賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

三つの忠告

2020-09-25 23:12:34 | デボーション

   神を信じる者として、あなたがたは、あらゆることにおいて他ならぬ神一人に忠実で、あらゆる物事について、神の心に沿わなければならない。だが、皆がこの教えを理解していても、無知・不条理・堕落といった人間の中にある厄介なものがその原因で人間にとって最も明らかで基本的なこの真理を十分に皆の中で具現化されているのを見ることはできない。したがって、あなたがたの最終的な結末が決定される前に、まず、あなたがたにとって最も重要なことをいくつか話しておかなければならない。その前に、まず、次のことを理解しておきなさい。わたしの語る言葉は、特定の人や特定の種類の人に対するものではなく、すべての人に向かって示す真理である。だから、真理という観点からわたしの言葉を受け取ることにただ集中しなさい、そして集中心と誠意を常に持ち続けなさい。わたしの語る言葉、また語る真理のひとつでも無視したり、軽蔑したりしてはいけない。わたしはあなたがたが日々の生活の中で、真理と無関係なことを数多く行っていることを分かっている。だから、わたしはあなたがたにはっきりとお願いしておきたい。真理のしもべとなり、邪悪さや醜さの奴隷となることがないように。真理を踏みにじって、神の家の片隅でも汚すことのないようにしなさい。これが、あなたがたへの忠告である。さて、主題に移ろう。

 


   第一に、あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる事において神に心に安らぎと満足をもたらさなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理にそわなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになる。ひとたびそのような状態に陥ると、神の家の一員であることはできない。これが神の承認を受けられないということである。

   第二に、神は正直な人を喜ぶということを知っておきなさい。神は本質的に信実で、その言葉は常に信頼できる。さらに、神の業には誤りも疑問の余地もない。だから神は、自分に絶対的に正直な者を愛する。正直であるとは、神に心を捧げること──何事においても神を偽らないこと、あらゆることにおいて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わさないこと、そして、神に取り入る為だけに何かを決してしないこと。つまり、正直であるということは、言動において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。わたしの言っていることはまことに単純なことだが、あなたがたにとっては二重に困難なことである。言行において正直であるよりは、地獄に落とされたほうがましだと思う人は多いだろう。当然ながら、不正直な人々のために別の処遇が用意されている。もちろん、あなたがたが正直な人間であるために直面する大きな困難は、わたしも分かっている。あなたがたはとても賢く、自分の観点から他人を裁くのに巧みだ。それだからわたしの仕事はずっと簡単だ。あなたがたは、それぞれ心に秘密を抱いている。それでは、あなたがたに一人ずつ災害をもたらし、火をもって「訓練」を行ない、わたしの言葉への信仰に心から従うように仕向けよう。最後に、あなたがたの口から「神は信実な御方である」という言葉をねじり取ろう。そうすれば、あなたがたは自分の胸をたたいて、「人間の心は曲がっている」と嘆くことになる。そうなると、あなたがたの心はどういう状態になるだろう。今のように自尊心にまかせて行動することはなくなるだろう。今のように「自分は深遠すぎて理解されない」と言っているわけにはいかなくなるだろう。神の前ではきちんと振る舞い、とりわけ「礼儀正しい」けれど、霊の前では反抗的で放埒な行いをする者もいる。そのような人をあなたがたなら正直な者の数に入れるだろうか。もしあなたが偽善者で「社交」上手であるなら、あなたは神を軽んじていると断言しよう。もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える覚悟があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、神を満足させることだけを考え、自分のことは考えず、自分のためには何も求めないほど正直なら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きる人である、とわたしは言おう。真の信仰と真の忠実さとが内にあるかどうか、神のために苦難を受けたことがあるかどうか、神に心から従っているかどうか、自分の心に尋ねればわかるだろう。もし、そうしたものが欠けているのなら、あなたの心の内には、不服従、欺き、貪り、不満が残っている。心が正直でないから、神に認められたこともなく、光の中で生きたこともない。人間の運命が最後にどうなるかは、正直で赤い血の通った心があるか、清い魂があるかどうかにかかっている。極めて不正直で、悪意に満ちた心と汚れた魂をもっているなら、あなたの運命帳に記されているように、最後は必ずや人間が罰せられる場所に置かれる。もし自分は正直だと言いながら、真理に適う行いをすることも、真実を語ることもないとしたら、それでも神があなたを報いてくれるのを期待するのか。それでも神が、あなたを目に入れても痛くないものとして扱ってくれるのを期待するのか。そんな考えは非常識ではないだろうか。あらゆることで神を欺いていながら、どうしてあなたのように手の汚れた者を神の家が受け入れることができようか。

