賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

真の幸福を見つけた

2020-04-25 16:21:19 | 信仰生活

   私はごく普通の農家に生まれました。裕福ではなかったものの、父と母は互いに愛し合い、私のことを大切にしてくれました。家庭生活が幸せで、私たちが祝福されていたのは間違いありません。やがて成長した私は自分にこう言い聞かせました。

   「私も自分に優しくしてくれる夫を見つけて、幸せな家族を築かないと。。それが一番大切なんだから。豊かになろうとは思わない。夫と愛情豊かな関係を築き、穏やかな家庭生活があればそれでいいのよ」

   夫とは共通の知り合いを通じて出会いました。最初こそ、とても背が低かったので好きではなかったのですが、父と母は彼に好印象を抱きました。そして私に、「この人は優しい心の持ち主だから、お前のことを大事にしてくれるよ」と言いました。確かに、人と誠実に接しているのはわかりますし、自分の家族も大切にしてくれる人のように見えました。それで私も、「少しくらい背が低くてもいいわ。私のことを大事にしてくれればそれでいいのよ」と思いました。こうして私は結婚に同意し、1989年に結婚しました。結婚後、夫は私に優しく接し、大切にしてくれました。私も心を込めて夫を気遣い、いつも夫のことを考えました。娘2人を授かってからは、夫がなんの心配もなく仕事に行けるよう、私は家で家事に専念しました。やがて、娘2人が進学のため町を出ることになったので、この子たちが学校に通うあいだもそばにいられるよう、近くの場所に部屋を借りました。自分でなんとかできる限り、私は一度も家族のことで夫を煩わせませんでした。つらいことがあったり、疲れたりすることもありましたが、私たちの夫婦関係はお互いへの愛と気遣い、そして配慮に満ちていて、私たちは穏やかな生活を送っていました。自分の生活は本当に幸福だと思っていたのです。

 

 

   当時、夫の給料は日々の出費をまかなえる程度で、。我が家の生活は多少大変でしたが、私は決して旦那に文句を言いませんでした。夫と妻は人生の喜びも悲しみも分かち合うべきだと思っていたのです。しかしその後、夫の職場の財務状況が悪化し、それまでの半分の給料しかもらえないまでになって、子どもたちの学費を払うのも難しくなりました夫のストレスを軽くしようと、私は親戚から頻繁にお金を借りるようになりましたが、内心では「この困難は一時的なもので、時間が経てば状況はよくなる」と思っていました。ところが、長いあいだお金を借り続ける羽目になったので、私たちの借金はどんどん増えてしまい、2人とも大きなストレスを抱えるようになりました。2013年、夫は海外に出稼ぎに行くことを思いつきました。それを聞かされた私は、夫がいなくなることに気乗りしなかったのですが、「この人が2、3年海外に行ってお金を稼いでくれれば借金をいくらか返済できるし、家庭の状況もよくなるわ。それに子どもたちは育ち盛りだし、いい生活をさせてあげたい」と考えました。そこで家族のために、夫が海外に出稼ぎに行くことに賛成たのです。

   夫はカンボジアに行って3年間滞在しましたが、その間、私は家で子供たちと年老いた両親の世話をしました。最初、夫はよく電話をくれるなど、家族を大事にしていることを示し、仕送りもしてくれました。しかし時間が経つにつれて夫からの電話は少なくなり、しまいには電話をかけることも仕送りをすることも滅多になくなりました。私は夫に何か起きたのではないかと心配になり、娘たちを連れて夫に会いに行きました。カンボジアに着くと、旦那が無事で健康だとわかったので、私はとても安心しました。カンボジアを訪れるのはこれが初めてだったので、3人ともしばらく夫と一緒に過ごし、それから中国に戻ろうと考えていました。しかし、夫と一緒に外出するたび、彼を知る人たちが私を変な目で見るのです。 私たちはこの国の言葉を話せなかったので、その意味はわかりません。それから一週間後、夫が何の前触れもなく、見知らぬ子供を腕に抱えて私に会いに来ました。そしてその子に、「さあ、叔母さんに挨拶するんだ」と言うではありませんか。そのとき、私はどういうことか訳がわからず、ただ呆然と見つめていました。夫に訊いてみると、この子は彼がカンボジアで出会った別の女性との間に生まれた子供だというのです。私は何も言えなくなるほど腹が立ち、自分が間抜けのような気がしてすっかり途方に暮れました。その怒りをぶつけようとしたところ、夫はとても穏やかにこう言いました。

   「こんなの普通だよ。ここでは沢山の人がやってることなんだ!」

   夫がそう言うのを聞いて、私は全身が震えだすほどの怒りを覚えました。長年にわたって私を愛してきた夫が、こんな冷たく無情なことを口にして、こんな恥知らずなことをしてしまうなど、考えてもいなかったのです。私は怒りに任せて夫の顔を2度激しく平手打ちしました。私にとって、夫の裏切りは青天の霹靂でした。この事実を受け入れるなど、とてもできません。私はすっかり麻痺してしまい、床に座り込んでひたすら激しく泣きました。そして何度も自分にこう問いかけました。

   「この人はどうして私にこんなことをするの?私が知る夫はどこに行ってしまったの?この人は私に永遠の愛を誓ったけれど、その誓いも優しさも気遣いもすべて嘘だったっていうの?私は自分のすべてをこの家族に捧げてきたのに。お金やいい物をねだったことすらないわ。でもいまは……」

