賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

イースター(復活祭)とは?復活祭の意味は何か

2020-10-26 23:15:27 | 勝利者の証し

イースター(復活祭)とは?復活祭の意味は何か

    イースター(復活祭)とは?イースターの本当の意味は何か、あなたは知っていますか?2020年のイースターは4月12日(日)です。多くの人は復活祭がイエスの復活を祝うためのものであると信じています。実際には、そこにこめられているのはもっと深い意味です。

イースター(復活祭)とは?イースターの起源
    イースターとは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。

主イエスの復活と人の前での出現の意味
    神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

    神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。

    これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。

    主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。

    親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!


礼拝賛美歌「神は人をかけがえのない存在として見守る」歌詞付き

2020-10-25 22:31:56 | 讃美歌

礼拝賛美歌「神は人をかけがえのない存在として見守る」歌詞付き

神は人々を創った
全ての人を創った
人が神に従っても
逆に人が堕落したとしても
神は人々を見守る
全ての人を見守る
かけがえのない存在として
かけがえのない 我が子のように
人々は神にとって おもちゃではない
神は創造主であり
人は神の被造物である
そう言うと
神と人との階級が 異なるように聞こえるが
神が人々のために 行う全てのことは
お互いの関係を 遥かに超えたものである
神はいつでも 人々を愛し思いやり
どんな時でも 心を配っているのだ
神は人々に与える
絶えることなく与える
余計なことと思うことなく
賞賛さえも必要とはしない
神は人々を救い
その必要を満たして
全てのものを与えることを
大きな貢献だとは思わない
神はただ神自身のやり方で
神の本質と性質と 神の存在そのもので
静かな沈黙の内に 人々の必要を満たしてくれる
人が神から多くのものを 授かっても
神は決して 報酬を求めたりしない
それは神の本質によって 定められ
神のその性質に 確かに叶っているのだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


キリスト教映画「母の愛」どのように子供に幸せな未来を与えるか 日本語吹き替え

2020-10-24 17:33:36 | 福音映画

    「母の愛」は子どもの育て方というテーマを取り上げるキリスト教の家庭映画です。

    「知識はあなたの運命を変えることができる」「息子は竜になり、娘は鳳凰になる」といった言葉は、ほとんどすべての親が子どもに対して抱く願望です。許文慧は娘のジャールイが難関大学の入学試験に合格できるよう販売主任の職を辞し、再受験に向けて勉強するジャールイに付き添うことを決めます。しかし許文慧の厳しい教え方と入試競争によるストレスは娘をくじけさせ、絶望に近い状態に追い込みます。許文慧はそのことを深く後悔します。自分のしたことはすべて娘のためだと考えていたのですが、代わりに苦しみと痛みをもたらしただけだったのです…そのとき、かつてのクラスメート方馨萍が神様の福音を彼女に宣べ伝えます。神様の御言葉を読んだ許文慧はついに、「知識はあなたの運命を変えることができる」というような考えを追い求めるのは自分と子どもを傷つけるだけだと認識し、真の愛情を表現する娘の教育方法を理解するようになります…

    [東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


聖書の名言-「子供」について

2020-10-23 22:23:56 | 聖書の学び

聖書の名言-「子供」について

    両親の子供に対する最も真実の愛とは、子供を神様の前に連れてきて、神様の心に従って子供に正しい道を歩むことを教えて、神様の祝福を得ることです。以下の児童に関する聖句を読むことを通して、私たちを助けて正しく子供を教育するように。

    詩篇127:3-5
    見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

    創世記33:5
    エサウは目をあげて女と子供たちを見て言った、「あなたと一緒にいるこれらの者はだれですか」。ヤコブは言った、「神がしもべに授けられた子供たちです」。

    詩篇113:9
    また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主をほめたたえよ。

    提摩太後書3:14-15
    しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

    マタイによる福音書21:15-16
    しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭でダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

    詩篇8:2
    みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。

    マタイによる福音書18:2-6
    すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

    マタイによる福音書18:10
    あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。

    彼得前書2:2-3
    今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。

    マルコによる福音書10:13-16
    イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。

    箴言22:6
    子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない。

    箴言22:15
    愚かなことが子供の心の中につながれている、懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。

    申命記6:7
    努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

    エペソ人への手紙6:1-4
    子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。

    出エジプト記20:12
    あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

    箴言1:8-9
    わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。

    出エジプト記20:5-6
    それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

    申命記11:19
    これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り。

    マルコによる福音書9:36-37
    そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

    コロサイ人への手紙3:20
    子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。

 


聖書の名言-「励まし」について

2020-10-22 23:28:36 | 勝利者の証し

聖書の名言-「励まし」について

    聖書名言-「励まし」について
    生活の中に、私たちは常に自分が望まない環境のゆえに無力の内に苦しむと感じています。それでは、私たちは、どのようにして神様との正常な関係を保ち、信仰をもって苦難に直面することができるのか。以下の励ましの聖句を読んで、私たちは苦境の中で神様が与えてくださる信仰と力を得られるように。

    テサロニケ人への第一の手紙5:11
    だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。

    イザヤ書40:31
    しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

    イザヤ書43:2
    あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。

     ヨシュア記1:9
     わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。

    箴言:18:10
    主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る。

    詩篇31:24
    すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。

    箴言:3:5-6
    心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

    コリント人への第一の手紙1:3-4
    わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。

    イザヤ書41:10
    恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

    ヨハネによる福音書14:27
    わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

    ヨハネによる福音書16:33
    これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。

    詩篇46:1-3
    神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。

    テモテヘの第二の手紙1:7
    というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。

    詩篇16:8
    わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。

    詩篇55:22
    あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。

    ペテロの第一の手紙5:7
    神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。

    イザヤ書26:3
    あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。

    詩篇118:14-16
    主はわが力、わが歌であって、わが救となられた。聞け、勝利の喜ばしい歌が正しい者の天幕にある。「主の右の手は勇ましいはたらきをなし、主の右の手は高くあがり、主の右の手は勇ましいはたらきをなす」。

詩篇119:114-115
あなたはわが隠れ場、わが盾です。わたしはみ言葉によって望みをいだきます。悪をなす者よ、わたしを離れ去れ、わたしはわが神の戒めを守るのです。

    詩篇119:25
    わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。

    詩篇119:50
    あなたの約束はわたしを生かすので、わが悩みの時の慰めです。

    詩篇119:71
    苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。

    詩篇120:1
    わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる。