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日本の新聞の見方

時事問題の視点ー今の新聞テレビの情報には満足できない人のために

書評

2009-03-28 21:09:53 | 書評

今日は鎌倉で花見。

 昨日近所の古書店が店仕舞セールをやっていたのでとりあえず三冊買った。
中村紘子の「ピアニストという蛮族がいる」、向田邦子の「父の詫び状」それに岩波の古語辞典。前二冊が各50円、最後の辞書が新品同様で500円。存命の中村紘子さんの本は安すぎてやや気が引けた。古語辞典を買ったのは愛用の電子辞書に入ってなかったから。日本人が戦後文語を捨てたのは大いなる誤りだったと思う。聖書は口語訳ではなく断然文語訳を薦める。口語訳より意味がはるかに明晰であるから。今でも文語訳が入手できる。
 「ピアニストという蛮族がいる」はとってもおもしろかったが、クラシックを聞かない人には興味がわかないと思うのでここでは書かない。
 向田邦子は、尊敬する山本夏彦翁がつとに推奨していた。彼女が飛行機事故で不慮の死を遂げた時は慟哭の文をものしていた。この本を含めてまだ彼女の作品は読んだことがない。
 今読んでいる本は米原万里の「ロシアは今日も荒れ模様」。彼女も三年前ガンで急逝した。彼女の父は鳥取県選出の共産党の衆議院議員米原昶(いたる)。米原家は鳥取県有数の名家でありながら、一族から共産党幹部を出したことで話題となった。
 米原万里さんの本は非常におもしろいが時々日本国と日本政府への毒を感じる。
日本国は父と父の党派の敵という思いがあるのだろう。50過ぎての死を夭折とは言えないが惜しまれる。文学者で夭折という言葉がふさわしいのは石川啄木(享年27歳)と樋口一葉(同24歳)くらい。森林太郎(鴎外)も彼女の死を深く悼んだ。 


「北京炎上(水木楊)」(文藝春秋)

2009-02-14 20:06:12 | 書評
 この小説の結末は2015年中国に革命が起り、共産党一党独裁体制は崩壊し民主的な多党制に基づく連邦国家に移行するというもの。
 そのプロセスは北京の治安の悪化を理由として戒厳令を布告したところ、戒厳部隊の一部が反乱を起したことをきっかけに中央政府が崩壊し、各地域が独立を宣言した後連邦国家になるというもの。
 軍が決定的な役割を果たすという見方には同意するが、この小説が書いているよう少ない流血で(ゼロではない)、短期間に民主的国家に移行するのは最も望ましいあり方であろうが、楽観的に過ぎるように思う。
水木氏は辛亥革命後の政治情況から類推したのだろうが、同じ歴史が繰り返されるとは思えない。

 毛沢東は「政権は銃口から生まれる」と言ったが、中国ではそれに止まらず、「政権は銃口によって維持される」。中国の最高権力者は国家主席でも党総書記でもなくて、党中央軍事委員会主席である(現在は胡錦濤総書記が兼務)。軍は党軍事委員会主席に忠誠を誓っており、国防部長(国防大臣)ではない。小平も江沢民もこのポストは中々放さなかったし、毛沢東は死ぬまでこの地位にあった。
 それに連邦国家が果たして望ましいかどうか。台湾はいいとしても、チベット、内蒙古、新疆等が独立するのが望ましいかどうか疑問に思っている。今や全国で少数民族と漢族との混在が進んでいるので、独立した少数民族の新国家内で民族紛争が発生するのを避けられないのではないか。
 それに現在の各省の指導者(書記)、七大軍区の司令官は、土着的な性格は乏しく定期的なローテーションで異動しているので彼らが独立を志向するとは思えない。
 この本にも書いてあるが、中国で布教しているキリスト教宣教師の相当数はアメリカCIAのエージェントであるらしい。従って中国で混乱が発生すればアメリカの介入が予想されるし、そうなればロシアも手を拱いているとは思えない。
 辛亥革命以後、中国が混迷を深め中々統一国家が建設できなかったのは、外国(日本、ロシア‐ソ連、アメリカ、イギリス)の干渉によるところが大きかった。

 尚、著者はこの革命の結果、天安門の毛沢東の肖像は引きずり降ろされ、代わって孫文の肖像が掲げられるとしている。


「トトロの家」全焼 不審火の疑い   今日のニュースの見出しから
 時々ニュースで耳にするが、おかしな日本語だ。不審火とは原因が審らかでないという意味で暗に放火を指す。
 だから「不審火の疑い」とは「原因が審らかでない疑いがある」というナンセンスになってしまう。だからここは「放火の疑いがある」とすべきだ。



 
 
 

