賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

集会で失ったものと得たもの

2019-12-09 23:34:21 | 人生の奧義

   私の名前は果子(グオツィー)と言います。海外の米国で勉強している高校生です。私はキリスト教の家に生まれました。母は私が1歳の時に、全能神の終わりの日の働きを受け入れました。私がとても小さかった頃、母がいつも私にこう言っていたのを覚えています。「神様が天と地、そして存在するあらゆるものをお創りになったのよ。私達人間もまた神様がお創りになったもので、神様は私達を何よりも愛してくださっているの。覚えておいて。何かがあなたに起こるたびに、全能神にお祈りするのよ。そうすれば、神様はあなたのことを見守ってくださるわ。」こうして、私はとても小さい頃、神様が存在するということを学びました。何かが私に起こるたび、私は神様に祈りました。私は神様のご加護を経験したのです。でも、神様と神様の働きを本当に知ったのは、集会と信者仲間の語り合いでした。集会に出席しているうちに、徐々に神様と神様の働きに関する認識を得たのです。全能神教会のブラザーやシスターと一緒に真理を語り合っているうちに、知識を身に着けたのです。神様のお言葉を実践しているうちに身に着けたのです……



   2015年12月、ブラザーとシスターとの集会に出席してみたらと母は私に提案して、こう言いました。「終わりの日の神様の働きはすぐ終わるわ。集会に出席せず、ブラザーやシスターと神様のお言葉について語り合わず、神様のお言葉を自分だけで読んでも、真理を理解するのはとても難しいわ。それでは簡単に救済を得られないわ。」その時私は、母は口で言っているだけだと思いました。なので、私はそうねと適当に母に返事しておきました。よもや母が実際に教会に連絡して、シスターと私のオンライン集会を開くようにシスターにお願いしていたとは思っていませんでした。シスターが集会時間を設定したので、私は本当にいやいや参加しました。毎週集会に参加しなきゃいけないなんて、私の自由時間が減ると思ったのです。友人と外食したり、飲んだり、楽しんだりする時間が減ると思ったのです。私は心の中では集会に出席したくはありませんでした。その時の状態を保ちたかっただけなのです。何かが私に起きると、私は神様にお祈りしていました。時には神様のご加護もあり、そのご加護だけで、心の中で神様を信じるのに十分でした。でも、シスターを即座に拒否するなど、あまりにばつが悪かったので、いやいや同意するしかありませんでした。でも、集会時間が来ると、いつも集会から逃げる言い訳を考えようとしました。集会に出席したとしても、私の心はあまり幸せではありませんでした。神様に祈る時、私ができたことは、称賛の単語をいくつかつぶやくことだけでした。そうして、テストやテストみたいなもので成功するために助けてもらったのです。神様の言葉について信者仲間と語り合う時、自分の番が来るのが本当に怖かったです。なぜなら私の心には光がなかったからです。信者仲間と何について話せばいいのかわかりませんでした。私ができることと言ったら、私が重要だと思った一節を探して読み上げることでした。それから文字通りの意味を少し説明しました。たとえば、読解のようなことをしたわけです。これは神様の言葉に対処する私の態度が適切ではなかっただめです。私は集会にじっくり注意を払いませんでした。聖霊による啓蒙が私にはなかったのです。見返りもありませんでした。こんな風に集会に参加するにつれ、私はますます集会を退屈だと思うようになりました。私はこう思いました。これよりクラスメートと外出して楽しむ方が遥かにいいわ。特に携帯電話で受信した大量のテキストメールのメッセージを見ると、クラスメートや友人と出かけることを思わず考えてしまいました。そこで母に、集会に出席したくない、自分で神様のお言葉を読むだけで大丈夫だと言いました。でも、母はこう言いました。「集会に出席しなくて、意識を集中させて神様の言葉を読めるの?神様の言葉は、学校で読む教科書に出てくるようなものとは違うのよ。み言葉を文字通り受け取って理解できるものではないわ。ブラザーやシスターと集会に出席して、それについて信者仲間と語り合い、お互いと経験や知識を分かち合う必要があるの。そうやって初めて、徐々にはっきりと理解できるようになるのよ。」私は集会への出席がそんなに重要だと思ってもみませんでした。でも、集会は神様の言葉を読む機会をもっと与えてくれて、集会でもっと真理を理解することができたので、私は何も言えませんでした。でも、私は素敵な時間を過ごすことにしか興味がなかったので、欲をあきらめて真理を実践する気はなかったのです。真理を少しは理解していたんですけど。なので、その後も集会に出席するたびに、まず神様の言葉について信者仲間と話して、次に携帯電話で遊び始め、ゴシップ・ニュースを眺めて、最新のテレビ番組をチェックして、時には友人とおしゃべりしていました。こんな風でしたから、毎回集会に出席しても、何も得るものはありませんでした。

   ある時、母が突然私に聞きました。「最近集会出席はどんな感じ?聞いたことを理解してる?集会中に絶対携帯電話で遊んではダメよ!出席しているのがオンライン集会だから、シスターにあなたがしていることを見えないとしても、神様はあなたの言葉や行動をいつもご覧になれるんですからね。全然注意を払ってないと、神様は啓蒙さえしてくださらないわよ!」その直後、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)母はこう言いました。「あなたは集会に出席している時に携帯電話で何かを覗くのはそんなに大したことじゃないと思っていても、これは集会だけではなく神様に対する態度に関係あることよ。神様は私達の傍にいて、私達の一挙一動を見て、私達が何を考えているのかも逐一観察しているから。自分がなぜ集会中にいつも携帯電話で遊びたいのかを考えてみたことがあった?実際、これにはサタンのトリックが見て取れるわ。私達が集会に出席してもっと真理を理解して、いのちが速く成熟して、最後に神様の救済を得るのは神様のご意思よ。でも、サタンはあなたに神様を避けさせ、神様の言葉に耳を傾けさせないようにするために、あなたが好きなものを使ってあなたを誘惑するの。神様の御前であなたの心が落ち着かないようにして、最後にはあなたが何も得られないようにするためにね。神様の働きがなくなると、あなたは人生を失うのよ。」母の言葉を聞きながら、私は心の中で思いました。わかったわ。今回のように何か小さなことを求める真理もあるのね。これは神様に対する人間の態度にも関わってくること。私はちょっと恥ずかしかったです。母に私が考えていたことをズバリと言い当てられて。昔私はいつもこう思っていました。オンラインで集会に出席しているだけだから、誰も見ていないって。だから自分のしたいことをしたくていろいろ考え始めたんです。今やっとわかりました。神様はこの全てをご覧になっていたのだと。そう考えると罪の意識を感じて、ちょっと動揺しました。ここ何回かの集会中にいつも携帯電話で遊んでいたのを神様が全部見てたなんて。後悔の念でいっぱいになって、神様にお祈りを捧げる時に、慌てて自分のミスを認めました。この後、私は集会中に二度と携帯電話で遊ばない、神様のお言葉を熟考するよう頑張ろうと決心しました。ブラザーとシスターの話に意識を集中させて耳を傾けることにしました。私はその後で出席した何回かの集会で携帯電話の電源を切り、携帯電話をどこか自分から遠く離れた所に置いておきました。自分の注意をシスターの話に耳を傾けることに集中させました。耳を傾けている時に、時々私の心が上の空で、心ここにあらずの状態になることもありましたが、それでも集会に出席して得ることが多かったです。

