賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンの証し-工場に入ってたったの2ヵ月で、私はどうやって工場長になったのか

2019-08-28 10:19:39 | 職場の人間関係

   社長は次のことを私に丁寧に言いました。「私と夫、息子3人で話し合った結果、あなたにXにある私たちの刺繍分はいらない工場の支配人になってもらおうと考えたの。安心してね。そこの給料はここより絶対いいから」。私は身に余る待遇に驚きながらも、「社長がそれほど私を信頼してくださるなら、自分の良心にかけて、やるべきことをしっかりやります」と真心を込めて言いました。

   自分が工場で働き始めてたったの2ヵ月で、社長から認めてもらったことを考えると、本当に感慨無量でした。この1件は、私が工場に入ったときのことから話さなければなりません。



工場で働き始めると、古参の従業員からいじめを受けた

   2014年夏、北京のある通りの刺繍工場で縫製工として働き始めました。最初の10日間はすべてが順調でした。11日目の朝、通りにある別の刺繍工場の従業員である小華が私のいる工場に働きに来ました。小華は30歳ぐらいで、北京で7~8年の刺繍経験があります。彼女はこの工場の仕事をすべて終えた後、別の刺繍工場に移り、臨時従業員になったのですが、その後、この工場でまた仕事が発生したので、戻ってきたのでした。このため、この通りの刺繍工場の従業員はみんな彼女のことを知っています。だから小華が刺繍工場の玄関に入ると、十数人の従業員が彼女を見て、笑いながら挨拶をしたのでした。

   しばらくして、小華は服の入ったカゴと木製の腰掛を持って来て、「ガタン」という音とともに、私の隣に座り、服を縫い始めました。彼女の左腕が私の右腕にくっついていたため、私は糸を全く伸ばせませんでした。彼女のふてぶてしい様子を見ると、嫌な気持ちになりました。「この人は人間性に乏しいのではないかしら?まったく思慮が足りない!この座席は工場が決めたものだよ。すべての従業員同士の距離は固定されていて、ちょうど糸を伸ばせるようになっていることを、知らないわけではないでしょう。私のそばに座るなんて、明らかに新人の私が服を縫えないようにして、いじめているのでしょう」。しかし、そのとき、自分は神様を信じる者で、クリスチャンの見本を表さなければならず、人と争うべきではないと考えました。そして私は自分の腰掛を後ろに移し、身体を傾けて糸を伸ばせるようにしました。私は心の中で「あなたに譲ってあげたのだから、これで問題ないでしょう」と思いました。しかし信じられないことに、私が腰を掛けて服を縫おうとすると、彼女は私の前の上方にあるライトを消したのでした。ライトが消えると、全く仕事になりません。私は腹からこみ上げる怒りに耐えました。「いじわるにもほどがある」。しかし、私は心の中の怒りに耐え、笑いながらこう言いました。「私もあなたみたいに若い頃はライトを付けなくても見えていたのだけど。今はこんなに年を取ってしまってね。ライトを消してしまうと、針と糸がはっきり見えなくて、仕事がしにくいのよ」。私はしゃべりながら、身を起こして蛍光灯を付けました。しかし彼女は信じられないことに、怒って「ガタン」と音を立てて、ライトを消し、私を非難しました。「白昼からどんなライトが必要なのよ?ライトがないほうがまだいいよ!」。

