならバックハウス、ホロビッツ、ルービンシュタイン、ミケランジェリ、リヒテル、グレングールドなど、指揮者ならフルトベングラー、ワルター、ムラビンスキー、リヒターなど)の名演奏しか買わないので大概12元で買える。もちろん正規版である。録音は古いがまったく不満はない。
大きな声では言えないが露天商の海賊版なら新譜でも5元で買える。ただ海賊版はCDに何も印刷されていないのでちゃんと書いておかないと、後で何の曲が入っているのかわからなくなる。最近オーディオユニオン新宿店(紀伊国屋書店隣)で買うことが多い。
上海で買ったグレングールドのベートーベンももっている。バッハ作品では気がつかなったが、彼がベートーベンを弾くと他のマエストロに比べ明らかに技巧的に劣る。多分本人もそれを自覚して一時期からバッハしか弾かなくなったのだろう。その意味で彼をマエストロの云うのは当らないかもしれない。
ピアノと言えば、どうしてあの楽器をピアノ(弱音)と云うのか疑問に思った人はいないだろうか。フォルテ(強音)も出せるのに。元々ピアノフォルテ(弱音から強音まで)と言った。それが次第につづまって前部だけが残りピアノというようになった。
上海音楽院と言えば谷村新司氏が教授をしている。中国で有名な歌手と言えば彼と浜崎歩、宇多田ひかりといったところか。俳優では高倉健、山口百恵。それぞれ「君よ憤怒の河を渡れ」と「赤い疑惑」が大ヒットした。
この記者は東公平といって、業界では著名である。長年将棋界にあって観戦マナーもよくわかっているはずなのにボケたのかな。将棋連盟は出入り禁止にすべきだ。羽生名人とは個人的にも親しいだろうから狎れもあったかもしれない。
将棋を知らない人はなぜこれが問題なのか理解できないかもしれない。考慮中の棋士にサインをねだるのは例えばマラソンを走っている選手にサインをねだるのと同じである(囲碁でも同様)。はなしかけることすら許されない。
タイトル戦ではプロ棋士の立会人がいる。立会人は棋譜を深く読まないようにするという。深く読めば当然形勢判断することになり、それが顔に出るのを恐れるからである。対局場に臨むものはそこまで気を使っているのである。
羽生名人が勝ったからよかった(?)けれど、もし負けていたら、あれで集中力を切らされたからと、大問題になったところだ。
主催の朝日新聞が「弊社が委託しているフリーの記者」と言って、「フリー」を強調しあたかも自社に責任がないかのように言っているのは卑怯である。
上のニュースは観戦マナーの問題だが、将棋界及び棋士が今かかえている問題にソフトウェアのことがある。少なくとも終盤の詰みを読む速さ、正確さはプロ棋士以上である。それにプロは対局中席を外すのは自由である。自分の持ち時間が減るだけである。携帯電話でソフトを操作している誰かに詰みを聞くことは十分可能である。今のところ可能性に過ぎず実際に起ったわけではないが、そろそろルールを考慮すべき時期に来ているかもしれない。囲碁のソフトはまだそこまで行っていないそうだが、いずれ同じ問題に直面することであろう。
話変わって、
昨日、久米ひろしのTBSラジオ番組「ラジオなんですけど」で相手の女子アナウンサーが「日本刀」を「にほんがたな」と言い、「『にほんとう』と言いなさい」、「備前長船」を言うのに備前と長船の間にちょっとポーズをおいたので、「『びぜんおさふね』と続けて言いなさい」と久米さんから指摘されていた。久米さんは内心この女子アナの知的水準にあきれていたはずだ。この日は岡山からの放送で、備前長船の日本刀が話題になることは当然予想できたはずだ。何の準備もしていなかったのだろう。
余談だがこの日本刀の素材となる鉄は、古来中国山脈の向こう側山陰で作られている(たたら製鉄)。
昨日は映画「レッドクリフ Ⅱ」の公開初日。さっそく夜の部を見に行った。
ストーリーは「三国志」ファンなら誰でも知っているのでここでは書かない。ただ以下の二点だけ指摘しておこう。
一つ、ハリウッド的スペクタルが鼻についた。金をかければいい映画になるわけではない。
