賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ペテロはどのようにイエスを知るようになったか(オーディオブック)

2020-09-13 21:10:39 | デボーション

  ペテロがイエスと共に過ごした期間、彼はイエスの中に多くの愛すべき性質、模倣する価値のある多くの局面、そして彼に与えてくれた多くのものを見た。ペテロは多くの方法でイエスの中に神の存在を見、多くの愛すべき品格を見たけれど、最初はイエスを知らなかった。ペテロは20歳でイエスについて行き、6年間従い続けた。その間、ペテロは決してイエスを知ることがなかったが、純粋にイエスへの敬愛から喜んで従って行った。イエスが最初にガリラヤ湖の岸辺でペテロを呼び寄せたとき、イエスは「ヨナの子シモン。あなたはわたしについて来るか。」と尋ねた。ペテロは「私は天の父が遣わされたお方に従わなければなりません。私は聖霊に選ばれたお方を認めなければなりません。私はあなたについて行きます。」と言った。当時、ペテロはイエスという者を、預言者の中の大預言者、神の愛するひとり子のことを話に聞いていたので、ペテロは常にイエスを探そうと望んでいた。ペテロはイエスに会う機会を探っていた(その時このようにして聖霊に導かれたので)。ペテロはそれまで一度もイエスに会ったことはなく、イエスについてのうわさに聞いていただけだったけれど、彼の心の中ではイエスに対するあこがれと敬愛が次第に大きくなり、ペテロはいつかイエスに会いたいとしばしば切望するようになった。それではイエスはペテロをどのように呼んだのだろうか。イエスもまたペテロという男のことを話に聞いていたので、それは聖霊がイエスを導いたからではなかった。「ガリラヤ湖に行け。そこにはヨナの子、シモンと呼ばれる男がいる。」ヨナの子、シモンと呼ばれる人がいて、人々は彼の説教を聞き、彼も天の国の福音を宣べ伝えており、彼の話を聞いた人々は心を動かされて涙を流していたと誰かが言うのをイエスは聞いた。これを聞いて、イエスはその人について行き、ガリラヤ湖に向かった。その時ペテロはイエスの召命を受け入れ、イエスについて行った。

 


   ペテロがイエスに従っている間に、彼はイエスについて多くの意見を持ち、常に自からの見知からイエスを裁いた。ペテロはある程度は霊について理解していたけれども、あまり啓発されることもなかったので、彼は「天の父によって遣わされたお方に従わなければならない。聖霊によって選ばれたお方を認めなければならない」という言葉を発したのである。ペテロはイエスが行ったことを理解していなかったし、啓発も受けていたわけではなかった。しばらくイエスについて行って、ペテロはイエスが行うことや言うこと、またイエス自身に次第に興味を持った。ペテロはイエスが愛と尊敬を鼓舞していることを感じるようになり、イエスと係わりイエスのそばにいたいと思うようになった。イエスの言葉はペテロに与え、助けた。ペテロが長年イエスに従って、彼はイエスの生活について全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた。ペテロはイエスが尋常の人のようではないことを深く理解した。イエスの人間としての外観は極めて普通であったけれど、イエスは人間に対する愛、哀れみ、寛容で満ちていた。イエスが行ったこと、言ったことの全てが人々の大きな助けとなり、ペテロはイエスのそばにいて今まで見たことも持ったこともないことを見たり学んだりした。イエスは外見が決して華やかでも、変わった人間性を持っていたわけでもないけれど、イエスにはまことに並はずれて普通にはない雰囲気があった。ペテロはそれを完全には説明できなかったけれども、イエスが他の誰とも違って行動していることは見ることができた。というのは、イエスは普通の人とははるかに違った行動をしたからである。ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格は普通の人とは違うことも認識した。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、淡々と且つ称賛に値するような方法で生活を送った。イエスは会話においても、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロはイエスがあるときは無口になったり、またあるときは話し続けたりするのを見た。イエスは時々鳩のように、いきいきと陽気になるほど幸福で、時々まるで風雨にさらされた母親のように、まったく口をきかないほど悲しい時もあった。