まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

台南郊外のタイルハウス

2020-04-10 22:09:31 | 建物・まちなみ
2019年夏の台南の続き。



台南郊外の集落には他にもマジョリカタイルの貼られた家を見つけた。この家も素晴らしかった!


屋根の上にはさっき見たのと同じように透かしブロックとの組み合わせでタイルが貼られている。


状態はとてもよく、一列に並べられたボーダータイルも全く欠けていない。


入口の両脇の壁には、鏝絵のような漆喰細工の装飾が施されていた。残念ながら半分以上が剥げ落ちて
しまっているが、、、あらわになった下地が竹を編んだ隙間に土を詰め込んであるのがよく分かる。


その下には、洗い出しの壁に2枚組みの龍のタイルが向かい合わせに貼られていた。
左側には龍のタイルはなし。


開いていた入口から家の中を覗いてみてびっくり!正庁と呼ばれる中央の部屋の壁にも、マジョリカタイルが!!


各柱間に数枚ずつのユニットを、柄違いで貼ってあり楽しい。左右の壁、そして、卓に隠れてしまっているが
正面の壁にも貼られている。


それから床にも!床に貼られているのは珍しいなぁ~~。しかし本業タイルのあった家も、本業タイルと
マジョリカタイルも屋内の床に貼られているらしい(写真で見た)。
ここのタイルも踏まれて擦り切れてハゲハゲになってしまっている(苦笑)

車が停まっているし人がいるはずと思ってここでも呼んでみたが誰も出てこない。

そしてこの家はマジョリカタイルだけじゃないのだ!
左護龍(建物側から見て左が左護龍)が、カラフルなモザイクタイルに包まれていた!!


見て!このかわいい模様を!チェック?花柄?モスグリーンとオレンジ色の取り合わせも、いいセンス~~~


腰の部分にはグラデーションのかかったタイルを風車みたいに並べて。


丸い木の柱もモザイクタイルで飾ってある。このタイルがまたかわいい!!


私が糸くずタイルと呼んでいる、細いくにゃくにゃした線の入った小さな長方形のタイルが2枚ずつ互い違いに。
いろんな色がランダムに混ざっていて楽しい♪


こちらの棟に子供が住んでいたからかわいらしく改修したのだろうか。こんなポップな三合院はなかなかないな!


道端にあった、文字の書かれた石。石敢當みたいなものかな!?


さてそろそろ戻るか。しかし、こちらでは外を歩いている人も家の前に出ている人も全く見かけないのはなぜかな!?

帰りに立ち寄った、旧台湾総督府専売局台南出張所。現在は市定古蹟となっており、文化と生活の連結を目指し
展示やセミナーなどが企画、実施されているとか。




ここは貨物列車がつくプラットフォームだったのだろうか。そんな香りが漂っていた。


台南のまちなかへ戻ってきた。
電動バイクは2個目のバッテリーを使っていたが帰り道でインジケーターが黄色になり、赤色になり、、、(汗)
ヒヤヒヤしたが何とか駅前のバイクレンタル屋さんまでたどり着き、新しいバッテリーに交換してもらってほっとした。。。
ほぼ円形でインパクトある形の旧台南測候所は、日本が統治を始めて最初期の頃、1898(明治31)年の築。


太平境馬雅各紀念教会は歴史の古い長老教会だが、この建物は戦後の1951年築とか。
戦後建築の教会もなかなか素敵なのが多いな!


続く
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旧台南県知事官邸

2020-04-08 23:02:50 | 建物・まちなみ
2019年夏の台南の続き。

旧台南庁長官邸の解説のおっちゃんもお勧めの旧台南県知事官邸へやってきた。電動バイクで数分の距離。
いきなりレンガ造のお城のような建物が現れた!中央部と左右両側が台形に張り出した、ベランダ付の総2階建て。
ドアは開いているようだが、何か工事の人が出入りしているな。ちょっと外回りから見学しよう。


ここは、さっきの台南庁長官邸の2年後の1900(明治33)年に建てられている。官邸と言ってもレンガ造の建物に
生活感はなく、こちらも和館が併設されていたらしい。この和館にもタイルが敷かれていた記録があるそうで興味深い。
またこの建物は日本の皇族が来台した際の宿泊所としても使用された。


裏の方へ回ると、一部下見板張りの部屋があった。


裏の1階のテラスの床がモザイクタイル貼り。ここはちょっと増築っぽいな。




こちらが裏側だが正面と同じように中央部が台形に張り出している。部屋の中を覗くと、店にするのだろうか、
内装工事の真っ最中。左側にガラス張りのエレベーターも増設されこれから活用しようとしているところなのだろう。


柱とアーチ部にレンガを使用し、壁は漆喰かモルタルかの塗り壁としているのが面白いな!
レンガ建築なのに何となくハーフティンバー風な趣きをかもし出している。


設計監理をしているっぽいお姉ちゃんに声をかけ、ちょっと中を見せてもらう。


おぉ、素敵な木造階段が!




ここが下見板張りの部分。1部屋にサンルームがついている。やっぱり木造の方が居心地はよさそうだな。


風通しよく快適そうな2階のベランダ。ささっと見てまわりお礼を言って退去する。おじゃましました~~


現在はすでに、雑貨店とカフェがオープンしているらしい。あのお姉ちゃんのセンスで素敵な空間になっているだろうな!
次回台南に来たらまた行ってみよう。



ところで北門路の道端でふと目を留めたもの。なに?「博愛橋」って・・・何でこんなところに橋が?


うわっ!?この「橋」の下を見下ろしてびっくり!地上にいたつもりなのに、何とその下にも世界があった!?
建物の1階分下に、インターロッキングブロックの敷かれた遊歩道のような通路が伸びている。
ん~、このじめっとした感じ、これは川跡じゃないのか!?


連続した建物の間にぽっかりと空いた空間。いやはや何とも不思議な光景・・・


そこへ行ってみようと次の角を折れると下り坂で、細い路地に入っていくと「下の世界」に到着した。
しかし私有地になっているようで柵がしてあり、橋の真下へは近づくことができなかった。
あとから台湾スリバチ/高低差学会の栖来ひかりさんと会話して、やはりこれは暗渠だと分かった。
「徳慶渓(坑仔底)」という川の跡らしい。
私は昔から廃川跡をいろいろめぐってきたので廃川跡、廃線跡には目ざとい方だが(笑)、台湾でも暗渠めぐりを
している方がおられ、この暗渠を詳細にたどってレポートされている。中国語のサイトだがとても面白い。→こちら


さて、郊外へ向かって電動バイクで走る。
途中で旧台南中学校講堂に立ち寄る。休日なので柵ががっちり閉まっており、道路から眺めるのみ。。。
赤レンガが鮮やか!大屋根に下屋がついた教会の聖堂のような形で、ずらりと並ぶアーチ窓や大屋根の軒まわり、
ドーマーウインドウなど装飾豊かな建物である。


1918(大正7)年築。現在は台南二中の小礼堂となっており、2014(平成26)年にきれいに改修済みで大切に使われている。
内部には現在も奉安所が残っているとか。