   神の御言葉によって、怒りをしずめる

   彼女のふるまいで、私は怒り心頭でした。心で次のように考えるのを禁じえませんでした。「私は神様を信じているから、こうやって2回も譲歩してあげたのに、まだ付け上がって来るなんて思いもしなかった。本当に分別がない。あなたのふるまいのことで、社長を呼びさえすれば、私のためにきっと正当なことを言ってくれる。私が声を挙げずにいじめられるままだったら、周りの人からどう見られるかしら。笑われでもしたら、とても情けないじゃない!メンツを取り戻さなきゃ。どうあっても、いじめられてはいけない!」。考えれば考えるほど怒りがこみあげて来て、彼女に言い返そうとしました。そのとき、神様の御言葉を思い起こしました。「サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。」神様の御言葉で私は理解しました。神様が最初に創造した人間は神様の話を聞き、神様に従順で、良心を持っていました。しかし、サタンによって人は堕落した後、サタンの毒が私たちの心に入り込み、私たちの命になってしまいました。私たちがこれに従って生きることで良心を失い、自己中心的で、傲慢で、卑しくなりました。何をするにも自分の利益を原則とするようになり、普通の人間関係を失ってしまいました。考えてみれば、小華が最初に私をいじめたとき、忍耐して気にしないようにできました。しかし、もう一度いじめを受け、自分のプライドと、利益が損なわれると、私は許容し忍耐することができなくなり、怒りに任せて彼女に言い返したくなりました。しかし、それでは、神様を信じない人と同じことです。ここまで考えると、すごく恥ずかしくなりました。

   続いて、私は神様の御言葉をまた思い出しました。「人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」今日起こったことは神様が許されたことであり、異邦人の中で神様のために証をするチャンスでもありました。私はクリスチャンとしての模範を表すべきであり、自己中心的な本性によって物事を行うことでも、怒りに任せて小華と争うことでもないのです。私はここまで考え、もうライトをつけるのをやめ、彼女にも言い返すのもやめました。その代わり、自分の腰掛とカゴを玄関口まで運び、日光を借り、服を膝の上に乗せて縫製作業をしました。服を縫いやすくはなかったですが、自分が神様の御言葉を実行し、神様のために証をしているだと考えると、心には癒しがありました。この日は1日、彼女はもう私に構ってくることがなかったので、私はこの件はここで片付いたと思いました。

   サタンの計画に打ち勝ち、しっかりと立ち、証をする

   2日目の朝、私は刺繍工場に来たとき、前日の座席が空いているのを見ました。しかし、小華が今日も仕事に来ることを考え、やはり玄関口辺りで縫製することにしました。彼女はその日遅く来ました。そのときには、前日の場所は他の従業員がもう座っていました。すると彼女は信じられないことに、腰掛を持って、カゴを提げて私の右隣に座ったのです。前日と同じことがまた繰り返されました。彼女の左腕が私の右腕に当たり、糸を引くことができません。私は心の中でこう思いました。「昨日、譲歩してもまだダメだというの。今日もいじめてくるなら、人間性が欠落している。あなたみたいな人は見たことがないよ」。腹から怒りがこみ上げ外に吐き出したくなりました。彼女と口論しようかと思いました。しかし、神様の声が私にはっきりと示しました。「あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。…」。私は心の中で祈りました。「神様、日々の人や物事はすべてあなたが備えられたもので、私に近づくことを許されました。この人はこのように何度も何度も私をいじめます。ここにあなたの御心があるに違いありません」。神様はこう話されました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。…神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある―その背後にはすべて戦いがある。」神様の御言葉で分かりました。外から見ると、彼女が自分を困らせているが、実際は霊的にサタンが悪いことを図っているのです。前日、私は神様の恵みで、真理を実行できました。しかしサタンはそれに不服で、続けて私を試みる状況をセッティングしたのでした。小華は私の隣に座り、私が糸を伸ばせないようにすると、私の稼ぎは少なくなります。しかし、多く稼ぎたいがために、小華と言い争いをしたら、証を失ってしまいます。

   神様の御心が分かった後、サタンの悪い計画を見破り、理性と英知を持って、許しと忍耐を表して、神様の証人とならなければならないことに気づきました。私は椅子を後ろに移し、もっとドアに近づいて、糸を伸ばせるよう、身体を傾けました。小華は私を見ても声を出さず、もう何もしなくなりました。

   真理を実行し、古参の従業員から敬服される

   私が新しいモデルの服を縫製しているとき、偶然にも小華の表目の編み方が違っていることに気づきました。縫った服は必ず不合格になってしまいます。しかし彼女自身はまだ気づいていませんでした。私は「こんな表目の編み方だと、縫ってもやり直しになるに違いない。社長の基準を全くクリアできないだろう」と考えました。案の定、社長が間もなく検品にやってきて、小華が縫った服のポケットを見て、「ダメ。不合格。ポケットの縫目がはっきりと見えてしまっているじゃないか。縫目が見えないようにしないといけないよ」と言いました。小華は糸を抜いてやり直しをするしかありませんでした。社長はまた、私の仕事を見て、笑いながら、「これでいいですよ!」と言いました。私は心の中で喜びました。「あなたはすごいんじゃなかったの?私をいじめるんじゃないの?これで、もう私にかなわないでしょう!やり方は教えてあげないから」。私は引き続き服を縫製していましたが、時折小華を見ていました。彼女はまだ従来の間違った表目の縫い方をしていました。彼女は針を抜いては入れ、抜いては入れを繰り返し、何度も見ていましたが、どうやって縫っていいのか分からず、服を持って社長に聞きに行きましたが、彼女を叱る社長の声だけが聞こえました。「ダメ。糸を抜いてもう一度やり直しなさい。どうしたことかね?(私を指して)あの子を見なさい。新人でもよくできているじゃないか。どうやって縫うのか彼女を見てみなさい!」。小華は頭を垂れて、落ち込んだ様子で、私のそばに来ました。もう前のような高慢さはありませんでした。私はそれとなく喜んでいました。「どんなもんだい。社長から見ると、あなたは私にかなわないのではないか?よくも私をいじめ、辱めてくれたね。きょうはあなたの番だよ」。小華は仕方なく、糸を抜いて縫い直し始めましたが、やはり縫い方が間違っています。しかし、彼女はどうしていいのか分からず、顔は苦しさ で赤くなっていました。このポケットはすでに2度も糸を抜いており、もう一度失敗すれば、縫うのはもっと難しくなります。その時、私は良心の呵責を感じ始めました。「この服は今日入ったばかりの新しい服で、彼女は正確に縫えないが、私は縫える。私が彼女に教えるべきでしょう。どうして自分は彼女に教えず笑っているの。もし違う人だったら、最初に間違いを見ると絶対に教えるのに。よくよく考えてみよう。彼女に教えないのは私をいじめていたからか?」。

   私は生命に入る交わり を思い出しました。「現在、すべての人の人間関係は異常です。 その主な理由は、人々がサタンによって非常に深く堕落させられているからです。 人々は自分自身と自分の肉のために生きています。他の人のことを思いやることがまったくなく、人間として持っているべき愛情さえありません。人々は互いに争い合い、画策し合い、しかもそれをおおっぴらに公然と行うのです。正常なやり方で人類が互い仲良くやっていくことはありません。人間が持っているはずの良心と理性は、地球上から消えてしまいました。人類の間に協力の精神はありません。僅かばかりの忍耐さえないのなら、人々はお互いに敵対するでしょう。人間の心は、悪、対立、敵意、そして不和でいっぱいです。 それはまるで、人には人間の似姿がないかのようです。人は完全にサタンによって所有されており、人の心の中はサタンの哲学で満たされています。」この交わりについて考えたとき、自分の汚い性質を自覚しました。以前、彼女が私をいじめていたとき、彼女と争わず、寛容と忍耐を表したと思っていました。しかし今、彼女が助けを必要としているとき、愛の手を差し伸べるどころか、彼女の不幸を楽しみ、自分のプライドのため喜んでいました。それでは、以前、私は自分の嘘の姿を表していたのでしょうか?私が表したのはサタンの汚れた性質でした。まったく愛がなく、普通の人としての良心を持っていなかったのです。私はこのことを知り、本当に自責の念にかられました。自分は神様が求める人としての基準にほど遠かったのです。神様は今日、私を人の群れの中に入れています。私は人の中で神様の証人となり、神様の栄光を表さなければなりません!

