シリーズ平成の「変」-政府と独立の朝廷か、宮内庁長官の「変」
12月14日より日本を公式訪問した中国の習近平国家副主席の天皇陛下御会見を巡り、羽毛田宮内庁長官が、政府の会見要請に対し公に批判を読み上げたことが波紋を広げている。
従来陛下との外国要人との会見は「1ヶ月前」の要請で行われて来たものであり、今回は特例であり「天皇陛下の政治利用」に当たるとして不快感を表明し、一部紙が政府の対応を問題視する報道をした。習副主席は胡主席に次ぐ中国ナンバー2の要人であり、次期主席の有力候補でもある。今回の訪日は公式なもので、鳩山首相との会談や会食などが行われており、中国側の要請で天皇との会見が要請されたものである。一度は宮内庁側より「1ヶ月前」ルールに基づき断られたが、首相の指示で平野官房長官より宮内庁長官に要請されたものと伝えられている。
相前後して12、13日の週末に民主党の小沢幹事長が新人議員を含む600名を超えるグループが“草の根交流”として訪中し、胡主席との会見がアレンジされたことから、背後に小沢幹事長の口添えがあったのではないかなどとの憶測がなが流された。同幹事長は、これを否定すると共に、陛下の行動は基本的には内閣の助言と承認に基づき行われるものであり、宮内庁長官がこれに反対を公言するのであれば辞表を出してから行うべきではないかと述べたとされている。
確かに、国・公賓など政府賓客と陛下との会見、拝謁の要否は基本的には政府が判断するものであり、宮内庁が独自の基準で行うべきものではない。宮内庁長官が陛下のご健康や公務のご負担を気遣う気持ちは尊重するところであるが、会見要請は首相の指示で官房長官が行ったものであり、宮内庁側とすればそれを陛下にお取次ぎするのが役割であろう。
折角陛下が謁見をご了承され、官邸に伝えたにもかかわらず、「天皇陛下の政治利用」などとして異議を公表したのでは、陛下のご判断に沿わないばかりか、外国よりの賓客に対して大変失礼なことであり、会見の意味が損なわれる恐れさえある。「変」である。
憲法上、天皇の「すべての国事行為」については内閣の助言と承認が必要とされている。しかし一部の学者や野党議員等は、外国要人との会見は、「国事行為」ではなく、“公的行為”であり、内閣の助言と承認を必要としないとし、宮内庁長官の政府批判を擁護する報道もある。
折角新政権が、小泉首相(当時)の靖国神社公式参拝問題で冷え切った日中関係を何とか改善しようとしており、習副主席の訪日は新政権初の中国からの公式訪問であるので、事態を沈静化させたい意向であるようだ。しかし事は単なる「1ヶ月前」ルールの問題ではなく、陛下の“公的行為”については、内閣の助言と承認を必要とせず、天皇、宮内庁が独自に決められるということになると穏やかではなくなる。宮内庁が、政府に相談もせず、外国賓客と会うか会わないかを含め、天皇の“公的行為”を決められることになり、政府とは独立性の強い“朝廷”に近い組織が誕生することにもなる。「変」である。冷静な議論が必要なようだ。
そもそも憲法上、天皇の“公的行為”については、「国事行為」として10項目規定されている行為以外は一切規定されていない。逆に、天皇は、定められている「国事行為」のみを行い、国政に関する権能は有しないと規定されており、天皇の行為については「国事行為」に限定されており、それにはすべて内閣の助言と承認が必要とされている。それでは、内閣の助言も承認も要しない天皇が行う“公的行為”とは一体何なのか。
天皇は、国政上の権能は持っていないが、国際儀礼上元首としての位置づけがされている。だから、元首級の国賓や行政府の長などの外国よりの公賓に対しては原則として天皇の会見や国賓については会食が含められる。陛下との会見がなければ賓客は侮辱されたと受け取るであろうし、訪日を中止することもあろう。他方、天皇が公式に外国訪問する場合、訪問国の元首との会見や会食が含められる。会食は兎も角として、元首との会見が含められなければ基本的には訪問自体が中止や延期となる。これは天皇が独自に決められる“公的行為”とは言えない。