ここからさらに少し走ったところで、電動バイクのバッテリーが切れた。ええっ!?早くない?
予備バッテリーに替えて再度出発。

続く
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台南の夕暮れ散歩

2020-04-06 23:46:55 | 建物・まちなみ
2019年夏の台南の続き。

台南第一高級中学を見たあとはまちなかへ繰り出し、建物や路地を見て歩こう。
このカトリック教会はちょっと戦後建築っぽい気もするが・・・よく分からないな。


台南の巨大なロータリー、民生緑園付近にたくさんある日本統治時代の近代建築は毎回さらっと見て回る。
こちら現国立台湾文学館は、森山松之助の設計で1916(大正5)年に竣工した旧台南州庁(旧台南市政府)の建物。
赤レンガの花崗岩のコンビ、銅板張りのマンサード屋根の古典的西洋建築は典型的な官庁建築で、国定古蹟となっている。
中へ入っている時間はないので(なくなることはないだろうし)外観のみ。。。


こちらはシンボリックな外観の旧台南合同庁舎。
1930(昭和5)年に塔がまず建てられ、1938(昭和13)年に塔の両側の棟が増築された。
台南市政府のサイト


以前見た時はまだ現役の消防署だったが、2019年4月に消防史料館となったようだ。


ギリシャ神殿のような、土地銀行台南支店(旧日本勧業銀行台南支店)。
第一勧業銀行は台湾で台北・高雄・台中・台南・新竹の5店舗を展開し、農工業面の発展を支える役割を果たした。


貫禄の安定感。台北にある旧本店の建物もギリシャ風列柱がずらりと並ぶ同じような形の建物だ。
ちなみにあちらは「国立台湾博物館 土地展示館」になっている。


かわいい、えびす顔。


外観はあっさりしているが、高い高い通路の天井は1区画ずつモールディングが何重にも回され、
濃密な装飾となっている。


しかし・・・やたら汚いなぁ(苦笑)。これはイワツバメの巣だろう。しかしたとえツバメがいなくなった後でも
この高さでは簡単には掃除できない。ツバメと共存するにはもう少し濃い色の建物にしておくのが良さそうだ’(笑)




そしてこちらは、改修工事を経て生まれ変わった林百貨。
日本統治時代の1932(昭和7)年に台湾南部初の百貨店、「ハヤシ百貨」として開業、中正路のランドマークとして
親しまれた。戦後は公的機関の事務所などに使われ、1980年代からはずっと空き家だったらしい。


私が初めて台南に来たのは2009年、その時はネットがかかっていて、どうなるのだろうと眺めていた。→2009年の姿
2013年に見た時は改修工事中だった。2014年の6月にリニューアルオープンしたことはニュースで知っていたが、
その後台南に来ていなかったので、よみがえった姿を見るのは今回が初めてだ。


空き家のときはボロボロでみすぼらしく見えた建物は、全てのフロアに明かりが灯りいきいきとして見える。
人に必要とされると自信がみなぎり堂々とした姿になるって、建物もまるで人間と同じじゃないか!


林百貨のスクラッチタイルはとても美形!激しいのにワラビが整っていて模範的なスクラッチタイルだ(笑)
私も陶芸でスクラッチタイルを作ってみたことがあるのだが、なかなかこんなきれいなワラビにならない。→自作スクラッチタイル


若者が大勢出入りして賑わっている林百貨を微笑ましく眺めながら、私は次へ行こう。


中正路に面したこの古いビルも戦前に違いない。林百貨と雰囲気が似ているので、同じ時代のものかな。


択賢堂というのを見に、中正路から細い路地に入り込むと、一転静かな低層の家並みに。


しかしもう時間が遅く閉まっていた。択賢堂は閩南式の建物で、高い塀越しに屋根の棟のところににぎやかな装飾が見えた。
残念。。。あとで検索してみると、見学するには申込が必要らしい。


六角形の透かしブロックの塀。


こちらの大通りに面した小さな飲食店、ちょっと覗き込んだら、奥の壁がレンガ塀だった。
隣の建物の壁に小屋掛けして始めた店なのだろう。


それにしてもレンガの積み方が面白い。長手の面を見せて並べたり、小口を見せて立てて並べたり、、、
平の面を見せて並べたり!?さらには谷積みのように斜めに並べたり!?これは構造壁ではなく、隣接する壁に
もたせかけるように積み上げたのだろうか。だいたいレンガのサイズがバラバラだ。いつの時代のものかわからないが、
上に塗ったモルタルの剥げ具合からして新しいものでもないだろう。この隣を見に行ってみると、古い閩南式の建物だった。
こういうのがさりげなくあるまちかど、素敵だなぁ~


晩ごはんを探しながら暗くなるまでさまよったけど、やっぱりひとりで入るにはこういう水餃やワンタンの店がいい。
どこの店でもほぼ失敗はなくて、手軽でおいしい!


続く
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夏休み、台南へ。

2020-04-05 23:16:11 | 建物・まちなみ
ここしばらく早寝してブログをサボっていたらなかなか書き出せなくなった・・・
意を決して(笑)去年の夏の台湾のことを。実はこれを含めて3回分の台湾旅がたまっているのだが(爆)
しばらく行けそうにないし、、、台湾に思いを馳せながら、書きかけで放っていた記事に手をつけていこう。


バラバラに分散して取っていた夏休み、最後はお盆前の三連休に2日間の休みをくっつけて5日間で
また台湾に行くことにした。というのも半年ぐらい前のピーチのセールで高雄便が連休絡みかつお盆絡みなのに
結構安かったので即ポチしてしまったのだ(笑)。
しかし考えてみたら、真夏の台湾南部、これはもしかして自殺行為だったか!?まぁ、今回はひとりで気ままな旅だし
特に約束もないから、危険なほど暑ければ涼しいカフェで日がな一日過ごしてもいいし、ホテルで昼寝三昧でもいいや。

今回は高雄からIN、台南へ行く。高雄便は遅めの時間帯なので楽々。遅れることもなくスイスイ。
台南へはやはりいったん高雄駅まで出ないといけない。MRTで高雄駅に着いてエスカレーターを上って来たら
目の前に台鉄の高雄駅が。おぉ、そうか。新しい高雄駅は去年の10月にもう供用開始されていたんだったな!
一足先に開業していたMRTの駅と乗り換えスムーズ。コンコースもコンパクトで迷うことはない。
人々はもうすっかり慣れた様子。自強号の時刻まで40分ほどあるので、駅周辺の様子を偵察しよう。

前回の高雄駅の様子→こちら

エスカレーターで地上へ上ってみると、まわりはまだ鋼板塀に囲まれていたが、その向こう側は・・・
あっ、上にあったホームや跨線橋がすっかりなくなっている!そして数年間親しんだ仮駅舎が影も形もなくなり
サンクンガーデンを覆う大屋根がぽっかりと浮き上がっている。もちろんこれが設計者が意図した姿なのだ。
カッコイイのだが、なんかちょっと寂しい・・・完全にできあがったらそんなことも思わなくなるのだろうか。