時としてイエスは勇敢な兵士が敵を殺す任務に出て行くように、また時には吠え猛るライオンのように怒りで一杯になることもあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動したとしても、ペテロは限りのない愛と尊敬をイエスに持つようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かした。その一方で、イエスの憐れみ、赦し、厳しさで、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを持つようになり、心底からイエスを愛するようになった。もちろん、これらの事全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。

   ペテロは生まれつき聡明で、特に思慮深かったが、イエスについて行くとき、かなりたくさん無知なことをした。ペテロは一番最初の頃、イエスについてある考えを持っていた。ペテロは「人々はあなたのことを預言者と言っていますが、あなたが8歳で物事を十分理解できたとき、あなたはご自身のことを神だと知っておられましたか。あなたは聖霊によって身ごもられたことを知っていましたか。」と尋ねた。イエスは「いいえ、知らなかった!あなたにはわたしがごく普通の人には見えないのか。わたしは他の人と同じだ。父が遣わすのは普通の人で、特別な人ではない。わたしがする働きはわたしの天の父を現わしているけれど、わたしのイメージ、人格、肉は天の父のただ一部でしかなく、わたしの天の父を完全に表すことはできない。わたしは霊から生まれたが、やはり普通の人で、わたしの父はわたしを特別な人としてではなく、普通の人として地上に送った。」ペテロはこれを聞いたときはじめて、イエスについて少し理解できたのである。そして、イエスの教え、イエスの指導、イエスの支え、などについて数えきれないほどのイエスの働きを経験してからはじめて、ペテロはさらに深い理解を得たのである。イエスは30歳の年に、ペテロに全人類の贖いのために、十字架につけられることになったとこれから起こる十字架の話をした。イエスはまた十字架に張り付けになった3日後に、人の子は復活し、復活してから40日間人々に現われるともペテロに言った。ペテロはこのような言葉を聞いて悲しかったが、イエスの言葉を常に心に留めた、イエスにもっと近くなった。

   しばらくして、ペテロはイエスが行った全てのことは、神が行ったことだと認識するようになり、イエスは特別に愛すべき者であると考えるようになった。このように理解できるようになってはじめて、聖霊が彼の内から啓いたのである。それから、イエスは弟子たちやイエスに従うその他の者たちに向かって言った。「ヨハネ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」ヨハネは「あなたはモーセです。」と答えた。それから、ルカに向かって「そしてルカ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」と聞いた。ルカは「あなたは最も偉大な預言者です。」と答えた。そしてひとりの姉妹に尋ねた。「あなたはわたしをだれだと言うのか。」姉妹は「あなたはとこしえからとこしえに多くの言葉を語る最も偉大な預言者です。誰の預言もあなたほど偉大な預言はなく、誰の知恵もあなたほど深くはありません。あなたは預言者です。」と言った。それからイエスはペテロの向かって「ペテロ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」と尋ねた。ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。あなたは天から来られ、地のものではありません。あなたは神の創造物と同じではありません。私たちは地上にいて、あなたは私たちとここにいますが、あなたは天のものです。あなたはこの世のものでも、地のものでもありません。」聖霊がペテロを導き示した経験を通して、彼はこの理解を持つことができるようになったのである。これを悟って、ペテロはイエスが行う全てのことを更に褒めたたえ、イエスのことを更に愛すべき者と思うようになり、イエスと離れたくないという思いを常に心に持つようになった。だから、イエスが十字架につけられ、蘇った後にイエスが初めてペテロに現れた時、ペテロはこの上もない幸せに泣いた。「主よ!あなたはよみがえられました!」