   第三の忠告だが、まず神を信じる者はみな、これまでたどってきた道のどこかで神に逆らい、神を欺いたことがある。過ちの中には、不正として記録する必要のないものもあるが、赦されないものもある。その多くは行政に背くものであり、神の性質に逆らうものだからである。自分の運命を心配する多くの人々は、それはどういう行いかと尋ねるだろう。あなたがたは、自分が本来、傲慢で尊大であり、事実を受け入れることを望んでいないということを知らなければならない。だから、まずあなたがたが自らを省みた後、少しずつ教えていこう。行政の内容をよく理解し、神の性質を知るようにしなさい。そうでなければ、唇を閉じていることができず、いつまでも偉そうなことをまくしたてるだろうから。無意識の中に神の性質に逆らい、闇に落ち、聖霊と光とを失うことになる。あなたがたは、行いにおいて無原則だからだ。してはいけないことをし、言ってはいけないことを言うなら、相応の罰を受けることになる。あなたは言葉と行いにおいて無原則であっても、神はそのいずれにおいても、まことに原則がある。あなたが罰を受けるのは、人にではなく、神に背いたからだ。もし、あなたの人生で神の性質に背くようなことを幾度もしたのであれば、あなたは地獄の子ということになる。人間の目には、真理に沿わないことを少ししただけのことと見えるだろう。しかしながら、神の目からすると、あなたのためには、もう罪を贖う捧げ物がないのだということは、わかっているだろうか。あなたは行政に何度も背いていながら、悔い改めようとしなかった。そのため、地獄に落とされ、神の懲罰を受けるしかないのだ。神に従ってきた僅かな人達は、原則に背く行いをしたけれども後に取り扱われ、導きを受け、徐々に自らの堕落を知り、現実の正しい道を歩み、今も正しい基礎の上にしっかりと立っている。そうした人々は、最後までその道から外れることはないだろう。わたしは正直な人を求めている。もしあなたが正直で、正しい行いをするのなら、あなたは神の心を知ることができる。行いにおいて神の性質に背かず、神の意志を求め、神を敬う心を持つなら、あなたの信仰は基準に達している。神を崇め、震えるほど神を恐れる心がない者は、容易に神の行政に背いてしまうだろう。多くの人が感情に基づいて神に仕え、神の行政をも知らず、ましてや神の言葉の深い意味など分からずにいる。そして良いことをしているつもりが、神の計画を妨げているようなことがしばしばある。深刻な妨げをする者は見捨てられ、もはや神に従う機会は与えられない──彼らは地獄に投げ込まれ、神の家とは何の関係もなくなる。そうした人は、神の家で無知な善意をもって働き、結果、神の怒りを引き起こしてしまう。人々は、役人や主君に仕えるやり方を神の家に持ち込み、そういうやり方がここで通用すると、無益に思い込んでいる。彼らには、神は羊ではなく、獅子の性質を持っているとは、思いもつかない。そのため、初めて神と関わった者は、神と交わることができない。神の心は人間のそれとは異なっているのだから。多くの真理を理解して初めて、いつでも神を知っていられるようになる。この認識は文字や教義ではなく、神の心を知る宝、神があなたを喜んでいる証となるものである。真の認識を欠き、真理を自らのものとしていないのなら、あなたの感情に基づいた奉仕は神に嫌われ、憎まれるだけである。このように、あなたは、神を信じることが、単に神学を学ぶことではないということを理解できるだろう。

   わたしの忠告は短いものではあるが、これらはみな、あなたがたに最も欠けているものだ。今、話をしていることは、人間の中での最後の働きのためであり、人間の結末がどうなるかを決定するものなのだ。これ以上、無意味なことは、もうしたくない。枯れ木のようにどうしようもない人々、ましてや邪悪な意図をもつ人々を導き続けることも、したくない。おそらく、いつの日か、わたしの言葉に込められた心からなる願いと、わたしが人類のために行ったことが、あなたがたに理解されることだろう。おそらくいつか、あなたがたが自分の最終的な運命を決定する原理をはっきりと理解する日が来ることだろう。