お腹が空いた。駅内にレストラン街とかあるかと思ったがないらしいので(苦笑)、駅の外へ出てみよう。
美麗島方面に出る通路がわからず、、、仮設通路を通って駅の北側へ出てみる。
思えば、高雄には何度も来ているが駅のこちら側って全く知らなかったな。駅前は仮設のタクシーレーンが
あるのみ、街は小さな事業所ビルや店舗があるくらいで地方の小都市のような雰囲気だ(苦笑)


地上にあった駅がなくなって、もうすぐここから直接駅の南側まで道が通じることになるだろう。
鉄道側から見ると駅は地上にある方が便利だが、車や徒歩の人からすると、地上にある駅や線路などの施設群は障害物。
特に台湾第一の港湾都市高雄の拠点でありここから貨物線や工場の専用線が植物の根のように伸びていた高雄駅は
広大なヤードのために、駅の両側は行き来をするには非常に遠回りせねばならず、駅の両側のまちは完全に分離された
世界だったわけだ。それが直接繋がれば、格段に便利になり、新たな動線が生まれ商圏も変わってくるのだろう。


結局コンコースで売られていた出来たての台鉄弁当を買って、地下ホームから自強号に乗車。
35分で台南に到着。あぁここは、まだ地上ホームだ。。。改札口で駅員のおっちゃんがあれこれと対応し、
お客はホームにたむろして列車を待つ。あぁこれが鉄道の駅らしい風景。


頭上にぶら下がる大きな行灯型の駅名標、古レールを利用した上屋の支柱。向かいのホーム越しに見える旧貨物ホーム、
そして給水塔。改札口の向こうには待合所の連続アーチが見える。ここにはまだ、古き良き鉄道駅の雰囲気が残っている。
昭和な人間である私はやっぱりこういう風景にノスタルジーを感じるのだ(笑)


改札を出ると、日本統治時代に建てられた台南駅舎はベニヤとシートで覆われていた。工事中?
まぁ、台湾のことだから解体でないことは確かだ。うまく使えるように修復するのだろう。それは信じていられる。


駅前ロータリーに面して特徴的なビルが建ち、駅を中心に放射状に道路が伸びている。良くも悪くも、地方都市っぽい台南駅前。


しかし、古き良き台南駅も、高雄駅と同じようにいずれ地下化するだろう。すでに計画はあるかもしれない。
この活気ある駅の風景が見られなくなると寂しいが。。。個性を失わず、楽しく便利になってほしいな。


今回は台南に3連泊の予定。5分ぐらい歩いたダイナスティホテル(新朝代飯店)に荷物を置いたら、散策にでかけよう。
雨がちの天気の中、まずこの旅の第一目的の旧台南庁長官邸へ行ってみたら・・・えっ、閉まっている!?
まだ4時前なのになんで??案内板をよく見ると木曜が定休日らしい。ガクッ・・・仕方ない、明日出直すか。
チェックしていた日本統治時代の建築を見に、台南第一高級中学へ。高級中学とは日本で言う高校にあたる。


1922(大正11)年に公布された台湾教育令に基づき、台南州立台南第二中学校として設立。
こちらの元本館は1928(昭和3)年竣工。戦争で被災したが修復して今も使われている。




学内は広くて大学のキャンパスのよう。現在は男子校だが、いかにも育ちのいい生徒が通っていそうな雰囲気(笑)


守衛さんに尋ねて元講堂を見に行く。


あれだ!赤レンガは水分を含みしっとりと落ち着いたトーンになっている。軒や窓まわりには反復アーチ。
ベージュ色の部分は花崗岩だろうか。


壁の一部に浮織のような模様が入っているのでよく見ると、この部分はタイルだな!?
私が「洗濯板タイル」と呼んでいる、ギザギザの入ったリブタイルである。あまり目立たず控えめな装飾だ。
日本でこのように赤レンガ建築に微妙に似た色のタイルで模様を入れているのを私は見たことがないと思うし
リブタイルの溝の光の当たり具合で織物のような模様を作っているのも見かけない。


台湾ではこのリブタイルが非常に多く、スクラッチタイルよりもポピュラーな気がする


ぐるっとひと回りしてみる。どちら側から眺めても美しい。


1931(昭和6)年竣工の元講堂は元本館とともに台南市定古蹟となっており、90年近くを経た現在も
教育の場として使われ、変わらない風格を漂わせている。あぁ素晴らしいな!


続く
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三田をうろつく。その2

2020-03-25 23:45:06 | 建物・まちなみ
3月の三田の続き。

九鬼邸からカトリック三田教会の建つあたりの高台は「屋敷町」。名前の通り立派な門や生垣に囲まれた
大きなお屋敷がそこここに。生垣越しにチラチラ見ながら歩き、いこいの家さんだ(老人施設)にやって来た。
総二階建ての大きな建物で、元は何だったのかと気になるが、不明。蔵がついているから普通の住宅だったのかなぁ?


土曜はお休み?時間が遅いから?それともコロナのせい?人の気配はしなかった。


この門柱の上の照明のデザインがツボ!三本のラインと田の文字で、三田。こういうの好き~~


裏側から見ると、まるで町家のようにトイレが細長く飛び出していた(笑)


遠くに見えた赤い屋根、どこからアクセスできるのかとぐるぐる回ってしまったがようやくたどりつけた。


赤いスパニッシュ風瓦とアーチがかわいい、こじんまりした洋館。こちらのM邸は西村伊作によるものとか。
1926(大正15)年築。


坂を下りて丘のふもとを歩くとまたお寺や古い町家がいくつか並ぶ和風のまちなみ。




ちょっと逸れたところに面白い物件を発見!美容院のようだ。このランダム具合が素人っぽさをかもし出していて
好感が持てる(笑)


あっ、ここに抜けてきたのか。さっき通った短いアーケードの車瀬橋商店街。


だいぶ歩き回ったので最後にお茶でもしようと、さっきチェックしていたBio Tableという古民家リノベの
お店の奥のカフェに入る。


あと30分で閉店とのことだったがまぁ長居するつもりはない。ガトーショコラと紅茶を頂いてほっとひと息。。。




さて最後は新地湯で〆といこう。カフェを出て歩いているときに見つけた鍼灸院のタイル。こんなところに。


新地湯にやってきた。最初に三田を歩いた時から入りたいと思っていたのだが、今ようやく。。。


実は記憶の中では90度向きが違っていて、もしや移築したのか?などと疑ってしまったがそんなはずはなく。
記憶とはいいかげんなものだ(苦笑)


番台裏の絵付けタイルがきれいに見えていてうれしいね!