   私はとてつもない屈辱を感じて心の奥底で傷つき、自分がひどい扱いを受けていると思いました。このまま生き続けるなどとても無理なような気がしたのです。

   その後、私は毎日涙で顔を濡らしていました。その女も、あの子も憎かったのです。そして夫に対し、離婚して娘たちを中国に連れ帰り、この「家族」とやらから離れるつもりだと告げました。しかし驚いたことに、夫は離婚に同意しないだけでなく、あの女から離れるのも嫌だというのです。その後わかったのですが、私の家族の何人かは、夫が別の女と付き合い、子どもをもうけたことを以前から知っていて、その間ずっと私に隠していたのです。そのとき、私は生きる上での尊厳を奪われたと、ますます強く感じました。自分は家庭を切り盛りすることに心を捧げてきたのに、そのお返しに裏切られ、騙されるなどとは想像すらしていませんでした。それだけでもすでに十分つらいのに、本当に許せなかったのは、夫の知り合いが全員、私を変な目で見ることでした。その人たちは私の陰口さえ言っていたのです。そもそも私を裏切ったのは夫で、私の家庭を滅茶苦茶にしたのはその女なのに、いまの他人の目には私が出しゃばってきたと映っていました。そのとき感じていた苦痛を言葉にするなど到底できません。一日一日があたかも一年であるかのようにゆっくり過ぎ、私は10キロ以上も体重を減らしました。

   絶望に身を委ねていたまさにそのとき、全能神による終わりの日の救いが私に届きました。隣に住むリンチンさんという人がそれまでの出来事を聞いて私の家にやって来て、その福音を私に説いたうえで、「信仰をおもちなさい。神があなたを助けてくださるわ」と言ってくれたのです。しかし、無神論的な教育を受けて育った私のような人間が、一瞬のうちに信仰をもてるはずもなく、何も答えませんでした。その後、リンチンさんが再び話をしに来てこう言いました。

   「神の御言葉をお読みなさい。苦しみからあなたを救えるのは神だけなのよ……」

   彼女の言葉がどれも誠実そのものだったので、私は少し心を動かされ、再び拒否するのは恥ずかしいことだと思いました。そこで『言葉は肉において現れる』という本を受け取ったのですが、それを開いたところ、次の一節が目に留まりました。

   「全能者のいのちの供給から離れた人類は、存在の目的を知らないが、それでも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然として目を閉じようとせず、自らの魂を感じることもない肉の塊として頑なにこの世における下劣な存在を引きずっている。あなたはこのように何の希望もなく生き、他人も何の目的もなく生きている。伝説のあの聖なる者だけが、苦しみにうめきながら彼の到来を待ち焦がれる人たちを救う。…あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。」 (『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)

   神による心のこもった御言葉を読むうちに、私は大声で泣きだし、神は本当に人類を理解していらっしゃると感じました。夫の裏切りのせいで死にたくなりましたが、自分にはその勇気もなければ、そのような形で死ぬことを望んでもいませんでした。人生の目標と方向性を失い、自分を保つことさえどうでもよくなっていました。しかし神の御言葉を読むと、人生に希望があって自分の心が安らぎを見つけられたような気がしました。夫には裏切られましたが、私は神にすがることができます。独りではないのです。全能神はこうおっしゃいました。

   「この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。」

   私は傷ついていたし、自分を気遣ってくれる人が誰もいなかったので、進んで神にすがろうと思いました。私は神の抱擁を必要としていたのです。毎日がとても苦しくつらいので、そのようなままで生きるのは耐えられません。神は人類をとてもよく理解していらっしゃるので、必ずや私をお導きになり、この苦しみから逃れさせてくださるはずだと思いました。そこで私はリンチンさんと一緒に神の御言葉を読み、神を讃える讃美歌を憶え始めました。すると彼女はこう言いました。

   「大変なときは神に祈って御言葉をお読みなさい。神は私たちの傷ついた魂を癒やしてくださるわ」

   私はそのとおりにしました。そして全能神教会の兄弟姉妹が撮影した音楽動画や讃美歌動画を見ていると、心の中で幸せが湧き上がってきました。特に『カナンの地にある喜び』という動画を見たときは、兄弟姉妹の歌と踊りに合わせて自分の心が踊っているかのような気がしました。心の憂鬱と苦痛が徐々に消えてゆき、ようやく顔に笑みが浮かぶようになりました。そして突然、これがまさに私の望む家族であり、真の幸福は兄弟姉妹と一緒でしか見つけられないと感じたのです。そこで私は全能神教会に加わり、兄弟姉妹と教会生活を送るようになりました。

   その後、私は神による次の御言葉を読みました。

   「サタンが社会動向を利用して人間を堕落させることです。この社会動向には様々なものがあります。『それは衣服のことですか。最新ファッションや化粧品、ヘアスタイルやグルメに関することですか』などと言う人がいます。社会動向とは、そうした物事に関することですか。それらも社会動向の一部ですが、ここでそうした物事については取り上げません。ここでは、社会動向が人間にもたらす考えや、社会動向が世間における人間の行動にどう影響するか、そして社会動向が人間にもたらす人生の目標や人生観についてのみ話し合います。社会動向は、人間の精神状態を支配し、影響を与えることがあるので、極めて重要です。こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に堕落させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。…社会動向が席巻すると、その創出者となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは、ある種の行動を始めたり、ある種の考え方や物の見方を受け入れたりして始めます。しかし大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを知らず知らずのうちに、無意識のうちに受け入れるようになり、それに呑み込まれて支配されるようになります。こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより「授けられた」生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より)