それから、泣きながら、ペテロは大きな魚を釣り、それを料理し、イエスにふるまった。イエスは微笑んだが、語ることはなかった。ペテロはイエスが復活したことを知っていたけれど、彼はその奥義を理解していなかった。ペテロがイエスに魚を差し出したとき、イエスは拒絶することもなかったが、話すことも座って食べることもしなく、その代わり突然消えてしまった。これはペテロにとってあまりにも衝撃的なことだったが、復活したイエスと以前のイエスとは違うことをその時はじめて理解した。一旦これを理解すると、ペテロは嘆いたが、主が主の働きを完成したことを知って慰めもまた与えられた。ペテロはイエスが働きを完成したこと、イエスが人と共にいられる時が終わったこと、それからは人は自分たちの道を歩んでいかなくてはならないことを知った。イエスはかつてペテロに「あなたもわたしが飲んだ苦い杯(これはイエスが復活の後言ったことである)を飲まなければならない。あなたもわたしが歩いた道を歩み、わたしのために命を捧げなければならない。」と言った。今のように、当時は面と向かって会話はしなかったのだ。恵みの時代では、聖霊の働きは全く隠されており、ペテロは大きな困難で苦しみ、時には次のように叫ぶことさえあっただろう。「神様!私にはこのいのちしかありません。あなたにとってはあまり価値がないでしょうが、私はこのいのちをあなたに捧げたいのです。人間にはあなたを愛する価値はなく、人間の愛も心も価値がありませんが、あなたは人の心のもくろみを見ることができると私は信じています。たとえ人の肉体はあなたに受け入れられなくても、あなたに私の心を受けて欲しいのです。」このような祈りをして、ペテロが「私は神様に私の心を完全に捧げます。たとえ私は神様のために何もできなくても、私は忠実に神様の意を満たし、神様に自分自身を心から捧げます。私は神様が私の心を見てくださるに違いないと信じています。」と祈ったとき、特に励ましを受けた。ペテロは「私は人生に何も求めませんが、神様への私の愛の思いと私の心の願いが受け入れられるよう願っています。私は長い間、主イエスと共にいましたが、イエス様を愛したことはありませんでした。これこそ私の最も大きな負債です。私がたとえイエス様といても、私はイエス様を知りませんでしたし、イエス様の陰で不遜な言葉さえ語っていました。これらの事を考えると、私は主イエスにもっと恩義を感じます。」と言った。ペテロはいつもこのように祈った。彼は「私はちりよりも小さいものです。私は神様にこの忠実なる心を捧げる他には何もできません。」と言った。

   ペテロの体はほとんど完全に破壊されたが、イエスが彼の内に励ましを与えた時がペテロの体験の頂点だった。そして、イエスはペテロに一度姿を見せた。ペテロが非常に大きな苦しみに会い、心が打ち砕かれたとき、イエスはペテロに「あなたは地上でわたしと共にいたが、わたしも地上であなたと共にいた。わたしたちが天国で共に一緒になる前だけれども、それは結局霊の世界のことだ。今、わたしは霊の世界に戻っているが、あなたは地上にいる。というのはわたしは地のものではないので、あなたも地のものではないけれど、あなたは地上での役割を達成しなければならない。あなたはしもべであるので、一生懸命あなたの義務を果たさなければならない。」と指導した。ペテロは神のそばに戻ることができると聞いて、慰められた。ペテロは寝たきりになるほど苦しんでいた時、彼は「私はあまりにも堕落しており、神様に満足していただくことができない。」というほどまでに自責の念にかられていた。イエスは彼に現れ、「ペテロよ。あなたはわたしの前で決心したことを忘れてしまったのか。あなたはわたしが言ったことを本当に全て忘れてしまったのか。あなたがわたしに決意したことを忘れてしまったのか。」と言った。ペテロはその者がイエスであると分かると、床から起き上がった。イエスは彼を慰め、こう言った。「わたしは地のものではない。もうすでにあなたにそう言っておいただろう――あなたはこのことを理解しなければならないが、わたしがあなたに言ったもうひとつのことも忘れてしまったのか。『あなたも地のものではなく、世の者でもない。』ということだ。今、あなたにはしなければならないことがある。あなたはこのように嘆き、このように苦しんでいてはいけない。人間と神は同じ世界に住むことはできないけれど、わたしにはわたしの働きが、あなたにはあなたの働きがあり、いつかあなたの仕事が終わるとき、わたしたちは同じ境地に共にいて、わたしととこしえにいるようあなたを導くだろう。」と言った。ペテロはこの言葉を聞いて慰められ、再び確信を得た。