浴室は、ひょうたん型?だるま型?の浴槽も洗い場の床もモザイクタイルがみっしり貼られている~~!カワイイ~~
ゆっくり入りすぎてちょっと湯あたり気味に・・・(汗)


JR三田発の快速に乗るために急いで駅へ向かう途中、あっ、玄関に泰山(風?)タイルの貼られた家はここか。
前に何度か見ていたが、場所をうろ覚えで、今回出会わないなぁと思っていたのだった。
近寄れないし暗いのであまりよく見えないが・・・とりあえず撮っておこう(苦笑)
玄関周りに泰山風のタイルが使われている辻井医院。和風の門の門柱にもタイルが。


その隣の小島医院もちょっと似た雰囲気。暗くてよく分からないけど・・・見れてよかった。

あぁ今日は午前午後と楽しい近場遠足だった。道の駅で野菜を買ったり買い食いしたり、カフェでの休憩など
わずかだが日本経済にも貢献したし、いい一日だった。

おわり。

もくじ
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三田をうろつく。その1

2020-03-24 23:36:31 | 建物・まちなみ
3月の淡河からの続き。

淡河から三ノ宮へ戻るバスは一日3本。10時台の次は16時台・・・さすがに待っていられないので(苦笑)
ちょっと遠回りになってお金もかかるが三田方面へ出るバスに乗る。せっかくなので久々に三田もうろつこう。
三田本町駅から歩き始めるとすぐに目に入る黄色い洋館。これはずっと前に来たときも見たな。


しかし、入口の庇が崩落しそう・・・かなり傷んでいる(涙)。お店にリノベーションしたらおしゃれになりそうなのに
もったいないな。。。


三田のまちをあらためて見ると立派な町家も結構あるなぁ。


洋館付き。




おや、これは「神具・建具・木工芸」屋さんか、ほほぉ~。さすが建具屋さんだけあって入口ドアは端が波打った変わった形。
こんな形の戸もアリか!!


そしてガラス部分の真ん中には細かい組子が入っている。とても細かく、3種の模様が途中から変化している。
鋭角の部分までピシッと角が立っているのはすごいな!現代でもこういう細工ができる職人がまだいるんだな!


ふらふら寄り道しながら旧九鬼家住宅にやってきた。2回ほど見たことがあるが、うろ覚えなのでもう一度見たいと。


ところが・・・コロナウィルスの感染拡大を防ぐため休館って!?ガーン


旧九鬼家住宅は明治初期に建てられた擬洋風建築で、兵庫県の指定重要文化財。
去年バカモノによって落書きされた入口の大戸は、消すのにかなり苦労されたようだが、何とか目立たないくらいになっていた。
犯人は見つかったのかな!?厳罰に処したい。


隣の三田ふるさと学習館も古そう。元は県保健所の建物とか。


散策がてら戻る途中に見かけた、変わった洋風の手すりのある町家。


入口や窓のガラスはモールガラスやいろんな型板ガラスが使われている。


これは何だ!?額縁?いや、モールディングのサンプルか!ここも建具屋さんかインテリア屋さんだったのだな。


入口ドアの上にあったガラス棒を使った意匠も面白いな~


高台の端に建つカトリック三田教会にやって来た。


それほど新しくはなさそうではあるが、あまり古くもなさそう・・・時代がちょっとよく分からない。


ランプがデザインされた、入口上のステンドグラス。青い部分は「P」の文字??これも割と新しそう。


ちょっと中を見学させて頂く。左右の窓はステンドグラスでなく十字にはめ込まれた色ガラス。正面の縦長アーチ窓も
色ガラスだが、淡くやさしい色合い。


案内板には1952(昭和27)年に献堂、とあり、やっぱり戦後建築だったんだな。納得。
そして「カトリック教会」と書かれた古い門は、江戸時代にここが三田藩の家老九鬼兵庫の屋敷跡だった名残とか。


続く
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淡河宿本陣跡(村上家邸宅) お風呂場のタイル

2020-03-23 23:40:35 | 建物・まちなみ
3月の淡河の続き。


西座敷の濡れ縁は茶室に続いている。この濡れ縁の軒を支える丸桁も地味にすごい。


太い!!この角の部分がいちばん根元の方で、直径は40cm、いやもっとあるかな!


茶室は南北座敷などと同じく明治期に増築されたものだろう。


大きな丸窓のある床の間を備え、落としがけには曲がった木が使われている。


しかし炉が切られておらず、にじり口もない。茶室でもいろんなスタイルがあるのだろう・・・正直よくわからない(汗)




そして・・・茶室の手前を右へ折れると、便所とお風呂がある。ここに・・・タイルがあるのだ!!


おお~~っ、2種類のマジョリカタイルが、洗い場の床に市松状にみっしりと!
しかし、現在は物置のようになっていて、肥料?の袋が山積みで一部しか見えない(苦笑)


目地は結構狭いな。1cm程度だが揃っておらず広いところと狭いところがあるのは、タイルの大きさに誤差があるからだろう。
本業タイルでなくマジョリカタイルが、お風呂場の床にみっしり敷かれているのはあまりないな。。。


それにマジョリカタイルでもあまり見かけない模様だ。緑色のレリーフタイルは、以前兵庫県立考古博物館で見たものと同じ。
珉平焼の流れを汲む淡陶社製だな。白地の方は多分これまで見た覚えがないが、普通に考えると同じ淡陶製だと思うが・・・


こちらの白いタイルはチューブライニングで色分けしている。唐草っぽい部分はグレーか薄い水色かと思ったが、
表面を拭いてみると鮮やかな色が現れた!!




よく観察すると、緑色のレリーフタイルは結構ゆがんでいる。辺の中央部が端より凹んでいて、個別のタイルの寸法の
違いも目で見て分かるほどだ。これはいかにも粘土らしいゆがみ方で、粉末をプレスして作る乾式のタイルだと
こんなゆがみはできないはず。


一方白地のチューブライニングタイルは、辺がまっすぐきれいな正方形。個々のタイルも寸法が152mmで揃っている。
これは和製マジョリカタイルの一般的な寸法だが、緑色の方は152~155mmと誤差がある上に少し大きい。
淡陶で乾式製法の技術が確立したのは1908(明治41)年ということなので、この建物が建てられた明治末期は
ちょうど湿式と乾式のタイルが入れ替わる頃でぎりぎり並行して造られている時期だ。面白いなぁ!


置き型の浴槽の下にも4枚貼られていた。肥料袋で隠れている部分は実際どうか分からないが(苦笑)タイルは全部で
120枚以上あると見られる。数の少ない湿式マジョリカタイルがこれほど大量に貼られているとは本当に貴重だな!