   でも、楽しみたいという欲が強かったので、少し経つと、また集会中に携帯電話で遊びたくなって、手がうずうずしました。私はこう思いました。ちょっと携帯電話を覗いてみるだけ、約束するわ。私は携帯電話をさっと取り上げて、チラリと見てみました。でも、この携帯電話を見るということになると、結果は絶望的でした。あっという間に昔のやり方に戻ってしまいました。時には集会で使っていたコンピュータを横に押しのけて遊んだりしました。私は全てを無視して、携帯電話を手に取ってテレビ番組を見ていました。悪いと知りつつ悪いことをするというこの態度のせいで、私は聖霊の働きを受けることができませんでした。集会を開いている時でも、集会の最初から最後までシスターの話を全く理解していませんでした。私が話をする番になると、何を言うべきなのか全くわかりませんでした。徐々に集会に出席したくないという思いがまた芽生えてきましたが、恥ずかしくてとても母に言えませんでした。私は半分上の空で何とか出席を続けていました。これは、ある時ある集会で携帯電話で遊んでいる時まで続きました。私はその時、始まったばかりの新しいテレビ番組に気づきました。すぐ見たかった番組でしたが、その番組を見るにはソフトウェアのダウンロードが必要でした。ちょっとためらいましたが、それでもそのソフトウェアをダウンロードしました。ダウンロードを終えてそのプログラムを開こうとすると、突然私の携帯電話の画面が真っ暗になりました。次にパスワードを要求されました。でも、パスワードなんて知ってるはずがないでしょう。私はなぜ画面が真っ暗になったのか、その理由を検索しようとしてオンライン接続して、自分がトリックに引っ掛かったのだと気づきました。誰かが私の携帯電話のコントロールを奪ったので、携帯電話が使用不能になったのです。私は非常に後悔しました。同時に神の懲らしめという発想が心に浮かびました。私はこう思いました。神様は人々の心の最も深い部分を観察していて、私の一挙一動が神様の御前に全画面表示で映し出されているのだと。私は悪いとわかっていながら悪いことをしました。これは神様が下した懲らしめなのだと。そう考えると、集会中に本当にもう携帯電話で遊べなくなりました。

   母にこのことを話すと、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「大きな問題は何であろうか。小さな問題は何であろうか。神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い。そのことが理解できるであろうか。(理解できる。)日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。神があなたのために一定の状況を計画する時は、毎回あなたの心、思いや思想、考え方、行動のしかたを、常に神が隠れて観察している。あなたが不注意な場合、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことが無い場合、神がその状況をあなたのために計画した際に、神が完全にしたい物事や神があなたに要求している物事に、注意することも配慮することも無いであろう。また、こうした人々、出来事や物事が真理や神の趣意にどのように関連するかを知ることも無いであろう。繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなかったら、神はどのように事態を進行させるであろうか。……神のそうした人々に対する姿勢はただひとつである。その姿勢とは何であろうか。神はそうした人々を心の底から拒否する。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)私は神様の言葉を読みながら、こう考えました。今回、私は本当に神様の懲らしめを自分自身で経験して、神様が本当に私の傍にいて私のあらゆる行いをご覧になっていることがわかったわ。私いつも自分の堕落した行動や考えで、ブラザーとシスターを欺けると思ってた。でも、神様の観察から逃れることは絶対にできなかった。今まで意図的に悪いことをして、集会中に用心深く立ち回って神様のお言葉を読まなかったり、信者仲間と真理について語り合わなかったりしたわ。携帯電話で遊んでテレビ番組を見てただけだった。私はもう神様に嫌われてるんだわ。私の携帯電話のコントロールを誰かに握られただけじゃなくて、集会中、真理に関する信者同士の話から何も得られなかったし。時間を浪費して、「命の入り」を自分から阻止してしまった。そして、こうも思いました。昔はいつも自分自身の努力で携帯電話で遊ぶのを止めたいと思っていたけど、その結果どうなったかというと、自分ではサタンの誘惑を克服することができなかった。わかったことは、真理を実践して神を畏れ邪悪を避けようとする時、神様に頼るのではなく、自分自身の力に頼るのは、とても難しいということ。私、自分の器が小さすぎるんだと思う。これからは祈って神様に頼るだけにしようっと。そうして初めて、神様を畏れて邪悪を避ける状態になれるんだわ。集会で心から落ち着けるんだわ。

   その後数カ月間、私はクラスメートの携帯電話を借りました。人の電話だったので、どんなプログラムでも気に入れば、手当たり次第にダウンロードするわけにはいかなかったからです。それで集会に参加するたび、満ち足りた気持ちで自分の席に座って、シスターが話すことに耳を傾けていました。時には友人が私に次々とメッセージを送ってくるのを見て、好奇心が勝って友人が送ってきたものを本当にちょっと見てみたいと思いました。でも、次に思ったのは、神様が私の一挙一動を見ているということです。「現在集会中。信心深くて敬虔な態度でなければ、私は神様に嫌われるかもしれない。」なので、私は毎回携帯電話に手を伸ばそうとしては、さっと手を引っ込めていました。心の中で神様に祈っていました。「神様!私の心をお守りください。私の心が落ち着いて、サタンにかき乱されないように。」神様に祈って私の心を静め、シスターが話していることに耳を傾けて、神様のお言葉に対する彼女達の経験と認識を分かち合うのです。すると、私は集会の最初から最後まで神様のお言葉から非常に多くの啓蒙と光を得たことに気づきました。そうすることで神様と神様の働きについて幾ばくかの認識を得られました。私は昔、集会に行きたいと思ったことは一度もなかったのです。集会への出席を避けるため、学校の課題で忙しいという言い訳をしていました。今や私は自分の欲を捨てるために集会が必要で、集会に出席する時間を必ず見つけるべきだと感じています。いずれにせよ、勉強は通常それほど大きなプレッシャーや大きな作業ではありませんでした。私はよく自由時間を携帯電話で遊んだりテレビ番組を見たりして過ごしたものです。実際には、全体として集会への参加にもっと時間を費やせたのでした。参加時間を増やせば、真理を理解するのにとても役立ちます。なので、1週間に2回、集会に参加することを提案しました。こんな風に本心から実践することで、私はますます多くの真理を理解しました。神様の言葉に関する知識が、昔より遥かに増えました。時には携帯電話を体に乗せて盗み見しました。でも、欲を捨てなければならなかったことをすぐ思い出し、携帯電話をベッドの上に投げ出して集会を続けることができました。これは神様が密かに私の一挙一動を見ていると私が知っていたからです。もう自分の欲に従うのではなく、神様を敬う心を持つべきなのです。

   数か月経つと、私は本当に多くのことを得て、多くの真理を理解し、自分のいのちが大きな進歩を遂げたと本当に感じました。神様の言葉を経験したシスターの話を分かち合うことで、私も徐々に私の人生における神様の働きを学びました。私が覚えている最も深い経験は、数学のテスト中でした。私は他の生徒の回答を写して高得点を得ようとしたのです。何が起こったかと言うと、学問上の高潔さに問題があるかどうかについて、私は学校から問われました。この問題はあまりに重大だったので、私の大学進学にも影響があるでしょう。私がどうしていいかわからなかったちょうどその時、集会中にシスターが神様のお言葉を分かち合い、私の状況に基づいて神様のご意思を話してくれました。彼女は、神様は正直な人々が好きで、正直な人々は神様の救済を得られると言いました。私が神様のお言葉に従って正直な人間になる訓練をしていると、神様の行いを実感しました。つまり、再テストを受ける機会を得ただけではなく、その学期中の成績は全てAというご褒美も得たのです。このような経験はこの1回だけではありませんでした。……今や集会に出席するのがどんどん好きになっていきました。神様のお言葉についてシスターと話すのが好きです。神様のお言葉を実践した自分自身の経験を語るのも好きです。時には聖霊の啓蒙を通じて、神様のお言葉を読み、神様のお言葉を自分自身の経験と関連づけてじっくり考えていると、私の心はとても感動し、私は本当に感情に圧倒されそうになるのです。神様を信じることは、何て素晴らしいんでしょう!経験を経ることで、集会に出席するのが怖かった私から、集会を楽しむ私になりました。これは神様の言葉に率いられて達成した結果です!これをじっくり考えてみると、たとえ集会に出席したためにクラスメートと外出して食べたり、飲んだり、楽しんだり、羽目を外したりする時間が減ったとしても、私が得たことは私の人生の神様の定めでした。正直な人間が神様の祝福を得るということを私に理解させてくれたのは、神様のお言葉だったのです。真理を実践していると、私の心は喜びと平和を感じました。携帯電話で遊んで自分の欲のままに従うと、私はサタンに傷つけられ堕落させられる可能性があります。そうなると更にまた神様から遠ざかってしまい、これが原因で神様が私を忌み嫌う可能性もあります。真理に関する集会と信者仲間の話のおかげで、神様は神様を畏れ邪悪を避ける人間を褒めたたえること、そしてそれは私が追求して具現すべき真の人間の形でもあると私は徐々に学びました。神様のお導きにより、私は本当に多くを得ました。全能神様、ありがとうございます!


