賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

2019-09-09 21:15:21 | 神に帰す証

オンラインの集会に参加することで潤される

私は数年前に家族と一緒に主イエスを信じ始めました。しかし2017年になって仕事のせいで頻繁に集会に参加できず、霊が沈んでいくのを徐々に感じました。自分の気に入らない物事に出会うたび、私はしばしば怒りっぽい性質を露わにしていました。心の中では自分を憎んでいたものの、それでも感情を抑えられなかったのです。そこで主に祈り、聖書の学習で私を導き、それによって主との関係修復を助けられる人を用意してくださるようお願いしました。

ある日、Facebookグループである人のために祈っていたところ、ひとりの姉妹が私を友達に加えてくれました。その後、私たちは信仰に関することをオンラインでチャットするようになりました。その姉妹は聖書について多くのことを知っており、彼女の交わりはとても光に満ちていたので、私は自分の霊が再び潤されたことについて心から主に感謝しました。あるとき、彼女が説教を聞くよう招待してくれたので、私は喜んで従いました。説教の間、ある兄弟が聖書を使って、人類の堕落の起源と、どのような人が天国に入れるかを語りました。彼の説教は牧師のものよりも啓きに満ちていて、耳を傾けていた私の心は光
で満たされ、その兄弟の説教を聞くのが楽しみになりました。

オンラインの噂と牧師に影響され、神様による終わりの日の働きの考察を拒絶する
次の集会が終わりに向かう中、その兄弟は「神様につき従う決心を揺るぎない」という賛美歌を歌いました。私はその賛美歌を聴いたことがなかったので、好奇心からオンラインでそれを探しました。あるリンクをクリックしたところ馴染みのある画像が現われ、それが全能神教会のウェブサイトであることと、その賛美歌が東方閃電によって作曲されたことを思い出しました。以前、牧師が全能神教会のウェブサイトをプロジェクターで映し、それについて悪く言っていたことがあるので、私はとても驚きました。しかし兄弟による説教はとても光に満ちていました。いったいどうなっているのでしょう。それから東方閃電に関する多くの否定的なコメントをオンラインで読んで、その兄弟を心の中で警戒するようになりました。その後、私はあの姉妹に、兄弟が歌った賛美歌は東方閃電のもので、彼の信仰は私たちのものと違うと言いました。すると姉妹は、次のオンライン集会でその問題の答えを一緒に見つけましょうと言ってくれました。

集会のあいだ、私たちは心の中の疑惑を兄弟に伝えました。すると兄弟は、真の道を考察するときは神様のお声に耳を澄ますべきで、オンラインの噂を基に考察すべきではないと語りました。そして、今は終わりの日で、主イエスは肉となってお戻りになり、全能神の御名で神様の家から始まる裁きの働きをなさっていると言いました。また神様による終わりの日の裁きの働きや、神様が御名を変えられたことに関する聖書の聖句も数多く示してくれました。終わりの日の裁きの働きと全能神の御名に関する聖書の預言に反論することはできませんでしたが、全能神はお戻りになった主イエスであるという兄弟の言葉は私にとって信じがたいものでした。私はこう考えました。全能神は本当にお戻りになった主イエスなのか。牧師がそれについて語るのを以前に聞いたことはないし、主イエスも「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃった。主イエス以外に私たちを救える方はいらっしゃらない。全能神を信じるなら、主イエスを裏切っていることにはならないか。私はまだ天国に入れるだろうか。そうしたことを考えると、兄弟の言うことに耳を傾ける気がしなくなりました。

その後、異端に気をつけるようにとのメッセージが教会のFacebookグループから送信されました。私はそれを見て、あの兄弟と接触するのがさらに嫌になりました。また姉妹が何度も招待してくれたにもかかわらず、オンライン集会に参加するのも断わりました。しかし後になって、兄弟の説教は主の御言葉と一致しており、ゆえに異端であるはずがないと感じました。そう考えていると心の中で葛藤が起こり、惨めな気分のまま、どうすべきかわからないでいました。その後、兄弟がグループチャットで数編の動画を送ってくれました。それらの動画を再生したところ、西洋の宗教学者による研究報告やコメントがいくつかありました。彼らは中国共産党による全能神教会への非難を調査し、インターネットで流れている全能神教会についての否定的な報道の大半は中国共産党が捏造したフェイクニュースであり、根拠となる事実がないことを証明していました。それらはまた、全能神教会を誹謗し断罪している中国共産党のフェイクニュースが、宗教的信仰の抑圧を目的としていることも暴いていました。これらの動画を見終えて初めて、インターネット上の噂がすべて嘘であることに気づきました。その後、兄弟がグループチャット経由で送ってくれた全能神教会による福音動画も見ました。その動画に登場する兄弟姉妹は中国共産党による逮捕を避けるため、しばしば集会の場所を変える必要がありました。集会の最中に中国共産党によって逮捕され、残酷な拷問を受けた人もいれば、自宅を捨てて逃げることを強いられた人もいました。私はそれらのシーンを見てとても悲しくなり、かつてある長老が中国に行って教えを宣べ、中国共産党はクリスチャンを迫害するのに力を惜しまず、中には投獄された長老さえいると言っていたことを思い出しました。また日曜礼拝の教師は、中国共産党は無神論者でマルクス主義を信じているから、神様を信じる人は誰もが弾圧されると言っていました。当時、私はそれらを誇張だと思っていました。盗みも強盗も働いていない主の信者を、どうして中国共産党が逮捕するでしょうか。しかしこれらの動画を見て初めて、中国共産党は犯罪と闘うよりも宗教的信仰を抑圧するほうに関心があり、彼らによる全能神教会の断罪を信用してはならないと理解しました。

神様による終わりの日の働きを受け入れるのは主イエスを裏切ることなのか
私は中国共産党による噂を見抜きましたが、主イエスと全能神の関係についてはまだはっきり理解しておらず、兄弟の説教を聞き続けるべきかどうかわからないままでした。全能神を信じ始めたら主イエスを裏切ることになるのではと不安だったのです。すると姉妹が、そんな簡単にあきらめず、最後の判断を下す前に詳しく調べてはどうかとアドバイスしてくれました。彼女の言うことは正しいと思いました。いったい何なのかを突き止めることなくあきらめたら、実際に主がお戻りになっていた場合、主をお迎えする機会を失うことにならないだろうか。そこで、次の集会で兄弟が説教することに耳を傾けることにしました。

インターネットに接続すると、私の疑問について兄弟がこう説教してくれました。「主イエスを信じる私たちはみな、主が真の神様であることを知っています。また主から多くのお恵みと祝福を受け取り、大いに感謝して愛情を抱いています。ゆえに、主はすでにお戻りになっているが、もはやイエスではなく全能神と呼ばれていると聞くとき、私たちの多くは心の中でためらいを感じだし、自分は別の神様を信じて主を裏切っているのではないかと不安になります。そのせいで神様の働きをあえて考察しようとしないのです。しかしこのような考え方は正しいでしょうか。私たち全員が知っているとおり、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ファリサイ人は主の働きを異端だと断罪し、ローマ帝国と手を結んでイエスを十字架にかけました。主の御名がメシアではなく、安息日をお守りにならず、神殿の外に行って働きをなさり、教えを宣べ伝えられたからです。次のことを考えましょう。何世代もヤーウェ神に仕え、熱心にメシアを待ち望んでいたファリサイ人は、主イエスが預言されていたメシアであるとどうして気づかなかったのでしょう。それは、彼らが神様を知らず、とても傲慢でうぬぼれていて、自分の観念と想像を基に主イエスを断罪して拒んだからです。彼らは最終的に神様を信じながら神様に抵抗した人たちとして人生を終えました。ならば、主がお戻りになったという知らせを聞きながら、主の御名がイエスから全能神に変わったからといって考察するのを拒むなら、それは単に当時のファリサイ人の過ちを繰り返していることになりませんか」

