まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

旧田中家別邸 大広間

2020-03-06 22:56:05 | 建物・まちなみ
2月の鹿児島の続き。


旧田中家別邸は洋間だけでなく和館も素晴らしかった。
洋間からつながった和室は「次の間」で、四方が建具に囲まれている。


しかし12.5畳と広い!部屋は雁行配置になっているので、全ての部屋が角部屋で明るいのだ。


そしてそこから続き間になっている、大広間がこちら。真っ先に目に飛び込んでくるのがこの欄間!!
すでに傾いた太陽が透かし彫りされた鳳凰のシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた!!


上下に二羽の鳳凰が向かい合う。この大広間を格式高く演出しているな!


うわぁ、広い!天井が高く欄間も幅が広い。細かい装飾的な格子の欄間が次の間から連続し、さらに廊下の
ガラス戸の格子も見えるので、もう目がチカチカする~~(笑)




大広間は16.5畳に3畳の高座のような床の間と1間半の床脇がつく。


部屋のスケールに合わせた巨大な床の間。


冒頭の写真はこの書院の欄間の組子なのだが、これがまた精緻でため息が出るほど美しい。。。
組子は誇るべき日本の伝統的面格子だ。見る角度によって違った模様に変化するのは立体的な組子の魅力。


ところで、この鳳凰の欄間の端の部分は「田中」を現しているとか。ええっほんとかな?
それなら欄間の格子も田中に見えてくるじゃないの(笑)


こちらもおばちゃんが説明してくれて始めて気づいたのだが、隅にひっそりと、三つ扇の家紋。田中家の家紋である。


この三つ扇は結構あちこちに散りばめられていて、引き手にもあしらわれていた。
しかしゴージャスな引き手だなぁ!


建物の東側には広い庭が広がっている。


廊下の垂木天井。


写真の枚数の関係上(苦笑)、ここで玄関に戻って紹介。式台があり4畳の玄関の間がつく。


玄関の土間はなんと人研ぎだった。これは改修時にやり直したのだろうか?不明だが・・・
赤色の帯をぐるりと回しているのがおしゃれだね!


天井はこんな格天井で、端には換気口も空けられている。





玄関の間から続く4畳半の部屋も小さいながらしゃれている。ちゃんと床の間があって、
落としがけには粉を吹いたような竹が使われている。このあたりで竹が採れたので多用されているという。


床脇との間の袖壁の見付の部分にも竹が貼られている。しなやかさを生かした美しい曲線!


床脇の天井の網代は竹ではなく薄い杉板のようだったが、床の間の方の天井は細い丸竹で押さえられている。


そしてこんなところにも。漆塗り(と思う)床框の面取り部分に竹が!ここまでするか(笑)


続く。

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旧田中家別邸 洋間

2020-03-05 23:32:09 | 建物・まちなみ
先月、ピーチの午後便で鹿児島へ行って来た。


鹿児島には何回も行っているが大隅半島の方はほんの一部しか行っておらず、一度ゆっくり回ってみたいと
思っていた。今回は建築めぐりではなく、滝をめぐったり温泉に浸かってのんびりしようと。
空港からレンタカーで出発したが、宿泊地の鹿屋まではナビによると2時間半ほどかかるらしい。結構あるな(汗)
飛行機の出発が少し遅れた分到着も遅れたので今日はもう寄り道は無理かな。。。高速を使えば早いが、せめて
海沿いのドライブを楽しみたい。もしいいペースで行ければ途中で温泉に立ち寄ろう。
霧島市の市街地を抜けるのに時間がかかり海沿いの道に出てきた頃にはもうかなり日は傾いていた。
しかし錦江湾に浮かぶ桜島が見えるとハイテンションに!山頂から少し煙を吐いている。また噴火してるのかな。

途中、黒酢の産地である福山という集落を通ったときに、チラッと見えた案内板。集落の中を指した矢印と、
「旧田中家別邸」の文字。んっ??マップにはこのあたり見どころは何も載っていなかったが・・・どんなもんかな。
もう4時半。日が暮れる前に宿に着きたいが・・・「別邸」というのが気になって引き返してみた。


細い道を入り込むと長い塀越しに立派な前栽が見える。うわ、これは結構立派なお屋敷だな。
時間が遅いので入館断られるかもしれないけどちょっと偵察に行ってみよう。
幸い門はまだ開いていたので急いでアプローチの坂を上り中へ。。。和風の邸宅だ。玄関の戸は閉まっていたが、
開けて入るるとまだお客が1人いるようなので、私も紛れて見せてもらおう。


・・・おおっ!?これは洋間じゃないか!!しかも、この天井、暖炉、窓・・・外観からは内部にこんな本格的な
洋間があるなんて想像もしていなかったので驚いたな!


奥には座敷があるようだ。


うわぁ、、、これはヤバイ、30分ぽっちで見切れるものではないな・・・とにかく急いで見よう。




窓はなるほど、和とも洋とも見えるデザイン。外から見ても分からないわけだな。


天井のレリーフがゴージャス!!


折上天井と言えそうなぐらい凹凸がある。


角には換気口が。


この建物はここ福山出身の実業家で衆議院議員にもなった田中省三が郷里に建てた別邸。海運業を中心に保険、工業、
鉱山、銀行など多分野の事業を成功させ財をなした。彼は1918(大正7)年に私立福山中学校を創立し
教育振興にも貢献した。


大正8年9月と書かれた棟札が見つかっている。この建物は田中家の手を離れた後1970(昭和45)年まで
結婚式場として使われていた。その後公民館、教育委員会の本部、そして最後は老人憩いの家となっていたとか。


部屋の角にある大理石の暖炉は本物のようだ。おばちゃんによると、今はないが煙突があったらしい。


化石入りの灰色の大理石で色の違う石が象嵌されているのは、田中家の屋号を表すマーク。




座敷との間の引き戸の半間手前に垂れ壁を設けてちょっとした緩衝空間としている。


垂れ壁を支える持ち送り(?)も、彫刻に加え、色の違う材をはめ込んであったり、とても凝っている。



あぁ、座敷の方も見なければ。

続く。
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旧舘家住宅その他

2020-03-03 22:56:55 | 建物・まちなみ
2019年10月に行った亀山宿の旧舘家住宅の続き。

通り土間に面して4部屋が2列に並ぶ間取り。玄関に近い2部屋だけ床が15cmほど低いのは、ここが商売の
スペースで、プライベート空間と分ける意味という。


いちばん玄関に近い板の間の後列にある部屋から蔵に直結している。商売をしていたときには客の求めに応じて
奥から商品を取り出しては広げて見せていたのだろうか。


この細長い2階建ての蔵は、元からあった蔵からつなげて増床したものらしい。今は冬用の建具などが収納されていた。


仏間の一見物入れのような戸をあけると、中に階段があった。日本の古民家の例に漏れずめちゃくちゃ急な階段!
公開施設となっている現在は、表の部屋に安全な階段が造られているが、もとはこの階段だけだったという。


約1間で2階へ至る急勾配、しかも曲がり階段。危ない危ない(汗)
日本の民家で2階は古くはつし2階という中途半端なスペースで、物置や下男下女の部屋などあまり重要でない
用途に使われてきたから、階段というものが発達しなかったのだろうと想像する。


ところで階段の前の天井の一部が障子になっていた。明かり取りなのだろうとは思ったが、、、この上は
思わぬ構造になっていたのだった。。。


12.5畳の座敷。明治初期の建物らしく華やかな意匠はあまりみられず、端正な印象。
現在は部屋を借りることもできるので借り切って宴会もできるな!


