賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

天国に行く条件とは何ですか

2020-11-06 23:11:18 | 天の国の福音

天国に行く条件とは何ですか

苦労して働いて天国に入れるのか
   

    「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

    多くの人はパウロのこの言葉によって、主のために説教をして、労力を費やすことでパウロを見習いながら、休むことなく働いていれば、主が再臨される時に直接天国に引き上げられると考えています。人の目にはこのように実践することは正しく映り、誰もそれには反対しません。しかし、これは神の御心には適っているのでしょうか?

    「主イエス様はこう仰りました:『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)主の御言葉から、主イエス様は「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」としか仰っておられないことが分かります。主は主のために懸命に働く者全てが祝福され、天国に入るとは仰っておられません。パリサイ人が福音を伝導するために地と海を渡り、骨折って働いていた時のことを思い出してください。彼らは神のために懸命に働くことを投資とし、人々に自分たちを崇拝させ、自分たちに従わせていました。主イエス様が働きをしに来られた時、彼らはユダヤの民の多くが主イエス様に従っていることを知りました。自分たちの地位や生活を失うことを恐れた彼らは狂信的に主イエス様に逆らい、主イエス様を非難し、ついにはローマ政府と共謀して主を十字架に釘付けにしたのです。なので、彼らは神のためにどれだけ一生懸命に働いていても、結局は神に逆らい、悪事を働いていただけなのです。それで天国に入れるわけがないのです。現在、存在する各宗派と分派に属する人々を見てください。その多くは苦しみ、代償を払い、主のために休みなく働いても、決して主の御言葉を実践することがなければ、各々の業務や説教を行う中で神を称賛したり、神の証言をすることもありません。代わりに、彼らは頻繁に自らの地位を確立して他人に自分のことを尊敬させ、従わせています。彼らのやること全てが自分の地位と収入を維持するためであり、それ以上に天国に入るためにやっていることなのです。このような代償を払っても神と取引をしているようなものです。なので、彼らが神の御心通りに実践する人々であるはずがないのです。一生懸命に働くだけでは天国には入れないし、そうすることが天国に入るための条件でもないことは明らかです。」

天の父の御旨を行うこととは何か


    それでは、いったい天の父の御旨を行うこととは何でしょうか。天の父の御旨を行うことは主に人の心には神様を愛し、神様を崇め、神様を畏れ悪を避け、主の御言葉を実践し、主の戒めを守り、常に神様を高く掲げ、神様を証しし、真心で主のために費やし、取引がなく、要求することもなく、試練の中で神様のために証しに立ち、神様の支配と采配に従うことを指しているのです。これこそ神様の旨を行うことです。まさに主イエスが言われた通りです。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37−39)そのため、神様の旨を行う人は皆罪から抜け出して聖さを得る人であり、真理を実践し、本当に神様に従う人であり、常に主の御言葉を実践し、主の戒めを守る人であり、心には神様を愛し、主の御言葉によって生きる人です。もし人の心には神様を愛さず、働きや伝道すると同時に神様と取り引きし、常に神様に抵抗し、神様に逆らい、神様の言葉を実践せず、これはどうして神様の旨を行うことと言えようか。どうして罪から抜け出して清くなったと言えようか。私たちは皆このような事実を見ました。多くの人は主を信じて主の御名によって働き、伝道し、十字架の苦しみを背負い、牢屋に入れられ、殉道さえできますが、これは人が主への信仰心と熱心を持っていることだけを表します。しかし、否認できないのは、人が苦労して働くと同時に、常に神様に逆らい、神様に抵抗し、自分の好みによって物事を勝手気ままに行い、分派を引き起こし、独立王国さえを建て上げます。また多くの人は働いて苦しみを受けるのは神様を愛し、神様を満足させるためではなく、報酬や冠だけを求め、それによって少しの働きをし、少しの苦しみを受けた後、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりし、全く確信を持って神様に天国の祝福を求めます。これらの事実は次のことを十分に説明できます。人は主の御名によって多くを放棄し、自らを費やし、苦労して働くことができるのは、神様の旨を行うことを証明できず、さらに神様に称賛され、天国に入って見返りを得る資格があることも証明できません。なぜなら、人のうちにはサタン的本性はまだ解決しておらず、罪の束縛から抜け出せず、働きをすると同時にまた悪を行い、神様に抵抗し、神様にさえ敵対し、これはどうして神様の旨を行う人だと言えようか。どうして天国に入る資格があり得ようか。