兄弟の説教は深く考えるべき多くのことを私にもたらしました。彼は正しいと私は思いました。神様にはお知恵があり、神様がどう働かれるかは私たちに想像できることではない。しかし自分の観念と想像を基に神様の働きを判断すれば、まさにファリサイ人と同じではないだろうか。そう考えると心がとても落ち着き、引き続き兄弟の説教に耳を傾けました。

兄弟は続けました。「事実、ヤーウェ神と主イエスと全能神は一つの神様です。その働きと、働かれた場所は違っていますが、いずれも堕落した人類の必要に応じて神様がなさらなければならない働きなのです。律法の時代、神様はヤーウェ神の御名を使って働きをなさいました。ヤーウェ神は律法を布告なさって生まれたての人類を導かれ、地上でどう暮らすべきかをお教えになり、威厳と怒りと憐れみの性質を表現なさいました。律法に従う人たちは神様の祝福とお恵みを得ました。律法に背いた者は罪の捧げ物をしなければならず、さもないと石打ちの刑に処されるか、天の火によって焼かれました。律法の時代の後期、人類の罪はますます深刻になり、罪を贖われるためにする罪の捧げ物ももはやないほどでした。ゆえに、神様は人類が必要とするものを基に受肉され、イエスの御名で恵みの時代の働きをなさり、愛とあわれみの性質を表現なさるとともに、豊富なお恵みを人類に授けられ、悔い改めの道を宣べ伝えられ、自分を愛するように他人を愛するようお教えになり、人類のために罪の捧げ物として十字架にかけられました。恵みの時代の働きは二千年にわたって続き、主の贖いのおかげで私たちの罪は赦されてきたものの、傲慢さ、偽り、利己心、邪悪さといった私たちの堕落したサタン的性質はいまだ残っており、いまなお罪を犯しては告白するという循環の中で生き、罪の束縛からまったく逃れられないでいます。これは真実ではないですか」

私は言いました。「ええ、真実です。主は私たちに、寛大で忍耐強くなり、自分を愛するように他人を愛するようお教えになりました。私たちは自分の怒りを抑えられるときもありますが、自分の意にそぐわない物事に遭遇すると怒りっぽい性質をどうしても露わにすることがあります。私たちは主の御前で罪を告白して悔い改めますが、それでも再び同じ罪を犯してしまいます」

兄弟は再び説教を始めました。「そうです。主イエスによる贖いの働きのおかげで私たちの罪は赦されてきましたが、私たちに罪を犯させるサタン的な本性はいまなお深く根ざしており、いつでもどこでも罪を犯して神様に反抗することができます。聖書にはこう記されています「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)また主イエスはこうおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書8:34-35)罪を犯しては告白するというこの状態の中で生き続けるなら、たとえ主イエスの罪の捧げ物が永遠に有効だとしても、私たちはなお主によって天国へ引き上げられることができません。ゆえに終わりの日、神様は私たちが必要とするものを基に、主イエスによる贖いの働きを土台としてより高い働きをなさり、私たちの罪を裁いて不正を清めるべく真理を表現なさって、私たちが真の救いを得て天国に入れるようにしてくださいます。そのことから、ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きはそれぞれ不可分に結びついており、働きの各段階は直前の段階に比べてより高く、それらが一つの神様の働きであることがわかります。ここで神様の御言葉の二節を読みましょう。そうすればもっとはっきり理解できます。


苦難は、神がわたしたちに与えられる最もよい祝福だ!

2019-09-08 20:44:49 | キリスト教ミニストーリー

  ある日、わたしは次のような寓話を読みました。ある農夫は自分の小麦はいかなる劣悪な環境を経験せず、風は穏やか日はうららかの中で成長するように願っています。彼の願いどおりにかない、収穫の季節になり、麦の殻には実がありません。実は、小麦が豊作になるには、天地も凍る冬と吹きすさぶ寒風の洗礼、および劣悪な環境の試練を経験しなければ、小麦の粒が十分充実しません。

 

小麦の成長の過程はわたしに人の成長を連想させます。成長するためには、人も度重なる困難や苦労によって鍛えられなければなりません。さもなければ、人の命は温室育ちの花と同じように、一撃にも耐えられず、さまざまな厳しい環境と残酷な現実に適応できません。聖書にこう書いてあります。「愚か者は無為のうちに滅びる」(箴1:32)。人が自分の命を成熟させたいなら、挫折、苦難を経験しなければなりません。遭遇する困難が多くなれば、問題を解決する過程の中で人はますます気丈になり、人の意志、根気はますます強くなり、人の物事を見る能力、人の問題に対応する能力もますます高くなり、しかも人はますます成熟し、ますます粘り強くなります。だから、苦難、試練こそがわたしたちの成長に有益です。何もかもうまくいけば、かえって悪いことになります。

クリスチャンにとって、苦難、精錬を経験することは神から与えられる最も大きな祝福です。なぜなら、クリスチャンが命を得たいなら、苦難、試練を経験しなければならないからです。聖書にこう書いてあります。「多くの者は清められ、白くされ、練られる……」(ダニ12:10)。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコ1:2-4)。聖書には、同じような聖句が多くあります。これらの聖句はわたしたちに、人は苦難、精錬によってこそ神に完全にされることができるということを告げています。例えば、歴代の、神の心にかなう古い聖なる預言者たちは苦難を経験した後、神の使用にいっそう適し、しかも神に祝福されました。アブラハムはイサクをささげました。実際の事が臨んで、精錬を受ける時、アブラハムは神を満足させるために自分の最も愛する独り子をささげることができました。だからこそ、彼は神の祝福を得、彼の子孫も天の星、海辺の砂のように多いです。モーセが荒野での四十年の苦難を経験してはじめて、彼の中の血気は取り除かれました。それゆえに、彼は神に従うことができ、神の使用に適し、しかもイスラエル人をエジプトから導き出すという重任を担いました。

主イエスはこう言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マコ8:34)。数千年来、神を信じるという道は、苦難に満ちた曲がりくねっているでこぼこ道です。苦難は神がわたしたちに与えられる最もよい祝福だ、苦難、試練を経験してこそ、命の性情は変わることができる、命の性情が変わってこそ、神の嗣業を受け継ぐ資格を持ち、神の約束を得ることができる、と、わたしたちは本当に感じました。


神の前で心を静めることについて

2019-09-07 22:23:59 | いのちのパン

神の前で自分の心を静めることは、神の言葉の中に生きるための重要な手順であり、現在全ての人々が緊急に入る必要のある課題である。神の前で自分の心を静める境地に入るには次のことが必要である。