奥の部屋の建具には古い帳簿の紙が貼られていた。裏向けとは言え、人名や金額などが分かるようなものを
裏張りでなくそのまま見せて使っているとは・・・遊び心なのだろうか(苦笑)


釘隠しや引き手は少し意匠の入ったものが使われていた。






裏庭に面した縁側。



さて、新しく造られた安全な階段を上ると、十分な天井高のあるスペースだ。
このライトアップされた土壁がなんとも味わいがある。今はここでアートの展示などを行ったりもするそうで、
なるほど作品が映えそうだ。しかしもともとこの場所は居室ではなくこの壁も単に部屋の裏側だったのだろう。


その裏側には、ちょっと驚くほど上質な続き間の座敷があった。通り側に廊下もある。
特別な人だけを招くための座敷だったのだとか。襖には絵画でなく、春夏秋冬をモチーフとした漢詩が書かれている。
すごくしっとり落ち着いて親密な雰囲気。


襖や壁紙もオリジナルのままと言うことで、正直言ってキレイに改修済みの1階座敷よりも素晴らしい!


さっきの仏間からの階段を見下ろす。・・・しかし、その上に斜めに張り出した部分があるな。もしかして
さらに上へ上る階段があるのだろうか??


それで裏へ回ってみると・・・おや、さっきの土壁のスペースに、斜めに出っ張った板囲いがあるじゃないの。
こちらから見るとまた、この部分に階段でもあるのかと思ってしまうが・・・実は、これは明かり取りの筒だった!
この下が仏間の天井であり、おそらく蔵に面した主屋の妻壁に開口があると思われる。雨が入らず明かりを取る
ためにどういう開口になっているのか、ガラスがはまっているのか?気になるが、外からは見えなかった。


雨も止んだ。裏庭は広く、飛び石の先にもうひとつ独立した茶室が建っていた。


そこもチラッと見せてもらう。内部はすさ入りの黄色っぽい土壁の2畳の小さな空間。主屋に附属の茶室よりも
さらにわびさび感が強い茶室だった。暗すぎてブレブレの写真しかなく・・・




主屋のトイレは実用のために改修済みだったが、庭の片隅には塀に組み込まれた形の外便所もあった。面白いな!
茶室用のトイレだろう。


そこにはこんな便器があった。


あぁ、お風呂のタイルは貴重で素晴らしかったし、建物全体も結構楽しめたな!
結局係の方につきっきりで案内してもらって2時間近く滞在した。雨の中訪れただけの価値のある建物だった。
あんまり知られていない気がするが、是非見に行ってみて!
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鍋茶屋の大広間たち

2020-02-22 21:46:49 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

鍋茶屋ランチ後の建物見学。十九番の間の真上にも大広間がある。美しい欄干がめぐった2階の廊下。


ここからさっきの応接室の2階部分、3階部分がよく見えた。あっ、3階には丸窓があるんだな。


おや、あれはステンドグラスじゃないの!?和室にステンドグラスとは!!丸窓でなく丸いデザインのようだ。
中から見たらどんなだろう~~。どんなお部屋なんだろう~~~。あそこは見せてもらえないか尋ねてみたがNGと・・・


拡大してみたら文字が見える。「宴」の字?


1階よりも明るく開放的な「二十番の間」。両側のお庭に面して広い廊下が取られている。




涼しげな夏用の建具。美しい玉杢の板が使われている。


良材が使われているも、全体的に意匠は少なめで床の間もあっさりしているな。


天袋に描かれたツバメの絵が生き生きとして素晴らしい。


こちらには巣と愛らしい赤ちゃんツバメも!微笑ましい~~


引き手もちょっと変わった形。何をかたどっているのだろうか・・・




こちらは建物の模型。ジオラマ作家の山本日出男という方の作らしく、細部まで超リアル!
この方模型界の有名人のようだ。鍋茶屋全体を上から俯瞰できるので、よくわかる。




こちらは「白菊の間」と名づけられた2間続きの広間。


ここの天井は少し大きな格間の吹き寄せ格天井。そして周囲よりも中央部が高くなっている折上げ天井なのだが
その折り上がり方がとても緩やか。




2間とも同じ天井!!折上げの段差が小さいのでここの天井は比較的カジュアルな印象を受けるな。


2間の境の欄間には、部屋名になっている白菊がたくさん散りばめられている。花の中央の穴が大きすぎるなぁ・・・と
思ったら、なんと建築当初はここに刀の「ツバ」がはめ込まれていたのだとか。何と!!




そして最後にやってきたのは、向かい側の棟の3階にある二百畳敷大広間。ここの折上げ格天井はよくある形。


ここは続き間でなく大きな大きなワンルーム。絨毯敷きにテーブルが置かれウェディング仕様!?
その名の通り二百畳(畳193枚+床の間7枚)あり、木造でこの規模の大広間は他にないそうだ。


雪輪や雪の結晶モチーフがちりばめられた球形のペンダント照明は、当初からのものなのだとか。
割れずによく保っているものだ。


壁のブラケット照明も同じデザインだった。雪国新潟らしい模様で素敵だなぁ!!