石光真清の「城下の人」他四部作

2008-07-21 13:42:31 | 書評

 このブログでは趣旨が違うので書評は取り上げないことにしているが、是非紹介したい本がある。それは石光真清の自伝四部作「城下人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」(中公文庫)である。  

 彼は明治元年熊本の生まれ。陸軍軍人。特に日露戦争直前、シベリアと満州での諜報活動で大功をあげた。ただ叔父の野田豁通(ひろみち)、弟の石光真臣が共に陸軍中将まで栄進したのに比べ彼は少佐で現役を去り、また彼のことを何かと気にかけてくれていた陸軍大将首相田中義一昭和天皇に叱責され辞職した後急死したりしたため軍人としては不遇であった。  
 
 また彼はシベリア出兵中、シベリアに詳しいこと見込まれて徴用されたが、その作戦目的のあいまいさ、軍規の弛緩ぶりを強く批判したことも陸軍当局の心証を害し処世に不利にはたらいた。
 この辺りは、イギリスの欺瞞的外交政策のためアラブの友人を裏切ったとの自責の念にとらわれ、第一次大戦後は憤懣の中に自殺的な死を迎えたアラビアのロレンスとオーバーラップする。

 彼ほど西南戦争日清戦争とその後の台湾征討日露戦争シベリア出兵など日本近代史の要所要所に身をおいた人は希で、しかもその中に歴史に名を残すことになる人が続々でてくるので実におもしろい。
 その中からほんの一部を紹介してみる。
 
 西郷の西南戦争では田原坂と並んで熊本城攻防戦がハイライトであるが、彼はこの時10歳で、薩摩軍の陣地に入り込み西郷に次ぐ大幹部であった村田新八とも言葉を交わしている。村田から「ご両親が心配なさっているから早くお家にかえりなさい」と諭されている。(村田という人は薩摩というより明治政府のホープで、もう少し長命であれば政府の中心となったはずの人。勝海舟大久保利通の後継者と目していた。村田が西郷側に投じたことを知った大久保は心底落胆したと言われている。司馬は最初「翔ぶがごとく」を書く時、村田を主人公にしようと考えたくらいである。)  

 この時、熊本城にこもる政府軍の首脳三名がお忍びで、熊本の名士であった父真民を、作戦を相談するため訪れている。その三名とはいずれもその後明治の歴史に名を残す司令官少将谷干城(土佐藩、若い頃は武市半平太坂本龍馬に兄事。坂本と中岡慎太郎の死を見取ったのも彼。後中将、学習院院長、農商務大臣)、参謀樺山資紀少佐(薩摩藩、後海軍大将、海軍大臣というより今の人には白洲正子さんの祖父と言った方が通りがいいかもしれない)、同じく参謀児玉源太郎少佐(長州藩、後陸軍大将、陸軍大臣、参謀総長、日露戦争時の満州軍総参謀長、司馬の「坂の上の雲」では海軍の秋山真之と並んで作戦の天才として描かれている。旅順戦の最終段階を乃木に代って直接指揮した人。これを読んで児玉に惚れた民主党の管直人氏はご子息に源太郎と命名している)。  

 そして石光に現役を退くように迫り、彼の軍人として人生を狂わせることになったのは日露戦争時乃木の第三軍参謀長であった伊地知幸介(薩摩藩)。伊地知は司馬の「坂の上の雲」では悪しき藩閥人事の代表で無能、児玉の引き立て役、そして旅順戦であれほどの損害を出した最大の責任者として描かれているのでご存知の方も多いと思う。  

 そして戦前なら知らない人のいなかった日露戦争の軍神橘周太は石光の親友でもあったので彼が弔辞を読むことになった。ところが弔辞を書こうとしても涙があふれて書くことができなかった。それを聞きつけた森林太郎(鴎外、軍医として日露戦争に従軍)から「本当に親しい人の弔辞など書けるものではありません。私が代って書いて差し上げましょう」と言われ森に代筆してもらったところが、石光は大変な名文家だと評判が立って困ったとか。

 彼の親族についても触れる価値がある。

父の弟つまり叔父野田豁通は陸軍中将、貴族院議員、男爵。  

実兄は後に日本のビール王と謂われることになる馬越恭平に請われサッポロビール創業期の支配人を務めたが惜しくも急逝した石光真澄。馬越は彼の功績を高く評価し、その遺族を明治大正昭和にわたって面倒を見続けた。

実弟陸軍中将石光真臣は関東大震災の際の東京南部警備司令官。私はあの時の大杉栄虐殺事件朝鮮人虐殺事件には石光にもなにがしかの責任があると思っている。  

実妹真津は岡山の橋本家に嫁ぎ、龍伍を生す。龍伍は大蔵官僚から政界に転じ文部大臣、厚生大臣を歴任。龍伍の子が龍太郎、大二郎。つまり橋本兄弟は真津の孫であり石光真清は橋本兄弟の大伯父に当る。  