神の国の時代:神の働きの目的と意義

2020-09-24 22:44:23 | 天の国の福音

   代表的な神の言葉

   イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 

 

   イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人は良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い性質が捨てられることもないだろうし、人は罪の赦しにだけ執着するだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができる。神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践するよう求めるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   あなたは、世の終りにイエスが降りてくることだけは知っているが、正確にはどのように降りて来るのだろうか。あなたのように、罪を持った人間が罪から贖われたばかりで、変えられておらず、また神に完全にされたこともない状態で、神の心に沿うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪ある人とは見なされなくなったが、あなたが罪人ではないとか、汚れがないとかいうことではない。あなたが変えられないままであれば、どうやって聖人のようになれるというのか。内側では、あなたは不道徳、身勝手さと悪意に悩まされているにもかかわらず、イエスと共に降ることを望むというのは、よほどの運がなければいけない。あなたは、神を信じる上での必要な段階を一つ見落としている。あなたは、単に罪から救われただけで中身は変えられていないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変える働きをし、あなたを清めなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、高潔さを手に入れることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという肝心の段階を経験していないがために、神の良き祝福を共有する資格がないのである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の財産を受け継ぐことはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

  終わりの日の働きは言葉を語ることである。偉大な変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、よれにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より


あなたは生き返った人か

2020-09-22 22:48:06 | デボーション

   あなたが正常な人間性を生きることを達成し、全き者にされたら、預言をしたり奥義について話すことができなくても、人間の姿を生き、表しているのである。神は人を造ったが、その後、人はサタンによって堕落させられ、この堕落が人々を「死人」にしてしまった。したがってあなたが変わった後、あなたは死人とは違うものになる。人々の霊にいのちを与え、人々を再生させるのは神の言葉であり、霊が再生した時、人々は生かされる。死人についての言及は、霊を持たない死体のこと、霊が死んでいる人々のことを指している。霊にいのちが与えられると、人々は生かされる。以前語られた聖者とは、生かされた人々、サタンの支配下にあったがサタンを打ち負かした人々のことを指す。中国の選ばれた人々は、赤い大きな竜による悲惨かつ非人道的な迫害や策略に耐えてきたため、精神はひどく荒廃させられ、生きる勇気を少しも持たなくなった。したがって彼らの霊の目覚めは、本質から始まらなければならない。彼らの本質において、少しずつ霊を目覚めさせなければならない。ある日、彼らが生かされた時、もはや障害物は何もなくなり、すべては順調に進む。今のところ、これは相変わらず達成不可能である。ほとんどの人の生き様は死の雰囲気をかなり含んでおり、死の気配に包まれており、欠けているものがあまりにも多い。言葉に死を帯びている人々もおり、彼らの行動も死を帯びており、彼らが生き抜くもののほとんどすべてが死である。もし今日、人々が公に神について証ししても、この働きは失敗する。なぜなら彼らはまだ完全には生かされていないし、あなたがたのあいだにはあまりにも多くの死人がいるからである。今日、なぜ神はしるしや不思議を示さないのか、そうすれば異邦人たちのあいだに神の働きをすばやく広めることができるのに、と言う人々がいる。死人は神について証しをすることはできない。生きている者だけが証しできるが、今日ほとんどの人は死んでおり、あまりにも多くの人が死に囚われて生きており、サタンの影響下にあり、勝利を得ることができない。それなのに彼らが神について証しをすることなどできるだろうか。福音の働きを広げることなどできるだろうか。

 


   暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもできない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを求める。「死人」とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々であり、真理を実践せず、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことである。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲食しても、神の言葉を生きることはできない。彼らは生きているが、歩く死体、呼吸する屍である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方はすべてサタンの性質を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しを立て、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による刈り込みや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。生かされることができる人々、神の救いを見ることができる人々、神に忠実になることができ、進んで神を探し求める人々、神の受肉を信じる人々、神の出現を信じる人々を神は救う。生かされることができる人もいれば、そうでない人もいるが、それはその人の本性が救われるか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず、神の心を理解しない人が大勢いる。彼らは神の言葉を数多く聞いているが、それを実践することができず、いかなる真理を生きることもできず、さらに神の働きを故意に妨げる。彼らは神のためにいかなる働きを行なうこともできず、神に何も捧げることができず、そのうえこっそり教会の資金を使ったり、ただで神の家で食べたりする。これらの人々は死人であり、救われない。神は自身の働きの中にいるすべての人々を救うが、一部の人は神の救いを得られない。神の救いを得られるのはほんの少数だけである。なぜならばほとんどの人はあまりにも死んでおり、救うことができないほど死んでおり、完全にサタンに利用され、本性にあまりにも悪意があるからである。先の少数の人々も完全に神に従うことができたわけではなかった。彼らは最初から完全に神に忠実であった人々、あるいは最初から神に最大限の愛をもっていた人々ではなかった。それどころか、彼らは神の征服の働きゆえに神に従うようになったのであり、神の究極の愛ゆえに神を見ているのであり、神の義である性質ゆえに彼らの性質に変化が見られるのであり、実際的で正常である神の働きゆえに彼らは神を知るようになる。神のこの働きがなければ、彼らがどれほど善良であろうと、まだサタンに属しており、まだ死に属しており、まだ死んでいることだろう。今日これらの人々が神の救いを得られるのは、彼らが神と協力する覚悟があるということに尽きる。

   生きている人々は、神に忠実であるために神に得られ、神の約束の只中で暮らす。死人は、神に反対するために神から嫌われ、拒絶され、神の懲罰と呪いの只中で暮らす。これが神の義の性質であり、いかなる人もそれを変えることはできない。自ら探し求めることにより、人々は神の承認を得て、光の中に暮らす。ずるい企みのために、人々は神に呪われ、懲罰の真中に身を落とす。悪行のために、人々は神に懲罰される。神に対する切望と忠実により、人々は神の祝福を受ける。神は義である。神は生きている人々を祝福し、死人を呪うので、死人は永遠に死の中にとどまり、決して神の光の中では暮らさない。神は生きている人々を神の国へ連れていき、永遠に神とともに留まるべく生きている人々を神の祝福へと連れて行く。神は死人を永遠の死に陥れる。死人は神による破壊の対象であり、永遠にサタンに属する。神は誰も不当に扱わない。真に神を探し求める人はすべて必ず神の家に留まり、神に逆らい、神と相容れない人々は必ず神の懲罰を受けながら生きる。おそらくあなたは受肉した神の働きについて確信がないだろうが、いつか神の肉は人の終末を直接に定めることはなく、その代わりに神の霊が人の終着点を定め、その時人々は神の肉と霊は一つであること、神の肉は間違いを犯すことはなく、神の霊はさらに間違いを犯すことなどないことを知る。最終的には、神は必ず一人の余分も一人も欠けもなく、生かされる人々を神の国に連れて行き、生かされなかった死人はサタンの洞窟に投げ捨てられるのである。


将来の使命にどのように取り組むべきか

2020-09-21 23:09:20 | デボーション

 

   あなたは時代ごとの神の性質を、時代の重要性を踏まえた言葉で表現できるだろうか。神の働きに関するあなたの経験を通して、神の性質を詳しく述べることができるだろうか。あなたはそれをどのようにして適切且つ的確に述べることができるだろうか。このことを通して、他の人たちがあなたの体験について学ぶことができるように。あなたの見たこと、経験したことを、義に飢え渇き、あなたがあなたが牧してくれるのを待っている哀れで貧しい、宗教熱心な信者たちにどのようにして伝えるだろうか。どのような人物があなたに牧してもらおうと待っているのだろうか。想像できるだろうか。あなたは自分の肩にある荷の重さ、委託、責任などを認識しているだろうか。あなたには歴史における自分の使命感がどこかにあるだろうか。あなたは次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたには主人としての強い意識があるだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それはまことに世界の全ての生き物と全ての物質の主人であるのだろうか。次の段階の働きの進展のために、あなたはどのような計画を持っているのだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。「道はどこにあるのか」と。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の勢力を追い払ってくれることにどれほど待ちこがれていることか。彼らがどんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。深く苦しんでいるそれらの人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光が輝く日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日はいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちは、まことにそのような不運に苦しんでいる。彼らは長い間非情な縄と凍ったままの歴史によって封印されてきた。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな表情を見たことがあるだろうか。神は心でどれほど深く悲しみ、心配しているかを、あなたは考えたことがあるだろうか。神は自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。結局、人類は毒された不運な者たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者によって長い間毒されてきたといったい誰が思っただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神へのあなたの愛で、生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の肉と血のように人類を愛する神に報いるために全力で努力したいと思わないだろうか。神に用いられて並外れた人生を生きることを、あなたはどのように理解しているのだろうか。あなたには「敬虔で神に仕える人」の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。