ちなみに隣にあるトイレは板張りだった。

ところでここには本業タイルもある。通常公開されていない場所だが、見せて頂くことができた。
瀬戸の8寸角の銅板転写本業敷瓦。大型で迫力がある!現在は物置になっていてぎっしりとモノが詰まっているが、
こちらもお風呂場で、おそらく家人用だったと思われる。


モノの下敷きになっていて見えないが、タイル友の会メンバーによると奥の方には違う柄もあるという。


60年間空き家だったこの建物が地域の人々の手でこんなにきれいによみがえり、センス良く飾られ、お客が次々と訪れている。
交流拠点として、お店やイベントを機に人々が出会いさらに新たな活動が生まれているようで、本当に素晴らしいなぁ!
尚、いろいろ建物について尋ねたかったのだが、この建築について詳しく分かる方は今日来られていないとかで、
厨房のスタッフの方も忙しそうだったのであまり聞けなかったのはちょっと残念。。。

続く
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淡河宿本陣跡(村上家邸宅) 座敷

2020-03-22 14:23:43 | 建物・まちなみ
3月の淡河の続き。

建物内に入って部屋を見ていこう。土間に面した3部屋のうちいちばん表側の部屋は玄関の間だったのだろう。
外から見たときに締め切られていた式台のある玄関は、この写真でおひなさまの左側にあたる。神棚が正面となる。


透かし彫りされた松の木がクラゲみたいでかわいい(笑)


土間に面したあと2部屋は茶の間だったような感じ。根太天井であまり装飾はない。
現在こたつが置いてあるからそう思うのかもしれないが(苦笑)


建具の桟は表側のみ丁寧に面取りされている。


中庭に面した2間続きの座敷は「北座敷」である。建具は一部漆塗りの板戸であったり、こ~んな背の高い鴨居だったりと、
やっぱり少し風格を持たせた造り。


・・・しかし欄間がないじゃないの。溝はあるので元々ははまっていたはず。


8畳間なのでこじんまりした床の間。床柱はきれいに磨かれた絞り丸太が使われている。


書院は出窓状になっておらず壁とツライチの平書院だが、組子は稲妻型の桟をひし形に組んだもので美しい~




しかし、、、その横の襖の引き手部分は何だか無残なことに・・・金物だけなくなっているのだが、どうしたんだろう。


ここだけではない。通常引き手金物がはまっている他の建具もすべて同じような状態なのだ。
もう長いこと、この穴に手を突っ込んで開け閉めしているような感じ。建物を買い取ったときからこの状態だったのだろうか。。。
あまりに痛々しいので、復刻品でもいいからつけてあげたいなぁ。。。建具も傷んでしまう(汗)


玄関の間のおひなさまの後ろの襖を開けたら南座敷が現れた!!おぉ~~広い。


こちらは表の庭に面した10畳×2間の続き間。南向きな上に2方向に窓があるので明るい。
正面に見える書院の欄間がインパクトある!


違い棚の筆返しは黒柿?


これは何の形?板をくり抜いた断面の部分は漆が塗られている。


そしてこの中にも格子が入っているのだが、遠目で見たときから何かちょっとチラチラしているなと思っていたら、、、
桟がところどころこんな形をしているのだ。これは下の障子の桟も同じ。
よく見ると、細く割って削いだ竹を皮を外々にして貼り合わせてあるようだ。う~~む!味があるなぁ。


南座敷から濡れ縁でつながった西座敷へ行ってみよう。北座敷と南座敷は1912(明治45)年築。
この先の西座敷はそれよりも古く、江戸中期に建てられた部分だという。当初の建物の座敷だけ残して
一部を明治に建て直し増床したということだろうな。


さっきの書院の裏側も抜かりない!西座敷からの視線を意識して、金粉を散らしたようなこんな華やかな仕上げに。


そして、西座敷。江戸時代というからあっさりシンプルなのかと思いきや・・・輪違いデザインの欄間がモダン!


この輪違いは、枠も含めて一枚の板から切り出してある。


書院も、アシンメトリーな山なみのシルエットが素敵じゃないの~~




この部屋も、北、南座敷同様、引き手や釘隠しがことごとくなくなっていたことだけ、本当にかわいそう。。。(涙)


続く
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淡河宿本陣跡(村上家邸宅)

2020-03-18 23:37:39 | 建物・まちなみ
どこかへ行こうと思いながら決めかねているうちに日本でもコロナウィルスの影響が大きくなってきた3月初めの週末。
近場で出かけることにして、三ノ宮バスターミナルから約40分、淡河(おうご)にやって来た。
三ノ宮発着のバスは1日に3往復。始発の9時のバスに乗って、トンネルを抜けたらいきなり風景がガラッと変わり
「神戸市」という地名が信じがたい山間に突入(笑)。都心と田舎がこんなに近いまちも珍しいだろう。

着いたらまだ10時前。少し待ってめあての淡河宿本陣跡に入る。
淡河は豊臣秀吉によって湯乃山街道の宿場町として整備され、商業地としても繁栄したまち。
この建物は、参勤交代の大名や貴人が宿泊する「本陣」として指定された村上家の邸宅であった。


村上家は淡河のまちなみを整備し大庄屋も務めた。また寺子屋を経営するなど教育の面での貢献も大きく
淡河の発展の中心にあった家である。
ここが主玄関か。


センスを感じるしつらい。




入口を入ると土間がずっと奥まで続く。その通り土間に面して3部屋が並んでいる。
建物は、江戸中期に建てられた西座敷、1912(明治45)年築の南座敷・北座敷、土蔵、茶室、納屋などからなる。


60年以上も空き家であったこの建物を地域交流・情報発信の拠点とすべく、2016年から淡河宿本陣跡保存会の
方々が中心となり、少しずつ整備を進めさまざまな取り組みを始めておられる。
カフェやショップがあるほか、レンタルスペースとしても使える。そして見学のみでもOKだ。




通り土間の奥にある納屋は、現在は開放的な多目的スペースとなっていて、置かれたピアノや薪ストーブが
温かいだんらんの空間づくりにひと役買っている。


そこから外へ出ると、主屋と納屋と土蔵と茶室とにぐるりと囲まれた心地よい中庭。見る庭でなく、ここで
いろいろ広げて作業できる実用の庭だ。
この縁側、いいなぁ!






蔵の横から裏の駐車場へ抜ける。


外から見てみるとこの蔵の立派なこと!!この地域の蔵に特徴的な、花弁状の装飾がついた小さな丸窓が、側面に5つも!


そして・・・おや、この毛むくじゃらの建物は何だ!?


中へ戻って見に行こう。
それは蔵の奥に建つ小さなお社だった。戎神社らしいが・・・屋根だけでなく壁まで茅葺きとは!
屋根と壁が自然につながった美しいフォルム。壁の表面に現れた茅の茎は完璧に平らに刈り上げられ、タワシみたい。
これはこのあたりの伝統的な様式なのだろうか?しかしこんな風変わりなの見たことないなぁ。


珍しくて舐めるように眺め回す(笑)


あとでお茶を飲みながら、ここのことが掲載された雑誌をパラパラ見ていたら、茅葺き職人集団「くさかんむり」の
棟梁を務める相良さんという方が、オランダやドイツで学んできた「最先端」の茅葺きを、日本の様式とリミックス
して表現した最初の作品だとわかった。表面的な奇抜さだけでなく、長年の修行と経験で培われた確かな技術を
ベースに、土地の個性と向き合い新しい茅葺きの形の模索した、そして茅葺きへの愛が詰まった作品である。


そう言えば、入口を入ったところにあった扇形のカウンター、変わったテクスチャーだなと思っていたら、
あれも茅(もしくは藁?)で出来ていたんだな!

