2018年5月29日~31日
東日本大震災後 初めて 被災地を訪れる機会が与えられました。 主に 海外支援(国内も)の リサイクルショップを通して、話に聴いたり 被災地で採れる海産物などを購入したりしていましたが、 実際に この目で見るのは初めて。復興は 未だ道半ばの印象でした。
東京駅発11:00のやまびこ135号に乗車(夫の学生時代の級友の会に同行~総勢9名で)
車窓からの風景
北上川
仙台駅着13:04
仙台駅東口からホテルのシャトルバスで「ホテル観洋」へ(ほぼ2時間)
ホテルに到着後各部屋へ
部屋の窓からの風景(牡蠣の養殖だろうか)
ベランダの柵に悠々のカモメ
ホテルの近くに「海の見える命の森」があるというので、散策に出かける(森の入り口まで 徒歩20分余り)
ようやく広場に到着
石碑の傍の説明書き
左側の白い建物がホテル 右は黒崎トンネル(震災で大きな被害を受け 廃線となった気仙沼線 鉄道跡)
ホテル観洋に戻る
ずっと以前に泊まりたいと思っていたホテルが どんな被害を受け 地元にとって どんな役割を担っていたのかを知りたいと思い調べてみた
2011年3月11日 14:46 M9.0の東日本大震災発生 ホテルの建つ南三陸町では震度6弱の揺れと最大20m以上の津波が襲来 直後停電・断水となったが 宿泊客とホテルスタッフ、避難してきた近くの住民 合わせて約350名が滞在
2F大浴場まで津波で浸水したというが 食材の在庫から一週間分の献立作成 食事の提供を開始
震災から7日目に宿泊客全員がチェックアウト 何とか帰路に着けた由
その後 南三陸町内のインフラが徐々に復旧し 震災後56日目にして 二次避難場所として地元の方々約600名を受容れて コミュニティーを作り ボランティア等の協力もあって 様々な支援を続けたとのこと
震災から4ヶ月後に大浴場も復旧し 半年後には仮設住宅への入居が始まり二次避難場所としての役割 終了 (ホテル観洋の冊子 3.11からの記憶より)
公式HP http://www.mkanyo.jp
ホテルのバスで被災地を巡る(約1時間)
自らも被災者となったホテル観洋スタッフが「語り部」となって 当時の様子を伝えながら 復興途上の現状を見学する「語り部バス」を 2012年2月からスタート
南三陸町旧 防災対策庁舎(左上に見える赤い鉄骨)近くに設えた 慰霊の祭壇
2011年3月11日 午後2時46分(少しずれているが)で 止まった時計
新しく造られた堤防にいたキジ(元々 この辺りにいたのだろうか・・・)
「語り部」バスで ホテルに戻り 引続き ホテルのバスで陸前戸倉へ送ってもらう
ここから JRのバス(気仙沼線の代替バス)に乗り換えて 志津川駅へ
志津川の展望台
展望台上の展示 2007年の志津川地区
展望台から直ぐの さんさん商店街 志津川町五日町にあり 飲食・鮮魚・雑貨など28店舗が軒を連ねている
商店街のシンボル
「さんさん」表通り
裏通りに 地元の方たちの 散髪屋
「さんさん」の表通り 観光客向けの食事処で昼食
食事は 屋外のテント内に並んだテーブルで
思い思いのメニューで
カメラショップで「南三陸の記憶」と題する写真展を見る
南三陸とチリは1960年チリ地震以来友好関係を結んできた その後1991年に絆の証として モアイ像が贈られたが 2011年3月11日に流出
震災から2年後2013年5月に 再び チリ国民の「南三陸 復興への願い」を込めて贈られた このモアイ像には黒曜石と珊瑚で作られた目が入っている目の入った像は稀少だとか
商店街を後に 9人乗りジャンボタクシーを呼んで 観光スポットである神割崎(かんわりざき)へ
カンゾー(キスゲ)が咲いていた
さらに 多くの児童や教師が犠牲になった 旧 大川小学校へ
黒い矢印は 児童が移動したルート 学校の裏山に何故 逃げられなかったのか という思いは今も
真ん中の白い板には 津波到達地点と書かれている
見学を終えて 言葉なく タクシーへ
丘の中程に見えるのは 宿にしているホテル観洋か
第三日 10:00 ホテル発 仙台駅に向かう(正午頃に仙台駅に到着)
仙台駅
駅ビルで昼食
12:44 仙台発のやまびこ140号で 東京へ
震災から 7年になりますが、 被害の規模が そして犠牲が如何に大きかったかを思い知らされた旅でした。
復興は 未だまだ これから という思いですが、 関わっているリサイクルショップで扱っている 「(岩手県)大槌を応援する会」が 取寄せている 被災地の産品を購入したり 僅かながらでも 応援して いこうと思っています。
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