一つ、三国志では劉備が善玉で曹操が悪玉だが、実は曹操は劉備などよりはるかに教養人であったし、政治家軍人としてもすぐれていた。その辺りがちょっと描かれていたのは好感がもてた。私はいつも曹操から織田信長を連想する。天下人に最も近いところにいながら挫折したのも共通している。「乱世の姦雄 治世の能臣」は彼を評した言葉である。劉備など漢帝室の劉氏の血を引いているだけが取り柄で乱世の姦雄にも治世の能臣にもなれない。
尚「うわさをすれば影」という意味で中国では「曹操の話をすれば曹操が現れる」という。それだけ恐れられていたのだろう。
中国史を知らない人のために、映画には描かれていない、主要人物のその後を簡単に紹介しよう。
曹操は形ばかりの漢帝を廃し、自ら魏を建国し皇帝となるが中国の再統一を果たすことなく死んだ。彼の子孫は司馬氏に簒奪される。
劉備は蜀の皇帝となるが、不遇の中に病死。後を丞相(じょうしょう、宰相のこと)として孔明が継ぐが、彼も魏との戦いのさ中に病死。その後間もなく蜀は魏に滅ぼされる。
丞相自体は単に職位を表す名詞であって固有名詞ではないが、中国で丞相といえば普通は孔明を指す。単に前関白を意味する「太閤」が秀吉を指し、単に中納言を意味する「黄門」が水戸光圀を指すのと同じ用例。
孫権は呉の皇帝となるが、子孫の代に西晋に滅ぼされる。
周瑜は赤壁の戦いの後ほどなく病死。
漢滅亡後、最初の統一国家となる西晋の実質的創業者は魏の将軍司馬仲達(この映画では出てこない)。三国志で司馬仲達は孔明の引き立て役でわき役だが、実は中国史を通して見れば司馬仲達こそ主役であり、孔明はわき役である。「死せる孔明生ける仲達を走らす」の成語をご存じの方も多かろう。
(成功者を嫉み(そねみ)、失敗者或いは悲劇の人を哀惜するのは日本人の性向と同じ。孔明人気は日本史なら楠木正成や真田幸村に通じる。孔明と並ぶ中国史の大スターは南宋の武将岳飛。彼もまた悲劇の人。杭州西湖の湖畔に岳飛廟がある)。
以上をまとめてみれば、この映画の重要人物はだれも最終的に勝者となっていない。
まだ「三国志演義」を読んでいない人のために、原作「三国志演義」の方が映画よりはるかにおもしろいと付言しておこう。
そもそもすぐれた文学作品(「三国志演義」は正史「三国志」をネタ本とするフィクション)を映画化しようとする試みは無謀だと思う。返って「風と共に去りぬ」のように原作が通俗作品であるほうが映画化しやすい。この映画は原作以上にヒットした。日本なら山崎豊子や高杉良の作品など映画化しやすいのではないか。谷崎潤一郎の「細雪(ささめゆき)」は昔映画化されたがまだ見ていない。
「細雪」で思い出した。これは戦時中書かれ、軍から発禁処分をうけた。「細雪」は決して反軍国主義ではなく、単に軍国主義不在であったが、軍はそれすら許さなかった。これは失われゆく文化への挽歌である。
追記
1、昔NHKで放映した人形劇「三国志」のほうが、この映画よりよほど原作の味をつたえていた。製作費はこの映画の1万分の1(?)程度だろう。
2、文学作品の映像化がむずかしいのは、次のような理由もあると思う。
文学では、戯曲を除いて、会話部分と地の文とからなるが、映像化する場合、地の文は切り捨てられ(説明的になり過ぎるから)会話が中心となる。ところが、会話というものは当事者にわかりきったことは話さないし(無理にそれをやると臭いセリフとなる)、必ずしも真実を話すわけでもない。だから会話だけでストーリーを展開するのは無理がある。NHKの「大河ドラマ」にもそうした欠陥を感じる。もう何年も見ていないし、今後とも見ることはないだろう。
初めてジュンク堂本店(池袋)に行った。
紀伊国屋書店と違って一階でまとめて支払えるのはよい。
経済に関するきわもの本は山と積まれているがほとんど興味なし。経済に興味がないのではなく出版社がこの際とばかりに出すやっつけ本には興味がない。
本当に先が読める人は黙ってそれなりの手をうっている。わかっていない連中がわかったふりをして本を書き、しゃべりちらし儲けようとしてる。新刊本の九割がその手合いである。