堕落した人類は受肉した神による救いをさらに必要としている

2019-12-08 22:39:24 | いのちのパン

   神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救いの働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに飲み込まれることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。神の体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、本質は異なっている。神の肉体は、神について、人間の間に多くの観念を生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得ることを可能にする。そして、似たような外見をもつどの人間をも征服できる。神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、誰も神を完全に理解することはできないからである。目に見えず、触れることもできない神を誰もが愛し、歓迎する。もし神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人間は自分の想像力を自由に働かせることができる。神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それで喜んで満足していられる。このように、人間は自分の神が最も好むこと、この神が人に望むとおりのことなら何でも、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人間は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神について漠然と教義に基づいた信仰をもつ人々が求めているものであると言える。彼らの求めているのは、どれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その本質は、実際のところ、同じなのだ。



   人間は自分の信仰がいいかげんなものであっても気にとめない。そして、好きなように神を信じている。これは誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つなのだ。なぜなら人間は他の誰のものでもない、自分の独自の神を信じているからである。これは私有財産であって、ほとんど誰でも、こうした私有財産をもっている。人間はこれを自分の貴い宝だとみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上にはっきりと神に敵対するものはないからである。なぜなら、神が受肉してその働きを行うため、神は触れることのできる形を持ち、人が見、触れることのできる肉体になるからである。神は形のない霊ではなく、人間がさわり、見ることのできる肉体である。しかしながら、人々の信じる神々のほとんどは、生身の体をもたず、形がなく、不定形である。このように、受肉した神は、神を信じる者ほとんどの敵となり、同様に、受肉した神という事実を受け入れることのできない人々も、神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のために観念にとらわれているのだ。この私有財産のせいで、たいていの人は死に、この漠然とした、触れることができず、目にも見えない、実際に存在しない神のために、人間のいのちは損なわれている。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のためではなく、まして、天の神のせいでもなく、人間が思い描いている神のせいなのである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは感動あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。大方の人は、肉のために神の敵になっているが、神がその働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけではなく、それどころか神の証人になるだろう。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神と分かちがたい証人になる。神はその肉体における働きの重要性を人間に知らせる。そして人間は、人間存在の意味にとってのこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長のために神の肉体がどれほど価値あるものであるを知り、そのうえ、この肉体が、離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の本来の地位と相容れないものと思われるだろうが、この肉体、すなわち神の真の姿や身分をもたないこの存在は、神の霊には直接できない働きができるのである。それが神の受肉の真の意味と価値であり、そしてこの意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。すべての人間は神の霊を仰ぎ、受肉した神を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関わりなく、この肉体の真の意味と価値とは霊にはるかに優る。もちろん、これは堕落した人間との関連においてのみ言えることだ。真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。

   肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊が行った律法の時代の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救いの働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

   人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救いが必要だ。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救いと、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救いの計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神の三段階の働きの最後のものは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営(救い)の計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への崇敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする、つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営(救い)の働きの核心である。救いの三段階の働きのうち、最初の段階の律法の時代の働きは、救いの働きの核心から遠いものだった。ただ救いの働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変化はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営(救い)の核心にほとんど関係がなく、人間の救いという正式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救いの働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類の救いの働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。

   受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きであるが、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。人間がそれをどう評価するかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上に相応しいものはおらず、受肉した神以上に資格のあるものもいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の刑罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の素質もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、肉において終結するだろう。そしてそれは受肉した神によって完結しなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは肉において為され、人間の救いは神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。

   神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救いの働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉における働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての宗教、すべての宗派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には触れることのできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに彼の経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。

   肉となった神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表するもので、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神の最後の受肉の働きの終わりは、神の働きが完了したということではない。受肉しての神の働きは、時代全体を代表するもので、神が人間として働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代のすべての働きを終えるというだけで、そのあとは、その働きはあらゆるところに広まる。受肉した神はその任務を終えた後、将来の働きを神に従う人々に託す。このようにして、その時代全体の神の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まってはじめて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。この受肉した神は、人間の観念に合致しない段階の働きを行い、その後、神はさらに別の、人間の観念に合致しない働きをする。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致しない。さらに、神は人間の観念に合致しない働きをするので、人間は神についてますます批判的な意見をもつようになる。神はただ、神についてさまざまな観念を持っている人間の間で、人間を征服する仕事をする。人間がどのように神を扱おうと、神はその務めを果たし、人間はみな、神の支配下に入っていることだろう。この働きの事実は、中国人の間に反映されるだけではなく、すべての人間がいかに征服されるかをも表している。こうした人々になされた成果は、すべての人間になされる働きの成果を予め告げるものであり、神が将来行う働きの成果は、こうした人々に対する成果を上回るだろう。受肉した神の働きは鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、神秘の霧に包まれているものでもない。それは具体的な事実であって、一足す一が二である働きなのである。それはすべての人から隠されているものではなく、また、誰をも欺くものではない。人々が見るのは事実であり、現実的なものであって、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に神を求める者は、もはや神に関して何の観念ももたない。これは、神の働きの中国人に対する影響だけではなくて、人類全体を征服する神の働きの効果を表すものだ。人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、肉体のすべて以上役立つものはない。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体はすべての人々を征服し、すべての人々を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るためにこれより優れた働きはない。人間のする働きは単に限られた範囲のものであるが、神がその働きを行うときは、特定の人にだけ語りかけるのではなく、全人類、神の言葉を受け入れる者すべてに語りかけるのである。神の告げる終わりはすべての人間の終わりであって、特定の人だけの終わりではない。神は誰かを特別扱いしないし、誰かを不当に罰することもない。そして、神は人類全体のために働き、話しかける。だから、この受肉した神は、すでに全人類をその種類によって分け、すでにすべての人々を裁き、全人類に相応の終着点を定めている。神はその働きを中国でだけ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを定めている。神は、言葉を発して計画を一歩一歩進める前に、自分の働きがすべての人間に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎるのではないか。今、神は将来の働きを予め終えることが完全に可能だ。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲で行い、その後で、人間がするべき務めを人間が果たすようする。これが、神の働きの方針である。神は一時的に人間とともに生活できるだけで、時代全部の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が予め自分の働きを予言する神だからである。後に、神は言葉によってすべての人類をその種類にしたがって分け、人類は言葉にしたがって、神の順を追った働きに入る。誰一人免れない。誰もがその通りに行わなければいけない。だから、将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。

   受肉した神の働きは、肉において行われなければいけない。もし霊が直接行ったとしても、それは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くであろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義なものであるかどうか、それは何を示すのか、それは何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものなのかどうか、また、それが最高の価値と意義のあるものなのかを知りたいと願う。神が行う働きはすべての人間の救いのためであり、サタンを打ち破るためであり、そして万物のもとで自身の証をするためである。だから、神の行う働きにはまことに重要な意味があるはずだ。人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救いの対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救いの対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救いの対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い本性はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして真に神の支配に服従することもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。


生まれ変わる真の道を見つけた

2019-12-07 22:27:04 | 神に帰す証

   私はクリスチャンの家庭に生まれましたが、両親は知識不足のため聖書に関する知識は何も説明してくれませんでした。後に、私は教会の経営する教区立学校に入学しました。そこの先生は毎週聖書の勉強会を開いてくれました。それ以降、私は聖書を理解し始め、ノア、アブラハム、そしてダビデといった伝説的な聖徒が沢山登場することを知りました。彼らは全員が素晴らしい人たちで、私は彼らのストーリーに感心し、彼らが羨ましくなりました。次第に、私は日曜学校に通い始め、祈りの捧げ方を学びました。しかし、その後、私は生活のストレスから退学してしまい、代わりに家を出て働きに行きました。