それほど古いものではないと思うが、窯変の美しい小便器。


あぁ、この素晴らしい建物を維持してもらうためには、これらの大広間が埋まるほどの宴会が毎週入って
ほしいな。。
かなり奮発したランチだったけど、おいしかったし建物もゆっくり案内していただいてじっくり見ることが
できたので値打ちがあった!満足満足~~~

続く
コメント (2)
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鍋茶屋 応接室

2020-02-21 23:31:54 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

鍋茶屋ランチのあと仲居さんに案内していただいての館内見学、最大の見どころはやっぱりこの応接室!!
部屋に踏み込むとまず驚くのが、濃い陰影を作っている天井いちめんの漆喰レリーフ!うわぁ!ゴージャス!!
円弧と直線のみでできた四葉の連続模様。


全体的に和風の建物の中に一部だけ洋風でつくられたこの応接室は、ヨーロッパを外遊した3代目がイタリアから
職人を連れてきて、材料もイタリアから持ち込んで造ったという。1932(昭和7)年完成。


カーテンボックス付きの窓に厚みのある織物のカーテンがかかることで、本格的な洋室らしさが増しているな。
右手には、三連アーチの並ぶ窓。何か細かい模様が・・・


重厚な木製の窓枠にはまっているのは、ステンドグラスだ!


おぉ!私の好きな色合い。水色にオレンジ色のアクセントが映える。ぷっくりとした小さな丸も、キラキラ宝石の
ようできれいだなぁ!!


ひとつひとつ手作りで作られたと見える金物も素敵。


左手奥には大理石のマントルピースが見える。ピンク色の大理石は確かにイタリア産にある色だな。


近寄ってみると、細かい模様が彫られている。葉っぱのように見える部分もあるが、何の模様なのか全く分からず。


これは暖炉ではなくストーブ置き場だったのだろう、内側はタイルが貼られ、煙突はない。


大理石の部分の上は両側に円柱が立っていて、その基部にもまたよく分からない模様が彫られている。


やわらかな光に浮かび上がる、織物の陰影。


インテリアにテキスタイル、ファブリックの果たす役割は大きいのだ。




独特の意匠が見られるキャビネット。


このパターンは部屋のあちこちに繰り返されていることに気づく。壁の腰板、ドア、他の調度品・・・・
そしてマントルピース上の円柱の模様もこのパターンが含まれているな。




この洋室の応接室の毛深さというか濃厚さというか、日本人っぽくない感じがする。。。イタリアの職人を
連れて来て造ったというのが何となく納得がいく。


そしてこの部屋の外壁は・・・中世の古城を思わせるこんな石積み風。あのステンドグラスのはまった
三連アーチの窓が見える。石は積まれているのではなく貼られているのだが、キーストン風の意匠など
おしゃれだな。


しかし、ここから上を仰ぎ見た時にこの建物の面白さを感じる。
ここの2階は完全な和室なのだ!しかも欄干の回ったベランダ付きの和室が丸々、石積み風の応接室の上に
「ポン」と載っているのだ!


そしてさらに驚いたことに、まだその上にも和室が載っている!!なんと3階建てだったのだ!
1階が洋室、2階、3階が和室。


石貼りの応接室の向かいにある「十四番の間」は、大火のあと1910(明治43)年に再建された当初の建物。
突飛な意匠などは見られず、落ち着いた大広間である。




欄間はよく見ると、かわいらしいコウモリがひらひらと(笑)


青々と茂る木々。間取り図がないのでどっち向いているのかさっぱり分からないが(苦笑)
手前にはカエデの木もあり、秋には紅葉、冬には雪景色と季節ごとの表情を楽しめるだろう。


廊下から池の上に張り出して設けられた涼み台。
夏の夜、酔ってしまったらちょっと外へ出てここで涼しい風に当たる・・・あぁ風流だねぇ~~虫がいなければ(汗)


続く
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鍋茶屋へ!

2020-02-19 23:23:13 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。


木揚場教会から急いで戻ってきて、いよいよこの旅の最大の目的、古町の老舗料亭鍋茶屋の
ランチに!!三度目の新潟で、まさに三度目の正直。ここの入口はアーケードの商店街でなく
細い「鍋茶屋通り」に面しているのだが、向かいの区画の1軒分が専用のアプローチとして
使われ商店街からここを通って直接アクセスすることができる。参道のようで面白いな!


鍋茶屋は江戸末期の1846(弘化3)年に創業というから、170年以上の歴史を重ねた
老舗料亭である。
新潟の花街、古町は、いわゆる遊廓でなく芸妓が活動する料亭街で、戦災を免れたため
戦前の建物が残り歴史ある料亭も多い。今も細い路地が入り組んで魅力的な一角だ。
その中で鍋茶屋はもちろん最大規模であり、仰ぎ見る木造三階建の佇まいはそのまま格式の
高さを体現しているようで小市民には近寄り難いが。。。どうにか見てみたいと思っていた。


建物がコの字形に玄関を取り囲んでおり、内部は全くうかがい知れない秘密の花園(笑)。
前2回は恐る恐る門から少し踏み込むのがせいぜいだった憧れの鍋茶屋に今日は堂々と入れるのだ!

食事をしないと見学できず、しかも隣接する鍋茶屋光琳という少しリーズナブルな食事処の
利用ではダメで、本館で予約しないといけない。
ランチでもコースは1万1千円~、お弁当で6千3百円(2019年夏当時)というお値段
なので、小市民の私にはなかなかハードルが高く、1人では全く入る勇気がないが・・・
今回は覚悟を決めて、いちばんお手頃なお弁当を(笑)。セレブな友人と一緒なので心強い。


現在の建物は、1908(明治41)年の大火のあと1910(明治43)年に再建された
もので、1938(昭和13)年にも増築されている。




玄関を入るとうやうやしく迎えられ、案内されたお部屋は坪庭に面した続き間の座敷。


小さなお庭を望む、静かな1階の2間続きのお部屋。下げられた御簾が何とも涼しげ。
合計21畳もあり、8人用のテーブルに2人という贅沢。


お料理が出て来るまでの時間もじっと座っていられない私たち(笑)
派手な意匠はないが黒柿の太い床柱、天然の(!?)虫食い板の欄間など、さりげなく面白い材、
稀少な材が使われている。


扇形の天袋は時々見かけるが、これは四半円でなく四半楕円のようだ・・・
うまく開けられるのだろうか。もちろん触ってはいない。


お料理は、先付、お吸物、お刺身が一品ずつサーブされたあと、四角い箱におさめられた
焼き物や煮物を頂く。上質な食材と確かな技術をじっくり味わう。
最後にフレッシュフルーツにジュレの載ったデザートまで出てきて、量も申し分なく、
さすがに上品でおいしかった。あぁ、満足!


普段ひもじい食生活をしているので(単にズボラしてるだけだが汗)、日本人としては
たまにはこういう手の込んだ上質な和食の味を舌に覚えさせないといけないなぁ。(苦笑)


食事のあと、お楽しみの館内見学に。。。1階の応接室の手前の廊下にいきなり
ステンドグラスのはまった丸窓が!