   そこで、私は進んで笑いながら小華に近づきました。「小華さん。表目の縫い方が間違っているよ。これでは縫っても縫い直さないといけないよ」。そう言って、彼女に縫うコツを教えてあげました。彼女は試してみると、すぐにポケットを縫い終わりました。縫い終わった後、私に見せ、尋ねました。「このように縫ったけど大丈夫?」。「これでいいよ!」。彼女はとても喜んで、また縫い始めました。このシーンを見たとき、真理を行うことで人が利益を得ることで、自分もそれを味わい楽しめるということを心から感じました。昼食のとき、小華は私を見ると別人のように、急いで魚と豆腐の煮物をボウルから取り分けてくれました。そして笑顔で私にこう言いました。「お姉さん、多く食べてね」。それ以降、彼女は毎日、工場の玄関に入って私を見ると、ニコニコして「袁姉さん、もう来ていたの!」と声を出します。彼女ははっきりと私に謝っていません。しかし私は彼女の態度はすでに変わっていることを知っています。私は心の中で本当にうれしく思いました。その後、数日もたたないうちに、彼女は前の工場で仕事が発生したため、そこに戻っていきました。この時、私の座席の斜め前の年配の女性が私に次のように言いました。「ねえ、私はあなたに味方したいけど、彼女はあなたにひどく当たっているのに、どうして彼女を助けるの?もし私だったら、彼女に遠慮しないのに!」。私は笑いながら言いました。「私たちはみんな外に働きに来ていて、一緒に働けるのも縁でしょう。だから、ちょっと譲歩するぐらい何でもないですよ!」。私は心の中ではっきり分かっていました。自分の人間性、寛容、愛する心を表せるのは、神様の御言葉が私の内で働くからです。私自身は決して良い者ではありません。

   社長は、私と小華の間の出来事をすべて知っていました。ある日、彼女は私にこう言いました。「袁さん。あなたは優しくて、人柄が立派だね。優しい人はどこに行ってもウケがいいものだよ」。それ以降、社長は、稼げる仕事を私に回してくれるようになりました。その上、他の従業員の縫製に間違いがないかどうかチェックするよう、私に頻繁に言いつけるようになりました。そして工場の従業員たちは私のことを「先生」と呼び始めました。この当時の経験について考えると、真理を実行し人の模範になる上では、プライドが傷つき、悔しい思いをすることもあるが、後になって、そんなことよりずっと大きいものが得られるのだということを本当に体験したのでした。神様の実際的な導きにより、私たちはどのように善で悪に報いるべきか知り、人の見本としてどのようにふるまうべきなのか知るのです。