   神によるこの御言葉を読んで、「こんなの普通だよ。ここでは沢山の人がやってることなんだ!」という夫の言葉が頭に浮かびました。社会の悪しき潮流がいかに人々を呑み込んで堕落させるかを、神の御言葉は述べていますが、夫の考え方やものの見方はそこで明らかにされていることの実例ではないでしょうか。中国を離れる前、夫は家族の面倒を見て、私と子供たちを大事にしていました。しかし、出稼ぎに行ってからわずか3年間で、まっしぐらに社会の悪しき潮流に従うようになってしまい、一番近い人たちを裏切ってしまったのです。そして今日の社会に目を向けてみると、愛人でいることを恥とも思わない女性が数多くいます。そうした人たちは、それはむしろノウハウを知っていることを意味するのだと考えているのです。また多くの男性も、「英雄色を好む」などという悪しき考えに毒されています。彼らはそのように考えて恥じることなく不倫してしまうのです。それを恥ずかしいことと思わず、それどころか自慢すべきことだと思っています。夫は私との離婚を望まない一方で、あの女とも別れたがっていません。それは、夫がこのような悪しき考え方と見方に支配されているということではないでしょうか。神の御言葉を読んで、実際には誰もが被害者なのだということがわかりました。サタンが私たちに植え付けた悪しき考え方によって、全員が惑わされてきたのです。私たちが道徳も羞恥心も失うほど堕落させられたのは、それが唯一の理由です。私は「自分勝手な欲望を満たすことで、人は何を得られるのだろう。本当に幸せを得られるのだろうか」と不思議に思いました。それがわかると、夫もあの女も自分より幸せだとは思いません。そのうえ、あの子はなんの罪もない被害者なのです。私たち家族全員が被った苦痛は、ひとえにサタンによる堕落と害悪の結果ではないでしょうか。そして自分自身のことを考えると、神の救いが私のもとに届いていなかったら、私もまた社会の悪しき潮流によって腐敗していたことでしょう。つまり、夫は別の女を見つけたし、私と付き合ってくれる男もたくさんいるだろうから、自分も同じように別の誰かを探していただろうと思ったのです。まさにサタンに呑み込まれようとしていた私を救ってくださった神に感謝いたします。私が神の御前に出てそのご加護を受けるのを、神は許してくださいました。さもなければ、私はこの社会の悪しき潮流によって破滅していたでしょう。

   その後、私は次の神の御言葉を読みました。

   「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人間性を生きることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。」 (『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より)

   神の御言葉から、私は人類に対する神の愛とお気遣いを感じることができました。また、サタンがありとあらゆる社会の潮流によって私たちを堕落させ、危害を加えようとも、神が私たちの救いを諦めたことは一度もないことも理解するようになりました。神はいつも静かに私たちをお守りになり、私たちが神の御前に出てその救いを受け入れられるよう、あらゆる種類の状況を用意なさっているのです。夫に裏切られたあと、自分が憤りと苦しみのうちに生きていたことを振り返ると、神のご配慮とご慈悲がなければ、また神の御言葉によって慰められ、そして励まされることで、サタンが人類を堕落させるために使う策略や狡猾なたくらみを見破り、サタンの悪しき潮流が私たちをいかに毒しているかをはっきり見極めることができていなければ、私は憤りと苦痛の状態の中で永遠に生き続けていたでしょう。そこから逃れることもできず、さらにはただ心の憎悪を解消するため、自分を完全に滅ぼすことさえしていたはずです。この経験を通じ、私は神の愛を体験しただけでなく、サタンの堕落と害悪から人類をお救いになれるのは神だけであり、私たちをいのちの光の道へとお導きになれるのも神だけであることを本当に実感するようになりました。あの苦痛の淵から私を救ってくださった全能神に感謝いたします!

   最近、私は神の御言葉をさらに読んだことで、真理を少しは理解するようになり、多くの問題を見抜けるようにもなりました。もう夫のことも、あの女のことも憎んではいません。どのような人生を送りたいとしても、彼らは自由に選べるのです。また、親戚や友人に対しても穏やかに、かつ冷静になることができます。私たちはみなサタンによって堕落させられ、一人残らずその被害者なのですから、自分の家族を責めることももうありません。現在、私は兄弟姉妹と頻繁に集会に参加しており、そこで神の御言葉を読み、交わりを行ない、自分の個人的な経験を伝え合っています。神の御言葉から日々収穫を得て、心の中で安らぎと喜びを感じ、生活は希望に満ち溢れています。私を人生の正しい道に導き、本当の家を与えてくださった全能神に感謝を捧げます。ここは私が真の幸福を見つけた場所であり、私は永遠に神に付き従うことだけを願います!


神様の御声をどのように聞き分けるのか

2020-04-24 15:00:30 | 天国への道

   参考聖書箇所

   「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

   「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(ヨハネの黙示録 5:5)

 

 