中庭に突き出した離れの棟は茶室とそれに付随する便所・風呂場である。小さく簡素な建物なのにこんな立派な
鴟尾がついているのが何だか不釣合い。


土壁の足元をふさいだ木の板には、通気のためだろうか、こんな穴が。。。いろいろ面白いなぁ。


茶室を回り込んでみると横の庭には堀があるのだが、船が乗り入れていたんじゃないかと思うほど、深くて幅広い。


さらに回りこむと正面の庭の方へつながり水路は細く浅くなっていた。


続く
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お正月に御所を歩く。

2020-03-17 22:50:05 | 建物・まちなみ
今年のお正月のこと(今ごろ・・・)、実家の家族との恒例の散歩は御所(ごせ)のまちを歩くことに。
さすがに家から歩くのは遠いので車で御所駅の近くまで行く。


御所のまちは、商業が中心の西御所と、寺内町の東御所とのふたつのまちが川を挟んでつながった形。
昔歩いたときはごく断片的にしか見ていなかったが、まちなみはあんまり変わっていない印象だな。


御所まちの代表的な近代建築、旧石川歯科医院は変わらず。ほっ。




環濠集落の名残の環濠。16世紀半ば頃にまちが成立し、関ヶ原の合戦後に集落内の道路や背割り下水が整備
されたが、現在もほぼそのままの姿で残っている。


江戸時代の商都として栄えた御所のまち。立派な町家が並ぶ。


道路がクランクになった場所は高札場があったところ。江戸時代には幕府の重要な法令などを掲示することが
義務付けられ、木の板に文字を書いた高札が掲示された。これは2008(平成20)年に復元された高札場。




衝波除は沖縄などにある石敢當と同じような意味をもつもの。


おっ、素敵なたばこ屋タイルがあったな!前にも見た記憶が・・・


この不整形のショーケースがおしゃれだね!かわいいふっくらタイルの市松貼りに、赤系のマーブルタイルで縁取り。


タバコ屋のショーケースのタイルはかわいいモザイクタイル貼りが多いが、遠くからでも目立つように
派手なタイルにするというのは納得できるな!


こちらの油長酒造では、葛城山の伏流水を使って風の森というお酒を造っている。
立派な杉玉は毎年作り変えているのだろう、まだ青みを残していた。


ひときわ古い本瓦葺の町家。妻入りは御所のまちで唯一なのだとか。


まちなかに現れたかわいい近代建築、旧御所郵便局。寄棟造の屋根や蔵造りに隅石風の装飾など、一見して
明治建築っぽい印象。ただし外壁は改修されているので貼り石は新しく、元がどうだったのかは不明。


入口ひさしのピナクルには郵便マークが。


数人+1匹で歩いていると、中井家住宅のご主人が声をかけて下さり、登録有形文化財の町家に招き入れて下さった。
入口を入ると広い土間のスペースがありそこに面して店の間がつく。近世町家なので特に凝った意匠はない。
中井家は江戸時代に町庄屋を務めた家で、役所にも保存されていない貴重な公文書を大量に保管されている。
それらの一部を見せていただき、途中からは郷土史研究家のお父様も出てこられて。御所のまちについての
詳しいお話を興味深く聞いた。


さっきの高札場にあったのはレプリカだったが、本物がこれなんだとか!明治になって高札場が廃止されたときに
後生大事にとっておいたらしい。長年風雨にさらされた高札は、墨書きの文字の部分を残して痩せていた。


中井家で長居したあとさらに東へ歩き、東御所を抜けて吉祥草寺まで行ってから、引き返す。






道端の車除けに青石、赤石が並んでいる。これも吉野川の緑泥片岩と紅簾石片岩だな。


うだつ。


鬼に馬乗りになってどつく金太郎!?
御所のまちの瓦は、市内の柏原という場所で焼かれたものだという。


レトロな看板が目を惹くモリソン万年筆カフェ&バー。
モリソン万年筆は、昭和中期に関西で2割のシェアがあった国産万年筆のブランドで、ここが本店だったようだ。
万年筆は1970年に生産終了。カフェでも利用できるということで入りたかったが・・・犬連れだし今回はパス。
大きな町家の内部もとても気になる・・・


これも環濠。


元お風呂屋の建物。もう長らくこのままのようだ。隣の建物と腰張りタイルが同じっぽいので、同じ家なのかな?


ぐるっと回って戻ってきた。レトロなタイルもちょこちょこあったし、楽しいお正月のまち歩きだったな!


この2週間後に、友人たちと下市のつるべすし弥助でランチ&まち歩きをしたときに、下市のまちから
ここ御所を再訪、そして大和高田とハシゴしたのだった。いずれも駅から近いのでこのはしごコースはおすすめ!

完。
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旧森山家住宅2

2020-03-15 21:53:26 | 建物・まちなみ
2月の鹿児島の続き。

旧森山家住宅のきれいな田の字型配置の和室。これも欄間と言うのか・・・座敷と次の間との境にある透かし窓。


松竹梅ながデザインされている。


そして・・・次の間から見ると、何と、こちらは赤い壁!!雰囲気が全く違うなぁ!!
商談などに使う公の空間としての、客間と座敷は深緑色の壁、プライベート空間としての居間と次の間は赤色の壁、

明確に分けられているとか。


座敷の床の間が次の間側に出っ張っており、こんなところに丸窓が・・・変わってる~~


次の間と居間の境の欄間はこちら。


きんちゃく型の釘隠し。


居間と客間の間の欄間。各部屋の間はいずれも全く雰囲気の違う欄間で面白いな。



尚、離れの四畳半とお風呂などは改修済みで生活感のある空間だった。

玄関脇にある、お庭へ至る門は瓦葺の屋根がついているが、大胆にねじれた変わった材が使われている。




座敷から見えていたお庭だ。ほんの小さな庭園だが、立体的に組まれた石の間に立派な枝ぶりの松やツツジが生え
水のない池の縁には灯籠が配されている、石は元からその場所にあったかのように苔むし、シダ類が取り付く。
そして中央に鎮座するのは田の神。南九州で見られる民間信仰である。


大きなソテツが南国の庭園の風格をかもし出す。古木は、これが育ってきた数百年の年月を想像することによって
お庭に時間的奥行が加わる。



作業場は保護とは言え一見プレハブみたいでちょっとイマイチな外観だけど、内部は古い柱や梁が露出した
作業場らしい空間で、鋳造の資料や森山家についての展示があった。


柱や梁は見るからに後から追加したものもあるが、古いものは手斧の跡が見られたり、転用材が多い。
切り欠きがあちこちに入り強度的に大丈夫かと思ってしまうが、、、


ところでこの作業場に使われている材は、鹿児島市の磯にあった第1期集成館の部材を移築したものではないかと
いう話があるそうだ。


集成館第1期事業で建てた建物は1863(文久3)年の薩英戦争で焼けてしまい、現在磯にあるのは第2期事業で
建てられた1865(慶応元)年竣工のもの。
焼ける前になのか、建て替える時に焼け残った材を譲り受けたのか、、、もしそれが本当なら、
第1期集古館の忘れ形見として大変貴重な資料である。
まぁ、そもそも本当なのかはまだわからないらしいが・・・DNA鑑定とか、調べる方法はないのだろうか?