神を知らない者はすべて神に反対する人々である

2019-08-28 08:10:50 | いのちのパン

   神の働きの目的と、人の中に達成されるべき成果、また、人に対する神の意志を把握すること。これこそが神に従う一人ひとりが達成しなければならないことである。今すべての人に欠けているのは、神の働きに関する認識である。人は、創世以来、神が人間において行う業、神のすべての働きおよび神の意志を正確には把握しておらず、理解もしていない。この理解不足は宗教界全体にみられるだけでなく、さらに神の信者全員に見られる。あなたが本当に神をよく見て、神の知恵を悟る日が来る時、またあなたが神のすべての業を見て、神が何であり何を持っているかを認識する時、そしてあなたが神の豊かさ、知恵、驚異、人における神のすべての働きをその目にする時、その時こそあなたは神への信仰をみごとに達成したといえるだろう。神はすべてを包みこんでおり、非常に豊かであると言われるとき、すべてを包みこんでいるということは何を意味するのか。また、豊かさとは何を意味するのか。このことを理解しなければ、あなたは神の信者とはみなされない。なぜわたしは、宗教界の人々は神の存在を信じず、悪を為す者たちで、悪魔と同じ種類に属すると言うのだろうか。彼らが悪を為す者たちだとわたしが言うのは、彼らが神の意志を理解せず、神の知恵が分からないからだ。神が、彼らに神の業を明らかにするようなことは決してない。彼らは神の行為が見えない盲人である。彼らは神に見捨てられた者たちで、彼らには神の配慮や守りはまったくなく、ましてや聖霊の働きを有することなどは絶対にない。神の働きを持たない人々は悪を為す者たちで、神に対立する者たちだ。わたしが言う、神に対立する者たちとは、神を知らない人々、神を口先だけで認めはするが、神のことを知っていない人々、神の後についていくが神に服従しない人々、神の恵みを享受するが、神の証し人として立つことのできない人々のことである。神の働きの目的と神の人の内における働きを理解しなければ、人は神の心と一致することはできないし、神の証し人として立つこともできない。人が神に逆らう理由は、一方では、人の堕落した性質に起因しており、もう一方では神を知らないこと、神の働きの原則や人に対する神の意志についての理解に欠けることが原因である。これらの二つの要因が人間の神への反抗の歴史を成している。信仰の初心者が神に反抗するのは、彼らの本性の中にそのような反感があるからである。一方、長年信仰を持つ者たちが神に反抗するのは、彼らの堕落した性質に加えて、神を知らないことから生じる結果である。神が肉となる前の時代では、人が神に反抗しているかどうかという基準は、天の神によって定められた法令をその人が守っているかどうかであった。たとえば、律法の時代においては、ヤーウェの律法を守らない者は誰でも神に反抗する者であった。ヤーウェへの貢ぎ物を盗む者、また、ヤーウェの心にかなった人々に敵対する者は誰でも神に反抗する者で、石打の刑に処される人々であった。自分の父や母を尊敬しない者、また、他人を殴ったり、罵倒したりする者は誰でも律法を守らない者とされた。そしてヤーウェの律法を守らない者たちはみな神に敵対する人々であった。恵みの時代になるとそうではなく、イエスに敵対する者が誰でも神に敵対する者であり、イエスが語った言葉に従わない者が誰でも神に敵対する者であった。この時代、神への反抗を規定することは一層明確に定義され、より現実的になった。神がまだ肉とならなかった時代では、人が神に反抗しているかどうかの基準は、人が、目で見ることのできない天の神を礼拝し、崇敬するかどうかに基づいていた。その頃、神への反抗の定義はあまり現実的ではなかった。当時、人は神を見ることができなかったし、神の姿も、神がどのように働き、話すかも知らなかったからである。人には神の観念はまったくなく、神は人の前に現れたことがなかったので、ぼんやりと神の存在を信じるだけであった。したがって、人が想像の中でどのように神の存在を信じようとも、神は人を罪に定めたり、人から多くを求めたりはしなかった。人は神を見ることがまったくできなかったからである。神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。神に関する観念しか持っていないが、それでも喜んで神に従う人々は罪に定められることはない。神が人を罪に定めるのはその意図と行動に基づいてであって、その人の考えや意見を理由にすることは決してない。そのような根拠で罪に定められるのなら、神の怒りの手から逃れられる者は誰もいないだろう。肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。神の働きを故意に阻害することに関わらない者たちは罪に定められることはない。何故なら彼らは進んで従うことができ、阻害や混乱は引き起こさないからである。そのような人々は罪に定められることはない。しかし、神の働きを長年経験しているのに、神について自分の観念をまだ心に抱いており、肉となった神の働きを知ることができないままでいるならば、また、長年の経験にも関わらず、神に関する多くの観念にすがり続け、なおも神を知ることができないならば、たとえ彼らが心に抱いている多くの観念によって何の問題も起こさず、そうした観念が表面に現れてこなくても、そのような人々は神の働きのためには何の役にも立たない。彼らは福音を述べ伝えることも神の証し人として立つこともできない。このような人々は役立たずの間抜けである。彼らは神を知らず、神に関する自分の観念を捨て去ることができないので、罪に定められる。また次のようにも言うことができる。信仰の初心者において未熟な者が神の観念を持ったり、神について何も知らなかったりすることは珍しいことではないが、長年信じていて、神の働きを充分に体験してきた人々がそのような観念を抱くことは異常であり、そのような人々が神について何の認識も持っていないなら、それはなおさら異常である。そのような人々が罪に定められるのはそうした異常な状態の結果である。そのような異常な人々は役立たずである。彼らは神にもっとも反抗する者たち、神の恵みを虚しく享受してきた者たちである。そのような人々はみな最終的には取り除かれてしまうことになる。