龍宮城・・・ではないが、海草の間を魚たちが泳ぐ海底の風景を、魚眼レンズの望遠鏡で
覗いているようだ。美しい青の濃淡が、水中から水面を見上げたときの明るさをリアルに
表現しているなぁ!小さなあぶくも。




トイレのドアにもステンドグラスが。


今も使われているトイレで、内部には古い結晶釉のタイルが貼られていた。




ここの応接室は本当にすごいので、次回にまとめて紹介することにし、先にこちらを・・・
この部屋は待合所かな、談話室か、喫煙室かも。聞き逃し(苦笑)。
洋風の部屋で、六角形の照明が素敵。




こちらにもステンドグラスがあった。衝立にはめ込まれているが、もとは別の場所にあった
ものと想像する。


青海波に六角形の枡のような和風な模様。この六角形は鍋茶屋の印にもなっているもので
(六角の中に「鍋」の文字)、初代がすっぽん鍋料理を始めたことに由来する。
天井の照明もこの六角モチーフが使われているのだな。


有名なステンドグラス工房の作品だと思うが・・・確かめられていない。





鍋茶屋の公式サイト→こちら

続く
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木揚場教会

2020-02-17 22:39:42 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

北方文化博物館(豪農の館/旧伊藤文吉邸)から戻ってきた。1時で予約の鍋茶屋のランチまで少し時間があるので
木揚場教会を見に行こう。


縦長窓が並ぶ洋風な外観で、入口のひさしを支える細い円柱とその奥に見える入口上の半円形の窓が気になるが、
ペタッとした壁の二階建ての建物は古いのか新しいのかよく分からない感じ。。。


近づいてみると、円柱の柱頭はカクカクのイオニア式っぽいデザイン。入口まわりは石造風の意匠が見える。
人がいたので、見学させてもらえるかと声をかけたら快く入れて頂けた。


一歩内部に足を踏み入れてびっくり!!洋館もどきの外観と、教会という名からキリスト教会だと思っていたら、仏教の教会!?
板の間に畳が並べられているが、天井は格天井でなく板が貼られたフラットな天井。照明の中心飾りの跡も見える。
部屋の中央に立つ4本の円柱は社寺建築に特徴的な虹梁(?)を支えているが、柱、梁ともにペンキで白く塗られ
お寺なのか洋館なのか・・・ほんとに風変わりな建物だな。。


振り返ると半円形の窓。


しかし奥の一段上がった内陣には扉がついていて、仏壇のようなところにご本尊が鎮座していた。


見上げると壁の一部がこんな漆喰レリーフだった。唐草のレリーフは完全に洋風のデザインだが、なんかたどたどしい感じが残る。




足元を見ると、段差の部分が真鍮(?)張りになっていて、青海波の模様と花菱の模様が彫られていた。


肖像画が掲げられていたこの人こそ、この木揚場教会の創立者、坂井若利氏。
京都の東本願寺の御影堂と阿弥陀堂の両堂は1864(元治元)年に起こった禁門の変で焼失してしまったため、
明治初期に再建が進められ、日本海側を中心に全国32の港町に、用材を集積し京都へ運搬する業務を行う拠点となる
「木揚場」が設けられた。新潟港木揚場は1881(明治14)年に開場したが、その土地と建物を寄付し、
木揚場の運営に尽力したのが廻船問屋を営む坂井若利であった。


木揚場は東本願寺直轄の「説教場」としても機能した。銅銭を鋳直した阿弥陀如来立像が本尊として据えられ、徐々に
寺院らしく整えられたのだとか。
当初の建物は残念ながら1908(明治41)年の新潟大火で焼失、現在の建物は1926(大正15)年に完成した、
前半分が洋風、後ろ半分が和風という、独特なスタイルの建物である。
・・・とか説明しながら実は、私は後ろの和風部分を見損ねているのだ(汗)。ついつい長居してしまい、急いでランチに
向かったので振り返って見なかった。。。WEB上の写真を見ると、寺院らしい入母屋の大屋根に箱型の洋館が
ドッキングした本当にユニークな外観だった。あぁしまったな。。


招き入れて下さった女性がいろいろ説明下さり、当時の日誌なども見せて頂いた。明治十七年七月 第五号、などと
書かれた帳簿が大切に保管されている。


「献木之証印」「木揚場」などの焼印も見せて頂く。京都へ送る木材に焼き付けたのだな。とても貴重な資料。


堂内の片隅に2階へ上がる階段があった。


途中必ず頭を打つような造りになっているので(笑)、途中で改変されたのかも知れない。


おそらく元は直線で急勾配すぎる階段だったのだろう。


おぉ~~っ!道場として造られた2階は室内に柱が一本もない大空間。ダンスホールみたいだな!!
外から見ても中にこんな広い空間があるとは思えなかったな!床を少しかさ上げしたといい、そのせいで若干天井が低く感じる。


風変わりな建物や、貴重な資料を拝見しながら聞く木揚場の話など興味深く、ちょっと覗くだけのつもりだったのに
ゆっくりしてしまった。ありがとうございました!

続く
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新潟邸宅三昧 北方文化博物館(豪農の館)再訪

2020-02-11 18:16:42 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

さて最終日の朝からやってきたのは北方文化博物館(豪農の館)。旧伊藤文吉邸。ここに来るのは2回目。
このお城のようなスケールの大きいアプローチにはやっぱり圧倒される!


笹川邸は祝日明けが定休と気づいて訪問順序を急遽入替えたのだったが、ここは年中無休なのでありがたい。
前回は夕方もう閉館まであまり時間がなく館内をゆっくり見れなかったので、今回はじっくり見たい!
気合を入れて朝早く出発して、オープン前には受付のところでスタンバイ。9時より若干前に入れていただいた。


伊藤家は初代が分家独立してから代々文吉を襲名してきた。この建物は、伊藤家が地主として急速に蓄積を伸ばしてきた
明治中期の1890(明治23)年に完成している。
門をくぐってからストライプの敷石に沿って歩くと木々の間から主屋が姿を現す、アプローチもまた印象的だな!


まず入口の門土蔵や前庭に建つ蔵などを見てウォーミングアップ。私は基本、メインディッシュは後に残しておく人である(笑)
いきなりメインディッシュを食べてしまうとその他がショボく感じてしまうので。。。


深い軒の下に隠れるようななまこ壁の蔵。2階のせりだしもすごいな!名の書いていない蔵ですらこの美しさ。




常夜燈。庭の木も、何百年も前からそこに生きてきた巨木である。


こちら、入母屋型式で寺院を思わせる主屋の大玄関。ケヤキの一枚板の式台など最も格式の高い形式。


さてそろそろ主屋に入ろう。


式台のある小さな玄関は通常のお客様用だな。しましまの壁がクール!