   関連する神の言葉

  受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より

   神の言葉は、外見上平易であるか深遠であるかに関わらず、人がいのちに入るには全て必要な真理であり、人間が霊と肉の両方において生存することを可能にする生ける水の泉である。神の言葉は、人間が生き続けるために必要なことがら、日常生活を送るための教義と信条、救いを得るために進むべき道、目標、方向、神の前に造られた者として持つべき一つひとつの真理、そしてどのように神に服従し、神を礼拝すべきかに関する一つひとつの真理を与える。神の言葉は、人間の生存を保証するものであり、人間の日々のパンであり、また人間が強くあり、立ち上がることを可能にする頑強な支えでもある。神の言葉には、被造物である人類がそれを実際に生きる際、正常な人間性に関する真理の現実が豊かに含まれており、人間が堕落から解き放たれ、サタンの罠を避けるための真理と、創造主が被造物である人間に与えるたゆみない教え、訓戒、励まし、慰めが豊富に含まれている。神の言葉は、肯定的な事のすべてを理解するよう人間を導き啓発する灯台であり、人間が全ての正しいこと良いことを実際に生き、所有するための保証であり、人々、出来事、物事を測る基準であり、また人間を救いと光の道へと導く道標である。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、真理といのちを与えられ、その中でのみ、正常な人間性とは何か、有意義な生涯とは何か、真の被造物の存在とは何か、神への真の服従とは何かを理解するようになる。その中でのみ、人間がいかにして神を思いやるべきか、被造物としての本分をいかにして尽くすか、真の人間らしさをいかにして身につけるかを理解するに至る。そうしてはじめて、人間は真の信仰や真の礼拝とは何を意味するのか、天と地と万物の支配者が誰であるかを理解するようになる。そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかなる手段で万物を支配し、導き、与えるかを理解するようになる。人間は、そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかにして存在し、現れ、働きを行うかを理解し把握するようになる。……神の言葉を実際に経験することから離れるなら、人間は神の言葉と真理に関する真の認識と洞察を持つことがない。そうした者は、まさしく生きる屍であり、まさしく抜け殻であり、また創造主に関する認識は、その者とは一切無関係である。「神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道」より

   神を知ることは、神の言葉を読み理解し、神の言葉を実践し経験することを通じてなされなければなりません。「私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、神の愛と人類の救い、そして人類を救う神の方法を見ることができます。神の言葉は人間を使って書かせるのではなく、神自身によって表現されるからです……それは神によって直々に表現されるのです。つまり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待を表現しているからです。神の言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はなんと厳しいのかと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、あらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は神の侵すことを許さない性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出向いたりする価値はありません。今、人々が神の前に出向けるのは、ひとえに神の恵みです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義から見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。「受肉した神をいかにして知るか」より

   今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より

   神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。「神の働きと人の働き」より

   イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、のんきであってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自らをいい加減に扱ってはならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より


聖書の名言-「クリスマス」に関する21つの聖句

2020-04-23 12:07:44 | 聖書の名言

  聖書の名言-「クリスマス」に関する21つの聖句

 

ルカによる福音書 2:11

きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

 

ルカによる福音書 2:14

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。

 



ヨハネによる福音書 3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

イザヤ書 43:4

あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。

 

イザヤ書 42:3

また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。

 

コリント人への第一の手紙 13:13

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

 

ピリピ人への手紙 3:13-14

すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

 

ルカによる福音書 19:9

きょう、救がこの家にきた。

 

ヨハネの第一の手紙 1:9

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

 

エレミヤ書 31:3

わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。

 

マタイによる福音書 5:4

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

 

マタイによる福音書 5:8

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

 

マタイによる福音書 1:23

「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

 

テサロニケ人への第一の手紙 5:16-18

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

 

詩篇 121:1-2

わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。

 

ローマ人への手紙 8:28

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 

イザヤ書 9:6

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

 

ミカ書 5:2

しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。

 

ローマ人への手紙 5:5

そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

 

マタイによる福音書 6:30

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。

 

コリント人への第一の手紙 13:4-8

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。


正直でいたら、私は本当に就職先が決まりました

2020-04-22 14:10:05 | 職場の人間関係

   大学の学位を持っていることが一般的であるこの時代、仕事を見つけるのはとても困難です。こういった状況の中、私は多くの求職者の中で際立つ方法を考える必要がありました。

   一度、友人の1人がこう言いました、「面接に行く時、会社はあなたの学歴を見るだけでなく、主にあなたの職歴に注目します。企業は職歴の無い新卒は雇ってくれませんよ。」これを聞いた私は心配になってこう思いました、「私は何の職歴も持ってない。私はただの新卒。仕事を見つけるにはどうしたらいいのかしら?」

   私は心配でしたが、それでも履歴書を書いて送付する必要がありました。私がそれを書いていた時、以前ウェブページを閲覧していた時に会社に採用してもらえるような職歴の書き方を教えてくれるプロフェッショナルがいるのを見たことを思い出しました。そして、私は頼みの綱を掴んだかのようにすぐさまオンライン検索をしました。しばらく閲覧した後、私は即座に希望を掴んだ気分になりました。こうして、私は彼らがオンラインで教えていた通りに履歴書を書こうとしました。

   しかし、ちょうど職歴の有無を書こうとした時、私は気おくれしてこう思いました:「仕事に関して、私は明らかに何もやったことがないのに、経験があると書かなきゃいけないなんて。これは正直な人のすることじゃないわ。」しかし私はこう考え直しました、「私は高学歴じゃないから。職歴はあると書けば、ひょっとしたら私の履歴書が面接官の注目を引いて、私の面接を予定してくれるかもしれない。それに、自分が選ばれるかどうかなんて分からないし。このまま書いて履歴書を送付した方がいいわ。」

 

 

   そして、私は履歴書に経験のない職歴を幾つか書いてそれを送付しました。意外にも、これが上手く行きました。数分の間に会社から電話があり、私に翌日の面接のオファーをしてくれたのです。私はこれをとても嬉しく思いました。私は職歴はとても重要だと思いました。

   翌日、私は気分よく面接に行きました。私は自分の面接をしてくれるマネージャーが難しい相手になるとは決して思っていませんでした。彼女は午後を通して私と話をし、私の職歴について沢山質問をしてきました。