1.外部の物事から自分の心を取り戻し、神の前で静まり、心を集中して神に祈る。

2.神の前で静まった心で、神の言葉を食べ飲みし、享受する。

3.心で神の愛について黙想・沈思すること、神の業について熟考することを日課とする。

まず祈ることから始めなさい。精神を集中して、決められた時間に祈りなさい。時間的にどれほど切迫しているか、どれほど多忙かを問わず、またどんな事があっても、いつものように日々祈り、神の言葉をいつものように食し、飲みなさい。神の言葉を食し、飲んでいる限り、自分の周りの状況がどうであれ、自分の霊は喜びに満たされる。また、他人や様々な出来事や自分の周りのものに悩まされることもない。常時神のことを心の中で黙想していれば、それ以外の出来事に煩わされることは無い。背丈があるとは、このことを意味する。まず祈りから始めなさい。神の前に静まり祈ることは、最も効果的である。その後、神の言葉を食し、飲み、神の言葉を思い巡らし、光を得て、実践の道を見出し、神の発した言葉の目的を知り、偏ること無く理解するよう努めなさい。普段から、外側のことに心を乱されることなく、心の中で神に近付き、神の愛について黙想し、神の言葉を熟考しなさい。あなたが熟考できるぐらい心がある程度安らいでおり、あなたのいる状況に関わらず、自分の心の中で神の愛について沈思し、本当に神に近付き、最終的に自分の心の中で神を讃美する程度に達したなら、それは祈りにも勝ることである。そして、その時初めてあなたはそこから或る程度の器量を得ることになる。もしあなたが、前述したような状態に達することができるなら、それはあなたの心が神の前で真に静まっている証拠である。それが第一段階であり、基本訓練である。人間は、神の前で安らかになることが出来て初めて、聖霊により触れられ、啓き照らされることが可能となる。その時初めて真に神と交わることや、神の意志と聖霊の導きを把握することが可能となる。そして、その時、人間は自分の霊的生活において正しい道を歩きだしたことになるのである。自分自身に反抗し、自分自身を忌み嫌い、神の言葉の中で生きることができる深みに達するために、神の前で生きるよう自分を訓練することが、真に神の前で自分の心を静めることである。自らを忌み嫌い、呪い、自らに反抗することが出来ることは、神の業が達成する成果であるが、人間には不可能である。したがって、神の前で自分の心を静める訓練は、人間が直ちに入るべき課題である。普段から神の前で自分の心を静めることが出来ないだけでなく、祈る時さえ自分の心が静まっていない者もいる。これは神の基準から全くかけ離れ過ぎている。自分の心を神の前で静められないのであれば、聖霊によって動かされることなどありえようか。神の前で静まることが出来ないのであれば、あなたは誰かが来た時には気を散らされ、誰かが話をしている時には気をそらされてしまうだろう。そして、他人が何かしていると、あなたの心はそれに惹き付けられてしまいかねない。それでは、あなたは神の前に生きる者ではない。あなたの心が、神の前で本当に静まっているのであれば、周囲で何があっても、それに煩わされず、どんな人や出来事、またいかなるものにも心を奪われることがないであろう。あなたがこのような境地に入るなら、それらの否定的な状態や、人間の観念、人生哲学、異常な人間関係、心の中の雑念などといった全ての否定的なものは自然と無くなるであろう。あなたは常に神の言葉について熟考し、あなたの心はいつも神に近付き、神の現在の言葉で満たされているので、そうした否定的なものは無意識のうちに取り去られる。肯定的な新しい物事があなたの心を占める時、否定的な古い物事が入る余地はなくなる。だからそうした否定的な物事に注目してはならない。そうした物事をコントロ-ルしようとして努力する必要は無い。神の前に静まることに注意を払い、神の言葉を食べ飲みして享受しなさい。もっと多くの聖歌を歌って神を讃美し、神があなたに働きかけられるよう機会を与えなさい。なぜなら、神は今自ら人間を完全にすること、また、あなたの心を獲得することを求めているからである。神の霊はあなたの心を動かす。そしてあなたが聖霊の導きに従って神の前に生きるならば、あなたは神を満足させるであろう。あなたが、神の言葉の中に生きることに心を配り、そして真理に関して一層の交わりを行って聖霊の啓き照らしを得ることに留意したならば、それらの宗教的観念や独善、自惚れは消え去り、神の為にどのように費やし、どのように神を愛し、どのように神を満足させればよいのかを知るであろう。神以外の物事は、その時無意識のうちに忘れられるであろう。

神の現在の言葉を食し飲むのと同時に神の言葉を熟考し、神の言葉について祈ることが、神の前で安らかであることの第一歩である。神の前で真に安らかであることが出来るならば、聖霊の啓き照らしは、あなたと共にあるであろう。

全ての霊的生活は、神の前に静まることによって達成される。聖霊に動かされるには、まず祈りの中で神の前に静まらなければならない。神の言葉を食べ飲みする時に、神の前に静まることによって、啓き照らしを受けることと、神の言葉を真に理解することが可能となる。あなたの通常の瞑想と交わりにおいても、またあなたの心で神に近付く際も、唯一あなたが神の前に静まる時にのみ、本当の神との親しさと、神の愛と神の働きに関する真の認識と、神の心に対する本当の思慮深さが得られるのである。神の前で普段から静まることができればできるほど、あなたは一層照らされることができ、自分の腐敗した性情や、自分に欠けているのは何か、自分が入るべきこととは何であるか、自分が担うべき役割、また、自分の欠点がどこにあるかを一層理解できるようになる。これら全ては、神の前に静まることに依存することによって達成される。神の前に静まることにおいて、あなたが本当にある深みに達したならば、あなたは霊においていくつかの奥義に触れることができる。神が今あなたに為したいと願っていること、神の言葉の一層深い理解、神の言葉の真髄、神の言葉の本質、神の言葉の存在に触れることが可能となり、また実践への道をもっと深くかつ正確に理解できるようになる。もしあなたが霊において静まり、ある深みに達することが出来ないのであれば、あなたは幾分聖霊に動かされるだけだろう。あなたは、内に力といくらかの喜びと平安を感じるが、それ以上の深みに触れることはないであろう。前にも言ったように、人が全力を尽くさないのなら、わたしの声を聞くことも、わたしの顔を見ることも困難であろう。それは、外面的努力ではなく、神の前に静まり深みに達することを指している。神の前で本当に静まることができる人は、自分を世のしがらみから解き放ち、神により占有することができる。神の前に静まることができない人々は、皆自堕落で無節操である。神の前で静まることができる者たちは、皆神の前で敬虔な人々であり、神を待ち望む人々である。いのちに注意を払い霊の交わりに気を配り、神の言葉を渇望し、真理を追求するのは、神の前で静まっている人々だけである。神の前で静まることに一切注意を払わず、神の前で静まることを実践しない者たちは皆、完全に世に執着し、いのちを持たない見かけだけの人々である。彼らは神を信じると言っても、それはただ口先だけである。最終的に神が完全にし完成する者たちとは、神の前で静まることができる人々である。したがって、神の前で静まる人々は、大いなる祝福の恵みを受けている人々である。日頃神の言葉を食し飲む時間を少ししか取らない人々、外部の状況に完全に心を奪われている人々、いのちの道に入ることに注意を払わない人々は、皆将来成長の見込みのない、偽善者たちである。神の前で静まることができ、真に神と交わることができる者たちこそ神の選民である。