中小企業経営者や自営業者が野生動物なら、大学教授や企業エコノミストは動物園の動物である。前者は自分で餌をとらなければ餓死するが、後者はそうではない。予測を間違えても路頭に迷うわけではない。どちらの感性が鋭いか答は明らかではないか。
買ったのは英辞郎のCD-ROM、堀田善衛「上海日記」、大杉一雄「太平洋戦争への道上下」、井沢元彦「逆説の日本史第9巻」、海音寺潮五郎「寺田屋騒動」。
先日古本屋で買った今東光「毒舌日本史」はおもしろかった。
今東光の先祖は幕末青森でも有名な知識人であった。吉田松陰が彼の盛名を慕って訪ねてきた。後松陰がその時泊った部屋を記念して保存することになり、地元の某衆議院議員が松下村塾出身でときめいていた山縣有朋に扁額の揮毫(きごう)を頼むことになった。
山縣に揮毫を頼んでも数年かかると聞いていてあまり当てにしていなかったその代議士は、山縣が「偉人堂」とその場で書いてくれたので驚いた。びっくりする彼に対し山縣は「弟子として松陰先生を待たせるわけにはいかないじゃないか」と言った。しかも何の肩書もつけずただ「門下生有朋」とだけ。彼は当時位(くらい)人臣をきわめ、大勲位、従一位、公爵、元帥、功一級など最高の肩書があったにもかかわらず。師の前でこうした肩書を名乗るのを恥じたのであろう。
山縣は松下村塾の中でも格別松陰に目をかけられていたわけではない。それでも師を思う心はかくの如し。山縣と言えば近代史でも最も不人気なキャラクターだが、こういう一面もあったのだ。
それにしてもマイクロソフトのオフィスワードは語彙が乏しい。「揮毫」すらない。一太郎を使ってみようか。もちろん辞書登録機能は使っているけれど。
また話は変わる。
先日、ある人が楽天球場で観戦中、ファウルボールが当って視力が低下し球場に損害賠償を請求したとのニュースを見た。
その人には同情を禁じ得ないが、その人に限らず日本人の野球観戦マナーにも問題があると思う。時々球場で観戦するが、投手が投球モーションに入ってもプレーに集中していない観客が多い。これは非常に危険。プレーに集中していれば大概のファウルボールは避けられるはず。多分裁判では過失相殺ということで相当賠償額は減額されるのではないか。
明日は新広島球場のお披露目。日本で最初の左右非対称形(客席だけでなくフェアグラウンドも)。屋根なし、天然芝。アメリカでは今やこれが主流である。
今日は神田古本祭の最終日。午後から出かける。
地下鉄南北線の九段下で下車、徒歩5分。想像以上のにぎわい。
買った本は近代日本総合年表(岩波書店)、昭和経済史(中村隆英著)、史談と史論(上、海音寺潮五郎)、天皇の世紀7(大仏次郎)、日露戦争1と6(児島襄)、憲法義解(伊藤博文)、石射猪太郎「外交官の一生」、それにクラシックCD2枚、計4000円余り。ちなみに近代総合年表は定価6800円が1500円。
さっきラジオのニュースで聞いたが例の防衛省の空幕僚長は懲戒免職ではない定年退職とか。外部に論文を発表することについて官房長に予め報告していたからとか。だが問題は手続きではない。高級公務員たるものが憲法及び歴代政府の過去の政策並びに条約に罵詈雑言を浴びせ諸外国の不信と不快感を招き、国益を損なったことが問題である。
産経は彼に同情的でまるで思想弾圧の殉教者であるかのようだ。そうさせないためにも彼の主張を逐一論破する必要がある。
これに関連したネットのニュースで「断腸の思い」とあったので、てっきり解任した側の防衛大臣のセリフかと思ったら解任された田母神氏のセリフだったのにはおどろいた。この人の日本語の感性は変だ。「断腸の思い」は、こうした自分自身の不幸には使わないのではないか。このセリフからは今度の解任をまったく予想していなかったこと、それにその地位に相当の未練があることがうかがえる。
去年の守屋次官といい今回の田母神氏といい三流官庁ぶりを遺憾なく発揮してくれた。省への昇格は早すぎたかもしれない。
今日は文化勲章の親授式。