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神を知らない人はすべて神に反対する

2020-09-20 21:43:09 | デボーション

   神の働きの目的と、人の中に達成されるべき成果、また、人に対する神の意志を把握すること。これこそが神に従う一人ひとりが達成しなければならないことである。今すべての人に欠けているのは、神の働きに関する認識である。人は、創世以来、神が人間において行う業、神のすべての働きおよび神の意志を正確には把握しておらず、理解もしていない。この理解不足は宗教界全体にみられるだけでなく、さらに神の信者全員に見られる。あなたが本当に神をよく見て、神の知恵を悟る日が来る時、またあなたが神のすべての業を見て、神が何であり何を持っているかを認識する時、そしてあなたが神の豊かさ、知恵、驚異、人における神のすべての働きをその目にする時、その時こそあなたは神への信仰をみごとに達成したといえるだろう。神はすべてを包みこんでおり、非常に豊かであると言われるとき、すべてを包みこんでいるということは何を意味するのか。また、豊かさとは何を意味するのか。このことを理解しなければ、あなたは神の信者とはみなされない。なぜわたしは、宗教界の人々は神の存在を信じず、悪を為す者たちで、悪魔と同じ種類に属すると言うのだろうか。彼らが悪を為す者たちだとわたしが言うのは、彼らが神の意志を理解せず、神の知恵が分からないからだ。神が、彼らに神の業を明らかにするようなことは決してない。彼らは神の行為が見えない盲人である。彼らは神に見捨てられた者たちで、彼らには神の配慮や守りはまったくなく、ましてや聖霊の働きを有することなどは絶対にない。神の働きを持たない人々は悪を為す者たちで、神に対立する者たちだ。わたしが言う、神に対立する者たちとは、神を知らない人々、神を口先だけで認めはするが、神のことを知っていない人々、神の後についていくが神に服従しない人々、神の恵みを享受するが、神の証し人として立つことのできない人々のことである。神の働きの目的と神の人の内における働きを理解しなければ、人は神の心と一致することはできないし、神の証し人として立つこともできない。人が神に逆らう理由は、一方では、人の堕落した性質に起因しており、もう一方では神を知らないこと、神の働きの原則や人に対する神の意志についての理解に欠けることが原因である。これらの二つの要因が人間の神への反抗の歴史を成している。信仰の初心者が神に反抗するのは、彼らの本性の中にそのような反感があるからである。一方、長年信仰を持つ者たちが神に反抗するのは、彼らの堕落した性質に加えて、神を知らないことから生じる結果である。神が肉となる前の時代では、人が神に反抗しているかどうかという基準は、天の神によって定められた法令をその人が守っているかどうかであった。たとえば、律法の時代においては、ヤーウェの律法を守らない者は誰でも神に反抗する者であった。ヤーウェへの貢ぎ物を盗む者、また、ヤーウェの心にかなった人々に敵対する者は誰でも神に反抗する者で、石打の刑に処される人々であった。自分の父や母を尊敬しない者、また、他人を殴ったり、罵倒したりする者は誰でも律法を守らない者とされた。そしてヤーウェの律法を守らない者たちはみな神に敵対する人々であった。恵みの時代になるとそうではなく、イエスに敵対する者が誰でも神に敵対する者であり、イエスが語った言葉に従わない者が誰でも神に敵対する者であった。この時代、神への反抗を規定することは一層明確に定義され、より現実的になった。神がまだ肉とならなかった時代では、人が神に反抗しているかどうかの基準は、人が、目で見ることのできない天の神を礼拝し、崇敬するかどうかに基づいていた。その頃、神への反抗の定義はあまり現実的ではなかった。当時、人は神を見ることができなかったし、神の姿も、神がどのように働き、話すかも知らなかったからである。人には神の観念はまったくなく、神は人の前に現れたことがなかったので、ぼんやりと神の存在を信じるだけであった。したがって、人が想像の中でどのように神の存在を信じようとも、神は人を罪に定めたり、人から多くを求めたりはしなかった。人は神を見ることがまったくできなかったからである。神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。神に関する観念しか持っていないが、それでも喜んで神に従う人々は罪に定められることはない。神が人を罪に定めるのはその意図と行動に基づいてであって、その人の考えや意見を理由にすることは決してない。そのような根拠で罪に定められるのなら、神の怒りの手から逃れられる者は誰もいないだろう。肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。神の働きを故意に阻害することに関わらない者たちは罪に定められることはない。何故なら彼らは進んで従うことができ、阻害や混乱は引き起こさないからである。そのような人々は罪に定められることはない。しかし、神の働きを長年経験しているのに、神について自分の観念をまだ心に抱いており、肉となった神の働きを知ることができないままでいるならば、また、長年の経験にも関わらず、神に関する多くの観念にすがり続け、なおも神を知ることができないならば、たとえ彼らが心に抱いている多くの観念によって何の問題も起こさず、そうした観念が表面に現れてこなくても、そのような人々は神の働きのためには何の役にも立たない。彼らは福音を述べ伝えることも神の証し人として立つこともできない。このような人々は役立たずの間抜けである。彼らは神を知らず、神に関する自分の観念を捨て去ることができないので、罪に定められる。また次のようにも言うことができる。信仰の初心者において未熟な者が神の観念を持ったり、神について何も知らなかったりすることは珍しいことではないが、長年信じていて、神の働きを充分に体験してきた人々がそのような観念を抱くことは異常であり、そのような人々が神について何の認識も持っていないなら、それはなおさら異常である。そのような人々が罪に定められるのはそうした異常な状態の結果である。そのような異常な人々は役立たずである。彼らは神にもっとも反抗する者たち、神の恵みを虚しく享受してきた者たちである。そのような人々はみな最終的には取り除かれてしまうことになる。