神の前に来て神の言葉を自分のいのちとして受けるには、まず神の前で静まらなければならない。神の前で静まっている時のみ、神はあなたを啓き理解させるであろう。人が神の前に静まれば静まるほど、人は神の啓き照らしをより一層受けることが出来る。これらのことには、敬虔さと信仰を持つことが要求される。このようにしてのみ人間は完全になることができる。霊的生活に入るための基本的な訓練は、神の前に静まることである。あなたの霊的訓練は全て、あなたが神の前に静まっている時のみ効果的なものとなるであろう。自分の心を神の前で静められないのであれば、聖霊の働きを受けることが出来ない。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前に静まっているならば、その時あなたは神の前で生きる者である。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前に静まり、神に近付いているならば、それはあなたが神の前に静まる者である証拠である。他人と話をしている時、また歩いている時に「私の心は神に近付いており、外部のものにとらわれてない。そして私は神の前に静まっていることができる。」と言うことが出来る。それは、神の前に静まっている者である。あなたの心を外に引き付けるものに触れてはならない。また、神からあなたの心を引き離す可能性のある人々と接してはならない。あなたの心が神に近付くのを邪魔する可能性のある物事は何であれ、全て捨てるか、近付かないようにしなさい。その方があなたのいのちにとってより有益である。今こそが聖霊による大いなる働きの時である。神が自ら人間を完全にしている時である。今この瞬間に神の前に静まることができないのであれば、あなたは神の玉座の前に戻って来る者ではない。神以外の物事を追求するのであれば、神により完全にされる可能性は全く無い。今日神の発するこのような言葉を聞いてもなお、神の前に静まることができない者たちは、真理を愛さない人々、神を愛さない人々である。あなたが、今自分を神に捧げないなら、いったい何時捧げるのだろうか。自分を神に捧げることは、神の前で心を静めることである。これが真の捧げ物である。今本当に神に心を捧げる者は誰であれ、神により確実に完成されることが可能である。何であれ、あなたを煩わせる物事は一切ない。あなたに対する刈り込みであれ、取り扱いであれ、またあなたが挫折や失敗に直面しようが、あなたの心は、常に神の前に静まっているべきである。他人が自分をどう扱おうと、あなたの心は神の前に静まっているべきである。逆境、苦難、迫害など、どんな状況に直面しようが、また様々な試練があなたに降りかかろうが、あなたの心は、常に神の前に静まっているべきである。これが完全にされる道である。あなたが本当に神の前に静まっている時のみ、あなたは神の現在の言葉を明瞭に理解し、聖霊の啓き照らしを一層正しく実践し、そこから逸脱しない。また神の意図をもっとしっかりと把握し、自分の奉仕において一層明瞭な方向性を持ち、聖霊の動きと導きをもっと正確につかみとることができ、聖霊の導きの下で生きることがより確かなものとなる。これらが神の前で本当に静まることが達成する成果である。人々が神の言葉を明瞭に理解しておらず、実践する道が無く、神の意図が把握できない、あるいは実践における原則が無いのであれば、それは彼らの心が神の前で静まっていないからである。神の前で静まることの目的は、真剣かつ実践的となり、神の言葉の正確さと明瞭さを探求し、最終的に真理を理解することと神を知ることを達成することにある。

自分の心が神の前で継続的に静まっていないのであれば、神はあなたを完全にすることは出来ない。ある人に意志が無いならば、それは心が無いことと同じであり、心の無い人間は神の前で静まることが出来ない。彼らは神がどれだけ多くの業を行い、どれだけ多くのことを語っているのか知らず、またそれらを実践する方法も知らない。こうした者は、心の無い人間ではなかろうか。心の無い人間は、神の前で静まれるだろうか。神は、心の無い人間など完全にはできない。そんな者は獣に属するのだ。神は極めて明確かつ徹底して言葉を語ったが、あなたの心は依然として動かされず、あなたは神の前で静まることが出来ない。これでは動物と同じではないだろうか。神の前で静まることを実践する中で、迷ってしまう人々もいる。彼らは料理すべき時に料理せず、働くべき時に働かず、ひたすら祈り、瞑想する。神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。何も無い時には神の前で静まることが出来るが、何かが起きるとすぐさま心が神から去る人々も居る。それは神の前で静まることではない。経験すべき正しい方法は、いかなる場合も自分の心が神から離れず、外部の人々や出来事、物事が煩わしいと感じないことである。神の前で静まっている人とは、このような人のことである。集会で祈っている時は、自分の心を神の前で静めることが出来るが、交わりの時になると、神の前で心を静められず、気が散ると言う人たちもいる。それは神の前で静まるということではない。現在ほとんどの人たちがこうした状態にあり、彼らの心は、神の前に常に静まることができない。したがって、あなたがたは、この領域の訓練に一層努め、いのちの経験の正しい道に、一歩一歩入り、神によって完全にされる道を歩む必要がある。


神の言葉により生まれ変わる

2019-09-06 22:37:11 | キリストの再臨

山東省 王剛

私は農夫です。私の家族は貧しいので、お金を稼ぐ単発の仕事を見つけるために私はいつも至る所を旅しなければなりませんでした。自分の肉体労働によって良い生活を送ることができると思っていました。しかし、現実には、私のような移住労働者には法的権利が何も保証されていないことが分かりました。私の給料は何の理由もなく天引きされていました。再三再四私は騙され、他人に付け込まれていました。一年間の重労働の後、私は受け取るはずのものを受け取っていませんでした。私はこの世界が本当に暗いと感じていました。人間は動物のように互いを扱い、強者は弱者を食い物にします。互いに争い、つかみ合いの喧嘩をして、私にはこのように生きる足場がありませんでした。極端な痛みと霊的な絶望の中で、そして私がいのちに対して信仰を失っていた時、私の友人が全能神の終わりの日の救いを伝えてくれました。それ以来、私は兄弟姉妹と定期的に集まり、祈り、歌いました。私たちは真理を交わり、それぞれの長所により互いの短所を補いました。私はとても幸せで解放されたと感じました。全能神の教会では、私は兄弟姉妹がお互いを出し抜いたり、社会的な区別をしようとしたりしないことが分かりました。兄弟姉妹たちはすべて純粋に心を開き、お互いに良い関係にありました。堕落した性質を捨て、人間らしく生きて救いを得るために、誰もがそこにいて真理を熱心に求めました。これにより私は生活における幸福を体験し、人生の意義と価値を理解することができました。それゆえ、私は福音を伝え、暗闇の中に住む多くの人々が神の前に来て、神の救いを受けて光を再び見ることができるようにしようと決心しました。その結果、私は福音を伝え、神への証を立てるグループに加わりました。しかし予期しないことに、私は福音を伝道しているという理由で中国共産党政府により逮捕され、拷問や残酷な扱いを受け、投獄されるという極端な残虐行為を受けました。