特徴的な黄色っぽい土壁が建物の奥へと誘う。


廊下のように建物のまわりにぐるっと続く細長い土間。そこに面した手洗いは戸袋を改造したものとか。


外から見るとなるほど戸袋だ。こういう場所に手洗い場が作られているのをよく見かけるが、みな戸袋だったのか。
戸袋の改造というのは一般的だったのかな。


新潟の邸宅ではおなじみ、雨戸を立てれば室内になる土間と縁側。通り土間とも違い、建物の回りをぐるりと回っていて
土足でどこでも行けて便利!


中へ上がろう。


前も見たけどこのタイル貼りの独立流し台はとても近代的!部屋側へ大きく持ち出して作業性がよさそうだ。




大玄関を室内側から。ここは迎賓や冠婚葬祭のときにのみに使用されたとか。


美しく保たれたお庭は庭師の方の日々のお手入れの賜物。これだけのお庭の維持には莫大な費用がかかるだろうな。。。


枯山水の中庭に面した大広間の縁側。




大広間の床の間。


すべてが上質で凝っている。細かいところまでひとつひとつ見ていくといくら時間があっても足りない(汗)




とても細かい目の筬欄間の周囲に梅の花の透かし彫り。


前回訪れたときの記事。→こちら
だいたい同じようなところを見ているな(苦笑)

続く
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白根のまちをちょろっとうろつく。

2020-02-03 23:40:24 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

笹川邸のある白根というまちは、鉄道駅から遠く離れているが中心部に洋風建築の銀行が建っていたり商店街が長く延び
途切れ途切れだけど特徴的な妻入りのまちなみが見える。結構栄えていた場所のようだな。笹団子を買い食いしつつ
ちょっと歩いてみよう(笑)

まちのランドマーク、北越銀行白根支店。白根町役場として1934(昭和9)年に建てられたとか。


1階は石貼りだけど2~3階は真っ白に塗られたコンクリート面?正面の凸形の壁が立ち上がっていてケーキみたい!


アーケードに隠れがちの入口部分は、扁平アーチかと思いきやホームベース型の五角形。


2段に入り込んでいて、深いモールディングが施されている。


高崎ハムの看板、上下がしばられているのはソーセージをかたどっているのか!と、よく見たら・・・


「ハム」の文字もソーセージになってるじゃないの!?カワイイ~~


三泉、の屋号入りの銅板に覆われた看板建築。




こんな建物もあった。




中長書店。


妻入りの町家が並ぶまちなみ。






友人がチェックしていた旧白根配水塔へ向かうが姿は見えてもなかなか近寄れず、ぐるぐる・・・細い道へ入り込んで
ようやくたどり着けた。。。
1931(昭和6)年にまちの3割を焼き尽くした白根大火を機に1933(昭和8)年に竣工した上水道施設。


灯台みたいだな。100立米の貯水槽が載っているとか。首周りにロンバルディアバンドっぽい装飾が。


続く
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新潟邸宅三昧 旧笹川家住宅2

2020-01-31 23:30:33 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

笹川邸はめちゃ広かった。。。


三の間の真裏にあたる、家老の間。この天井の高さからすると10畳は狭く感じる。
シンプルな床の間と宙に浮いたような床脇の天袋。しかし・・・これも天袋というのかな?
上にくっついているのが天袋、下にあるのが地袋。これは・・・中袋??


そこに描かれた南天の絵は有名な絵師によるものだろうか。なかなか素晴らしい。冒頭の写真はここの引き手。


ちんくぐりには面白い形をした木(の根?)のスライスが使われている。


その隣は広間の奥にあたる御用帳場。庄屋の事務所部分である。


ここまでが「表座敷(役宅)」の部分で、いろりの間の横から渡り廊下で「居室部」に繋がっている。
居室部が建ったのは1821年、表座敷が1826年。表座敷よりも若干古いのは、火事の後に生活空間の再建を
優先したということなのだろう。ちなみにその前に三戸前口土蔵が1820年に建っている。※これらは上棟年らしい。


廊下の壁に掛けられていたのは鉄砲ではなく「獨龍水」と呼ばれる消火器。水鉄砲のようなものらしい。
元の建物が火災で焼けたことを教訓に常に手に取れるところに準備したのだろうな。


これはお風呂と洗面所。木造ながら近代的な香り。




ここは茶の間。神棚や各地のお札を貼り付けたボードなどもあって、真ん中には小さな囲炉裏。いかにも「茶の間」
という雰囲気だ。


松の木のデザインの自在鉤がおしゃれだな!


こちら「七畳の間」と呼ばれる部屋。文字通り畳7枚分の広さの部屋で1畳分が床の間となっている。
床の間の横には書院風の窓があり、小さいながら凝った造りになっていて面白い部屋だ。




屋内に縁側と土間が回る造りは新潟ではよく見かける。雪国に共通だろうか。


サンルームのような南廊下。




居室部の2つの居間と次の間、そして奥座敷の配置は、表座敷の広間・三の間・次の間と上段の間と共通している。
3部屋が一列に並び、折れて1部屋が繋がるL字型の配置。
こちらの奥座敷がいちばん格式の高い部屋だと思われるが、表座敷の上段の間とは違い華美さはない。


廊下との間に(これもちんくぐり?)ガラス、それもケシガラスがはまっているのが珍しいな!


どこかの部屋の襖の廊下側の面だったと思う。なんてカワイイの!!


廊下の片隅にあった手洗い。


主屋に対し微妙に傾いた角度で取り付いている勝手(台所)。


姥部屋の横の階段を上った2階部分。


奥土蔵につながる廊下。


奥土蔵の重厚な扉。土蔵の前には深いひさしが差し掛かり雪よけの垂れ壁が軒高の半分ぐらいを覆っているので
前室のようなスペースである。


蔵はここの他に、三戸前口土蔵、米蔵、飯米蔵、雑庫、と計5つの蔵が敷地内に建ち並び、壮観な風景だ。
ガランとした蔵もあったが民具などを展示している蔵もあった。


見上げると2階の部屋が張り出す形で載っている。おや、ここは何だ?
平面図を見ると、新奥と呼ばれる部分だ。1階奥には仏間や茶室もあるようで面白そうなのだが
非公開とは残念だな。。。


近世に建てられた邸宅だが、ちょくちょく増改築されたと見え面白い造作もあったりして、楽しめたな!!
閉館時間も近づいてきたのでそろそろ終わりにしよう。結局2時間近くいた。広くてさすがに疲れた・・・(苦笑)