   彼女は落ち着いた口調で私にこう聞きました、「ある化粧品のボトルが数本しか在庫にない場合、あなたならどう対応しますか?あなたは何をして販売する製品が確実に十分あるようにしますか?」「それは簡単です。時間の余裕を持ってもっと製品を購入します」、と私はすばやく答えました。その後すぐ、彼女は私に購買に関する細かい質問をしてきました。私はすぐさま呆然としてこう思いました、「こんな仕事には今まで一度も対応したことがないわ。前の会社ではレジの操作をしたり、サービスデスクで客の会員情報をタイプ入力したり、ラッフルの記録を記帳したりといった事務所内での事務処理といった小さな仕事を幾つかやったことがある程度だわ。彼女に本当のことを言うべきかしら?いいえ、そんなことできないわ。そんなことしたら採用してもられないわ。」切羽詰まった私はこれらの質問をすばやく考えてから、自分の理解した内容をもとに返答しました。

   私が返答した後、彼女は何も言いませんでした。その時、私はやっと安堵のため息をつきました。ちょうどその時、彼女は私がもし購買、販売、配達における問題に直面したら、それらをどう解決すべきかと続けて質問してきました。その時、私はまた返答につまりました。どのように考えても、答えが分かりませんでした。落ち着いた様子の彼女を見ていると、私は余計に緊張してこう思いました、「本当のことを言うべきかしら?そうしたらこんなに心配しなくて済むわ。でも今はどの会社も求職者の職歴に注目するわ。私は高学歴じゃないからそれだけでも既に欲しがられるのが容易じゃないのに。それに加えて、私には職歴が無いから、採用される確率はさらに低いわ。だから本当のことを言う訳にはいかないわ。でも、私は神の信者よ。嘘をつくことは神に嫌われるし、神の御心に沿っていないわ。半分だけ本当のことを言って彼女を騙そうかしら?」

   突然、彼女の携帯電話が鳴ったので、彼女は入り口の方に歩きながら電話に出ました。その時、私は少しだけホッとして、緊張のせいで手がすごく汗ばんでいるのに気が付きました。困った私は心の中で静かに神に祈りを捧げました、「ああ、神様。私はどうしたらいいのでしょう?」

   この時点で私は突然こう思いました、「神は誠実であられる。神は決して曖昧に喋られたり、振る舞われたりはしないのです。神は私たちが純真で幼い子供たちのようになることを求めておられます。一方には神の御要求があり、またその反対側には私の個人的な利益があります。私はどちらを選ぶべきなのでしょう?私は本当のことを話すべきなのでしょうか、話さなくてもいいのでしょうか?」私はずっと躊躇していました。私は正直になりたかったのですが、この機会を逃すのは耐え難いものがありました。この会社から面接のオファーを受けるのは私にとって容易なことではありませんでした。以前この職に就いていたことがないと言ってしまったら、このチャンスは間違いなく駄目になってしまいます。

   この瞬間、私はこうも思いました、「今日の世間の傾向は会社が人々を判断すること、そして採用することを彼らの職歴に基づいて行うように仕向けてはいますが、実際、全ては神の御手によってコントロールされ、計画されており、それはマネージャーの思考と考えも含まれます。私は職歴があると彼女に信じてもらうために嘘をついて彼女の信頼を得たとしても、私がこの仕事に就くことを神が御計画しておられなければ、彼女は私を採用することはないし、また採用されたとしても、私はこのように嘘をついてごまかしていたら長期間に渡ってこの仕事に就くことはできないでしょう。」

   この時、私は仕事を探し始める前に自分が仕事探しを神の御手に委ね、神の主権と御采配に従うと言って神に祈りを捧げていたことに気が付きました。しかし、現実を目の前にした私は神の御要求を完全に脇に置いてしまい、俗に言う「面接の成功は職歴にかかっている」ということを信じてしまいました。自分の履歴書を提出してからここに面接を受けにくるまでの間、私は嘘をついてこの仕事を手にすることを無駄に期待していたのです。面接の間、私はどのように嘘をつけば職歴が無いことがばれずに採用してもらえるかとずっと考えていました。ああ、私は仕事を手にするために考え過ぎて臆病になっていたのです。

   神様、有難うございます!こう考えていると、職歴は私が採用されるか否かの重要な要素ではなかったことを理解しました。それどころか、最終的な裁量権は神の御手にあるのです。その一方で、私は真実を話さないと、この仕事を手にしても不安を感じることになり、さらに重要なこととして、私は神の前で神への証言を失ってしまうことにも気が付きました。私は正直になれず神に御満足していただけないだけでなく、サタンの笑い者にまでなってしまうのです。この時、私は気持がとても明るくなり、こう決心しました、「私は彼女に真実を話す必要がある。」彼女が私を採用するか否かは神の御手にあるのです。彼女が私を採用してくれなくても、私は神の主権と御采配に従ってゆきます。」

   しばらくした後、マネージャーは電話を切り、中に戻ってきて私の面接を続行しました。面接の残りの間、私は聞かれた質問に対して本当のことを話しました。答えが分かっていればそのまま答え、答えが分からなければ分かりませんと答えました。私は質問に答える度に冷静で安定している感じがしました。以前の精神状態に比べ、私は気持がだいぶ楽になった気がしました。面接後、マネージャーは2日以内に結果が出からそれまで待つようにと私に言われました。私は、「明らかに見込みは薄いなあ」、と思いました。私は少しがっかりした気分でしたが、神の御心を理解した私は依然として冷静に最終結果を受け止めようと思いました。