2008年の冬の午後、2人の姉妹と私が伝道相手に世の終わりの神の働きの証を立てていた時、私たちは邪悪な人によって通報されました。私たちの居住許可証を調べる必要という言い訳を使い、6人の警察官が伝道相手家に突入しました。扉から入ってくると「動くな」と叫びました。邪悪な警官のうち2人は私に飛び掛り、完全に正気をなくしているように見えました。そのうちの1人が胸の上の衣服をつかみ、もう1人が私の腕をつかんで、私の後ろで腕を力いっぱい締め上げました。そして、「何をしているのか。出身はどこか。名前は何か」と激しく尋ねました。私はこれに答える代わりに「あなたがたは何をしているのですか。あなたがたは何のために私を逮捕しているのですか」と尋ね返しました。私がこれを言うのを聞くやいなや、2人は激怒し、攻撃的に言いました。「理由は関係ない、おまえは我々が探していた人物だから一緒に来るんだ。」その後、邪悪な警察は私と2人の姉妹を連行し、警察の車に押し込み、地元の警察署に連行しました。

私たちが警察署に着いた後、邪悪な警官が私を連れて小部屋に閉じ込めました。警官は私に床をうずくまるように命じ、4人の人々が私を見張るようにしました。長時間しゃがんでいたので、私は大変に疲れ、がまんできなくなりました。立ち上がろうとした瞬間、邪悪な警官が小走りにやってきて、私の頭を抑え、立ち上がれないようにしました。警察が私の身体検査のために、私に立つことを許したのは夜になってのことでした。身体検査して何も見つからず、警官はすべていなくなりました。それから間もなく、私は隣の部屋で拷問されている人の身の毛がよだつ叫び声を聞きました。その瞬間、私は非常に恐くなりました。次に警官がどんな拷問と残虐な扱いを私に使おうとしているのか、私には分かりません。私は切羽詰まって心の中で神に祈り始めました。「ああ全能神よ、私は今非常に恐れています。神が私に信仰と力をお与えになり、私を毅然と勇敢にされ、私が神への証を立てられるように願います。もし拷問や残虐な扱いに耐えられないなら、舌を噛んで自殺しなければならないなら、私はユダのように神を裏切らないでしょう。」祈った後、私は神の言葉を考えました。「恐れる必要は無い。万軍の全能神が必ずあなたと共にいるのだ。主があなたがたの後を行き、あなたがたの盾となる。」(『言葉は肉において現れる』より)ええ、全能神は私の支えであり、神は私と一緒にいてくださいます。何を恐れることがあるのでしょうか。私はサタンと戦うために神に頼らなければなりません。神の言葉は私の心から臆病さを取り除き、私の心は解放されました。

その夜、4人の悪魔のような警官がやって来て、そのうちの1人が私を指さし、「我々は確かに大物を捕まえた。全能神の信者であるおまえたちは社会の秩序を乱し、国内法を破壊している…」と叫びました。彼は2階の拷問室に私を押し入れ、しゃがむよう怒鳴り声で指示しました。拷問室にはロープ、木製の棒、警棒、鞭、銃などのあらゆる種類の拷問器具が配置されていました。それらはごちゃごちゃに置かれていました。しかめ面をして目をぎらぎらとさせ、ひとりの邪悪な警官が片手で私の髪を握り、激しくビュッ、パンと音をたてる電気警棒をもう片手に持ち、脅しながら情報を求めました。「おまえたちの教会には何人いるんだ。おまえたちの集会する場所はどこだ。責任者は誰だ。福音を伝道しているのは地域に何人いるんだ。言え。さもなければ、報いを受けることになる」私は電気警棒による差し迫った危険に直面し、拷問器具でいっぱいの部屋を再び見ました。緊張や恐れを感じずにはいられませんでした。この拷問を乗り越えることができるかどうか分かりませんでした。この重大な瞬間に、私は全能神の言葉を思い、それはこのように言っていました。「あなたもわたしが飲んだ苦い杯(これはイエスが復活の後言ったことである)を飲まなければならない。あなたもわたしが歩いた道を歩み…」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにイエスを知るようになったか」より)これは神が私たちに委ねてくださったものであり、それは神が私たちのために個人的に定められたいのちの道であることを認識しました。神を信じ、真理を求める道を歩むにあたり、確かに苦しみと挫折を経験しなければなりません。これは避けられないものであり、最終的に、これらの苦難は神からの祝福をもたらします。苦しみを通してのみ人々は神によって与えられた真理の道を受けることができ、この真理は神によって与えられた永遠のいのちです。私は神の足跡に沿って歩き、勇敢にこれに向かうべきです。私は臆病になっても、恐れてもいけません。そう考えると、私の心はすぐに力を発揮し、大きな声でこう言いました。「私は全能神を信じているだけで他のことは何も知りません。」邪悪な警官はこれを聞くと狼狽し、電気警棒で私の胸の左側を突きました。彼は私に1分ほどショックを与えました。私はすぐに体の血が沸騰したように感じました。頭から足へ耐え難い痛みが走り、叫びながら床を転げ回りました。その警官はまだ私を許そうとはせず、突然私を引きずりよせて、叫びながら警棒を使って私の顎で私を持ち上げました。「話せ。白状することがないとでも言うのか。」警官は叫び、電気警棒で私の胸の右側を突きました。私はひどく感電して頭から足にかけて震えていました。その後大変に痛くなり、私は床に横たわって失神し、動けなくなってしまいました。どれくらいの時間が経過したのか分かりませんでしたが、私は邪悪な警官の言葉に目を覚ましました。「死んだいるふりをしているのか。そうだろう。そうしていろ。」警官たちは再び私の顔に警棒を突き、太ももを蹴った後、彼らは私を引き寄せ、激しく尋ねました。「話すか。」私はまだ答えませんでした。邪悪な警官は情け容赦なく私の顔を拳で殴り、歯が一本折れ、他の歯はがたがたになりました。唇はすぐに出血し始めました。こうした悪魔の狂気の責めに直面し、責めに耐えられず、ただ神を裏切るかもしれないと恐れました。この時、私は神の言葉を再び思いました。「権力者は、外観が残忍であるかも知れないが、恐れてはならない。なぜなら、それはあなたがたの信念が少ないことが原因だからである。あなたがたの信念が強くなる限り、難しすぎる事は一切無い。」(『言葉は肉において現れる』より)神の言葉は私に再び信仰と力を与えてくれ、私の目の前の邪悪な警官が狂っていて抑えがきかなくても、警官たちは神の手によって采配されていると認めました。その時、神は警官たちを使って私の信仰を試していました。私が信仰に頼り、神に依拠し、警官たちに屈しなければ、警官たちは必然的に屈辱に落ちるでしょう。こう考えると、私は体のすべての力を奮い起こし、大声で答えました。「あなたがたはなぜ私をここに連れてきたのですか。あなたがたはなぜ電気警棒で私を感電死させようとしているのですか。私がどんなの罪を犯したのですか。」邪悪な警官は突然ヘッドライトにはいった鹿のようになり、良心の呵責に打ちひしがれました。彼は吃り始めました。 「私は…私は…ここにあなたを連れてくるべきではなかったのですか。」そして、その警官はしょんぼりとして出て行きました。サタンのジレンマの屈辱的な状況を見て、私は目頭が熱くなりました。この苦境で、私は本当に全能神の言葉の力と権威を経験しました。神の言葉を実践し神の言葉に従う限り、神はあなたを保護し、守り、神の力があなたに付き添うでしょう。それと同時に、私にはいかにわずかな信仰しかないかということで神に恩義を感じました。その後、背の高い警官が入ってきて、私のところに歩いてきました。「おまえの家族がどこに住んでいるのか、おまえの家族に何人いるのか教えればよい。すぐにおまえを解放する。」私が何も言おうとしなかったので、彼は困惑して私の手をつかんで、警官たちが書いた口頭での自白の証書を押し付けました。口頭での自白は私が警察に話したことではなく、それは完全な偽造とでっち上げの証拠でした。私は義なる怒りで満たされ、私は証書をつかんで粉々に切り裂きました。邪悪な警官はすぐに激怒し、私の顔の左側を拳で殴りました。それからその警官は私の顔を2度叩き、それがあまりにも強かったので私はめまいを感じました。その後、警官たちは私が前にいた小部屋に私を連れて行きました。