いつもこの時期になると叙勲に関し、新聞には官優先を批判する論説が現れる。例えば、今年、経団連会長やトヨタの社長をつとめた奥田さんと国民のだれも名前を知らない最高裁判事が同じ勲章であることに違和感を覚える人もいるかもしれない。
だがこれは筋違いである。元々勲章は官僚と軍人のためのものであって民間人のためのものではなかったのだから。
なお国会議員が大臣になりたがり、民間人が業界団体の長や教育委員など公職につきたがる理由の一つは勲章の序列が上がるから。
一応は、平和と文化を重視している日本国憲法が公布された日だからということになっている。だが憲法記念日が別(5月3日)にあるのに、憲法にちなむ祝日が二つとはおかしい。
戦前11月3日は明治節(明治天皇の誕生日)として祝日であった。今昭和天皇の誕生日は「みどりの日」とかいうわけのわからない祝日になっているが、なぜ堂々と「昭和節」としなかったのだろう。たぶんその違いは日清、日露の戦に勝った明治天皇と未曾有の大敗北を喫した昭和天皇との違いだろう。
それにしても今の日本の祝日からは歴史、伝統が感じられず、無色透明、人畜無害、意味不明のものが多い。
戦前の祝日はよかれあしかれ、歴史、伝統および皇室にちなむもので一貫していた。例えば今月23日は「勤労感謝の日」と言えば意味不明だが、戦前は「新嘗祭(にいなめさい)」という重要な皇室行事であった。わずかに伝統をうかがわせる祝日は5月5日の「子供の日」くらいか。
この点では、建国60年ほどのお隣中国にも及ばない。
かの国では、清明節(二十四節季の一つ、4月5日ごろ)、端午節(旧暦5月5日)、仲秋節(旧暦8月15日)などの祝日にお国ぶりが表れている。
戦時中、日本軍はこうした祝日若しくは記念日を作戦成功の節目とするよう前線に発破をかけたものである。
たとえば昭和16年暮手こずったウェーキ島攻略を当時の皇太子殿下の誕生日12月23日までに終えるように厳命している。
また翌年には紀元節2月11日までにシンガポールを攻略するように命じている。
こうした作戦パターンは相手にスケジュールを読まれることになるので実にまずかった。
逆にとんだしっぺ返しを食ったこともある。昭和20年3月10日の東京大空襲は当時の日本の陸軍記念日に合せたものであった。陸軍記念日とは日露戦争最後の大規模な陸戦であった奉天会戦勝利の日。但し全国民の祝日ではなかった。ついでに海軍記念日はもちろん日本海海戦勝利の日5月27日。
日本の祝日からは伝統があまり感じられないとさっき書いた。それにつけても祝日ではないけれど、今やクリスマスだけでなく、バレンタインデー、ハロウィーンまで、日本の行事が国際化(?)しているのはご同慶の至りである。バレンタインデーと言えば当方はアルカポネの「聖バレンタインデーの虐殺」くらいしか思い浮かばない。
余談
渋沢栄一の孫に渋沢秀雄という人がいる。彼の講演で聞いた話。
戦前中学校の入学試験で「三大節を記せ」という問題が出た。正解は天長節(天皇誕生日)、紀元節、明治節
ところが何を勘違いしたのか「木曽節、安来節、八木節」と書いた答案があった。この生徒が不合格となったかどうかは知らない。
当時中学校は義務教育ではないから試験があったのだ。当時の中学校進学率は今の大学進学率よりはるかに低かった。今大学生の学力低下が言われているが、本来進学すべきでない子が入っているのだから当然か。
最近気になる日本語
雑誌の休刊
休刊と言うと一時的でいずれ復刊するという風に聞こえるけど、復刊することは絶対ないのだから廃刊と言うべきではないか。
徹底審議
なんだかいいことみたいに聞こえるけど単に採決を引き延ばしたいだけでしょう。今はもっぱら民主党など野党がこの言葉を使っているけど自民党が野党になれば同じような使い方をするに決まっている。
昔議事妨害としては日本社会党創案の「牛歩戦術」が有名だったが近頃とんと聞かなくなった。日本社会党に特許料を払う必要があるのかな。
バラマキと財政出動
バラマキは否定的イメージに、財政出動というとプラスイメージに受け取る人が多いと思うがどっちも同じでしょう?