   知らぬ間に2日が経ちました。私は採用の通知を受けなかったので、他の仕事に応募することにしました。しかし、意外にも、3日目の朝、私はマネージャーから電話を受けました。彼女はこう言いました、「あなたがとても正直な人であることが分かりました。ですので、あなたにチャンスを与えることにしました。とにかく職場で一生懸命学んでください。」これを聞いた私はとても驚いたと同時に恥ずかしくなってこう思いました、「私が正直?いいえ。神の御導きがなければ、私は確実に嘘をつき続けていたでしょう。これは全て神の私に対する働きの効果だったのです。」

   私はあの日面接に行ったことを考えずにはいられず、マネージャーは数人の求職者を面接したと言っていました。彼らは短期大学士や大学の卒業証書を持っていました。しかし、彼女は彼らを採用しなかったのです。彼らと比較すると、私は高い学位も職歴も持っていませんでしたが、それでも彼女は私を採用したのです。この瞬間、私は神がこの全てにおいて主権を握っておられたことを深く認識しました。私は自ら進んで正直な人を実践していた時、この仕事を逃さなかっただけでなく、神の祝福まで授かりました。この仕事を得られたのは神が私を御認めくださったということです。私は聖書に書かれているこの御言葉を実際に経験したのです、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」ヨハネによる福音書 4:23。


私と傲慢な課長の間の「堅氷」が溶けた

2020-04-21 13:41:04 | 職場の人間関係

   上司に困らされたら、どうすればいいですか。三年来、課長はいつも彼を困らせ、彼もずっと課長と張り合い、落ち込んで苦しく生きています。最後に彼はどのように苦痛の中から抜け出して、解放されて自由に生きているのか。どうぞ一名のクリスチャンの変化の経験を見てみましょう。

 

   快速ナビ

私は課長との張り合いが始まった

怒る根源を見つけた

神様の意図を理解した

再び困らされることに直面する時

課長との「堅氷」が溶けた

 

私は課長との張り合いが始まった

   私は電気溶接の作業員です。見事な深みのある技術を持っているから、今の会社に引き抜かれました。会社に来たばかりの頃、私が担当していた作業は一件の不良品があって、課長はわざわざ検査部門が私のために、検討会議を開き、私に不良品報告表を作らせました。私は、すべての人は皆不良品を作ったことがあるが、課長はあまり報告しないのに、なぜ今回はわざわざ検索部門が私に検討会議を開かせるのかと思いました。しかし、私はまたこう思います。今回は確かに私の間違いで、間違ったら、認めればいいです。それから私はこの事についてあまり考えないです。しかし、それから、課長はきりがなく依然として私を叱り、そして私に皮肉を言いました。「あなたはどうしてしでかすのか。」課長のこの態度を見て、私は自分のメンツと尊厳が大いに傷つけられたと感じ、思わず怒りを出しそうになり、「私はどうして間違ってはいけないのか、もう間違ったから、あなたはどうするつもりか。」と心に思います。これによって、私は課長と張り合い始めました。

   それから、課長はあらゆる面で私を困らせ、よく命令の口調で私にあれこれをするように指示し、またよく他人の仕事を私にやらせ、そして側で私をじっと見つめていました。これは課長がわざと私を狙い撃ちをし、私の粗捜しをするのを知って、私も人に負けないようにし、どんなに頑張っても仕事が終わらないとき、私は思い切ってもう進度を追わず、ゆっくりやります。しばらくしたら、お手洗いに行ったり、水を飲みに行ったりし、わざと課長の前を行ったり来たりし、故意に彼を怒らせます。課長は私の様子を見て、目をじっと見つめて私に大声で叫びました。「急いでいるのを、君は知らないのか。」「知っているよ。」「知っているのに、君はなぜ仕事を終わらせないのか。」「私の力はこれだけです。最初に仕事をする時もこのスピード、今も同じではないか。」課長が私の言葉を聞いて、タバコをもみ消し、ぷんぷん怒って去りました。私が仕事をする間にこのような事がよく発生し、毎回言い争った後、課長はどうしようもありません。しかし、私の心にはとても苦しくて辛いです。このような生活はいつまで終わるかを知りませんでした。

 

 

   ある日、課長はまたたくさんの仕事を私にやらせ、全くやりきれないので、私は不平と不満がいっぱいになり、どうしたら課長に私が甘くないことを知らせるのかをじっくり考えています。それで、翌日出社する前に、私は理由をつけて会社に休みを取りました。課長は私のやり方を見て、全くお手上げになり、やむなく仕事を急いでいるから、彼は進んで私に連絡しました。私にやらせた仕事を一部他人に分けたので、翌日出社するようにと言いました。これによって、課長は私に対してどうしようもないのを見て、しばらく平穏になって、もう私を困らせません。しかし、しばらくしないうちに、課長は会社の仕事がそんなに忙しくないのを見て、また私を困らせ始めました。私の工具が使いにくい事を彼に言いましたが、彼は私を我慢させました。私の作業着は時間が経ったから、焼損したので、彼に新しい作業着を申し込んだのに、彼は申し込んでくれませんでした。要するに、私の提出したすべての要求に対して、彼はほとんど私を満足させることなく、私たちの会話はいつも激しい敵意に満ちていました。私たちはこのように互いに張り合う状態の中で三年間を過ごしました。この三年間の中に、私は毎日重苦しく過ごしていて、ここから離れて辞めることさえ考えました。しかし、日本で何年間も努力してきたのに、安定した仕事がなかなか見つかりません。しかも、私は会社に引き抜かれたので、もしこのまま課長にいじめられて会社をやめたら、不本意です。自分のために頑張りたいから、私は苦痛を耐え忍んで勤め続けるしかありませんでした。

 