宮内庁長官が、“国の大小を問わず、国際親善を増進すること”を大切にしたいとしており、すばらしいことである。しかしそれは宮内庁が勝手に判断できることなのであろうか。首相官邸から、大切な隣国よりの賓客に対し天皇との会見要請があっても、「1ヶ月前要請」のルールがあるので差別は出来ないとして門前払いするのであろうか。相手国は、天皇を儀礼上の元首の地位として見ているので、会わなければ非礼と受け取ることもある。もし宮内庁が、独自に“国の大小を問わず、国際親善を増進したい”と言うのであればそれはそれで良い。しかし儀礼上の元首の地位を返上すべきではないだろうか。
「1ヶ月前要請」のルールについても、宮内庁が独自に決めるべきものではなく、内閣と十分協議して了承を得ておく必要があろうし、賓客側の来日計画などの都合により例外的な配慮も必要となろう。内閣の助言と承認がある場合、宮内庁側はそれを陛下にお取次ぎすべきであり、内閣の判断に対し行政組織である宮内庁が異議を公にすべきではない。「変」である。
百歩譲って、陛下の負担軽減のため「1ヶ月前」ルールを守って欲しいとの気持ちがあったとしても、内々に伝えるべきであり、内閣の下にある宮内庁長官が公に内閣の行為を批判することは適切を欠いている。弁解の余地はなさそうだ。謝罪するか、内閣に不服があれば職を辞すべきであろう。内閣は、国民に選ばれた内閣であり、民意に基づく政府であることを忘れてはならない。宮内庁は、政府の一組織として民意を尊重し、内閣を支えなくてはならない。この点は、各省庁についても同様だ。
国会の開会式での陛下のお言葉にしても、一切変えてはならないとの野党側や保守陣営の意見はあるが、天皇陛下は統合の象徴であり、腫れ物のように扱うことは好ましくないのではなかろうか。国民が選んだ新政権の下での国会開会であれば、新たなお言葉が含まれても不思議はない。(12.09.)
(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
12月14日より日本を公式訪問した中国の習近平国家副主席の天皇陛下御会見を巡り、羽毛田宮内庁長官が、政府の会見要請に対し公に批判を読み上げたことが波紋を広げている。
従来陛下との外国要人との会見は「1ヶ月前」の要請で行われて来たものであり、今回は特例であり「天皇陛下の政治利用」に当たるとして不快感を表明し、一部紙が政府の対応を問題視する報道をした。習副主席は胡主席に次ぐ中国ナンバー2の要人であり、次期主席の有力候補でもある。今回の訪日は公式なもので、鳩山首相との会談や会食などが行われており、中国側の要請で天皇との会見が要請されたものである。一度は宮内庁側より「1ヶ月前」ルールに基づき断られたが、首相の指示で平野官房長官より宮内庁長官に要請されたものと伝えられている。
相前後して12、13日の週末に民主党の小沢幹事長が新人議員を含む600名を超えるグループが“草の根交流”として訪中し、胡主席との会見がアレンジされたことから、背後に小沢幹事長の口添えがあったのではないかなどとの憶測がなが流された。同幹事長は、これを否定すると共に、陛下の行動は基本的には内閣の助言と承認に基づき行われるものであり、宮内庁長官がこれに反対を公言するのであれば辞表を出してから行うべきではないかと述べたとされている。
確かに、国・公賓など政府賓客と陛下との会見、拝謁の要否は基本的には政府が判断するものであり、宮内庁が独自の基準で行うべきものではない。宮内庁長官が陛下のご健康や公務のご負担を気遣う気持ちは尊重するところであるが、会見要請は首相の指示で官房長官が行ったものであり、宮内庁側とすればそれを陛下にお取次ぎするのが役割であろう。
折角陛下が謁見をご了承され、官邸に伝えたにもかかわらず、「天皇陛下の政治利用」などとして異議を公表したのでは、陛下のご判断に沿わないばかりか、外国よりの賓客に対して大変失礼なことであり、会見の意味が損なわれる恐れさえある。「変」である。