国民に信を問う(衆議院の解散の度に首相が言うセリフ)
なんだか立派そうに聞こえるけど某首相は「無党派層は投票に行かず寝ていてくれた方がいい」と言った。
麻生さんのおじいさんに「抜き打ち解散」というのがあったが、これは追放解除でいっせいに政界にカムバックした鳩山派の選挙態勢がととのう前に選挙をやろうとしたものであった。いずれも「国民に信を問う」なんてきれいごとではなかった。
選挙と言えば、先ほどの公明党太田代表の発言は首相の解散引き延ばしをかなり不快に感じているのがうかがえた。
公明党が選挙をせかすのは来年夏の都議会選挙とできるだけ時間をおきたいこと、もう一つは来年五月御大の世襲があり、その時に体制が一新される。新体制で衆議院選挙を戦うのはしんどいからその前にやってしまえという思惑から。
公明党があれほど都議会議員選挙を重視するのは創価学会の管轄自治体は東京都であるので強い影響力を維持したいのであろう。
だが麻生さんにしてみれば、選挙結果によっては公明党は自民党を見捨てて民主党とくっつく可能性がある中で、議席を減らすに決まっている選挙をあわててやることはないという心境だろう。
それに政党助成金のこともある。政党助成金は1月1日現在の議席数に応じて割り振られる。今自民党はおよそ300議席あるので、この面でもこのまま年を越したほうがいいし、民主党にとっては兵糧攻めに合っているようなものである。
ところで民主党小沢さんの健康問題が心配だ。もともと心臓に爆弾をかかえている。さかんに麻生さんに解散を迫っているが、まだ公認候補も決まっていない選挙区もあるのに、休み休み仕事をして間に合うのかな。
民間企業もこれも真似たのかどうか同じような反応を示す企業が特に大企業に多い。せいぜい「こちら側の言い分は裁判の中で明らかにする」というくらい。
いきなり訴訟になることはあり得ない。それまで何度交渉しても埒があかないから訴訟になるのであって訴状を見なくたって(本当は見ているに違いない)相手の言い分はわかりそうなものだ。だから「訴状を見ていない」というのはコメントしないための口実に過ぎない。
これは日本の組織論を考えるいい材料になりそうだ。彼らはひたすら匿名性の中に閉じこもろうとする。訴訟などの不名誉なことにあっては尚更そうである。彼らの気持ちもわからないでもない。訴訟が始まる前に相手の言い分を認めるわけにはいかない。そうであれば訴訟にはならない。だからといって何か反論すれば原告だけでなくマスメディアでたたかれるだろうし、名前もクローズアップされる上に上司からはなんのかんのと叱られるに違いない。裁判に負けた場合はもっとダメージが大きくなる。
だから被告側役所にコメントを求めるマスメディアもどうかしている。そんな役所の言い分をいちいち報道すること自体時間の無駄であろう。役所がキャリアの人事を二三年で代えるのも、もっともらしい理由(業界との癒着防止とか広い視点をもたせるためとか)を並べているが実は責任の所在をあいまいにするための日本的奸智であると私は疑っている。
つまり大きな不祥事(厚生省のHIV)が判明したり、或いは政策の失敗(干潟湖沼の干拓などの農地政策)があったりした場合、関係者があまりにも多数にのぼるためまんまと匿名性の中に逃げおおせるというわけ。
話が飛躍するが、東京裁判を考える場合にも同じ問題にぶち当たる。東京裁判の合法性やいわゆる28名のA級戦犯指名のいい加減さはひとまずおき、あれだけの大戦争をやったにもかかわらず、責任者(戦犯ではなく)を特定するのは実に難しい。