小部屋に戻った後、私は傷つけられ殴られていて、痛みは耐え難いものでした。私の心は悲しみと脱力感が生ぜずにはいられませんでした。なぜ信者はこのように苦しまなければならないのでしょうか。人々が真理を求め救われるようにするという善意で福音を伝えたことで、私は予期せずこの迫害を受けました。これについて考えると、私は虐待されたのだとさらに感じました。苦痛の中で私は神の言葉を考えました。「人間として、あなたは神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。あなたは喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブのように、ペテロのように、意味のある生活を送るべきである。…あなた方は正しい道を追求する人々、成長を求める人々である。あなた方は赤い大きな竜のいる国で立ち上がる人々、神が義人と呼ぶ人々である。それは最も意味のある人生ではないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より)全能神の言葉が私の心を引き付けました。そうです、神は豊かないのちの言葉を私に注ぎ、供給しました。神はその溢れんばかりの愛を無償で私が享受できるようにし、過去の何世代以来誰も理解していなかった謎と真理を私に知らしめました。これは神が私にお与えになった特別な祝福です。私は神に証を立て、神のためにすべての苦痛に耐えるべきです。いかなる苦しみもそれに値します。それは最も価値があり、意味のあるものだからです。今日、私は福音を伝えるために迫害されており、いかなる肉体的な苦痛も受けたくはありません。私は不当な扱いを受けていると感じており、それを望んではいません。そう感じることで私は神を悲しませなかったでしょうか。私は良心が欠けていないでしょうか。私は神の慈悲深い祝福といのちの提供にどのように値するでしょうか。神の道に従ったために、何世代にも渡る聖者たちは神への強くはっきりとした証を立てました。聖者たちは意味のあるいのちを生きました。今日私には神からのこれらすべての言葉があり、それだから神にさらに美しい証を捧げるのが当然ではないでしょうか。このことを熟考すると、私の体はこれまでのように痛みを感じなくなりました。私にいのちの力をお与えになり、私が肉の弱さを克服できるようにされたのは全能神の言葉であることを深く知っていました。

翌日、邪悪な警官には試してみる他の戦略がありませんでした。警官は私を脅し、こう言いました。「何も言わないのか。それなら、おまえを投獄する」その後、彼らは私を刑務所に送りました。刑務所で邪悪な警察は私にあらゆる種類の拷問方法を使い続け、私をめった打ちにするよう頻繁に囚人たちを煽り立てました。身も凍るような冬の寒さの中、警察は、バケツ何杯もの冷たい水を私に浴びせかけるよう囚人たちに指示し、私に冷たいシャワーに入るよう強要しました。私は頭からつま先まで寒さで震えていました。ここでは、囚人たちは政府のために金を稼ぐ機械であり、法的権利はありませんでした。搾取されるのを堪え、奴隷のように利用される他に囚人たちには選択肢がありませんでした。刑務所は一日中、死者への餞として共に焼かれる紙幣を模した紙を印刷させ、夜になっても残業させました。私が休もうとして作業を止めると誰かが来て、私をめった打ちにしました。最初は1日に2,000枚の紙を印刷しなければならないというルールを定め、それが1日に2,800枚、最後に3,000枚に増えました。これは経験豊富な人でも完了できない量で、私のような不慣れな者にはもちろん完了できませんでした。実際、刑務所は故意に私が完了できないようにしたので、刑務所には私を苦しめ、ぼろぼろにする言い訳ができました。ノルマを満たすことができない限り、邪悪な警官は5キロ以上の足かせを私の両足につけ、手足を手錠で縛りました。私ができたことは、そこに座って、頭を下げて腰をひねることだけでした。それ以外は、私は動くことができませんでした。さらに、こうした非人間的で冷酷な警官は私の基本的な必需品を聞いたり、気にかけたりしませんでした。トイレが監房にあったにもかかわらず、私は歩いて行き使うことができませんでした。私は監房の仲間たちに、私を持ち上げてトイレに座らせてほしいと懇願することができるだけでした。もし仲間たちが少しましな囚人であれば、私を引き上げてくれました。誰も私を助けてくれない場合は、私はズボンに糞便を垂れ流す以外に選択肢がありませんでした。最も苦しい時は食事時間でした。私の手と足は一緒に手錠をかけられていたからです。私は全力で頭を下げ、手足を上げることができることしかできませんでした。これが私の口にロールパンを1つ入れることができる唯一の方法でした。私は一口食べるごとにたくさん力を費やしました。手錠が私の手と足にこすれて激しい痛みを引き起こしました。長い間に、私の手首と足首には黒く、てかてかした固いたこができました。縛られて、食べられないことがよくありました。まれに囚人たちは私に2つの小さなロールをくれました。ほとんどの場合囚人たちは私の分を食べ、私が得たものは空腹でした。飲みものを口にすることはさらに少なくなりました。もともと囚人には一日に2本の水が与えられていましたが、私は縛られて身動きが取れなかったので、水を飲めることはまれでした。非人間的な苦しみは言い表せないほどでした。合計で私はこの苦しみを4回経験し、毎回最低3日間、最大8日間縛られました。飢えが耐え難くなるたびに、私は神が過去に語った言葉を思い浮かべました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書 4:4)サタンの苦難を通して神が私に「言葉をいのちへ変換する」という事実を成就されようとしていることを私は徐々に理解し始めました。神の心を理解するうちに私の心は解放され、私は神に穏やかに祈り、神の言葉を理解しようとしました。気付かないうちに、それほどの苦痛や飢えを感じなくなっていました。これは本当に私に神の言葉は真理、道、そしていのちであり、いのちは確かに私が生き残るために頼りにすべき基盤であると感じさせました。したがって、神への私の信仰は知らず知らずに増加しました。一度、刑務官が故意に私を迫害し、手錠をかけたことがあります。3日3晩、私は水1滴も飲みませんでした。私の隣で手錠をかけられた囚人は言いました。「以前にもこのように手錠をかけられて餓死した若い人がいました。あなたは何日も何も食べていないようですが、あなたはまだ元気一杯です。」彼の言葉を聞き、3日3晩飲み食いしていなくても、飢えの不快な気分を感じていないと私は思いました。神の言葉の中にあるいのちの力であり、私を支え、神の言葉の中に神が現われるのを本当に私に見させようとしているのだと深く感じました。私の心は絶えず興奮していました。この苦しみの環境で、私は「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」という真理の現実を真に経験することができました。これは本当に神が私にお与えになったいのちの最も貴重な宝で、同時に私だけへの贈り物です。何よりも、食べ物や服を心配する必要がない環境でこれを得ることはできなかったでしょう。今日、私の苦しみには大きな意味と価値がありました!この時私は神の言葉を思わざるを得ませんでした。「あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちのそれに優るものであり、モーセやペテロのそれにも優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない―それは多くの犠牲を伴って初めて受け取れるものだ。つまり、精錬された愛や大きな信心、そして神があなたがたに求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義を追い求める姿勢を崩さず、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わらぬ愛をいだいていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。堕落した部分を改善し、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にまでも従順でなくてはならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の最終目的であり、この一団に神が求める要求である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より)神の言葉を理解しようとする中で、苦しみや試練の後に神からの祝福が来ると、それは私への神による非常に実践的ないのちの提供と水まきであると悟りました。神が私に与えてくださった言葉は数世代の聖者を凌駕しましたが、私の試練と辛苦に屈せず、神の采配に服従し、神の救いを受けることができる信仰と忍耐が私はまだ必要です。そうして、私は神の言葉の現実に入り、神の驚くべき御業を見ることができるようになるのでしょう。それがこの苦難の代価でなければ、私は神の約束と祝福を受けるに値しないでしょう。神の言葉の啓示は、心の中でより強固かつ強力であるように私を導きました。私は決意しました。この苦しい環境の中で、神と一生懸命に協力し、神の要求を満たし、私が最大の収穫を得られるように神への証を立てよう。