どのようにして天国に入ることができるのか


    それでは、どのようにして父の御旨を行って神様の国に入ることができるでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47−48)主イエスの言葉が明示されています。主イエスは恵みの時代で堕落した人類が救われることで必要とするすべての真理を皆人類に与えられていなく、また多くのより深く、より高い真理、つまり人類をサタンの堕落した性質から抜け出して清くさせられ、及び神様に従い、神様を認識する多くの側面の真理を人類に教えられていませんでした。そのため、主が再来されて人類を救うすべての真理を発表し、あらゆる主の終わりの日の救いを受け入れる人を裁き、刑罰し、清め、完全にし、最終的にこれらの人を神様の旨を行う人を作られ、神様の国に導き入れ、こうしてこそ神様の人類を救う経営計画が徹底的に完成されるのです。主の終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、真理を得られて性質の変化を実現することに達し、神様の旨を行う人になって神様の国に入るのです。

    ヨハネの黙示録もこう預言されています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)また多くの箇所にこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)したがって、私たちは主が再来されて真理を発表して裁きの働きをなさるとの証しを聞いた時、謙虚で尋ね求めてこそ、主の出現を迎えられ、主の再来の救いを受け入れられ、天の父の御旨を行う人になって天国に引き上げられる機会を得られるのです。


天国に行く条件とは何ですか

2020-11-06 23:11:18 | 天の国の福音

天国に行く条件とは何ですか

苦労して働いて天国に入れるのか
    「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

    多くの人はパウロのこの言葉によって、主のために説教をして、労力を費やすことでパウロを見習いながら、休むことなく働いていれば、主が再臨される時に直接天国に引き上げられると考えています。人の目にはこのように実践することは正しく映り、誰もそれには反対しません。しかし、これは神の御心には適っているのでしょうか?

    「主イエス様はこう仰りました:『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)主の御言葉から、主イエス様は「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」としか仰っておられないことが分かります。主は主のために懸命に働く者全てが祝福され、天国に入るとは仰っておられません。パリサイ人が福音を伝導するために地と海を渡り、骨折って働いていた時のことを思い出してください。彼らは神のために懸命に働くことを投資とし、人々に自分たちを崇拝させ、自分たちに従わせていました。主イエス様が働きをしに来られた時、彼らはユダヤの民の多くが主イエス様に従っていることを知りました。自分たちの地位や生活を失うことを恐れた彼らは狂信的に主イエス様に逆らい、主イエス様を非難し、ついにはローマ政府と共謀して主を十字架に釘付けにしたのです。なので、彼らは神のためにどれだけ一生懸命に働いていても、結局は神に逆らい、悪事を働いていただけなのです。それで天国に入れるわけがないのです。現在、存在する各宗派と分派に属する人々を見てください。その多くは苦しみ、代償を払い、主のために休みなく働いても、決して主の御言葉を実践することがなければ、各々の業務や説教を行う中で神を称賛したり、神の証言をすることもありません。代わりに、彼らは頻繁に自らの地位を確立して他人に自分のことを尊敬させ、従わせています。彼らのやること全てが自分の地位と収入を維持するためであり、それ以上に天国に入るためにやっていることなのです。このような代償を払っても神と取引をしているようなものです。なので、彼らが神の御心通りに実践する人々であるはずがないのです。一生懸命に働くだけでは天国には入れないし、そうすることが天国に入るための条件でもないことは明らかです。」

天の父の御旨を行うこととは何か
    それでは、いったい天の父の御旨を行うこととは何でしょうか。天の父の御旨を行うことは主に人の心には神様を愛し、神様を崇め、神様を畏れ悪を避け、主の御言葉を実践し、主の戒めを守り、常に神様を高く掲げ、神様を証しし、真心で主のために費やし、取引がなく、要求することもなく、試練の中で神様のために証しに立ち、神様の支配と采配に従うことを指しているのです。これこそ神様の旨を行うことです。まさに主イエスが言われた通りです。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37−39)そのため、神様の旨を行う人は皆罪から抜け出して聖さを得る人であり、真理を実践し、本当に神様に従う人であり、常に主の御言葉を実践し、主の戒めを守る人であり、心には神様を愛し、主の御言葉によって生きる人です。もし人の心には神様を愛さず、働きや伝道すると同時に神様と取り引きし、常に神様に抵抗し、神様に逆らい、神様の言葉を実践せず、これはどうして神様の旨を行うことと言えようか。どうして罪から抜け出して清くなったと言えようか。私たちは皆このような事実を見ました。多くの人は主を信じて主の御名によって働き、伝道し、十字架の苦しみを背負い、牢屋に入れられ、殉道さえできますが、これは人が主への信仰心と熱心を持っていることだけを表します。しかし、否認できないのは、人が苦労して働くと同時に、常に神様に逆らい、神様に抵抗し、自分の好みによって物事を勝手気ままに行い、分派を引き起こし、独立王国さえを建て上げます。また多くの人は働いて苦しみを受けるのは神様を愛し、神様を満足させるためではなく、報酬や冠だけを求め、それによって少しの働きをし、少しの苦しみを受けた後、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりし、全く確信を持って神様に天国の祝福を求めます。これらの事実は次のことを十分に説明できます。人は主の御名によって多くを放棄し、自らを費やし、苦労して働くことができるのは、神様の旨を行うことを証明できず、さらに神様に称賛され、天国に入って見返りを得る資格があることも証明できません。なぜなら、人のうちにはサタン的本性はまだ解決しておらず、罪の束縛から抜け出せず、働きをすると同時にまた悪を行い、神様に抵抗し、神様にさえ敵対し、これはどうして神様の旨を行う人だと言えようか。どうして天国に入る資格があり得ようか。

