山歩き

苦楽をデジカメで

北海道 旭川から釧路への旅 その2 層雲峡・北見・網走

2021年10月12日 | 旅の思い出

2010年10月 旭川から釧路への旅の続きです!

旭川から大雪山国立公園へ ここは広大な山岳公園

層雲峡へ

「ヒグマに近づかないでください」と書いてあります。

ヒグマの足跡でしょうか

層雲峡からロープウェイで5合目へ

銀河の滝

天狗のひき臼岩

キノコ

石狩川沿いの歩道に出ると 黒岳の頭は 早くも 雪

層雲峡園地

翌日は 層雲峡から北見へ  高速バス「石北号」で ほぼ2時間 

北見薄荷記念館

左から 薄荷取卸油、はっか脳、はっか赤油、はっか白油

北見駅前

JR北見駅から 石北本線で網走へ

能取岬

オホーツク海と知床連山を眺望する景勝地

能取岬灯台

網走駅から釧網線で釧路へ

 

 

途中駅 原生花園

知床斜里駅で列車乗り換え

知床斜里駅から知床連山を望む

一路釧路へ

線路は続くよ♪ 

 

紅葉も ほぼ終っていましたが、それなりに楽しい観光の旅でした(^^♪


北海道 旭川から釧路への旅 そのⅠ 神居古潭

2021年10月12日 | 旅の思い出

今まさに紅葉の時期!

ほぼ10年前の 2010年10月の北海道の旅を 懐かしく振り返ってみました(^^♪

東京羽田から空路旭川へ

石狩川

神居大橋

旧神居古潭駅

旭川神居古潭にあった旧国鉄 函館本線の駅

滝川ー旭川間が開通したのが1898年(明治31年)、1901年((明治34年)から停車場だったところに

神居古潭駅が誕生した

しかし 1969年10月に旭川ー滝川間の電化と複線化により 旧線上にあったこの駅が廃止された

駅舎は 廃駅時の姿形をもとに復元され明治期の貴重な西洋建築として旭川市の指定文化財として

多くの人に親しまれている

旧神居古潭駅のホーム

当時のSLが展示されている

橋梁跡

駅周辺

駅舎遠望

険しい渓谷を縫うように列車が走っていた

夢殿観音前バス停

バス時刻表

川村カ子ト アイヌ記念館内部

アイヌの文化を今に伝える

入り口に鎮座している猫  可愛い(^^♪

藁ぶき屋根が記念館

周辺の紅葉

古潭公園

 

公園辺りの紅葉(白く見えるのが石狩川)

旭川駅到着

 

~(その二)へ続く~

 

 

 

 

 

 

 


草津温泉

2021年05月05日 | 旅の思い出

2014年3月

草津白根スノーシューの帰りに草津温泉を訪れました。

この数年前に国立療養所栗生楽泉園を訪ねた時以来、久しぶりの草津でした。

湯畑

湯畑全景

湯もみ風景

湯もみ体験中

湯もみ歌を聴きながら

草津温泉を流れる川へ

ベルツ博士とスクリバ博士両博士の胸像についての説明板

特にベルツ氏は日本人にとって馴染み深いと思う

ベルツ博士は ドイツ出身の医師で 明治政府に召喚されて来日

東京医学校(現東大医学部)の教師として当時の医学界に大きな影響を与え

1902年(明治35年)退任後は宮内省侍医を務めた

明治の知識人が 藩政時代の文化を否定し 表面だけの西洋文明を取り入れる姿勢を批判

「日本人は 先ず自国の文化を理解し 西洋文化と比べて何が優れ 何が劣っているかを知る

必要性がある」と説いた

当時は 西洋建築が次々と建てられる一方 廃仏毀釈運動が吹き荒れ 西洋人から見ると

素晴らしく価値ある寺院や仏像が破却される様子を見るに堪えがたかったようだ

 

学問を学ぶにも  知識や探求心の積み重ねが大切なのに 日本人は結果だけを求める姿勢を

批判している  今の日本にも 未だにその傾向があるように思われる

ベルツ博士が 草津温泉を訪れたのは 1878年(明治11年)頃で

「草津は温泉だけでなく 最上級の理想的な飲料水がある」と絶賛

草津温泉の研究書である「熱水浴療論」を発刊して 草津温泉の医学的有効性を評価

世界に紹介している

 案内板によると 内科にベルツ  外科にスクリバとある 無二の親友だったとか

スクリバ博士も 町民に無料で診療を施したり 町民から慕われていたという

 

以前の訪問とは また違った面での草津を楽しむことが出来ました(^^)/

 

 

 

 


わたらせ渓谷鉄道で足尾へ

2020年10月28日 | 旅の思い出

コロナのため旅もままならず、今までにupしていなかった旅を 季節に合わせて振り返ることにしました。それぞれ楽しい思い出でもあります。

今回は、ほぼ10年前で わたらせ渓谷への旅です。

両毛線の桐生から わたらせ渓谷鉄道に乗車

小中(こなか)下車

けさかけ橋(最大傾斜44%)を渡って 小中大滝へ

小中大滝

渓流を見下ろす

イヌシデでしょうか・・・8センチほどの実が穂になってぶら下がっている

対岸の景色

通洞(つうどう)駅 足尾銅山跡へ

間藤(まとう)駅

通説では、足尾銅山は1610年(慶長15年)江戸幕府から銅山と認められ 昭和48年までの360年間

採掘が営まれた 。

しかし、付近の古墳からは銅製の装飾品などが見つかっているので、実際には古代から利用されて

いたようだ。

政治家 田中正造(1841年~1913年)が、 日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒を 明治政府に

直訴したことは有名。