続く
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新潟邸宅三昧 旧笹川家住宅

2020-01-29 23:54:38 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

椿寿荘のあと北方文化博物館を再訪する予定だったが、旧笹川家住宅が祝日明けの火曜日が定休と気づき急遽差し替え。
笹川家は、安土桃山時代にこの地に移り住んでから14代300年以上も続いた名家で、江戸時代には代々大庄屋を務めた。
大庄屋制は徳川封建下の制度であり、地方郷士が大庄屋に任命され、村々の庄屋の統括、年貢の収納、命令の伝達を行い、
治安警察・裁判権を与えられた。笹川家は味方組8ヶ村、計8千石をとりまとめ、新田開発を進め、地域の発展を主導した。


笹川家の住宅であったこの建物は、笹川氏がこの地を離れた1970(昭和45)年に村が買い上げ、村の管理となった。
茅葺き屋根のついた表門は天正年間(1573~1591)年の築造と推定、母屋は1819(文政2)年の火災で
全焼したあとに再建されたものという。


門をくぐると、3つある母屋の玄関に向かって、通路がまっすぐ伸びている。
表側から見るとそれほど大きくは見えないのだが・・・実はすごく奥行があって広大な建物なのだ!
表門と建物、塀は重要文化財に指定されている。




右端の入口から入った吹き抜けの土間は通り抜けておらず行き止まっていて、下男部屋や石敷きの洗い場(?)
などが附属する。


下男部屋。


土間に面して板張りの寄付、寄付きの間、囲炉裏の間が並ぶ造りは渡邉邸と似て、完全に農家のイメージ。


大きいだけで大作りなのかなという印象を受けたのだが・・・寄付の間から繋がる広間、三の間、次の間、
と順に見ていくとその印象は覆される。


こちらは28畳敷きの広間。帳場や住居部分への廊下にもつながり、建物内の結節点となるメインホールである。


めちゃくちゃ天井が高い!4mぐらいあるだろうか。梁も太い!!庄屋たちの集まりに使われていたとか。


そして主玄関から上がった正面の三の間。床の間の内側、襖に派手な壁紙が貼られているのも渡邉邸と似ている。
しかしこちらの方がひときわインパクトが強いな!


爽やかな青色で遠目には星がきらめくようにも見えるこの壁紙は、近づいて見ると四角を組み合わせた柄で、
さらによく見ると細かい卍型の地模様が浮き出ている。ブルーは落ち着いたスモーキーブルー。
とてもクールでモダンに見えるこの模様は、実は「米」の文字をデザイン化したものなのだとか!ええっ本当に?
庄屋だけに!?(笑)。そのセンス、好き~~~


型板が残っていたらしく、復刻された唐紙も使われていた。


主玄関と三の間との間には踏み込みの間を兼ねた1間分の畳廊下があるが、格式高い欄間となっている。


こちら次の間(二の間)。ここで続き間はL字型に折れ、この奥に上段の間がある。


次の間の欄間も「米」デザイン。


上段の間との間の欄間は瓢箪型をくり抜いた面白いデザイン。瓢箪は水の入れ物であり、米と水というこの地域に
大切なものを主題としているのだという。なるほど。




畳廊下は主玄関から上段の間の先の上湯殿までぐるっと回っている。


上段の間の壁紙は大人しいものだが、よく見ると2羽の鶴がデザインされた「二羽鶴」の柄。




この二羽鶴は釘隠しにも使われている。


床脇の天袋の襖の引き手にも!


書院の欄間が面白いな。細い竹で作られた格子が、月を象って丸くくり抜かれている。


湯殿の隣の男性用小便所。


続く
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新潟邸宅三昧 椿寿荘(旧田巻邸)

2020-01-27 23:00:17 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

東桂苑を出て新潟方面へ1時間ほど車を走らせ、椿寿荘にやってきた。
予定ではこの近くの店でランチをする予定だったのだが、何と休み。ショック!!代わりになる店も見当たらないので、仕方なく昼抜きで
椿寿荘の見学をすることに。。。(空腹)


道路に面した門を入って右に折れると、立派な薬医門が見えた。
この薬医門は敷地内の別の場所にあった本宅の内門を移築したもので、1778(安永7)年に造られたと言う。
外から見ると手前の売店を兼ねた事務所の建物に隠れているので内側にこんな空間が広がっているとは想像もできなかったな。。。


かつて田上町には2軒の田巻姓の豪農があり、本田巻家と原田巻家と呼ばれていた。こちらの椿寿荘は、原田巻家の離れ座敷である。
原田巻家は幕末から昭和初期まで越後で5本の指に入る豪農で、最盛期には1300町歩を越える大地主だった。
椿寿荘は、第7代堅太郎氏が不況で苦しむ小作人に仕事を与えるために建築し、1918(大正7)年に完成。
小作人に仕事を与えるために屋敷などを建てたという話は、新潟で邸宅をめぐっているとき他でも聞いたような気がするな。。


そして薬医門をくぐると・・・うぉぉ~~!見るからに格式の高そうな玄関!!
日光東照宮と同じ「大名玄関造り」で、式台や腰板には樹齢800年超の会津ケヤキ材が使われている。
この建物は、代々加賀前田藩に仕えた名人の宮大工「越後の角平」の手によるもので、釘を一本も使わず3年半の年月を
かけて造り上げたという。「どれだけ時間がかかってもいいから、できるだけ豪華に」との要請を受け、15年ほどかけて
全国から銘木中の銘木を集められた。6割に木曽檜を使っているという。これが本宅でなく離れとは!!


玄関の天井は互い違いに組み合わさり、格間にも細かい格子が入っている「小組み入り格天井」。究極の格天井だな!


玄関を入ると、正面に置かれた衝立の猩々の舞の絵に迎えられる。これは八方にらみの絵で、どこから見ても自分の方を
睨んでいるように見えるというもの。ちょっと不気味・・・三富与一という画家によって描かれた。


ちょうどこの衝立の裏の部屋、脇の間に大きな仏壇が置かれていた。
これは新津の建築業者が原田巻家から譲り受けて自宅に安置していたものが、近年里帰りしたのだとか。
他の調度品が全く残っていない中で、よそに「疎開」していたことでかえって無事だったのだな!