   神の働きの目的を理解しない者は誰でも神に敵対する人々であり、神の働きの目的が分かっているのに神を満足させようとしない人々はなおさら敵対する。荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。神の前で自分自身を称える人々はもっとも卑しい人間で、一方謙っている人々はもっとも高潔である。神の働きを自分たちは知っていると考え、目を神に注ぎながら、他の人々に神の働きを意気揚々と宣言する。これらの人々は最も無知な人々である。このような人々は神の証しのない人々で、傲慢でうぬぼれている。神についての実際の経験と実践的な認識があるにもかかわらず、自分には神についての認識がほとんどないと信じている人々は、神に最も愛されている人々である。本当に証しを持ち、本当に神によって完全にされるのは、このような人々である。神の意志を理解しない人々は神の敵対者である。神の意志を理解するが、真理を実行しない人々は神の敵対者である。神の言葉を飲食するが、なおも神の言葉の本質に逆らう人々は神の敵対者である。受肉した神の観念を持ち、故意に反抗する人々は神の敵対者である。神を裁く人々は神の敵対者である。神を知ることができず、神を証しすることができない者は誰でも神の敵対者である。それゆえ、わたしの忠告を聞きなさい。あなたがたが本当にこの道を歩む信念を持っているなら、その道をたどり続けなさい。神に敵対するのをやめることができないなら、手遅れにならないうちに立ち去るのが一番良い。そうでなければ、良くなるどころかかえって先が思いやられるだろう。なぜならあなたがたの本性はあまりにも堕落しているからである。あなたがたは、微塵ほどの忠誠心や服従心も、義や真理を渇望する心も持っていない。神に対する愛もほんの少しも持ち合わせていない。神を前にしたあなたがたの状態はまったくひどい有様である。あなたがたは守るべきものを守ることができず、言うべきことが言えない。実行すべきことが実行できず、果たすべき役割を果たすことができない。持つべき忠誠心、良心、服従心、あるいは決意を持っていない。耐えるべき苦しみに耐えておらず、持つべき信仰を持っていない。あなたがたはいかなる長所にも全く欠けている。あなたがたは生存していくための自尊心をもっているだろうか。あなたがたは目を閉じて永遠の眠りについた方がまだましだと、わたしは言わざるを得ない。そうすれば神はあなたがたのために心配したり、苦しみに耐えたりする必要はなくなる。あなたがたは神の存在を信じているが、神の意志を知らない。あなたがたは神の言葉を飲食するが、神の要求に応じることができない。あなたがたは神を信じているが、神を知らない。そして追い求める目的もなしに生きている。あなたがたは何の価値も目的も持っていない。あなたがたは人として生きているが、何の良心も、品位も、わずかな信頼性も持たない。どうしてあなたがたを人とみなすことができようか。あなたがたは神を信じているのに神をだます。そのうえ、あなたがたは神の金を奪い、神の捧げものから食べるが、結局、神の感情への配慮や神への良心はまったく示さない。最も些細な神の要求にさえ応じることができない。そんなあなたがたをどうして人とみなすことができようか。あなたがたが食する食べ物、呼吸する空気は神から来ており、あなたがたは神の恵みを享受しているのに、結局は、神についてほんの僅かの認識さえ持っていない。それどころか、あなたがたは神に敵対するろくでなしになってしまった。それでは、あなたがたは犬同然の獣ではないのだろうか。動物の中であなたがたよりたちの悪い動物はいるだろうか。