   私が以前受け入れた信仰により、私は神を信仰することは救われて、天国に入るためであっても、天の御国に入りたいのであれば、私たちは完全に告白し、悔い改め、常に主のもとを離れてはいけないのだと分かっていました。なぜなら聖書にはこう記されているからです。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」(ペテロの第一の手紙1:15-16)。したがって、私は家から離れて働いていた間も、毎週日曜日の集会には可能な限り足を運びました。

   それと同時に、主を喜ばせ、将来救われて天国に入れることを期待した私は主の道を守り、完全に悔い改めることも望みました。それにもかかわらず、実際、私は頻繁に罪を克服できないことがあり、常に罪を犯し告白するといった状態の中を生きていました。例えば、主は、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書5:37)、と仰って私たちに真実を語ることを教えてくださりました。しかし、時折、私は一時的な欲を満たそうと一日中トランプをして遊んでいたにもかかわらず、友人に電話でどこにいるのかと聞かれると、仕事中だと言って嘘をつくことがありました。それに、私は他人の富をむやみに切望するべきではないと良く分かっています。しかしならが、他人が無くした価値のある物を見ると、それを自分の物にしたくなることがたまにあります。更に酷いことに、主は私たちに女性を見てもみだらな気持ちを抱いてはいけないと教えてくださったにもかかわらず、私は美しい女性を見るといつも良からぬことを考え、それを抑制できずにいます。枚挙に暇がありません。こういった状況の中で、私はいつになったら真の悔い改めができるのか、そしてもう罪を犯さないために何をするべきなのかさっぱり分かりませんでした。たまに、私は仲の良かったクリスチャンの友人たちと自分の状況について話ましたが、自分たちが同じ困惑を抱えているとは思いませんでした。これ故に、私はこう思いました。「この問題を書き出しておいて、後で牧師を家に招待できる時に聞いてみたら、答えが分かるかもしれない。」



   2017年4月、ある牧師が私たちの教会に説教をしにやってきました。その当時、彼はヨハネの黙示録の預言について語りました。彼は、主が来られる日が迫っており、近々大きな災害が発生し、言葉を絶するようなありとあらゆる災難が起ると言いました。私はヨハネの黙示録の預言に関する説明を聞くのは初めてだったので、とても熱心に聞き入りました。次いでこの牧師は、世の終わりの災害を逃れたければ生まれ変わらなければならないと言いました。真に再生して救われた者だけが天国に入れるからです。再生の真理に関する牧師の説教を聞いた私は、罪を一掃する一縷の希望があるように思えました。これ故に、私は福音集会の最終3日間は一日も逃さずに毎日教会に説教を聞きに行きました。しかし、福音集会が終了した後、私はヨハネの黙示録に関する牧師の説教は生まれ変わる道の探求を熱望させてくれはしたものの、それは自分が罪を犯してしまう問題を解決するための道は示してくれていないように感じました。教会の兄弟姉妹たちが彼に残ってもっと説教をしてほしいとお願いした時、彼は現在多忙過ぎると言ってそれを断り、翌年の同じ時期まで先送りにしてしまいました。牧師がこう言ったのを聞いて、私の心の中の興奮はあっと言う間に冷め止んでしまいました。彼は大きな災害が近々降りかかってくると言いましたよね?彼が来年戻って来てそれについて語ったとしても、もし彼がくる前に災害が起きて、まだ私たちは完全に悔い改められていないとしたら、その時私たちはどうすれば良いのでしょう?「少なくとも私たちに進むべき道を指し示してくれればいいのに!」と思いました。しかし、私は教会にいる単なる平凡で普通の信者に過ぎないし、牧師と言葉を交わすにふさわしい者でもないので、悔い改めと再生に関する疑問について詳しく話して欲しいとお願いする資格などないのです。

   これを理由に、私は思わず溜息をついてしまいました。「ああ、主よ!私は素質が乏しい故に聖書がよく理解できません。あの牧師の説教を聞いている間、私は彼を称賛し、彼の説教に魅了されました。しかしその後ですら、私は実践するべき道が分かりません。ああ、主よ!私はあなたが来られる日が近いことを信じています。私はあなたが来られる前に完全に悔い改めることができていなかったら、祝福の代わりに不幸を被ってしまいます。ああ、主よ!私はこのまま罪を犯し続けるのでしょうか?聖書を完全に理解するまで待てば、罪を犯す問題は解決するのでしょうか?」

   主は私がすべきことを知っておられました。5月のある日、私の友人の1人が彼の所に説教師に会いに来るよう誘ってきたので、私は喜んでその約束をしました。私は彼の家でリー兄弟と出会いました。とても若い彼を見て私はびっくりしました。なぜなら、私は説教師は皆もう少し年上であるイメージを持っていたからです。

   私がそれ以上考える前にリー兄弟は私にこう聞いてきました。「兄弟、私はあなたは幼い頃から主を信仰している熱心なクリスチャンだと聞きました。質問なのですが、クリスチャンと聖徒の間には何か違いがあると思いますか?あなたの理解を話してくれませんか?」

   私は、「はい、違いはあります。聖徒は神聖で罪を犯さない人のことを指します」と言いました。

   リー兄弟はまたこう聞いてきました。「そうしたら、心を清めてもう二度と罪を犯さないようにするために、私たちはどのように振る舞うべきでしょう?」

   私は、「それは全く分かりません。私もその答えを探しているのです」と応えました。

   リー兄弟は続けてこう言いました。「聖徒になり、もう二度と罪を犯さないようにする方法は正に1つや2つの文章で明確に説明できる疑問ではありません。なので、ゆっくりと話し合いましょう。」

   私はリー兄弟が罪から解放される方法について交流をしてくださると言ったのを聞いて、即座に興味を持ちました。その夜、リー兄弟はあまり喋りませんでしたが、彼の交流した各問題は私の状態と欠陥に向けられており、私は彼の交流をとても新鮮に感じました。翌晩、リー兄弟は動画を再生し、それと聖書を組み合わせて交流してくれました。私はそれをとても斬新だと思いました。福音映画の中に見た討論はとても激しく、非常に魅力的で、リー兄弟の交流もまた合理的かつ根拠が堅いものでした。そして3日目の夜のことです、リー兄弟は聖書と動画を組み合わせて、オリーブ山は既に裂けており、イエス様は既にもう一度受肉され、裁きと清めの働きの段階に着手されていると証ししたのです。主の再臨の知らせを聞いた私はとても驚いて興奮しました。私は主が本当にお戻りになられたことを完全に確認することはできませんでしたが、リー兄弟の交流は聖書に基づいていたため疑う余地はないと感じました。その後、私は家に帰ってから動画をしっかり見て物事を明確に調査したかったので、リー兄弟に動画をいくつかダウンロードして欲しいと頼みました。しかし、4日目が来た時、説教を聞きに来た現役兵士の友人数人は突然所属している部隊に呼び戻されてしまいました。そしてリー兄弟も予期せぬことが起ってその場を去ってしまいました。彼らは急いで去って行ったため、私たちはお互いに連絡が取れなくなってしまいました。元々私に説教を聞きに来るよう誘ってくれた友人までが所属する部隊に戻ってしまったので、私に終わりの日の神の働きを交流し、それを私に証ししてくれる人がいなくなってしまいました。

   このような状況に直面し、私はとても驚き心細く感じました。なぜなら、私は神が肉に戻られる時になさる働きを未だ完全に確信できていないにもかかわらず、その探求方法が突然失われてしまい、私は妙に虚しくなり、途方に暮れてしまったからです。私はこう思いました。「主の再臨の知らせを聞いても、愚かな乙女のように花婿を迎えられずドアの外に閉め出されてしまっては、大損を被ってしまうのではないでしょうか?しかし、私は主の再臨の知らせを完全に信じることができないし、主の新たな働きを確信できでもいませんし、まして再臨された主について行く方法などなおさら分かっていないのです。私はダウンロードされた動画をいくつか手に持っていましたが、交流してくれる人がいないので、私はこれらの動画の明確な理解が得られず、曖昧で漠然とした考えしか持てませんでした。