怒る根源を見つけた

   2018年、幸いに私は全能神の終わりの日の働きを受け入れました。時間があったら、私は兄弟姉妹と一緒に集会し、神様の言葉を読んでいました。集会を通して、私は自分がよく他人と張り合い、争い合うのは、サタンの堕落した性質によるものであり、神様が嫌悪することであるのを知りました。これを理解した後、私は生活の中で自分を反省し認識することを重視し始めました。

   ある日、まもなく終業する時に、課長はまた私に向かって命令の口調で私に言いました。「君、明日残業して、この前受けた新しい仕事を終わらせて。」私は何も言わずに、うなずいて応答しました。続いて課長は私に聞きました。「明日はこの新しい仕事を終わらせるのか。」新しい仕事なので、図表も見る必要があるし、具体的にどんな困難があるか、どのぐらい時間かかるか私ははっきり分からないので、私は「ほぼできる」と返事しました。課長がタバコをくわえて私を見ながら言いました。「ほぼできる?君は一日で終わらないだろう?」彼の傲慢な様子を見て、私の心にはとても反感を感じ、怒りが抑えられなさそうになっていました。続いて課長はまた挑発する口調で言いました。「俺なら半日で終わる。君は1日でも終わらない。試してごらん。」課長の軽蔑する目つきを見て、私は心に思いました。「あなたはずっと私を眼中に置くことなく、私と腕比べをしているか。私がここでぶらぶらして日を過ごしていると思うのか。明日一番短い時間でこれらの仕事を完成させ、実力であなたの口を塞ぎます。」ここまで考え、私も硬い口調でずけずけと彼に言いました。「明日やって見るわ。どのくらい時間かかるか、課長とどれくらい差があるかを見てみよう。」私の話を聞いて、課長はずるい笑顔を現しました。私は心に思います。「あなたが笑われないように、明日8時間でこれらの仕事を完成させるように勝ち取ろう。」

   帰り道で、私は腹いっばいの怒りを我慢して、会社にいるこの三年間に、課長はよく私を貶し、困らせ、本当に人を腹立たせます。今度私はこの仕事を終わらせてから、彼に軽べつされないように、必ず彼と言い争わなければなりません。歩いている途中、私はちょこっと携帯を見て、無意識のうちに兄弟姉妹のアイコンの写真が目に入って、私はすっと今自分が神様を信じる人であると思い出して、先ほど自分が堕落した性質を現していることに気づきました。しかし、私は家に帰った後、心がなかなか穏やかにならず、ずっとこのことのために悲しくなっています。それで、私は神様の前に来て祈ります。「神様よ、今日私は堕落した性質を現しました。サタンの前に証しに立つことができませんでした。神様よ、あなたは私の霊的背丈が小さいのを知っておられ、私は何も分からないので、自分の堕落したサタン的な性質を認識し、堕落した性質から抜き出す道を見つけるように、どうか私を導いてくださるように。お願いいたします。」

   その後、私は集会の時に、兄弟姉妹が私に交わった二段落の神様の言葉を思い出しました。神様は言われます。「人間が他人の前で怒るか、あるいは陰で怒るかを問わず、人間には皆様々な意図と目的がある。このような人間達は、自分自身の信望を構築している場合や、自らの利益を守ろうとしている場合、自分の外聞や面目を保とうとしている場合などがあるであろう。自分の怒りをある程度抑えるよう努める者も居れば、全く抑えようとする様子が無く、好きなときに心ゆくまで怒りを露わにする者も居る。つまり、人間の怒りは、自分自身の腐敗した性質から生まれている。その目的が何であれ、怒りは人間の肉欲や本性に関連するものであって、正義や不正義とは無関係である。なぜなら、人間の本性や本質には、真理に相当するものが皆無だからである。」「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は汚れや謀略に満ちている。人間の腐敗と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。」

   神様の言葉を思い巡らして私は次のことが分かりました。人が怒り出したり腹を立てるのは、皆自分の意図や目的を持ち、あるいは自分のメンツやイメージを維持するため、或いは自分の威信を打ち立てるためです。要するに、理由が如何に適切であったとしても、怒り出すのは皆傲慢な本性から出たものであり、肉と血によるものであり、その中には個人的な野心や欲望に満ち、邪悪で、真理と一致しないものです。今日自分が課長に怒り出したのを反省し、それは主に自分のメンツと尊厳を維持するためでした。いつも私は「人はひと息のために戦い、仏は一本の線香のために争う」「人はメンツのために生き、木は皮のために生きる」これらのサタンの毒素によって生き、すべてのことにおいて自分のメンツと尊厳を維持し、私をいたたまれない思いをさせる人がいたら、私はすぐに怒り出しそうになり、傲慢な性質が現れ、普通の人間の理知を失ってしまいます。この何年間を思い返し、課長がいつもそっけない態度で私を扱うのを見て、或いは八方手を尽くして私をいじめる時、私は彼が私を何とも思わず、私を見下げて貶していると思い、自分のメンツと尊厳のために、いつも傲慢な性質によって課長と戦い、方法を考えて私と妥協するようにしています。今自分がなぜ自分のメンツを取り戻し、課長の尊重を得たいのかを考えて、自分が会社に引き抜かれてきた人材で、技術も、特長もあり、尊重を得るのは当たり前と思っているからです。実際に、私はどんな技術や特長があっても、私は塵や一人の被造物であり、どこに行っても他人からの尊重を求め、他人が言葉や行為において自分のメンツに気を配ることを求める資格がありません。これは理知のない要求であり、傲慢で高ぶっている表現です。ここまで考えて、私は自分の行為に恥ずかしさを感じます。

 