彼はこの苦しみは耐えて体験しなければならないことを知っていた。それからのち霊感が与えられる。イエスはペテロに要所要所で特別に現れ、特別な導きや示し、指導を与え、彼の内に多くのことをした。そしてペテロは何を一番後悔したのだろうか。イエスはペテロに別の質問をした(それはこのようには聖書に記録されていないけれども)。ペテロが「あなたは生ける神の子です。」と言ってから間もないことで、それは「ペテロよ、あなたはかつてわたしを愛したことがあるのか。」という質問だった。ペテロはイエスが言ったことの意味が分かっていた。そして「主よ!私はかつて天の父を愛しましたが、私はあなたを愛したことはなかったことを認めます。」と答えた。するとイエスは、「人が天の父を愛さないなら、地上の子をどうして愛すことができるのだろうか。もし人が神によって遣わされた子を愛さないなら、彼らは天の父をどうして愛すことができるのだろうか。もし人が地上の子を本当に愛するなら、彼らは天の父も本当に愛しているのだ。」と言った。ペテロはこれらの言葉を聞いたとき、自分の欠陥を気づいた。彼はいつも「私はかつて天の父を愛したことはありますが、あなたを愛したことは一度もありませんでした。」と言って涙を流すほど後悔した。イエスが復活し、昇天してから、ペテロはさらにもっと自責の念にかられ、嘆いた。自分の昔の働きや現在の背丈を思い出して、彼は神の願いを満たしていなかったことや、神の基準に達していなかったことなど常に後悔と負債を感じて、しばしば祈りの中でイエスのもとへ行った。これらのことは彼の大きな重荷となった。ペテロは「いつか、私は私が持っているもの全てと私の全てをあなたに捧げます。私はあなたに価値あるものなんでも捧げます。」と言った。ペテロは「神様、私には一つの信仰と一つの愛しかありません。私の命には何の価値もありませんし、私の体にも何の価値もありません。私には一つの信仰と一つの愛しかないのです。私の気持ちの中ではあなたに信仰を持っており、心の中ではあなたに愛を持っています。この2つしかあなたに捧げる物はありません。他に何もありません。」と言った。イエスが十字架につけられる前に、ペテロに「わたしはこの世の者ではない。あなたもこの世のものではない。」と言ったので、ペテロはイエスの言葉で大いに励まされた。後に、ペテロが激しい痛みに見舞われたとき、イエスは「ペテロよ、あなたは忘れてしまったのか。わたしはこの世のものではない。わたしが早く離れたのはわたしの働きのためだけだ。あなたもこの世のものではない。忘れてしまったのか。あなたに2度言ったが、覚えていないのか。」とイエスは彼に思い出させた。ペテロはイエスの言葉を聞いて「私は忘れていません!」と言った。それからイエスは言った「あなたは天で一度わたしと幸せな時を過ごし、わたしのそばでしばらく過ごしていた。あなたはわたしがいなくて寂しく思っているが、わたしもあなたがいなくて寂しく思っている。わたしの目には被造物は述べる価値はないけれども、汚れのない愛おしい者を何故愛さずにはいられようか。あなたはわたしの約束を忘れてしまったのだろうか。あなたは地上でわたしが与えた任務を受け入れなければならない。わたしが託した仕事を果たさなければならない。いつかあなたをわたしのそばに確かに導くであろう。」これを聞いて、ペテロは増々励まされ、さらに大きな激励をもらった。それは彼が十字架につけられたとき、「神様!私はあなたをいくら愛しても十分ではありません。たとえあなたが私に死ねと言われても、やはり私は十分愛したとは言えません。あなたが私の魂をどこに送られても、あなたが約束を果たされても果たされなくても、あなたがその後何をなされても、私はあなたを愛し、信じます。」ということができた。彼がしっかり持っていたのは信仰と真の愛だった。

   ある夜、ペテロを含めて数人の弟子たちは釣り舟に乗っていた。彼らはイエスと一緒で、ペテロはイエスに「主よ!私は長い間お聞きしたいと思っていた質問があります。」と非常にあまい質問をした。イエスは「それなら聞きなさい!」と答えた。ペテロはそれから「律法の時代になされた働きはあなたがなされたことですか。」と尋ねた。イエスはまるで「この子は、なんと未熟なのだろう!」と言っているかのように、微笑んだ。イエスは目的を持って「それはわたしの働きではない。それはヤーウェとモーセがしていることだ。」と続けた。ペテロはこれを聞いて「ええっ!あなたがなさっているのではなかったのですか。」と叫んだ。ペテロはそういうと、イエスはそれ以上何も言わなかった。ペテロは「それをされたのはあなたではなかったのですね。