   およそ半月後、友人の1人が私に会いに来ました。彼は熱心なクリスチャンでした。私は彼に主の再臨について聞いた内容と心の中の困惑について話し、そして神の働きを一緒に調べてもらおうと彼に動画もいつくか見せました。彼は動画を見た後、強い興味を示してこう提案しました。「今は情報化時代です。どんな情報でもインターネットにアップロードされます。主の再臨は本当に偉大な出来事ですから、それに関する情報がウェブサイト上にあるはずです。インターネットを検索してみましょう。」私は彼の提案は合理的だと思い、そうしてみようと思いました。その数日後、彼はFacebookでイタリアにいる東方閃電の信者リー・ジエ姉妹を見つけたと言って私にメッセージを送ってきました。彼は北京語に精通していなかったので、私にまず彼女を友達リストに追加して、中国語で会話をしてから分かったことを彼に伝えて欲しいと言いました。私は彼のメッセージを読んだ後、すぐにリー・ジエ姉妹を彼の友達リストから検索し、彼女に友達リクエストを送りました。これと同時に、私は終わりの日の神の働きを完全に調べる準備もしました。

   私の友人がリー・ジエ姉妹に予め連絡していたので、彼女は私を友達リストに追加したらすぐに私の神への信仰について質問してきました。そして、私も単刀直入に切り出しました。「姉妹、主がどのように戻られ、どのような方法で再臨されるかご存知ですか?東方閃電はイエス様の再来なのですか?」リー姉妹は全能神の御言葉の次の節を送ってくれました。「イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(「序文」より)私は、神の御言葉を聞いて、それは終わりの日に神は救いの働きを更に進めるためにもう一度受肉されると明確に表している感じがしました。

   そして、リー姉妹はこう言いました。「イエス様は最初に来られた時は十字架に磔にされて人類の罪を贖う働きのみなさりました。すなわち、主は大きな犠牲を払って私たちをサタンの手から救い出してくださったのです。しかし、私たちの内には依然として堕落した性質が存在しています。それ故に私たちは未だに頻繁に罪を犯し、神に抵抗し、罪を犯しては告白し、告白したら罪を犯すというサイクルの中を絶えず生きているのです。これが紛れもなく主の信者全員が送っている堕落生活なのです。したがって、神はもう一度受肉して裁きと清めの働きをする必要があり、それはまさにこのイエス様の御言葉を現実化しているのです。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。』(ヨハネによる福音書12:47-48)終わりの日に、神は、私たちがキリストの御国に入れるよう、自ら肉となられ、御言葉を表して私たちの堕落を裁き、明らかにされ、そして御言葉を使って私たちを真理が理解できるように導いてくださり、さらに私たちが徐々にサタンの堕落した性質から離れ、清らかになるのをお助けくださるのです。」

   この言葉を受けて、私はこう思いました。「私は長年に渡ってイエス様を信仰してきたのに、今まで一度も罪の束縛から脱出できず、むしろ何の真理を理解することもなく、未だに頻繁に罪を犯してそれを告白するという状態の中を生きている。私がやってきたことは多数派に従い、ただ集会に参加していただけ。こんな私に天の御国に入る資格があるわけがないのです。」神が救いの働きを先に進めるために受肉されていなかったら、私が自力で罪の問題を解決するのは正に不可能です。それに、イエス様は一度こう言っておられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)。私は今この御言葉について考えて見ると、それは神が終わりの日に人間を完全に清める働きをするために受肉される場合に限って、私たち人間は天の御国に入れると黙示しているように感じました。

   そして、リー姉妹は神の御言葉の他の2節を送ってくれました。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

   姉妹は続けて交流しました。「イエス様は人間のいのちの性質を変える働きをされていないので、私たちの内にある傲慢さ、身勝手さ、偽り、貪欲さ、邪悪さ等、すなわち、私たちの堕落した性質は未だに残ったままで、清め変えられていないのです。罪を犯し、神に抵抗するいずれの者は清らかな心を持っておらず、サタンに属しており、最終的には神から罰を受ける対象となります。これ故に私たちは終わりの日の神の裁きの働きを受ける必要があるのです。私たちは神の御言葉による裁きと刑罰を通じて自分たちの堕落に関する認識を得て、自分たちがサタンに酷く堕落させられて耐え難いほど醜くなってしまったことを知り、それにより自らを嫌い、肉に背き、そして神を崇める場合に限って神に背いたり、抵抗するのを止められるようになるのです。こうしてのみ、私たちは着実に清められ、神の御国に入る資格を得ることができるようになるのです。全能神の働きはまさに、大きな白い御座の前で行なわれる裁きの働きなのです。終わりの日の神の御言葉による裁きを受け入れる者は誰もが神の御言葉によって清められ、そして完全にしていただくために、神の御座の前で引き上げられていきます。最終的に、彼らは神の御言葉から真理を得て、自分たちの堕落を完全に捨て去ることができた時、完全に清められたことになります。この人々は、終わりの日に災害が降りかかる時、神の素晴らしい御加護を授かります。これについて聖書には、「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。」(詩篇91:7)と書かれています。この人々は神から救われた人々であるため、災害には遭いません。そして彼らは神の御国で神の祝福を授かるのです。」



   次に、全能神教会の兄弟姉妹たちは、私に神の3段階の働き、受肉とは何か、神は終わりの日にどのようにして裁きと清めの働きをされるか等、更なる真理に関して詳しく交流をしてくれました。これにより、私は東方閃電は正に真の神の働きであること、そして全能神は間違いなくイエス様の再臨であることを完全に確信にしました。私は真に清められる道を発見し、子羊の足跡を辿り、真の悔い改めと再生の道を歩み、そしてこれはまた終わりの日に大きな災害を免れる唯一の方法でもあります。これは全能神による御救いのおかげです。全ての栄光、全能神にあれ! 


どのように聖書を正しく取り扱うべきか

2019-12-06 22:27:50 | 聖書の言葉

聖書は神様の働きを記録された本である

   聖書は、キリスト教の唯一の宝典であり、旧約聖書と新約聖書二つの主要な部分が含まれ、主に神様が行った二つの段階の働きを記録されており、一つはヤーウェ神が律法の時代での働き、もう一つは主イエスが恵みの時代での働きです。



   旧約聖書は、神様が律法の時代で行った働きを記録されています。「創世記」から「マラキ書」までは、ヤーウェ神が律法の時代での働きのすべての記録です。旧約時代では、神様は二つの働きを行い、一つは創造の働き、神様が言葉によって天地万物を創造され、言葉が話されるやいなや、すべてのことが成し遂げられ、言葉と事実は同時に起こります。もう一つは神様が律法を発布され人間の生活を導く働きです。最初の人間はどうやって生活するかを知らず、ヤーウェ神はモーセを用いて律法と戒めを発布され、人間の生活を導かれます。律法の導きの下で、人間は罪とは何か、どのように戒めを守るべきか、どのように神様を礼拝すべきかなどを理解し、神様の導きがある生活を送り始めました。

   新約聖書は神様が恵みの時代での働きを記録されています。主イエスは、受肉して人々の間に来られ、天国の福音をもたらし、人々に悔い改めの道を伝え、私たちは主イエスがなさった働きを受け入れて、神様に罪を告白し、悔い改めれば、罪が赦され、律法違反によって死刑を宣告される危険を免れました。主イエスが働きの間に多くの奇跡やしるしを行い、例えば、風と荒浪をなぎにさせ、五つのパンと二ひきの魚で五千人を満腹させ、死者を復活させたなど、人々に豊かな恵みをもたらしました。主イエスの働きは主に四つの福音書に記録され、私たちは四つの福音書を読んでこそ、主イエスがキリストであり、受肉した神様であることを認識できます。主イエスは私たちを贖うために、十字架で釘づけにされ、私たちに神様の憐れみと慈しみの性質、神様の人類に対する本当の愛を認識させます。