   高い説教壇に立ち、人を教えている牧師や長老たちは神の敵対者であり、サタンと同盟している。しかし、高い説教壇に立って、人を教えていないあなたがたは、神に対するいっそうひどい敵対者ではないだろうか。そのうえ、あなたがたはサタンと結託していないだろうか。神の働きの目的を理解しない者たちは神の心とどうしたら一致できるかわからない。神の働きの目的を理解している者たちに、そんなことがあり得ようか。神の働きは決して誤ることがない。むしろ、欠陥があるのは人間による追求の方である。故意に神に反抗するそのような堕落した者たちは牧師や長老よりも下劣で悪質ではないだろうか。神に敵対する者たちは大勢いるが、それらの多くの人々の間には神に対するさまざまな種類の反対が存在する。あらゆる種類の信者がいるように、神に反抗する者たちも様々であり、似通った者はいない。神の働きの目的をはっきり認識しない人々は一人として救われない。人が過去にどのように神に敵対していたかに関わらず、神の働きの目的を理解するようになり、神を満足させるために努力を尽くす時、その人の以前の罪は神によってきれいに拭い去られる。人が真理を探し求め、真理を実行する限り、神はその人がしてきたことには留意しない。むしろ、その人が真理を実行する故に神はその人を義と認める。これが神の義である。人が神を見る前、あるいは神の働きを経験する前なら、神に対してどのようにふるまうかに関わらず、神はそれに留意しない。しかし、人がいったん神を見て、神の働きを経験したのなら、人の行動や行為は神によって「年代記」に書き留められる。なぜなら人は神を見て、神の働きの中で生きているからである。

   人が神の持っているものや神であるものを見、神の至高の支配権を本当に見て、本当に神の働きを知るようになったら、さらにはその人のかつての性質が変化したら、人は神に敵対する反抗的な性質を完全に捨て去ったことになるだろう。どんな人間でも一度は神に敵対し、反抗したことがあると言える。しかし、あなたが肉となった神に従う心を持ち、その時以来忠誠心を持って神の心を満足させ、なすべき真理を実行し、なすべきように本分を遂行し、守るべき規則を守るならば、その時こそあなたは、自ら進んでその反抗心を捨て去り神を満足させる者、また神によって完全にされる者となる。自分の過ちを自覚することを拒み、悔い改めの心を持たなければ、また反抗的なやり方に固執し、神とともに働き、神を満足させる心を全く持たなければ、あなたのような頑固な愚か者はかならず罰せられ、神によって完成されることは決してない。そうならば、あなたは今日も明日も神の敵であり、またその次の日も神の敵であり続けるだろう。あなたは永久に神に敵対する者、神の敵である。そんなあなたを神が大目に見たりできようか。神に反抗するのは人間の本性であるが、人が自分の本性を変えることは、到底克服することのできない課題であるため、人は故意に神に反抗する「秘訣」を探し出すことはできない。もしそうだとしたら、あなたは、あなたの将来の罰がもっと厳しくならないうちに、また、あなたの肉の体が最終的に神によって滅ぼされる時までに、あなたの野蛮な性質が露わになりその抑制が効かなくならないように、早めに立ち去る方がよい。あなたは祝福されるために神を信じている。しかし、最終的に不幸だけがあなたに降りかかるのであれば、それは何の意味もないだろう。わたしはあなたがたに別の計画を立てるのが一番良いと忠告する。他にどんなことをしたとしても、神を信じることよりましだろう。この道でなくとも、きっと別の道があるはずではないのか。あなたがたは、真理を探し求めないまま今までと同じように生き続けるではないのか。なぜこのように神と対立して生きるのか。