幅がとても広く折戸式の扉がついている。6枚の扉板にはケヤキの玉杢板が使われている。


荒々しくダイナミックな彫刻。血走ったような龍の目に睨まれると身がすくみそう。


中の「宮殿」もすごい!ミニチュアサイズの木組みや緻密な彫刻。これを見るだけでも当時の田巻家の隆盛が偲ばれる。


三の間、二の間、上段の間、と連続する座敷は建具を取り払うと48畳敷きの大空間となる。


欄間の立体的な菊の透かし彫りも見事である。岩倉知正の作という。


上段の間は格天井。床の間の床框は輪島塗。


横長の長方形に切り取られた庭が緑色に光る。


庭は京都の庭師広瀬万次郎によるもので、禅を表現した京風の枯山水である。
紅葉の季節は特に素晴らしいのだとか。見てみたいなぁ~


露縁の深い庇を支える丸桁は直径30cm、長さ20mもの天然絞りの吉野杉。海路はるばる、信濃川を遡って運んだという。


この土縁にさえ、玄関と同じ樹齢800年のケヤキ材が使われている。


この厚み。


こじんまりと落ち着いた奥座敷。




水まわり。


トイレも漆塗り。


椿寿荘は迎賓館として使われていたが、戦後の農地改革に伴い国に物納された。その後国鉄の保養所となっていたが、
国鉄民営化を期に1987(昭和62)年に田上町が建物を買い取り、田上町指定文化財とした。


農地改革というのは、地主が所有する農地を小作人が耕作し小作料を納めるという地主制度を打破した政策であり、
小作人は搾取されることがなくなったが、地主にとっては残酷なものだな。。。何代にもわたって築いてきた財産を
いきなり手放さされ、一気に没落したという話をあちこちで聞く。そうして土地を離れざるを得なくなるのだ。
ちょっと気の毒な気がするな。。。しかし保養所時代にも建物が改変されることなく残ってよかった。


あぁ、ここでも新潟に蓄積された莫大な富の一端を見た。。。

続く
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新潟邸宅三昧 東桂苑(渡邉家御新宅)

2020-01-26 21:56:45 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

朝イチでたばこ屋のタイルを見たあと、渡邉邸のすぐ近くにある東桂苑へ行く。
公園のように開かれた敷地の中に、木々にまぎれて邸宅が建っている。


すでに9時をまわり開館して雨戸も開け放たれていた。
昨日の夕方渡邉邸のあとに外観だけ見て写真を撮っておいたのだが、雨戸が立てられていたし雨がちだったので暗く、
今日の青空の下では見違えるように建物が生き生きしている(写真は逆光だが・・・汗)。


お庭から座敷が見えていた。昨日外から見た印象では内部は割と簡素なのかなと思ったので、
さらっと見て次へ行こうと考えていたのだが、、、これはなかなか見ごたえがありそうだな!


苔もいきいき!!カワイイ~~


玄関の鬼瓦と懸魚。残念ながら見学者の入場はここからではなく、脇にある勝手口のような板戸の入口から(苦笑)


この建物は渡邉邸の分家として1905(明治38)年にこの地に建てられた。
分家だから本家よりも質素なのかというとそうではなく、本家は商売をしていたので仕事場や、たくさん抱えていた
従業員のための部屋などが建物の中で大きな割合を占めていたが、こちらは純粋な住宅であったので、全体的に
上質な材が使われ当時の建築技術の粋を集めた繊細な意匠が見られる。


左側のエリアは家族の部屋であったが、こちらも十分こだわりをもってつくられている。


主人の寝室であった8畳間のこの天井は単なる格天井ではない。碁盤を模したもので「碁天井」と呼ばれ、「星」まで
忠実に再現されている。初代の当主渡邉善俊氏が碁が趣味だったため、寝るときも碁を練ったのだという。何と面白い!!


説明板に書かれていた黒柿はこの落としがけのことだな。美しいストライプの模様は数百本に1本ぐらいのレアものだとか。


床框もストライプの入った変わった材が使われている。




こちらが接客用の座敷。さっきの正面玄関から上がった控えの間に続く12.5畳と13.5畳、そして畳縁も
併せると合計42畳か!商売はしていなかったとは言え、善俊氏は庄屋や12村合併後の関村の初代村長を務めた
名士なので、大勢の人を招いての振る舞いなどが行われたようだ。


座敷からお庭を見渡すアングルも計算されているな。


座敷の壁には岡山産のベンガラが使われ華やかな空間を演出。
落としがけの材は漆塗りを一部はがしてあるなど、細部にもこだわりが感じられる。


床の間の側面の透かし彫り。


分かりにくいが、・・・うずら?雷鳥か!?


引き手のデザインもいろいろ。


座敷の外側の濡れ縁の板は継ぎ目のない杉の一枚板が使われている。


2階はお客用の寝室であった。2間半の大きな床の間!木材は柾目のみが使われている贅沢な仕様だ。
宙に浮いたような違い棚。


ちんくぐりの透かし彫りは梅にウグイス・・・でなくホトトギスっぽいな!?


壁紙は当時のものが残る。シダの葉だろうか、上品で素敵な柄だ。


別の階段を上った2階にも客用寝室があった。20人ぐらいは余裕で泊まれただろう。雑魚寝なら30人ぐらいは(笑)


古い便器が残るトイレも特別に見せてもらった。


あちこちに使われているケシガラスはあまり見たことのない模様がちらほら。トイレは桜の模様。かわいい~!


1951(昭和26)年頃まで住まわれていた後は30年間も空き家のままだったという。1982(昭和57)年から
関川村の管理となり、修復工事を経て公園として整備された。村民からの公募により東桂苑という愛称がつけられ、
村指定文化財として大切にされている。
お部屋はイベントなどに使ったり、予約しておけば近隣の料理屋の仕出し弁当を取ることもできるという。いいね!

30分で見る予定だったのだが見どころが多く長居してしまった。次へ急ごう。。。

続く
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越後下関のまちなみ

2020-01-25 18:15:54 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

渡邉邸から川を渡ってすぐの高瀬温泉の宿は、どっぷり昭和な雰囲気と設備だったが料理は素晴らしく豪華だった!
関川村は少し内陸部だけど、新鮮な魚介類が港から届き、山の幸、村上牛、もちろん美味しいお米も!岩船と呼ばれるこの地域で
穫れるお米は新潟米よりも美味しいとか。そして山形に近く気候も似ているためフルーツの栽培も盛んだという。へぇ~!
デザートの赤肉メロンは濃厚でリッチな味わい。また温泉もよかった。熱いので加水しているが掛け流しで泉質がよく気持ちいい!
はぁ~リラ~ックス。。

渡邉邸が面する米沢街道には他にもお屋敷が並んでいて、近世のまちなみを髣髴とさせる。
但し、現役の住宅であるため一般公開はしていないので、通りを歩いて外観を楽しむのみ。
こちらは1789年築の津野邸。商号を湊屋といった。
大きな茅葺き屋根の民家で、通りに垂直方向の主屋の棟と、通りに平行な玄関部分の棟が組み合わさっている。
軒の中央一部が刈り込んだようになっているのは、ここにつし2階のような部屋があるので採光のためだと思われる。