   それ以外に、聖書の黙示録は神様が世の終わりになさる働きを預言されています。ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録2:7)「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。 」(ヨハネの黙示録14:7)この二つの聖句から、私たちは主が戻って来られる時に、言葉を語り裁きの働きを行われ、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、神様の終わりの日の救いを得られて、天国へ引き上げられることが分かりました。

   聖書を読むことを通して、私たちは神様のなさった働きを理解でき、神様の全能と支配、奇しき業に対して本当の認識を少し得られ、神様の私たち人類への愛、私たちを救う意図に対しても少し認識でき、心から神様に感謝すると共に、一生涯を神様に付き従い、神様を愛することを願っています。確かに聖書は私たちが神様を認識する仲介です。

聖書の言葉はすべて神様の言葉ではない

   ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉は聖書に記録されているが、ヤーウェ神と主イエスの言葉の他に、一部は預言者の預言と神様に使われた人の経験と認識があります。神様の言葉は真理であり、正しく間違いないが、人の言葉には人の意志の混じり、或いは誤差があることを免れません。例えば、弟子マタイが記録した主イエスの系図、主イエスがアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子(マタイによる福音書1:1−16)であったと述べているが、主イエスは自分がダビデの子孫であることを認めません。(マタイによる福音書22:41−45)主イエスは聖霊によって身ごもられ、受肉した神様であり、どうして系図があり得ようか。またマタイによる福音書に記録したペテロが主を三回に渡り否定したことと、マルコによる福音書に記録したことと違いがあります。(マタイによる福音書26:75、マルコによる福音書14:72)そして、聖書にはベビがエバを誘惑する言葉、サタンの言葉、ロバがバラムへの言葉があり、そのため、私たちは聖書に対して純粋に受け入れ、聖書の言葉を皆神様の言葉として取り扱ってはならず、もし聖書の言葉を神様の言葉として取り扱えば、これは私たちの間違いです。

聖書の著者は人である

   聖書の著者は約40名余り、これらの人は預言者、使徒、弟子などいます。聖書の中に、ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉、及び神様が直接預言者に啓示された言葉を除き、残りは皆歴史の記録と人の経験と認識です。例えば、新約の四つの福音書は一部の著者は本人が主イエスの教えを聞いた後に記録したもの、一部は伝道者の説教により、本人が考察した後に書いたもの、神様が直接彼たちに啓示されたものではありません。(ルカによる福音書1:1−2)そのため、聖書の著者は人であり、神様ではありません。

まとめ

   上記の交わりを通して、私たちは聖書の一部が神様のなさった働きを記録した書籍であることを認識でき、聖書の言葉はすべて神様の言葉ではなく、中には人の言葉があり、聖書の著者は神様ではなく、人です。そのため、私たちは正しく聖書を取り扱い、聖書を神様として取り扱ってはなりません。


クリスチャンの証し-現代のパリサイ人に道を塞がせてはいけません

2019-12-05 20:15:45 | 神に帰す証

教会がわびしい状態にあった時、福音が私の元に届きました

   2015年4月、私は海外の中国系キリスト教会での集会に参加しました。当初は教会内に明るい様子が見られました。兄弟姉妹たちが率先して聖餐式を行っており、更に、教会内には様々なキリスト教徒のフェローシップがありました。牧師はとても敬けんな方で、兄弟姉妹たちに対しても愛情を持って接している様子でした。例えば、誰かが病気にかかると、この牧師は同僚たちに彼または彼女のために祈りを捧げるよう誘導していました。彼らは集会に参加しなかった信仰者たちの訪問までしていました。当時私は熱心に真理を追い求めていたので、牧師は私のために神学教育の準備をしてくださりました。しかし、しばらくした後、様々なキリスト教徒のフェローシップがあったにもかかわらず、ほんの数人しか集会に参加したり、説教を聞きに来ていなかったのです。例えば、毎週行われていた聖書の勉強会の前には数十人の人たちが食事をしには来るのですが、勉強会が始まると6,7人しか残っていませんでした。聖書の勉強会に参加しようと残った信仰者が何人かいましたが、彼らは居眠りをしていました。牧師はこの事態を分かっていても、全く問題解決ができなかっただけでなく、集会を開かない教会よりはましだと言っていたのです。私はまた、中には企画したアクティビティにもっと人を参加させるために異なる種類のスナックと軽食を作っていたフェローシップもあったことも知りました。私は神に仕えているように見えても、心の中は暗く空っぽでした。これを理由に、私は主が雲から降臨されて私たちを天へとお引き上げくださることを頻繁に祈り、それを待ち焦がれていました。

   私は自分の祈りにお応えくださった神に感謝しています。2017年の初め、私が教会の姉妹たちと一緒に春の行楽に出かけた時、私は全能神の教会から来た兄弟ヂャンと兄弟リュウと知り合いになりました。その後、私たちは一緒に教会のわびしい状況の原因について話し合いました。私は、彼らの話を聞いて、当時は宗教界全体が暗くわびしい状況にあったことを知りました。従って、兄弟姉妹たちは信仰心と愛情に欠けていたのです。これに加えて、牧師たちも新しく説くことを何も持っていませんでした。これはアモス書8:11に記されたこの事態を現実化していたのです、「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」そして、私たちは主の再臨について話しました。私は主の再臨をいつも切望していたので、この話題を追求し、探求し続けるつもりでした。

私の観念は取り除かれ、私は神の再臨を喜びました

   後に、全能神の教会から来た2人の兄弟は、主イエス様は既に肉としてお戻りになられており、世の終わりの裁きの働きを成されていると私に証言したのです。全能神は再臨なされた主イエス様なのです。これは聖書に記録されている次の内容を現実化しています、「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。」 (ルカによる福音書17:24)。兄弟ヂャンも私と一緒に人の子の来臨にまつわる謎について話し合ってくれました。私は、彼らから主イエス様は既に肉としてお戻りになられていると聞いて、驚いたと同時に嬉しくなりました。私は聖書に記された次の御言葉を考えずにはいられなくなりました、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」 (マタイによる福音書 24:44)。以前、私がこれらの節を読んだ時は、これらが一体何を意味しているのか解りませんでした。これらは世の終わりに受肉された主の秘密の働きに関することなのでしょうか?しかし、この時、私はこう思いました:「聖書の中には主が万人に見える形で雲から降臨なされるとする預言が沢山ありますが、これは一体どういう意味なんでしょう?」私が戸惑いを口にした後、兄弟リュウがこう話してくれました、「聖書の中には主が御自信の御力と偉大な栄光をもって雲から降臨なされるとする預言が沢山あります。これは真実なのです。しかし、次の節にもあるように、主がその御姿を隠しながらお越しになることを預言している箇所もいくつかあります、「見よ、わたしは盗人のように来る。」 (黙示録 16:15)。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書 24:44) 「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マルコによる福音書13:32)。この聖書の言葉から、主がこのような形で再臨されるのは私たちが想像しているほど容易ではないことが分かります。主が再臨される方法は2種類あります:1つはその御姿を隠されながら、そしてもう1つは公然とした方法です。すなわち、受肉された主は世の終わりにその御姿を隠しながら来られ、人類を裁き、清め、そして救う働きをなさるということです。受肉された神が御姿を隠しながら再臨される際の働きは、その終末の働きにおいて克服者の集団をお作りになれた後で完結するのです。従って、神は大災害を引き起こされ、善良な人には恩恵を、邪悪なものには罰を与えることに着手なさるのです。災害の後、主は雲の上から無数の人に対して公然とその御姿をお見せになられます。そして、次に書かれている通り、主イエス様が公然と降臨なさるという預言が現実となるのです:「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(黙示録 1:7)。私たちが雲の上から公然と人々に御姿をお見せになる主を目の当たりにする時、受肉された神の秘密の働きを受け入れない人たちは間違いなく救われる機会を失います。神を突き刺したものたち、または世の終わりのキリスト様であられる全能神に抵抗し、非難を浴びせたものたちは、自分たちが抵抗し、非難を浴びせた全能神は正に降臨なされた主イエス様であられることを知り、絶望のうちに胸をたたきながら悲しみ、嘆き、怒りをあらわにするのです。そして、その時、地上に住む全種族の嘆き悲しむ光景が広がるのです。しかし、受肉された神が秘かに裁きの働きを成される間、私たちは主が雲の上から公然とその御姿をお見せになる様子を見ることは決してないでしょう。