1ヵ月後、中国共産党政府警察は「社会の秩序を乱し、法の執行を破壊する疑いがある」と私を起訴しました。私は1年間の労働改造を宣告されました。私が労働収容所に入った時、邪悪な警察は私が殺人や強盗よりも悪い全能神の信者であると言って、警官たちは囚人の間に噂とでたらめを広め、私を迫害するよう囚人たちを煽り立てました。そのため、何の理由もなしに私は頻繁に囚人たちからのリンチを受け、難しい状況に置かれました。これにより、中国は本当に悪魔であるサタンにより強く支配された実存する地獄であることを私は理解しました。中国はあらゆる角度から暗く、光が存在することができません。全能神を信じる者が生きる場所が本当にありません。日中、邪悪な警官は私に作業場で働かせました。ノルマを満たさないと、私が監房に戻ってから囚人たちに私を殴らせ、「見せしめにしろ」と声高に言いした。私が工場で袋を数えている時、100袋数え上げ、それからそれらを結びつけました。いつも意図的に囚人たちが来て、私が数えたものから1つまたはいくつかの袋を取り、私が正しく数えなかったと言い、それをいいことに私を殴り、蹴りました。私が殴られているのを見ると所長がやって来て、何が起こっているのか偽善的に私に尋ね、囚人たちは私が十分に袋を数えていないという偽証を伝えました。それから、私は所長からの厳しい批判の嵐に耐えなければなりませんでした。さらに、刑務官たちは毎朝「行動規範」を覚えるように命じました。私がそれを覚えなければ、私はいつも殴られました。刑務官たちはまた、私に共産党を称賛する歌を歌わせました。私が歌っていない、または唇が動いていないと知ると、夜になってから私は必ず叩きのめされました。刑務官たちはまた、私に床をモップがけさせ、私を罰しました。もし私が彼らの期待通りにモップがけをしなければ、私は激しく殴られました。一度、何人かの囚人たちが突然私を殴り蹴り始めました。殴ってから囚人たちは私に尋ねました。「若造、殴られている理由を知ってるか。おまえは所長がやってきた時に立ち上がって挨拶しなかったからだ。」殴られるたびに私は腹を立てましたが、何も言おうとはしませんでした。私はただ泣き、静かに神に祈り、この無法で不合理な場所により生じた私の心にある恨みと怒りについて神に話しました。ここに理性はなく、暴力だけがありました。ここには人々はおらず、狂気の悪魔と蠍しかいませんでした!私はこの苦しみの中で生きるひどい痛みとプレッシャーを感じました。私は1分も長く滞在したくありませんでした。私が弱さと苦しみに落ちるたびに、私は全能神の言葉について考えました。「あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を求めたことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利者となる。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十九番目の言葉」より)神の言葉が私を励ましてくれました。神が私にしてくださったことが恩寵や祝福、あるいは試練と精錬であったかにかかわらず、これらはすべて私に提供されたもので、私を救いました。それは私に真理を授け、真理を私のいのちにしました。今日、神は私へのこの迫害と苦難を容認しました。それは私に大きな苦しみをもたらしましたが、それにより神が私と共におられることを私は真に経験できるようになりました。私のいのちの糧、私の足元を照らす明かり、私の道へと続く光となる神の言葉を私が真に享受し、この暗い地獄の穴の中で一歩一歩私を導くために、それは起きました。これは私が苦しみの過程で享受し得た神の愛と保護です。この時、私がとても盲目的で利己的であり、貪欲であることを理解することができました。神を信じる中で、私は神の恩寵と祝福をどのように享受するかを知っているだけで、真理といのちを少しも求めていませんでした。私の肉が少しでも苦しめば、私は絶えず弱音を吐いていました。私はただ神の心を認識せず、神の働きを理解しようとしませんでした。私はいつも私に起きた悲しみと痛みを神に感じさせました。私には本当に良心がありませんでした!悔恨と自己非難を感じながら、私は静かに神に祈りました。「おお全能神よ、私は神が為されるすべては私を救い、私を得るためであることを認識しています。私は、自分がとても反抗的で、盲目で、人間性がないことが嫌でなりません。私はいつも神を誤解し、神の心に配慮していませんでした。おお神よ、今日あなたの言葉は私の麻痺した心と霊を覚醒させ、神の心を理解させました。私はもはや自らの欲望と要求を持とうと思いません。私は神の采配に服従するのみです。あらゆる苦難に遭わねばならないとしても、私はやはり一生懸命神に協力し、サタンの迫害を乗り越えて、神に対するはっきりとした証を立てるでしょう。私はサタンの影響力と決別し、あなたを満たすように真の人らしく生きるよう努めます。」祈った後、私は神の善意を理解し、神が私に経験させた環境はどれも私への神の非常に大きな愛と救いであると知りました。それゆえ、私はもはや委縮したり、神を誤解したりすることはもうないでしょう。状況は変わりませんでしたが、私の心は本当に喜びと満足でいっぱいでした。全能神への私の信仰のために苦難や迫害を経験することができたことは名誉と誇りであり、それは堕落した人間である私にとって唯一の贈り物でした。それは私にとって神の特別な祝福と恩寵でした。

刑務所で1年の苦難を経験した後、私の霊的背丈はとても小さく、私はたくさんの真理に欠けていると理解しています。全能神はこの他にはない環境を通して私の欠点を真に補われ、私を成長させました。この逆境の中で、神はいのちの最も貴重な富を私に得させ、過去に理解しなかった多くの真理を理解させ、悪魔であるサタンの不快な外見と神への抵抗の反動的な本質を理解させました。全能神を迫害し、キリスト教徒を虐殺するという凶悪な犯罪を認識しました。堕落した人間である私への神の大きな救いと慈悲を心から経験し、全能神の言葉にある力といのちは私に光をもたらし、私のいのちであり、私がサタンに打ち勝つよう、死の影の谷から粘り強く歩み出るよう私を導き得ると感じました。同様に、全能神はいのちの正しい道で私を導いていることも認識しました。それは真理といのちを得る明るい道です!これからは、どんな迫害、苦難、危険な誘惑に遭遇しようとも、私は懸命に真理を求め、全能神が私に与えてくださった永遠のいのちの道を得ていきたいと思います。