 

 

   神の働きの目的を理解しない者は誰でも神に敵対する人々であり、神の働きの目的が分かっているのに神を満足させようとしない人々はなおさら敵対する。荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。神の前で自分自身を称える人々はもっとも卑しい人間で、一方謙っている人々はもっとも高潔である。神の働きを自分たちは知っていると考え、目を神に注ぎながら、他の人々に神の働きを意気揚々と宣言する。これらの人々は最も無知な人々である。このような人々は神の証しのない人々で、傲慢でうぬぼれている。神についての実際の経験と実践的な認識があるにもかかわらず、自分には神についての認識がほとんどないと信じている人々は、神に最も愛されている人々である。本当に証しを持ち、本当に神によって完全にされるのは、このような人々である。神の意志を理解しない人々は神の敵対者である。神の意志を理解するが、真理を実行しない人々は神の敵対者である。神の言葉を飲食するが、なおも神の言葉の本質に逆らう人々は神の敵対者である。受肉した神の観念を持ち、故意に反抗する人々は神の敵対者である。神を裁く人々は神の敵対者である。神を知ることができず、神を証しすることができない者は誰でも神の敵対者である。それゆえ、わたしの忠告を聞きなさい。あなたがたが本当にこの道を歩む信念を持っているなら、その道をたどり続けなさい。神に敵対するのをやめることができないなら、手遅れにならないうちに立ち去るのが一番良い。そうでなければ、良くなるどころかかえって先が思いやられるだろう。なぜならあなたがたの本性はあまりにも堕落しているからである。あなたがたは、微塵ほどの忠誠心や服従心も、義や真理を渇望する心も持っていない。神に対する愛もほんの少しも持ち合わせていない。神を前にしたあなたがたの状態はまったくひどい有様である。あなたがたは守るべきものを守ることができず、言うべきことが言えない。実行すべきことが実行できず、果たすべき役割を果たすことができない。持つべき忠誠心、良心、服従心、あるいは決意を持っていない。耐えるべき苦しみに耐えておらず、持つべき信仰を持っていない。あなたがたはいかなる長所にも全く欠けている。あなたがたは生存していくための自尊心をもっているだろうか。あなたがたは目を閉じて永遠の眠りについた方がまだましだと、わたしは言わざるを得ない。そうすれば神はあなたがたのために心配したり、苦しみに耐えたりする必要はなくなる。あなたがたは神の存在を信じているが、神の意志を知らない。あなたがたは神の言葉を飲食するが、神の要求に応じることができない。あなたがたは神を信じているが、神を知らない。そして追い求める目的もなしに生きている。あなたがたは何の価値も目的も持っていない。あなたがたは人として生きているが、何の良心も、品位も、わずかな信頼性も持たない。どうしてあなたがたを人とみなすことができようか。あなたがたは神を信じているのに神をだます。そのうえ、あなたがたは神の金を奪い、神の捧げものから食べるが、結局、神の感情への配慮や神への良心はまったく示さない。最も些細な神の要求にさえ応じることができない。そんなあなたがたをどうして人とみなすことができようか。あなたがたが食する食べ物、呼吸する空気は神から来ており、あなたがたは神の恵みを享受しているのに、結局は、神についてほんの僅かの認識さえ持っていない。それどころか、あなたがたは神に敵対するろくでなしになってしまった。それでは、あなたがたは犬同然の獣ではないのだろうか。動物の中であなたがたよりたちの悪い動物はいるだろうか。