   私は2人の兄弟が話してくれた内容から次のことを理解しました:「主は御姿を隠しながら御自信の御言葉を表現するために受肉され、御自信の働きによって克服者の集団を手になさった後は無数に存在する人間たちに御自信の御姿をお見せになられ、善良な人には恩恵を、邪悪な人には罰をお与えになるのです。」彼らの交流によって私はこれを完全に確信しました。私は全能神の教会について徹底的に研究する決意をしました。しばらく研究をした後、私は神の3段階の働きの内容や、終末の時代に裁きの働きをなさる方法とその意義、さらには神の受肉について等多くの真理を知りました。私は全能神はかねての主イエス様であられるのだと強く確信したのです。その後すぐ、私は全能神の教会で集会に参加し始めました。

牧師との真っ向からの戦い

   2017年5月、私が世の終わりの神の働きを受け入れたことを疑った牧師リーは、教会で2人で話しをしたいと2度も伝言を送ってきました。彼の伝言を読んだ私はびっくりしたと同時にナーバスになり、こう思いました:「彼は前、集会の場で堂々と全能神を罪人扱いして、私たちが全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取ることを妨害し、阻んでいたよな。最近は自分がチャットグループで全能神に抵抗して、全能神を罪人扱いしている様子を撮った動画なんか共有していたし。私が世の終わりの全能神の働きを受け入れたことを知ったら、彼は私をどんな目に合わさてくるだろう。彼は私に無理やり全能神を冒涜させたり、真理の研究を止めさせることなどできるんだろうか?」私はとても怖くなりました。その後すぐ、私は神の前に行ってこう祈りを捧げました、「全能の神様。私の新しい教会の牧師と長老たちは私があなたの新しい働きを受け入れたことを恐らく知っているのではないかと思います。彼らは私と教会で面談をする予定を立ててきました。彼らが何を計画しているのか分かりません。神様!あなたは天と地、そして万物を支配される主権者であられます。あなたは人の心の奥底まで見抜くことができる神であられます。彼らが何を言ってこようとも、どうか私に正しい言葉、自信そして知恵をお与えくださ、そして私が彼らに立ち向かえるようにしてください。」こう祈りを捧げた後、私はすぐに全能神教会の兄弟姉妹たちにこのことを伝えました。彼らは私に神の前でもっと祈りを捧げるように言いました。更に、彼らは、もし牧師と長老たちが真理を求める、または研究する意思をもっておらず、全能神に対して直接非難し、抵抗しているのなら、私は神の側に立って真理を守り、神の証言をすべきだとも言いました。神様ありがとうございます。兄弟姉妹たちの言葉は私をとても忠実にしてくれたと同時に、私が牧師と長老たちと対面できる強さを与えてくれました。

   私は予約の時間に教会に到着し、牧師リーと2人の聖職者が待つ部屋に呼び込まれました。私はすぐ緊張して、素早く心の中で神にこう祈りを捧げました:「神様、どうか私の心をお守りください、そしてあなたの証言をできるように、適切な言葉をお与えください。」私が席につくと、牧師リーは率直にこう質問してきました,「あなたはよそ者たちを自宅に受け入れて、その者たちの説教を聞いていたらしいではありませんか。どうして私たちに相談しなかったのですか?あなたは私たちの教会で主の働きを受け入れたのだから、私たちはあなたに配慮する必要があるのです。私たちはあなたのことが心配です。これはあなたのためにやっているのですよ。」私は彼の言葉を聞いて不安になり、こう考えました:「どうしてあなたはいつも私に制限を課して、縛りつけてくるのですか?どうしていつも私を束縛して、コントロールしたがるのですか?私は自由に真理を学び、研究することができるんです。」そして、私は正当に厳粛な態度でこう答えました、「確かに、私は自ら進んで主を信仰し、洗礼を受け、この教会に来ましたが、そしたら私はもう他人の説教を聞いてはいけないと仰るのですか?聖書にはこう記されています、「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ロ—ラによる福音書10:17)。 あなたは私がよそ者を受け入れたりすることも、他人の説教を聞くことも許しになりませんが、それははたして主の教えと合致しているのでしょうか?実際に、全能神教会の兄弟姉妹たちの交流を数回聞いた後、私は彼らの説教はとても素晴らしく、それには聖霊の新しい啓きがあると考えるようになりました。彼らは真理の交流を通じて私の生活における様々な困難を解決することができ、神の働きと聖書に記されている謎に関する知識を与えてくれています。彼らの交流と説教には聖霊の働きが宿っているのです。。。」私が喋り終える前に、牧師リーが怒りながら割り込んできました。その後、彼は言葉で激しく神を冒涜しました。私は腹を立てて彼にこう言いました、「あなたは全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取りましたか?全能神の働きを求めて、研究していますか?してもいないのに、無作為に全能神教会を非難するなんて無神経すぎます。現世においても、来世においても神を冒涜する罪は許されないのだから、私たちは信仰者として、神を敬う心を持つ必要があるのです。」

霊的な戦いにおいて識別することを学ぶ

   その後、牧師はこうも言いました、「全能神教会は主イエス様が肉となって再臨されたと証言している。そんなことは不可能です。聖書にははっきりとこう書かれているのです、『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。』(黙示録 1:7)。 従って、主は世の終わりに雲の上から再臨なさるに違いないのです。」彼のこの言葉を聞いた後、私は兄弟ヂャンが私と交流してくれた時に私たちがこの節について理解し、知り得たことについて考えました。従い、私は彼らにこう言いました、「私たちが神の働きをこの節の文字どおりの意味だけで定義してしまうのは不適切です。実際には、人の子の来臨を言及している箇所が多く存在しています。これはその1例です、『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。』(ルカによる福音書17:24)。『見よ、わたしは盗人のように来る。』(黙示録16:15)。これらの節は全てが人の子の来臨について触れています。人の子の言及があるので、それは受肉されたキリスト様を指しているに違いありません。」牧師リーが割り込んでこう言いました、「人の子とは主イエス様のことを指しているのです。」これに私は言いました、「これが主イエス・キリスト様を指しているのであれば、主イエス様が既に受肉されて贖いの働きを成就なされた後にどうして、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』 (ルカによる福音書 17:25)。などということが言えましょうか?これからも分かるように、これは世の終わりに2度目の受肉をされた神を指しているのです。世の終わりに再臨された主が、肉としてではなく、霊的な御姿をお見せになるのなら、言うまでもなく主が多くの苦しみを強いられること、ましては現世代から拒まれることなどあり得ません。」この後は、私が彼らとどのように話をしても、彼らは聞く耳を持ってくれず、真理を調べもせず、依然として聖書の表面的な意味を固執していました。

   この時、私は、彼らは間違いなく再臨される主を心待ちにしている人たちではないことを明白に知りました。私は神の御言葉のこの節のことを考えました、「どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。」(「真理の追求のみが真の神への信仰」より)神の御言葉が明らかにされることは全てが真実です。聖書には、人の子が来臨すること、そして主が盗人のように来臨されることを予測する箇所がたくさんあります。牧師と長老たちはその全員が神学校を卒業し、聖書を極め、長年に渡って主に仕えてきています。しかしながら、彼らは聖書にある預言の真義を読み取ることができないのです。彼らは神を信仰していながら、聖書の表面的な意味を学ぶことにしか集中しておらず、人々から尊敬されたいがために、神学理論を身に付けて自己顕示しているだけだということが分かります。これ故に、彼らは聖書を暗記し、長年に渡って説教し、働いてきているにもかかわらず、神を全く理解していないだけでなく、主イエス様が再臨される時に、宗教的な観念を固執することで神の働きに制限を課してしまうのです。彼らは正に盲目に人々を導く人たちなのです。