どのようにして天国に入ることができるのか
    それでは、どのようにして父の御旨を行って神様の国に入ることができるでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47−48)主イエスの言葉が明示されています。主イエスは恵みの時代で堕落した人類が救われることで必要とするすべての真理を皆人類に与えられていなく、また多くのより深く、より高い真理、つまり人類をサタンの堕落した性質から抜け出して清くさせられ、及び神様に従い、神様を認識する多くの側面の真理を人類に教えられていませんでした。そのため、主が再来されて人類を救うすべての真理を発表し、あらゆる主の終わりの日の救いを受け入れる人を裁き、刑罰し、清め、完全にし、最終的にこれらの人を神様の旨を行う人を作られ、神様の国に導き入れ、こうしてこそ神様の人類を救う経営計画が徹底的に完成されるのです。主の終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、真理を得られて性質の変化を実現することに達し、神様の旨を行う人になって神様の国に入るのです。

    ヨハネの黙示録もこう預言されています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)また多くの箇所にこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)したがって、私たちは主が再来されて真理を発表して裁きの働きをなさるとの証しを聞いた時、謙虚で尋ね求めてこそ、主の出現を迎えられ、主の再来の救いを受け入れられ、天の父の御旨を行う人になって天国に引き上げられる機会を得られるのです。


2. 全能神は再臨した主イエスである

2020-11-05 18:02:50 | 神の三段階の働き

2. 全能神は再臨した主イエスである

    関連する神の言葉

    ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救い)全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の経営(救い)を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名前にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

    イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

    わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

    神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

    現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。彼は慈愛と憐れみの働きを行うことができ、同様に義である裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。結局、彼は世界を破壊し、不道徳な人々を罰する働きを行うことができる。彼はこのすべてを自分自身で行うのではないのだろうか。これは神の全能性ではないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」より

    第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より


キリスト教の歌「神はより多くの人が救いを得ることを願う」歌詞付き

2020-11-04 17:44:50 | 讃美歌

キリスト教の歌「神はより多くの人が救いを得ることを願う」歌詞付き

神はより多くの人が救いを得ることを願う
より多くの人が神の言葉と業に出会った時
よく調べ
神に適う心で重要な言葉に臨むことを神は願う
罰を受ける者を真似てはならない
真理の道をはっきり知りつつも
故意に背き 罪のための捧げものを失った
パウロのようであってはならない
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる
神はさらに多くの人が罰せられることを望まず
逆により多くの人が救われることを願う
そしてより多くの人が遅れずに
神の足跡をたどり
神の国に入ることを望む
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる
神は人の年齢・地位・苦しみに関係なく
全ての人を公平に扱う
神の性質は永遠に変わらず
それらの事に関わらず 義である
神は誰もえこひいきしないが
もし全てを捨て
神の真理と新しい業を受け入れるなら
その人を思い遣る
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる
『小羊従って新しい歌を歌おう』より


日本語ゴスペル「待ち焦がれて」私たちは主イエスの再臨を待ち焦がれている

2020-11-03 23:08:59 | 讃美歌

日本語ゴスペル「待ち焦がれて」私たちは主イエスの再臨を待ち焦がれている

世は悪魔が制す
果て無く続く夜
神を信じ、命求める道は険しい
中共が神の民を弾圧し
逮捕し、迫害する
家族には分らない
隣人に嘲罵され
世間から拒絶される
苦痛に耐え、主に呼びかける
我を強めたまえ
導きたまえ
闇にいる時、そばにいたまえ
主が信仰を強めれば
耐え拔き、救われる
主よ、サタンから救いたまえ
あなたへ戻れるよう
主の再来を待っています 天国へ行き
永遠にあなたと暮らす
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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