初期のゲシュタルト心理学者は仮現運動のひとつに「純粋運動」というのが有るとしていました。
これこそゲシュタルトの真骨頂ではないかと思っています。
ただ、この現象を作るのが大変難しく、残念ながら「これこそ」という体験がありません。
2つの光点を左右に「パッ・・・パッ」と提示して、どこで光ったかが分からず、ただ「フ━━ァ」と動きだけが見えれば好いのですが。
光点それぞれの持続時間と提示間隔をいろいろ変えるだけでは実現しません。
光点1つだけが「ピカッ」でなく「フラッ」と、どこにと言えず見えるような条件は作ることは出来ます。それを少しの間を置いて違う方向で続けて見えるようにすれば好いのですが、それが旨くいきません。
20世紀初頭の、精密だが単純な金工の実験装置に較べればパソコンで自由に実験条件を作れる筈なのに彼らが作ったという純粋運動は得られず、お手上げでした。
それを真骨頂だと云うのは、その着想によって「位置と時間の知覚が先ず出来て、それから運動の知覚が成立つと考えるのは間違いだ。先ず運動知覚があって、それから時間や位置の知覚が派生する」とするイデオロギーのようなものを心理学に齎したと思うからです。
それは1920年頃のことで、量子力学の不確定性原理の考え方と前後するようですが、互いにどう関連したかは知りません。
それから半世紀後、心理学では行動主義のイデオロギーが支配的になり、知覚研究に行動生態学の視点から意味づけが行われたりし、空間知覚の研究が盛んになりました。
その中心課題はなお運動視でした。
複雑な背景の中に隠れているものが僅かに動くとたちまち検出されることや、遠ざかって行くものと接近してくるものの運動印象の違いなどは捕食行動や天敵回避などの文脈で解釈することが好んで行われたのでした。
やがて、コンピュータで映像を制御する技術が進んだのですが、生態学的アプローチの延長上にアメリカなどにおける軍事研究や宇宙開発が重なったということの影響が大きいと言えるかも知れません。
そして今では日常生活の中の至るところにコンピュータを利用した映像の利用が拡がったのは見ての通りです。
静止画や動画の撮影・加工・再生を誰でも比較的容易に行えるようになったのは大変有難いことだと思います。
しかし、そうした技術の導入が安直になったためでしょうか、昨今の3Dテレビには感心しません。
多くは特殊なメガネをかけて画面を見ると映像が飛び出してくると云うものです。
生態論からすれば天敵が襲ってくる、という場面です。
当然、驚きの画面になるでしょうが、見ていて気持ち良いものである筈ありません。
早速「長時間見るのは止めましょう」とかの注意書きが付けられるようになった、とか。
眼鏡を掛けない方式なら良いというものでもありません。
映像に「両眼視差」のあるもの2つを作っておいて、それぞれを両眼に与えて1つに融合視させようという方式がいけません。
両眼視による立体的イメージの知覚が有効なのは、視覚系自体がそのプロセスで「運動視差」に相当するような視差を作ってのことであって、人工的に作った視差を両眼に与えて意味が有るのは、奥行き距離の印象だけが必要で運動印象がむしろ邪魔になるような、特殊な仮想現実の技術を必要とする場合に限られるのではないかと思うのです。
これこそゲシュタルトの真骨頂ではないかと思っています。
ただ、この現象を作るのが大変難しく、残念ながら「これこそ」という体験がありません。
2つの光点を左右に「パッ・・・パッ」と提示して、どこで光ったかが分からず、ただ「フ━━ァ」と動きだけが見えれば好いのですが。
光点それぞれの持続時間と提示間隔をいろいろ変えるだけでは実現しません。
光点1つだけが「ピカッ」でなく「フラッ」と、どこにと言えず見えるような条件は作ることは出来ます。それを少しの間を置いて違う方向で続けて見えるようにすれば好いのですが、それが旨くいきません。
20世紀初頭の、精密だが単純な金工の実験装置に較べればパソコンで自由に実験条件を作れる筈なのに彼らが作ったという純粋運動は得られず、お手上げでした。
それを真骨頂だと云うのは、その着想によって「位置と時間の知覚が先ず出来て、それから運動の知覚が成立つと考えるのは間違いだ。先ず運動知覚があって、それから時間や位置の知覚が派生する」とするイデオロギーのようなものを心理学に齎したと思うからです。
それは1920年頃のことで、量子力学の不確定性原理の考え方と前後するようですが、互いにどう関連したかは知りません。
それから半世紀後、心理学では行動主義のイデオロギーが支配的になり、知覚研究に行動生態学の視点から意味づけが行われたりし、空間知覚の研究が盛んになりました。
その中心課題はなお運動視でした。
複雑な背景の中に隠れているものが僅かに動くとたちまち検出されることや、遠ざかって行くものと接近してくるものの運動印象の違いなどは捕食行動や天敵回避などの文脈で解釈することが好んで行われたのでした。
やがて、コンピュータで映像を制御する技術が進んだのですが、生態学的アプローチの延長上にアメリカなどにおける軍事研究や宇宙開発が重なったということの影響が大きいと言えるかも知れません。
そして今では日常生活の中の至るところにコンピュータを利用した映像の利用が拡がったのは見ての通りです。
静止画や動画の撮影・加工・再生を誰でも比較的容易に行えるようになったのは大変有難いことだと思います。
しかし、そうした技術の導入が安直になったためでしょうか、昨今の3Dテレビには感心しません。
多くは特殊なメガネをかけて画面を見ると映像が飛び出してくると云うものです。
生態論からすれば天敵が襲ってくる、という場面です。
当然、驚きの画面になるでしょうが、見ていて気持ち良いものである筈ありません。
早速「長時間見るのは止めましょう」とかの注意書きが付けられるようになった、とか。
眼鏡を掛けない方式なら良いというものでもありません。
映像に「両眼視差」のあるもの2つを作っておいて、それぞれを両眼に与えて1つに融合視させようという方式がいけません。
両眼視による立体的イメージの知覚が有効なのは、視覚系自体がそのプロセスで「運動視差」に相当するような視差を作ってのことであって、人工的に作った視差を両眼に与えて意味が有るのは、奥行き距離の印象だけが必要で運動印象がむしろ邪魔になるような、特殊な仮想現実の技術を必要とする場合に限られるのではないかと思うのです。
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