三島由紀夫の若き日の文学の友人で夭折した東文彦はその死を文学の師室生犀星にも哀惜された。彼は石光の次女菊枝の子つまり孫に当る。三島は東を通じて祖父石光が幼少時に体験した神風連の乱を知る。神風連の乱は彼の最後の作品「豊饒の海」第二部「奔馬」のモチーフ。  

石光のこの本は数年前NHKがテレビドラマ化している。私は見たわけではないが明治大正昭和三代に渉り、しかも舞台は日本では熊本、東京をはじめ日本各地、海外ではシベリア、満州、朝鮮等に及ぶこの内容をNHKの乏しい予算(失礼)でドラマ化するのは無理があると思う。  

優れた政治学者で三島由紀夫も尊敬していた橋川文三が「明治の栄光」(ちくま学芸文庫)という本のあとがきで「個人的記録としては石光真清の四部作がもっともすぐれており、各所で引用させていただいた。筆者はしばしば本巻全巻をもってしても石光の伝える『明治時代』には及ばないという感をいだかざるを得なかった」と言っている。


書評:マオ、誰も知らなかった毛沢東

2008-06-02 22:32:49 | 書評
この本はまだ読んでいないが、断片的に処々で引用される内容には非常に疑問を感じていたので取り上げることにする。この本の胡散臭い点は枚挙にいとまがないが、詳しくは矢吹晋先生アンドリューネイサン教授の書評をネットでご覧いただくとして、ここでは2つの論点だけ、両先生とはやや違った視点から取り上げることにする。

一つ、
 最近旧ソ連の資料から、1928年(昭和3年)の張作霖爆殺スターリンの指示によって、ナウム・エイティゴンなる人物が実行して日本軍の仕業と見せかけたことが明らかになったと、書いている点。 
 この事件が関東軍参謀河本大作大佐が企画立案し、独立守備隊の東宮鉄男大尉が実行したことは定説(通説ではない)となっており、関係者の詳しい証言も残されている。
 これは関東軍及びこれに呼応する陸軍の一部との共同謀議であったからこそ、この事件の処理を巡って即位間もない若き昭和天皇が首相田中義一を解任したことに陸軍は激しく反発し、天皇がそれに懲りてその後元首としての拒否権を行使するのを控えるようになったことはいまや昭和史の定説である。
 天皇自身の証言も残されている(昭和天皇独白録)。当時の満州情勢を分析するのに日本側資料は欠かせない。この著者は日本側資料を読む能力がないのか或いはその重要性がわかないのだろう。著者が日本語を読めないことは確かである。 それに日本軍の仕業と見せかけたと書いているが、現場には中国人数名の遺体が遺棄され、彼らの仕業と偽装されていたのであって、日本軍の仕業と見せかける工作はなされていない。 
 ソ連側資料なるものの存在自体疑わしいが、仮にそんな資料があったとしてもそれはスパイとしての自らの功績を誇るためでっち上げた可能性があることにどうして思いが及ばないのだろう。

一つ、
 南京上海警備区司令官の張治中は秘密共産党員であって、日中を戦わせるためスターリンの指示で、第二次上海事変によって日本を全面戦争に引きずり込んだと書いている。 しかもその根拠らしい根拠はなにもなく、単なる憶測をあたかも歴史的事実であると読者を錯覚させるような書き方をしている。
 第二次上海事変の勃発は日中双方に要因があり、張治中一人でどうこうできたわけではない。この当時中国全土で抗日気運が横溢しており、彼もそうした気運に押された可能性はある。この本の著者がそう考えたのは多分、国民党が共産党の内戦に敗れた後も張は大陸に留まり高い地位を与えられたことからの連想だろう。しかしこうした発想は「下司のかんぐり」の類である。張が台湾に逃れず大陸に留まったのは黄埔軍官学校以来面識があった周恩来の勧めによるものであり、大陸に留まった国民党員は他にも多勢いる。 支那事変盧溝橋事件以来拡大の一途をたどり、ついに泥沼に陥ったのは無数の要因が錯綜しており、しかもその間何度も講和のチャンスがあったのである。その結果ソ連極東方面における日本の脅威が減じスターリンのソ連を利すことになったのは結果に過ぎない。   

 建国以来数々の失政を犯した毛沢東を憎悪するのは理解できるが、彼が譎詐奸謀(けっさかんぼう)だけで天下を手中におさめたとするこの著者の見方には基本的な歴史感および人間観の浅薄さを感じる。 
 このようなずさんな本を最初から最後まで丹念に読む気にはならないが、世界でずいぶん売れたということだから、今後私なりにまとまった書評を書くのも多少意味があるかもしれない。原文が英語であるというだけで恐れ入る日本人のなんと多いことか。