蔵は、基壇部が石積みでその上に木造の架構を載せてある。この凝灰岩は南隅(大隅半島南部)で見た
ピンク色の荒平石とは違い、加治木石と呼ばれる少し黄色っぽい凝灰岩。


繊細なデザインの持ち送り。このような建築金物は自家製と言われている。 蔵の中には資料が展示されていたが、
撮影禁止だった。


姶良市では、森山家住宅の西側に道路を通す計画があり、隣接地が道路予定地として更地になったため発掘調査が
できることになった。現駐車場部分の調査時には炉跡や集成館鋳物場跡と同じ形の石組みが発見されている。
森山家の工場は隣接地まで広がっていたと考えられており、新たな発見が期待されている。作業場の部材の謎も
解けるといいな!

さて空港近くまで戻り、安楽温泉鶴乃湯にちゃぽん!九州温泉道八十八湯のスタンプはこの旅唯一。
八十八湯の鹿児島県内の温泉はほぼ行きつくしてしまったので、あまり増えない(笑)
近くに素晴らしい温泉があって帰りがけにちゃぽんと入ることができる鹿児島空港は大好きだな!!
最後まで楽しい旅だった~

おわり。
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旧森山家住宅1

2020-03-14 23:53:08 | 建物・まちなみ
2月の鹿児島の続き。


鹿屋から戻りしなに田中家別邸を再度訪問してじっくり見学したあと、姶良市の旧森山家住宅にやってきた。
ここはまだ限定公開で、見学には事前の連絡が必要。役所の人が時間に合わせて来てくれるので基本平日となる。
今回は月曜に休みを取っての2泊3日なので最終日の見学はちょうどよかったな。
場所がとても分かりにくくてぐるぐる迷ったが、、、


森山家は江戸時代から明治にかけて鋳物業を営んできた家で屋号を鍋屋といった。
「加治木鍋屋元祖」森山伊助の三人息子がそれぞれ鋳物業を継ぎ、屋号は「山一」「山二」「山三」とした。
森山家は薩摩藩の事業にも深く関わっており、奄美の黒糖生産用の釜や機械類を作ったり、集成館事業の大砲鋳造や
「加治木銭」の鋳造を請け負ったりしたようだ。
この家は次男の家であり、土蔵の屋根の上に山二のマーク入の瓦が見られる。


敷地内に主屋、蔵、作業場の3つの建物が残っており、元は現在駐車場になっている場所や隣地まで工場があったとか。
鋳造業はもう昔にやめておられたが、数年前までご当主がお住まいだった。姶良市では譲渡された建物の一般公開に
向けて調査や整備を進めているところだという。→姶良市のサイト

ただしこの立派な薬医門は、実は古いものではなく、高名な医者だった祖先をリスペクトして2000(平成12)年に
作られたものだそう。


塀の内側を見ると凝灰岩積みであり、これは元からあったもののように思われる。


さて、主屋へ・・・入口の引戸が2つあるのは風変わりだな。


左側の戸から入ると中は土間だが、その右側に一段上がったところに玄関らしい玄関が造られている。


玄関は土間からも上がれるし、右側の引き戸を引けば外から直接入ることもできるが、20cm程度の段がある。
元は土間と玄関の間に壁があって別々になっていたのだろうか?それとも右側の戸は後付けなのか?


玄関の床がモザイクタイル貼りなのは、近年までお住まいであったので改修されていたのだな。
富士山をあしらった格子窓があり、上がり框の上で閉められるようにガラス入りの戸がついている。




田の字配置の部屋は建具が開け放たれていた。
おぉ、凝った欄間があるな。壁は深緑色の落ち着いた色で、木部も濃いあめ色。




庭に面した奥座敷がまたいい。


廊下との境の欄間の格子が細かい!!


うわぁ~~見事だな!


庭に面した縁側の軒を支える幅の広い桁。その下は、無双窓?


そして、床脇と一体になったような書院が面白いな。それが床の間とL字型に配置されている。
天袋は台形、書院の側面にも格子が入っている。




続く。
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児島醸造石蔵と二階堂家住宅

2020-03-11 23:53:49 | 建物・まちなみ
2月の鹿児島の続き。

轟の滝とあわせて児島醸造石蔵も見に行ってきた。
ほとんど全体が凝灰岩でできていると言えるような大隅半島。石蔵や塀はあちこちで目にするが、
この石蔵は観光スポットとして紹介されているだけにひときわ立派だった。


児島醸造有限会社の醤油などの製品を販売している「石蔵直売所」なのだが、時間が早かったからか、
定休日だったのか店は閉まっていた。


「東串良産業組合第四農業倉庫」と刻まれている。元は農業倉庫だったのか。




ふと見ると駐車場の横の広場にこの車輪が置かれていた。おや、もしかしてここは廃線跡か?
そう思って見るとやたら広々した空間がずっと続いているのは駅のヤードだったのではないか・・・きっとそうだ。
かつて農産物を鉄道で運ぶために駅前に農業倉庫が建てられたのだな。鉄道がなくなり、蔵がポツリと残った。。。


轟の滝から鹿屋港へ戻る途中に、肝付町の中心部から少し外れたところに建つ二階堂家住宅にも立ち寄る。


ふたつの小さな寄棟造をつなぎ合わせたような形をした美しい茅葺き民家。左側が「なかえ」、右側が「おもて」と呼ばれる。
「おもて」は1810(文化7)年ごろに建てられたものと言われており、重要文化財に指定されている。


二階堂家というのは藤原氏南家の流れの家系で、天正年間(16世紀)に島津義久公から拝領したこの地に
今も子孫の方が住まわれているとか。もっとも、現在の住居はこの茅葺きの家ではなく横に建っている住宅の方である。
茅葺き民家は1987(昭和62)年に敷地内で移転し向きを変える工事が行われ、現在は一般公開されている。

ちょんまげみたいな茅の束で頂部を押さえてあるのがこの地方の茅葺きの特徴かな。


雑然としていて少し前まで誰か住んでいたような気配さえ残る土間の台所。
こんな石の流し台があるのが南隅地方らしく感じる。


内部は意外と広い!外部との仕切りは障子一枚で開放的。南国鹿児島なら冬でもこれで過ごせたのだろうか。




昼寝に最適な縁側。座布団を持って来たくなる(笑)


周囲の山を見事に借景したお庭。


現役住宅の入口の門も茅葺きだった。棟の押さえも同じ。


道路から門を見る。立派な石組みの外構とともに風格を醸し出しているな!