   ついに、往生しない私を見た牧師リーは、同僚たちの前で立腹してこう言いました、「私が教会を代表して結論を発表します。今後、あなたの教会における奉仕活動全てを中止します。これについて、自宅で落ち着いて慎重に考えなさい。」その瞬間、私は心が痛み、滴り落ちる涙を抑えられませんでした。私が悲しかったのは彼らが私の奉仕活動を中止したからではなく、長い間牧師リーと仲良くしていたにもかかわらず、そして彼は表面的にはとても敬けんで、主のために最善を尽くし働いていたように見えたにもかかわらず、彼らは私が真の道を調べていたことだけを理由に私を責め立て、私を見捨てたことが理由でした。彼らは信仰者たちに説教をして、主が来臨されるのを待っているようにとずっと言っていたのです。今、主は肉として再臨されておられるのに、彼らは神の終末の働きを見い出すことも、調べることもしていません。それどころか、彼らは真の道を調べる人々を妨害し、非難しているのです。この現状をふまえ、私は思わず主イエス様がパリサイ人たちを非難するために仰ったこの御言葉について考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」 (マタイによる福音書23:27)。当時のパリサイ人たちを振り返ってみてください。彼らは頻繁に礼拝堂で信仰者たちに聖書の説明をし、人々の前で祈り、聖書の規定によって他の人たちに有罪を宣告していました。表面的には、彼らは聖書に従い、とても敬けんな人たちであったように見えました。しかし、彼らは神の御言葉を実践して神の御命令に従う代わりに、宗教的儀式を行い、宗教上の規則に従うことだけに留意していました。彼らの振る舞いと行動は神の御心と御要求とは逆の方向に向かっていたのです。これがパリサイ人たちの偽善行為の本質であり、神に対する抵抗だったのです。それでは現代の牧師と長老たちに注目を戻しましょう。彼らは聖書に盲目な信念を注ぎ、それを敬い、称賛しています。彼らは宗教的儀式の種類、日常の宗教的業務と朝課に参加すること、パンをちぎり配ること、聖餐式に参加すること等にしか集中していません。彼らは信仰者たちに謙虚さ、辛抱強さ、敬けんさ、そして愛を説くことだけに重点を置いています。しかし、実際には、彼らは神を愛したり、神に従ってもいなければ、神を敬う心など全く持っていないのです。彼らは働いて説教をする時、聖書に関する知識と神学理論を固執し、それらを詳しく解説することしか重要視していません。主の御言葉の内容を実践して体験することや、神の御命令と御要望に従うにはどうすれば良いのかということになると、彼らはこれらを求ることも、探求することもなく、これらを実践して、これらに従うように人々を導きもしないのです。彼らは自己顕著するために、そして自分達が出生するために働き、人々に自分たちを尊敬して、敬うように仕向けているのです。

障害を踏み越え、全能神に従う

   後に、私は、私と共に全能神の終末の働きを受け入れた姉妹も牧師とその同僚たちから非難を受け、教会から除名されていたことを知りました。牧師と長老たちはまた教会を完全に封鎖して、ここ2年の間に教会の集会に参加した信仰者の中に全能神教会から来た者がいないかどうかを知るための調査を実施しました。さらに、毎週日曜日の午後には、牧師が教会内で全能神教会対抗を唱えるようにもなりました。私はこの知らせを聞いて激怒しました。教会の中にはまだ主を心から信仰し、主の再臨を強く待ち望んでいる兄弟姉妹たちが何人かいました。しかしながら、彼らは全員がと当時はこれら偽善的な牧師と長老によって束縛され、コントロールされた状態にあり、真の道を調べる機会が全くありませんでした。私はこう考えていると懸念に駆られました。そして、私は主イエス様のこの御言葉のことを考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」 (マタイによる福音書 23:13)。主イエス様が来臨され、説教された時、パリサイ人たちは主イエス様の御言葉には権威と力があることをはっきりと分かっていました。彼らは主イエス様の御言葉を求めることも、調査することもせず、その代わりに、主イエス様は悪霊を払拭するために悪魔の王子を頼りにしているなどと言いながら悪意をもって主イエス様を非難し、中傷することで、聖霊に対する冒とくの罪を犯し、神の性質を深刻に害したのです。パリサイ人は自ら主イエス様を冒涜し、非難しただけでなく、信仰者たちを駆り立て、欺くことで神に抵抗させ、神を非難させたのです。その結果、彼らは主からの御救いを逃し、パリサイ人の副葬品や犠牲者となってしまったのです。この牧師と長老たちの行為は当時のパリサイ人のものともはや同じなのです。人々が主イエス様の再臨に関する福音を広めると、彼らは教会を封鎖して信仰者が真の道について調べることを妨げるのです。これはこの人たちは、人類に対して天国への道を閉じ、自らがはいることもなければ、他人にもはいらせないという人々であるということを示していないでしょうか?しかし、私が一番理解に苦しんでいるのは、この牧師と長老たちはパリサイ人は主イエス様に抵抗していたことを明らかに分かっているにもかかわらず、どうしてパリサイ人の道を歩んでいるのかということです。どうして彼らはこんなに必死になって神の新しい働きに抵抗し、それを有罪扱いするのでしょうか?

   その後、私は神のこの御言葉を目にしました、「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を朗読するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と自称しているが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」(「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より)。神の御言葉を読み、そして自分の個人的な体験により、私は宗教界における牧師と長老たちの本性を見極めました。彼らは正に障害物であり、神を信仰するという旗印の下に神に反抗し、人々が神を信仰するのを妨げるキリストの敵なのです。名目上、彼らは教会で兄弟姉妹たちを育てているということになっています。しかし、実際には、彼らは信仰者たちがいのちの成長を遂げることなど全く気に掛けていないのです。信仰者たちの信念と愛は冷めてしまい、それと同時に彼らは否定的かつ弱気にもなってしまいました。今回のケースについて言うと、牧師と長老たちは信仰者たちに真理を求めたり、聖霊の働きが宿る教会を見つけに行くように導いたりもせず、むしろ信仰者たちを厳重な管理下に置いているのです。特に、全能神が人々にいのちを備えようと真理をお示しになる時、彼らはそれを調査せず、受け入れもせず、代わりにありとあらゆる方法で真の道に反抗し、それを非難し、信仰者たちが真の道を調査するのを妨害するのです。彼らは信仰者が全能神教会にいる人々と連絡を取ることや、全能神の御言葉を読むことを許しません。彼らは自分たちの地位と生活のために、終末の時代における神の働きについてあちこちでうわさを流し、神の働きを中傷し、非難するのです。牧師と長老たちの振る舞いと行動全ては神に抵抗するものではないでしょうか?彼らは主イエス様が仰る悪の従者、もしくは現代のパリサイ人と言えないでしょうか?彼らは可能な限り、信仰者が世の終わりの神の御救いを受け入れることを邪魔するのです。彼らは私たちを地獄に向って引き寄せ、神の終末の御救いを授かる機会を逃させようとしているのです。これらも分かるように、彼らは人類の魂をむさぼり食う悪魔で、羊の皮を被った狼なのです。私は、牧師と長老たちの持つ真理を嫌い神に抵抗する本性と本質を見極めた後、彼らを心の底から嫌い、拒絶し、これ以上彼らに束縛されることはなくなりました。

   私は新しい教会では奉仕活動の全てを中止されられましたが、今現在は全能神教会で自分の本分を尽くしています。私は兄弟姉妹たちと頻繁に集まり、そして自分の本分を尽くすことで以前よりも価値があり、有意義な生活を送っていると感じています。神様、どうもありがとうございます。私はついに天国につながる道に置かれた障害を乗り越え、神の御許にはいることができたのです。私は神を従う過程において、神に満足していただき、神の御心を和ませることに精一杯努力いたします。全ての栄光、全能神にあれ!アーメン!