だからあなたは律法を滅ぼしに来られたわけですね。それはあなたがなされたことではなかったのですから。」と独り言を言った。彼の心も「楽に」なった。その後、イエスはペテロはかなり未熟だと認識した。その時はまだ彼には物事を見抜く力がなかったので、イエスは他には何も言わなかったし、直接反論しようともしなかった。かつてイエスは会堂で説教をしていて、イエスの説教を聞こうとペテロも含めて多くの人たちがいた。イエスは「とこしえからとこしえに来る方は人類を罪から贖うために、恵みの時代に贖いの働きをするが、その者は人を罪から離れさせるにあたって、何の規律に縛られることもない。その者は律法から離れて、恵みの時代に入っている。その者は人類全てを贖わっている。律法の時代から恵みの時代に闊歩するが、誰もヤーウェから来たその者を知らない。モーセが行なった働きはヤーウェに贈られた。モーセはヤーウェが行った働きの故に、律法を作ったのだ。」と言った。これを言うと、イエスは「恵みの時代に恵みの時代の戒めを廃止する者たちは、大きな不幸に見舞われるだろう。彼らは神殿に立ち、神の崩壊を受けなければならず、火が彼らの上にふりかかるだろう。」と言った。ペテロはこれを聞き終わると、少し反応した。彼が経験している間、イエスはペテロを養い、支え、腹を割ってペテロと話し、それでぺテロはイエスのことをもう少し良く理解できるようになった。ペテロはその日イエスが説教したことを思い返し、釣り舟に乗っていた時にイエスに質問したこと、イエスの答え、そしてイエスが笑った様子を思い出し、そのときはじめて、ペテロは全てを理解した。その後、聖霊がペテロを啓発し、それによってのみ、ペテロはイエスが生ける神の子であることを理解した。ペテロの理解は聖霊の働きによるものだが、それには過程があった。それは質問したり、イエスが説教するのを聞いたり、イエスとの特別な交流やイエスの特別な養いを受け取るなどして、ペテロはイエスが生ける神の子であることを認識するようになった。それは一夜にして成し遂げられたことではなく、過程であって、これらは彼の後の体験に役立った。イエスは他の人たちには完全になるための働きはしなかったのに、なぜペテロだけに行ったのだろうか。それはペテロしかイエスが生ける神の子であることを知らず、他には誰も知らなかったからである。イエスについて行く間に、多くの弟子たちはたくさんの認識を得たが、彼らの認識はうわべだけのものであった。これこそペテロが完全にされる模範としてイエスに選ばれた理由である。イエスがその時ペテロに言ったことは、今日人々に言っていることで、彼らの知識や霊的成長もペテロのレベルに到達しなければならない。それは神が全ての人を完全にする条件と道に一致している。今日の人たちはなぜ真の信仰とまことの愛を持つことを要求されるのだろうか。ペテロが体験したことはあなたがたも体験しなければならないし、ペテロが自分の体験から得た実はまたあなたがたの中にも顕れなければならない。そして、ペテロがこうむった苦しみはあなたがたも確実に経験しなければならないのである。あなたがたが歩く道はペテロが歩いた同じ道である。あなたがたがこうむる苦しみはペテロがこうむった苦しみである。あなたがたが栄光を受けるとき、またあなたがたが実生活を生きるとき、あなたがたはペテロのイメージを生きているのである。道は同じで、これと一致することで、人は完全にされるのである。しかし、今日の人々の素質はペテロのそれと比較して少々欠けている。というのは時代が変わり、堕落の度合いも変わったからである。そしてまたユダヤは古代文化を伴った積年の王国だった。だから、あなたは自分自身の素質を改善する努力しなければならない。

   ペテロは非常に思慮深く、すること全てに鋭敏で、また非常に正直だった。彼は多くの挫折を体験した。ペテロは14歳で社会に出て、しばしばユダヤ会堂に出席する一方、学校にも行っていた。彼は非常に熱狂的で、いつも会合に喜んで出席した。そのとき、イエスはまだ正式には働きを始めておらず、恵みの時代の始まりに過ぎなかった。ペテロは14歳のとき、宗教関係者と接し始めた。18歳になる頃には、宗教エリートと接するようになるが、その後舞台裏で宗教的無秩序を目撃してから、彼らから離れていった。この人たちがどんなに悪賢くて、狡猾で、争いをもたらしたかを見て、彼は非常にうんざりしたのである(彼が完全にされるために、その時聖霊がこのように働いたのである。聖霊は特にペテロの心を動かし、彼の中で特別な働きをした)。そしてペテロは18歳のとき会堂を退会した。