憲法上、天皇の「すべての国事行為」については内閣の助言と承認が必要とされている。しかし一部の学者や野党議員等は、外国要人との会見は、「国事行為」ではなく、“公的行為”であり、内閣の助言と承認を必要としないとし、宮内庁長官の政府批判を擁護する報道もある。
折角新政権が、小泉首相(当時)の靖国神社公式参拝問題で冷え切った日中関係を何とか改善しようとしており、習副主席の訪日は新政権初の中国からの公式訪問であるので、事態を沈静化させたい意向であるようだ。しかし事は単なる「1ヶ月前」ルールの問題ではなく、陛下の“公的行為”については、内閣の助言と承認を必要とせず、天皇、宮内庁が独自に決められるということになると穏やかではなくなる。宮内庁が、政府に相談もせず、外国賓客と会うか会わないかを含め、天皇の“公的行為”を決められることになり、政府とは独立性の強い“朝廷”に近い組織が誕生することにもなる。「変」である。冷静な議論が必要なようだ。
そもそも憲法上、天皇の“公的行為”については、「国事行為」として10項目規定されている行為以外は一切規定されていない。逆に、天皇は、定められている「国事行為」のみを行い、国政に関する権能は有しないと規定されており、天皇の行為については「国事行為」に限定されており、それにはすべて内閣の助言と承認が必要とされている。それでは、内閣の助言も承認も要しない天皇が行う“公的行為”とは一体何なのか。
天皇は、国政上の権能は持っていないが、国際儀礼上元首としての位置づけがされている。だから、元首級の国賓や行政府の長などの外国よりの公賓に対しては原則として天皇の会見や国賓については会食が含められる。陛下との会見がなければ賓客は侮辱されたと受け取るであろうし、訪日を中止することもあろう。他方、天皇が公式に外国訪問する場合、訪問国の元首との会見や会食が含められる。会食は兎も角として、元首との会見が含められなければ基本的には訪問自体が中止や延期となる。これは天皇が独自に決められる“公的行為”とは言えない。
宮内庁長官が、“国の大小を問わず、国際親善を増進すること”を大切にしたいとしており、すばらしいことである。しかしそれは宮内庁が勝手に判断できることなのであろうか。首相官邸から、大切な隣国よりの賓客に対し天皇との会見要請があっても、「1ヶ月前要請」のルールがあるので差別は出来ないとして門前払いするのであろうか。相手国は、天皇を儀礼上の元首の地位として見ているので、会わなければ非礼と受け取ることもある。もし宮内庁が、独自に“国の大小を問わず、国際親善を増進したい”と言うのであればそれはそれで良い。しかし儀礼上の元首の地位を返上すべきではないだろうか。
「1ヶ月前要請」のルールについても、宮内庁が独自に決めるべきものではなく、内閣と十分協議して了承を得ておく必要があろうし、賓客側の来日計画などの都合により例外的な配慮も必要となろう。内閣の助言と承認がある場合、宮内庁側はそれを陛下にお取次ぎすべきであり、内閣の判断に対し行政組織である宮内庁が異議を公にすべきではない。「変」である。
百歩譲って、陛下の負担軽減のため「1ヶ月前」ルールを守って欲しいとの気持ちがあったとしても、内々に伝えるべきであり、内閣の下にある宮内庁長官が公に内閣の行為を批判することは適切を欠いている。弁解の余地はなさそうだ。謝罪するか、内閣に不服があれば職を辞すべきであろう。内閣は、国民に選ばれた内閣であり、民意に基づく政府であることを忘れてはならない。宮内庁は、政府の一組織として民意を尊重し、内閣を支えなくてはならない。この点は、各省庁についても同様だ。
国会の開会式での陛下のお言葉にしても、一切変えてはならないとの野党側や保守陣営の意見はあるが、天皇陛下は統合の象徴であり、腫れ物のように扱うことは好ましくないのではなかろうか。国民が選んだ新政権の下での国会開会であれば、新たなお言葉が含まれても不思議はない。(12.09.)
(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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