つまりあの時軍部を失くせば日本国民はハピーになれると考えたのは幻想でしかなかったのである。本当は戦争責任(戦争犯罪ではなく)の問題を日本的意思決定の問題性として、日本人自身が議論すべきであった。ろくに日本を知らない占領軍にはそうした問題意識はまったくなかった。もしあったとしたらA級戦犯指名は数百或いは1千名を超えたかもしれない。(東京裁判の被告が28名になったのは時間的制約と収容施設上の制約もあった)。
戦前重要国策も実質的には課長レベル(佐官クラス)で決まっていたなんて外国人に理解してもらうのは難しかったろう。
上下水道や農業用水などに使用される塩化ビニール管を巡る価格カルテル疑惑で、公正取引委員会は刑事告発を見送る方針を固めた模様だ。今後、検察当局と最終調整に入るものとみられる。改正独占禁止法(06年1月施行)で認められた強制調査(家宅捜索)権を行使した事案では、過去3件とも刑事告発していたが、4件目で初めて事件化が見送られることになる。
公取委は昨年7月、原油価格高騰に伴う原材料価格の上昇を受け、塩ビ管販売を巡り価格協定を締結した疑いを強め、独占禁止法違反(不当な取引制限)容疑で、クボタシーアイ、三菱樹脂、積水化学工業など13社を捜索。営業担当者らから事情聴取を進めてきた。 価格カルテルの存在は突き止めたが、一方で(1)需要減少で業界が縮小傾向にあり、01年に経済産業省の研究会が統合・提携の必要性を提言していた(2)13社は目立った利益を上げていない(3)中心企業の自主申告が端緒で「最初に不正行為を自主申告した企業は告発しない」との基準に照らすと中心企業の立件は困難--などから、告発見送りの方針を固めたものとみられる。
公取委は今後、事案を行政調査部門に移管し、排除措置命令や課徴金納付命令などの行政処分を目指して調べを進めることになる。 以上引用
コメント:新聞は、よその業界での規制緩和を説き、よその業界のカルテルをたたき、特に建設業者の談合はまるで極悪人みたいな書き方だが、自分たちのことを少し振り返ってみたらどうか。 取材カルテルとしての「記者クラブ制度」、販売カルテルとしての「新聞特殊指定」という規制の維持にはまことに熱心ではないか。彼らが「新聞特殊指定」維持の理由とするところはそのまま建設業者の談合の合理化に使えそうである。過当競争の結果、零細建設業者が淘汰されると、多様な建設業者を選択する自由が奪われ、僻地での工事を請け負う業者がいなくなると。
今やメディアは新聞だけではない。現に私はどの新聞も購読していないが、何の不自由も感じない。いながらにして世界のメディアから情報は集められる。戸別宅配制度が維持できなければ、どんな不都合があるというのだろう。
以下 5月2日3時8分配信 読売新聞から引用
国交省発注工事の入札、14%・800件成立せず 国土交通省が2007年度上半期に発注した公共工事の入札で、参加者がゼロだったり、予定価格を上回ったりして入札が不成立となったケースは800件を超え、14%に上ったことがわかった。 特に関東地方では3割近くに達しており、橋の補修や公共施設の耐震改修の遅れも出始めている。大手ゼネコンを中心とした05年末の「談合決別宣言」を機に受注競争が激化する中で、利益が見込めない小規模工事に見切りをつける業者が増えている。 以下略 以上引用
コメント:談合たたきの成果(?)はこんなところにも表れている。新聞社はこうした例を引き、自らの主張の正当性と建設談合の合理性を主張したほうがいい。