ペテロの両親は彼を迫害し、彼に信じさせなかった(彼らは悪魔に属し、信仰もなかった)。とうとう、ペテロは家を出て、意のままに旅をし、2年間魚を釣ったり、説教をしたりした。その間、かなりの人たちを導いた。今、ペテロがどんな道を歩んだのかあなたは明確に見ることができるはずである。もしこれがはっきり見えたら、今日なされている働きに確信を得ることができ、あなたは不満を言ったり、消極的になったり、何かを待ち焦がれたりすることもないだろう。あなたは当時のペテロの気持ちを経験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来も祝福も求めることはなかった。彼は利益、幸福、名声、世の富を求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけ求めた。それは神の愛に答え、彼にとって最も貴重なものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを見上げ、敬愛し、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした。」とイエスに祈った。彼は常に決意をするために祈り、絶えずイエスの言葉[a]によって励まされ、それらの言葉を動機へと変えたのである。いくつかの事を経験したのち、イエスはペテロがイエスをもっと慕うようにと、あえてペテロを試した。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛に答えるに相応しいものではありません。私を早く取り除いてくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私が必要でしょうか。あなたは私をいつ取り除いてくださるのでしょうか。私はいつもう一度あなたの御顔を拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。これ以上反抗することも望んではいません。できるだけ早く私が持っている全ての物をあなたに捧げる用意ができていますし、あなたをこれ以上悲しませたくありません。」とペテロは言った。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、まだ分からなかった。彼が試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとし、わたしの働きの結晶として、あなたが一つの実になり、わたしが喜ぶものとなるためである。あなたは本当にわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれど、わたしを生き抜いたのか。わたしのために何をしてくれたか。あなたはわたしの愛にふさわしくないと思っているのが、わたしのために何をしてくれたのか。」と言った。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことが分かり、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わず、その後の彼の祈りは更にもっと素晴らしくなった。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の何よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、私をいつも信じてくださったことなど私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きで持って、私は最善を尽くします。あなたは私ができることを御存知で、私の役目ももっとご存知です。あなたの願いは私の指令で、私はあなたに持っているもの全てを捧げます。私があなたにできることはあなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗したけれども、あなたはこのような罪を犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。あなたに私の全人生を捧げたいです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行うことを望むだけです。あなたの苦い杯から飲み、私はあなたの意のままです。」

   あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。