神様の意図を理解した

   私はまた一段落の御言葉を読みました。「もし、あなたが神によって完全にされることを望むなら、あらゆる事柄を経験することを学び、直面するいかなる事柄においても、神の啓きを与えられなくてはならない。何かに向き合うときは常に、良いことであれ悪いことであれ、あなたにとって得るものがなければならない。あなたが消極的になることがあってはならない。何が起ころうと、あなたは、神の側に立ってそれを考えることが求められるのであって、人の観点から分析あるいは検討してはいけない(これは、あなたの経験における逸脱である)。」

   神様の言葉を思い巡らして私は分かりました。私は昔から私たちの仲が悪い原因は、課長が傲慢すぎて、いつも他人を見下げているためだと思っていました。今私はついに自分のこの考え方が間違っていることに気づきました。このような環境に臨むのは、神様が許可されているから、私は再び反抗してはいけなく、教訓を学ぶことに重視すべきです。もし、私はずっと角突き合い、真理を尋ね求めず、他人の過ちだと思うなら、私は自分自身に存在する問題を認識することができなくなり、最終的に、何の真理も得ることができません。この時、私は自分が課長と角突き合う時、課長の過ちもあるが、自分も汚れて堕落しており、私はいつも自分の尊厳を維持するため課長と角突き合い、生きてきたのは少しの人間性や理性もなく、神様が私にこのような人間や出来事、物事を配置してくださるのは、私の堕落した性質を明らかにされ、私がこの環境の中で自分の堕落した真相を見極め、自分に対する正しい認識に達し、最終的に一人の正常な人間性を行動で示して神様に栄光を帰すためであることに気づきました。そのため、私は神様の前にきて祈りを捧げ、自分がメンツや尊厳などこれらの無価値のものを脇に置き、神様の言葉によって生きるように神様に求めました。

 

再び困らされることに直面する時

   翌日出社してから、私は昨日の仕事を終わらせて新しい仕事を始めています。しかし、あまり時間が経っておらず、課長が私を呼びました。彼に呼ばれたらきっといいことがないと心には思います。このように思う時に、自分のこの状態がよくなく、周りの環境は皆神様が配置しておられるから、私は神様から出たものであると受け入れるべきだと気づきました。そのため、私は心で黙って神様に祈りを捧げ、私の心を守って、神様の前に静まることができるように神様に求めました。その後、私は課長に向かいました。彼は定規を持って、私の完成品を測りながら言いました。「あなたの完成品は不合格だ。溶接ビードは5ミリメートル長かった、直して。この角度も違う、底板が不均一、全部やり直して。」彼が言っているのは皆許容誤差範囲内なのに、彼がわざと私を困らせていることが分かりました。彼と道理をわきまえようとする時、突然私はこのことを思い出しました。課長がこのように私を扱うのは、サタンからの誘惑であり、私の肉と血を挑発しようとし、私を課長に敵対する状態の中に置かれるのです。実は、課長がこのように私を扱うのも神様に許可され、神様が私の傲慢な性質を変化させ、私が人間性と理性を生き出させるように配置してくださった環境です。私は神様から出たものとして受け入れ、サタンの笑いぐさにならないようにまず従順になるべきです。ここまで考えて、私の心が静まってきて、初めて穏やかな口調で課長に言いました。「課長、ご安心ください。これを終わってから、一つずつ確認します。不合格の完成品を直しますので、必ず課長を満足させます。」私の言葉を聞いて、課長はキョトンとして、何も言わずにくるっと体の向きを変え離れてゆき、疑う表情で頭を振り返って私をちらっと見ました。課長が離れた後、私は体の向きを変え、思わず涙を流しました。長い間、このようなことに臨む時、私は初めて怒りを爆発させず、初めて心には不快な気持ちがありません。神様の言葉によって私はサタンの束縛から解放されて、私の心に言い表せない感動をもたらしました。

 

課長との「堅氷」が溶けた

   これから私は全力を仕事に投じ、午後四時半ごろ、私はこの新しい仕事を完成しました。その後、私は完成品を全部確認してから、課長の前に送って言いました。「課長、全部終わったので、どうぞご確認ください。もし不合格ものがあったら、私は直します。」課長が私の言葉を聞いて、不思議な顔をして私を見てキョトンとして言いました。「君は今日うっとうしい思いをしなかったのか。」私はこれを聞いてにっこりと笑って、正面から答えなかったが、心には黙って言いました。「私のこの時の喜びはあなたには分からないです。」仕事が終わった後、課長が私に今日の完成品が全部合格で、大きな問題がないと言いました。私は嬉しくなって帰りました。

   翌日仕事が始まった後、思いもよらないのは、課長が進んで私に挨拶しました。これは以前になかったことです。課長が離れた姿を見て、私は心にはこう言いました。「神様に感謝します。私はこんなに傲慢で自分自身を認識できない人で、神様があなたを通して私を明らかにされ、自分の傲慢な本性を認識させ、自分の学ぶべき事を学ばせるのです。」

   その時から、私は再び傲慢な性質で課長を扱わず、課長が私に対する態度もよくなりました。ある日、私の電気溶接機が使いにくくなって、彼に報告したら、すぐに替えてくれました。先日、私の作業着が焼損されて、彼が気づいて、自発的に私のサイズを聞いて、新しいのを申し込んでくれました。課長のこれらの変化を見て、私の心には暖かく感じ、私たちの三年間の仲が悪い関係がとうとうよくなり、私はこれは皆神様の言葉が私のうちに達成した効果だとわかります。神様に感謝します。今後私もより多く神様の働きを経験し、徹底的に自分の堕落した性質を変え、一人の正常な人間性を行動で示して神様に満足させるように頑張ります。