ところでさっきの石蔵もここの外構もグレーの凝灰岩であるが、鹿屋港から海沿いに南へ下っていくと
きれいなピンク色の石が目につくようになる。車で走っていても立派なピンク色の蔵や塀が現れ目を奪われるのだが、
とっさのことで車を停める場所もなく写真を撮れていない。。。この写真は信号待ちのときに窓から撮った
土留め壁であんまり鮮やかな色でない(苦笑)
検索してみるとこれは阿多火砕流の溶結凝灰岩で、「荒平石」と呼ばれる石らしい。火山のある所では同じような
ピンク色の石をちょくちょく見かける。鹿児島県の市比野温泉でも見事なピンク色の石蔵を見たし、熊本の馬門石
溶結凝灰岩だ。函館でもピンクの凝灰岩を見たな。あぁ自然の神秘。


続く。
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旧田中家別邸 洗面所など

2020-03-08 15:26:12 | 建物・まちなみ
2月の鹿児島の続き。

だんだん地味になって来たが(苦笑)・・・もう少し続けよう。
ちょっと面白いスペースがある。それは台所の板の間からつながっていて、唐突に現れる洗面所。
まず建物内での配置が見慣れない。だいたい水場は離れになっていたり建物の端っこ、そうでなければ中庭に面した
場所などに配されていることが多いが建物の中央部にあるのでちょっと意外だし、同じ場所でも廊下側から
使う配置なら何となくしっくりくるのだが、ここは廊下に背を向けた配置なのだ。


玄関の床と同じ人研ぎの重厚な洗面台は洋風な感じ。足元に赤色の丸があしらわれているのは、
日の丸をイメージしているのだろうか!?(笑)


脇の袖壁は数寄屋風に節のある木材が使われていたり丸い窓がくり抜かれていたりする。
この丸が正円でも楕円でもなく、細い方を下にした卵型みたいな形で面白いな!


洗面所には二畳の小部屋がついている。


小さい空間だが網代天井や床の間など凝って作られている。


この部屋も竹が多用されていて、地袋の戸や床の間の天井の縁など細かいところに竹が使われこだわりが見られる。


炉も切ってないし開放的だし茶室でもなさそうなのだが、、、ん、それともあの洗面所が水屋代わりとか!?


関西を拠点に事業を展開していた田中省三氏、この家を建てるにあたり特殊資材はすべて阪神方面から運び込み、
技師や職人も招請したとか。


福山の山並みを借景とした庭園は1300坪あり、南国らしい明るい雰囲気。


石庭には数々の灯籠が配されている。田中氏は灯籠コレクターだったのかと思うほど、いろんなスタイルの灯籠が集められている。
自然石を積んだようなものから、中国風で細密な彫刻を施したものまで。また巨大なものから足元にうずくまるようなものまで。


お庭には桜やツツジが植えられ、春にはオキナグサがたくさん咲くとのことで、花の名所にもなっているらしい。
2月のこのときは梅が咲きかけていた。別の季節に来たらまたその時々の景色を楽しめるだろうな!


玄関脇にも下り龍の灯籠が鎮座。
その後ろはあの洋間の窓の外側。分かって見れば内部が洋間かなという気もするけど、最初に見た時は全く分からなかった。。


ところでこの窓の前に植わっていたキンモクセイの木に実がなっているのを見つけた。キンモクセイって実がなるのか!?
見たことないぞ。おばちゃんに尋ねたところ、これはメスの木で、毎年実がなって落ちた実から芽がニョキニョキ生えてくるとか。
小枝を1本折ってくれた。
植物に詳しい母親はこんなの知ってるかな!?写真をラインで送ってあげたところ、やっぱり珍しいらしく食いついてきた!!(笑)
「どこで見た!?」「お願い、押し花にしておいて!」「その枝を着払いで送って!」
植物を見るために国内外あちこち出かけている母親も見たことなかったらしく、後日その枝を博物館にも送ったとか。
だから鹿児島行くの誘ってあげたのに~~。日が合わなかったのだが、とても残念がっていた(笑)


いろいろ充実した旧田中家別邸。初日の夕方だけではもちろん見切れなかったので、3日目の午後にも立ち寄って
存分に楽しんだのだった。※写真は二度の訪問時のものを合わせています。
2回目来た時にはちょうど庭木の剪定業者が入っていて、高所作業車でワッサワッサと枝を切り落としていた。
キンモクセイも丸刈りに・・・(爆)

建物は保存してもなかなか庭の手入れまで予算が回らない施設も多い中、、、こんな大掛かりな剪定も、ずいぶん費用が
かかるだろうに・・・それだけ田中省三氏の功績が今も語り継がれ郷土の誇りとして大切にされているのだろう。
入場料も無料、グッズや飲食の販売もなく、お金を落とすところがないのがちょっと申し訳ないほど、素晴らしい施設だった。

初日の夕方に思わぬ素敵な寄り道をしてしまった。


鹿屋に向けて大隅半島を南下しているとちょくちょく打ち捨てられた構造物や空虚な草むらに気づく。
これは国分から鹿屋を経由して志布志までつないでいた国鉄大隅線の廃線跡だな。1987(昭和62)年に廃止されて
もう33年経つが、都心部と違いさっさと取り壊して再開発するでもなく、自然に朽ちて行くのを待っているかのよう。
この旅の間に廃線跡や鹿屋の駅跡なども見に行ってみようか。。


続く。
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旧田中家別邸 居住部分

2020-03-07 23:36:00 | 建物・まちなみ
2月の鹿児島の続き。


これまで見て来た古い民家はたいがいどこでも、客人用の玄関の他に家人用の通用口が別にひとつかふたつあったのと同様、
旧田中家別邸にも入口がもうひとつある。通用口を入ると土間で、その奥に台所が続く。


台所の一角の板の間から上へ上がる階段が。台所は吹き抜けだが土間の上に2階スペースがあるらしい。
ただし、ここは立入禁止。


何かとてもモダンな階段。後付けだろうか?


土間の横手からは畳の和室に上がることができ、さらに庭側の続き間の座敷へとつながる。


8畳の次の間と10.5畳の座敷。


奥座敷にあたるこの部屋は主人の部屋だったのだろうか、どういう使われ方をしていたのかは不明だが、、、
ここもよく見ると凝った意匠が見られる。


まずはこの欄間。大柄でインパクトがあるな!


あっ、ここにも田中家の家紋である三つ扇が!特注品なのか。


そして床の間の横の書院風の格子窓。これの向こうは玄関の間。


ギザギザの模様は松葉をあらわしているという。そして丸は扇ではなく、丸に十の「田中」マークだそう。えっ、ほんと!?


床脇。


違い棚の海老束は中国家具のようだな。


落としがけに使われているシボのある材、時々見かけるのだが、、、これは紫檀だっけ??


これらの居住部分は、洋間や大広間とひとつづきの棟であるものの、両空間の間は壁で仕切られ、庭に面した廊下(縁側)でつながっているのみ。
プライベート空間と接客空間が完全に分離されているのだ。




廊下の壁のつぼ型の装飾は、福山の地が黒酢の産地であることから、黒酢を仕込む壷をモチーフにしたものだそう。


このドアから洋間へつながる。次の間との間の引き戸と同じデザインのドア。


この装飾は桜島をモチーフにしたものと説明があったが、、桜島の火口はこんな細くないなぁ。どちらか言えば冨士山みたい??


この廊下を反対方向へ行くと蔵へ続いている。天井は杉板を編んだ網代。


蔵の手前にはトイレがあるが、このあたりは後年の増築か改築のように思われる。






続く。
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