軒先は茅の厚みをそのまま見せず下側を削ぐように揃えられているので、とてもすっきり軽やかな印象。


津野邸は新潟県の指定文化財となっている。


こちらは1765年築の佐藤邸。商号は小関屋。代々庄屋を務めた家で、「こせきやさま」と呼ばれていたようだ。
大きな茅葺き屋根が渡邉邸にも負けないほどの風格を醸す。長屋門のように道路に平行に伸びる棟に主屋の棟が垂直に接したT字型で、
2つの棟がかぶさるようにつながっているのが茅葺きならではのやわらかい造形である。


一部がはね上がっているのが何ともかわいらしい~~イカの耳かエイのひれのようだ(笑)


茅葺き屋根は20年に一度ぐらいは葺き替えしないといけないと聞く。どこでも材料である茅が手に入りにくくなっていると言うし
単純な形でなくこういう特殊な形ならなおさら高い技術が必要とされるだろう。
こちらでは東西南北、1面ずつ葺き替えをするのだとか。


出窓の持ち送りが面白い。雲形?


見ているときガレージが開いて車が出て行った。
こちらの佐藤邸は渡邉邸と同様国の重要文化財に指定されているが、今も住まわれている現役の民家であることはとても貴重だな!


こちらはこの通りではちょっと異質な、下見板張り、桟瓦葺の洋風建築、旧齋藤医院。1910年開院、1999年閉院。
こちらもすでに医院はされていないが、現役の住宅である。少しセットバックして建っているので近寄ることはできない。。


そして、ガレージはRC造だろうが、木造建築のような持ち送りとこんな模様が。。


さて、こちらは山形県の米沢と村上市の坂町を結ぶJR米坂線の越後下関駅。
駅舎の石の壁が素敵!中央の細かい石で表現されているのがたぶん荒川だ。
血のように鮮やかな赤玉という石が使われているのが新潟ならではでイイね!


赤玉が荒川沿岸の何かを表しているように思うのだが、、、不明。


意外にもここは有人駅だった。ホームの向こうには田んぼが青々と広がる。待合室に掲げられている時刻表を見ると
列車は1日6本。うーん、鉄道旅は厳しそうだな(苦笑)


駅前に1軒の商店があるのだが、実は私たちはここを見に来たのだ。


建物の中央部に張り出したのタバコ販売窓口、おそらく後から増設されたものと思われるが、その壁には「たばこ」の文字が!
既製品の文字入りタイルでなく、モザイクタイルで表現した味わいのある文字がいいね!
今はもう使っていないようで、ちょうどその前に置かれたプランターのゴーヤが元気につるを伸ばしていた。


薄い水色地に薄いピンクの文字で、遠目にはあまり文字が見えない。しかもゴーヤのスクリーンに隠れているから、
知っていなければ見過ごしていただろう。


ちょうどそこの奥様がおられてカウンターの内側も見せて頂いたのだが、何と、土間にタイル貼りの腰壁が続いていた!!
うわぁ~~、お風呂屋の番台みたい!!
素敵なタイルカウンターですね、と褒めたら、そう?よく分からんわ?と苦笑しながら、いろいろとおしゃべりして下さった。


1931(昭和6)年に米坂線が開通するというのでその前年に家を建てて移って来られ、運送会社を始められたそう。
国鉄が貨物輸送をやめたので今はもう細々とたばこを売っているのみだが、街道側に向いた荷物の取次窓口や、土間には大きな
ハカリなども残されていた。こちらも羽越水害のときには階段の3段目まで水に浸かったのだとか。

タイルにシールが貼ってあるのがほほえましいね~~

まちの昔の様子や雪国の暮らしなどいろいろお話を聞かせて頂いた。ありがとうございました!

時期の遅いアジサイ。

あぁ、日本の田舎にもこんな美しいまちなみがあるのだ。幾多の災害もくぐり抜けて今があるのはやはり人が住んでいるから。
古い建物を維持するのは本当に大変だろうが、国もバックアップして誇るべき日本の美しい景観を長く残してほしいなぁ~!




続く
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新潟邸宅三昧 渡邉邸2

2020-01-21 23:42:47 | 建物・まちなみ
2019年夏の新潟の続き。

豪農豪商大地主で、庄屋も務めた関川村の渡邉家。土間に面した剛健質実な業務空間に対して、庭園に面した
もてなし空間は豊かな意匠が見られる。
式台のある玄関の間には床の間があり、そこの壁や襖に貼られた唐紙は「入違雨龍」という大型の紋である。
よく見ると、小さな竜が2匹向かい合っている。カワイイ~~




その隣の二の間の壁紙。


松の苗木模様?こちらもかわいいな!


違い棚の海老束がやたら凝っている。中国家具のようだな。。ところどころこういうクドイ意匠が出てくる(笑)


建物のちょうど中央あたりにある仏間は窓がなく暗い。唐破風のついた風格のある仏壇が置かれていた。


2階へ。ここはお庭が一望できる特等席!


この部屋の襖絵がすごい!一面には波立つ海に枝を伸ばす松と沈みゆく太陽が描かれ、もう一面には水辺に遊ぶ鴨の群れと
新月が描かれている。




そしてその上の欄間は北斗七星!?いや、星が6つしかないから違うな。シンプルながら斬新!


書院の欄間にも鴨が。


違い棚の海老束はこんな軽やかなデザイン。


こちらは通りに面した部分の二階で、「金丸部屋」と呼ばれていた。明治時代に、金丸という集落から1日がかりで
やって来る出入り衆の控え部屋のような用途で使われていたらしい。手厚く迎えられていたことが伺える。


釘隠しはだいたい見つけることができたかな。


襖の引き手も各部屋ほとんど違うものが使われていた。


襖絵や書院の透かし彫り、格子などのディテールを見ていくと楽しい~


裏の座敷が喫茶「茶房本桂」となっていたので、あとでお茶しよう、と言っていたのに、やっぱり見どころがありすぎて
気づけばもうすぐ閉館時間じゃないの(汗)。。しかし喫茶スペースに入らないと奥の座敷を見学できないので
駆け込みでお茶する(苦笑)


お庭に面した明るい座敷に通される。こちらの座敷は本座敷に比べ少し新しそうだな。


菊垣模様の透かし彫りの欄間。


抹茶と、夏らしい涼しげな干菓子。家紋入りの漆塗りのお盆はつやつやとして上質であることが知れる。
あつらえの食器が棚の中に大量に残っていて、こうやって少しでも活用しているとか。

渡邉邸の四季のアルバムをめくりながらお茶を頂いて、閉館時間までゆっくり堪能することができた。
土蔵は見れなかったけど・・・

続く
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