 


ディ ボー ション ノート-イエス・キリストの再臨の方法

2019-09-05 22:18:02 | キリストの再臨

2018年10月11日

最近、私は、聖書を読むのが増々退屈で、つまらなくなってきたと感じていました。なぜなら、何の啓蒙も得られないからです。私は今までずっと毎日祈りを捧げてきましたが、その効果はほとんど無く、私の魂がそれに動かされることもありませんでした。主は私から御顔を隠しておられ、私に耳を傾けておられないのではないかと私は感じました。しかし、聖書を読まないでおこうと考えると、私は怖くなりました。過去10年間、私の最も大きな願いはイエス・キリストが再臨される時に天国に連れて行っていただくことでした。私は聖書を読み続けなければ主との関係が完全に断たれてしまい、主が来られる際に取り残されることを恐れていたのです。

以前、私はマタイ24:30と26:64、そしてマルコ13:26に主は雲に乗って来られると記されているのを目にしていました。そして、特、にヨハネの黙示録1:7にはこう書かれていたのです:「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」。主は再臨される時、雲に乗って降臨され、全ての人間が主の御姿を目撃すると私は確信していたのです。従って、私は、主に、信者たちを迎えに雲に乗って降臨される時、私を見捨てないで欲しいと頻繁に祈りを捧げていました。私は数日前にマタイ25:6を読みました:「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」主は真夜中に来られるということがこの節から明らかに分かります。そして、私は、「その時には皆寝てしまうかもしれない。そうしたら、主が雲に乗って来られても分からないじゃないか?」と少し心の中で心配になりました。私は隣に住む姉妹にこう尋ねました、「主に見捨てられないようにするにはどうやって注意していればよいですか?」「祈りを捧げるのが唯一の手段よ」、と彼女は言いました。私は彼女の言葉を聞いて少しがっかりしました。私は彼女にこう言いました、「祈る以外の方法がないのか知りたいんですが」 彼女は瞬きをしただけで他には何も言いませんでした。

先日、私は突然テサロニケ人への第二の手紙1:7を目にしました:「それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。…」この節を読んでいると、私は思わず混乱してしまいました:「主は雲に乗って来られるのではないのか?どうしてこの節は主が燃える炎の中から現れるなどと言っているんだ?主は一体どのようにして来られるのだろう。」私はしばらくの間この疑問に頭を悩まされ、どれだけ考えても答が分かりませんでした。私は少し意気消沈してしまいました。なぜなら、私は聖書を読んでも何の啓蒙も得られないだけでなく、食い違いを沢山発見したからでした。私は幾度となく読み返しましたが、理解できるどころが、逆に増々混乱していきました。私はもうこのことを忘れて無視したいと思いましたが、これは大きな問題であると感じたので、どうしても諦めることができませんでした。私は心の中で主にこう祈ることしかできませんでした、「ああ、主よ、どうしてあなたが来られる方法を知りたいと思えば思うほど、増々混乱していくのでしょう?これはどうしてなんでしょうか?」

2018年10月17日

私は最近、主がどのようにして来られるのかを知ろうとインターネットで聖書の勉強をしていました。以前、ある節に主は真夜中に来られると記されていたと同時に、他の節で主は燃える炎の中に現われると記されていたのを目にした時、主が雲に乗って来られるという私の観念は打ち砕かれました。私は、「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マルコによる福音書 13:32)」、という節を聖句の中で読んだ時、更に困惑しました:「人間は主が正確にいつ来られるか分からないというのに、どうやってイエス・キリストの再臨をお迎えすればいいんだ?」私は考えれば考えるほど、増々混乱していきました。私は、聖書を編集した人は内容を適切に整理して伝えていないから、読んでいるうちに増々混乱してしまうと文句まで言いました。

そこで私はヂェン兄弟が一度海外にいたことを思い出し、この疑問についてもって知っているかもしれないと思いました。私は食事を済ませた後、ヂェン兄弟に電話して自分の家に来て欲しいと頼みました。彼がやって来た時、私は自分の困惑を吐き出しました。彼はこう言いました:「私も以前は主がどのようにして来られるかについて混乱していましたよ。」後に、私は真理に精通した兄弟姉妹との交流を通じて、主が来られる方法は、可能性として、秘密の来臨と公然の来臨の2種類があることを知りました。マタイ25:6にはこう記されています:『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした。』 そしてマルコ13:32にはこう記されています:「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」この2節は主の秘密の来臨について言及しています。その一方でルカ21:27にはこう記されています:『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。』そしてヨハネの黙示録1:7にはこの記述があります:『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』これらは神の公然の来臨について言及しているのです。

すなわち、主はまず秘密に降臨され、それから公然と降臨されると言っているのです。秘密に降臨されるということは、神は終わりの日に裁きの働きをするために人の子として受肉されることを意味しています。聖書にはこう書かれています「まず多くの苦しみを受け」、そしてその人の子は教会に足を踏み入れ、金の燭台の間を歩かれます。これらは全て、人の子が秘密に来臨された後に裁きの働きをなさる時期について言及しているのです。人の子は人間から生まれ、外見は普通の人と全く変わりません。彼の内には神の本質が宿っていますが、誰もそれを認知したり、知ることはできないのです。これ故に、神が肉として働きをなさる時は神が秘密の働きをなさる段階であります。例えば、主イエス様が十字架に釘付けにされる前、主の弟子たちは主のことを知りませんでした。そして天の御父による御啓示のおかげで、ペテロは主イエス様を生きる神の子、キリストであると認識できたのです。神が受肉されて人の子として働きをなさる間、私たちは聖霊の働きがなければ神に気が付くことも、神の御言葉を理解することもできません。なぜなら、私たち人間の目は霊的領域の中を見ることができないからです。だからこそ、人の子が働きをするために降臨なさる時期は、神が人類の中へ秘密の降臨をなさる段階となるのです。

神がをなさる段階は、神が人間を救うために御言葉を表し、裁きの働きをなさる時期です。人間は神の御言葉と働きを経験した後、各々の堕落の実相を知り、各々のサタンのうような本性は極めて頑固で、容易には変えられない、そして、徐々に各々の罪深い本性を振り払って清めと御救いを受けられるように、神の御言葉を実践かつ経験し、同時に神の裁きを受け入れ、それに従う必要があることを心から理解するのです。人間はこの段階にたどり着くと、神の御言葉が彼らの内に結果を生み出したこと、そして人間を完全に救う神の経営計画が全面的に成就したことを心の底から理解します。その時、神の秘密の働きは完了し、全ての人間は神の前で服従し、神の御救いに感謝し、神の全能さ、知恵、そして素晴らしい御業を称賛するでしょう。その後、神は御姿を変えられ、善人に報いを与えて悪人を罰する働きをするために、公然と人類の前に御姿をお見せになるでしょう。その時、それぞれの種類の人間がついにその本性を明らかにされてしまいます。神は神の裁きと清めを受けて清められ、試練と苦難の中で神の証言を行った勝利者たちを神の御国へとお連れくださります。それと同時に、神は神に抵抗したサタンの全形態を罰して破壊するために大災害を引き起こされます。神のこの種の働きはまさにヨハネの黙示録に記されている次の預言を成就しています:『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』(ヨハネの黙示録 1:7)。」