   高い説教壇に立ち、人を教えている牧師や長老たちは神の敵対者であり、サタンと同盟している。しかし、高い説教壇に立って、人を教えていないあなたがたは、神に対するいっそうひどい敵対者ではないだろうか。そのうえ、あなたがたはサタンと結託していないだろうか。神の働きの目的を理解しない者たちは神の心とどうしたら一致できるかわからない。神の働きの目的を理解している者たちに、そんなことがあり得ようか。神の働きは決して誤ることがない。むしろ、欠陥があるのは人間による追求の方である。故意に神に反抗するそのような堕落した者たちは牧師や長老よりも下劣で悪質ではないだろうか。神に敵対する者たちは大勢いるが、それらの多くの人々の間には神に対するさまざまな種類の反対が存在する。あらゆる種類の信者がいるように、神に反抗する者たちも様々であり、似通った者はいない。神の働きの目的をはっきり認識しない人々は一人として救われない。人が過去にどのように神に敵対していたかに関わらず、神の働きの目的を理解するようになり、神を満足させるために努力を尽くす時、その人の以前の罪は神によってきれいに拭い去られる。人が真理を探し求め、真理を実行する限り、神はその人がしてきたことには留意しない。むしろ、その人が真理を実行する故に神はその人を義と認める。これが神の義である。人が神を見る前、あるいは神の働きを経験する前なら、神に対してどのようにふるまうかに関わらず、神はそれに留意しない。しかし、人がいったん神を見て、神の働きを経験したのなら、人の行動や行為は神によって「年代記」に書き留められる。なぜなら人は神を見て、神の働きの中で生きているからである。

   人が神の持っているものや神であるものを見、神の至高の支配権を本当に見て、本当に神の働きを知るようになったら、さらにはその人のかつての性質が変化したら、人は神に敵対する反抗的な性質を完全に捨て去ったことになるだろう。どんな人間でも一度は神に敵対し、反抗したことがあると言える。しかし、あなたが肉となった神に従う心を持ち、その時以来忠誠心を持って神の心を満足させ、なすべき真理を実行し、なすべきように本分を遂行し、守るべき規則を守るならば、その時こそあなたは、自ら進んでその反抗心を捨て去り神を満足させる者、また神によって完全にされる者となる。自分の過ちを自覚することを拒み、悔い改めの心を持たなければ、また反抗的なやり方に固執し、神とともに働き、神を満足させる心を全く持たなければ、あなたのような頑固な愚か者はかならず罰せられ、神によって完成されることは決してない。そうならば、あなたは今日も明日も神の敵であり、またその次の日も神の敵であり続けるだろう。あなたは永久に神に敵対する者、神の敵である。そんなあなたを神が大目に見たりできようか。神に反抗するのは人間の本性であるが、人が自分の本性を変えることは、到底克服することのできない課題であるため、人は故意に神に反抗する「秘訣」を探し出すことはできない。もしそうだとしたら、あなたは、あなたの将来の罰がもっと厳しくならないうちに、また、あなたの肉の体が最終的に神によって滅ぼされる時までに、あなたの野蛮な性質が露わになりその抑制が効かなくならないように、早めに立ち去る方がよい。あなたは祝福されるために神を信じている。しかし、最終的に不幸だけがあなたに降りかかるのであれば、それは何の意味もないだろう。わたしはあなたがたに別の計画を立てるのが一番良いと忠告する。他にどんなことをしたとしても、神を信じることよりましだろう。この道でなくとも、きっと別の道があるはずではないのか。あなたがたは、真理を探し求めないまま今までと同じように生き続けるではないのか。なぜこのように神と対立して生きるのか。