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賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

創造主の義なる性質は現実であり、生きている

2020-02-17 00:28:27 | 聖書の奥義を開く

希なのは、神の憐れみと寛容さでなく、人間の真の悔い改めである

   神のニネベの人々に対する怒りの程度を問わず、ニネベの人々が断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は次第に軟化し、神の心が変化を始めた。神がニネベを破壊すると宣言した時、ニネベの人々による罪の告白と悔い改めの前の時点で、神は依然として怒っていた。ニネベの人々が一連の悔い改めの行動を取った後、神のニネベの人々に対する怒りは、ニネベの人々に対する憐れみと寛容さへと次第に変化していった。1件の出来事において、こうした神の性質の2つの側面が同時に現れたことには、何ら矛盾することは無かった。これに矛盾が無いことは、どのようにして理解すべきであろうか。神は、ニネベの人々が悔い改めた時に、これらの対局にある本質を連続して表出し、明示しており、これにより神の本質の現実性と不可侵性を理解することができる。ここでは神の姿勢により分かることがある。それは、神は人間に対して容赦することが無いということではなく、また神は人々に対して憐れみを与えることを望んでいない、ということでも無い。それは、人々が神の御前で真に悔い改め、悪の道を離れ、不法を手から捨てることは、極めて希だ、ということである。つまり、神が人間に対して怒っている時、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、こうした場合に、神は憐れみや寛容さを、人間に対して引き続き寛大に与える。すなわち、人間の邪悪な行動は神の怒りに触れ、神の憐れみと寛容さは、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改める者、悪の道を離れ、不法を手から捨てることができる者に与えられる。ニネベの人々に対する扱いでは、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていた。神の憐れみと寛容さを得ることは全く困難では無い。神は真の悔い改めを要求する。人々が悪の道を離れ、不法を手から捨てるかぎりにおいて、神は心と人々に対する姿勢を変える。

 

 

創造主の義なる性質は現実であり、生きている

   神がニネベの人々に対して心を変えた時、神の憐れみと寛容さは見せかけであっただろうか。無論、見せかけではなかった。それでは、単一の問題において、神の性質の2つの側面の一方から他方へと推移したことから、何が分かるであろうか。神の性質は、一切分割されておらず、ただひとつである。人々に対して神が表出しているのが、怒りであるか、憐れみと寛容さであるかを問わず、それらはすべて、神の義なる性質の表出である。神の性質は、現実であり、生きている。神は、事態の展開に応じて、自身の心と姿勢を変える。ニネベの人々に対する神の姿勢の推移から、神には独自の心があることが分かる。神は機械でも粘土細工でもなく、生ある神自身である。神はニネベの人々に対して怒ることもあれば、ニネベの人々の態度に基づき、ニネベの人々の過去を赦すこともある。神はニネベに災いを起こすと決定することもあれば、ニネベの人々の悔い改めに基づき、その決定を変更することもある。人々は規則を機械的に適用することを好み、規則を用いて神を立証し、定義することや、神の性質を数式により知ることを好む。したがって、人間の考えの範囲内においては、神は思考することがなく、独自の考えを持っていない。現実では、神の心は、物事や環境の変化に伴い、継続的に変化している。神の心が推移している時、神の本質の様々な側面が現れる。この推移の過程において、神が心を変えた瞬間、神は、神のいのちが存在する真実と、神の義なる性質は真実であり生きているということを、人間に対して明示する。さらに、神は独自の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容さが存在する真実を人間に対して証明している。神の本質は、時間と場所を問わず、物事の展開にしたがって明示される。神は、獅子の怒りと母の憐れみと寛容さを持っている。人間が神の義の性質を疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることは、許されない。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、全ての物事において表出される。神は、こうした側面をありとあらゆる所で、ありとあらゆる瞬間に、鮮明に表出する。神の義なる性質は、時間や場所の制限が無い。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではない。むしろ、神の義なる性質は、いつでも、どこでも、自由に表現され、表出される。神が心を変えて怒りを表出するのを止め、ニネベの町を滅ぼさなかったのを見て、神は単に憐れみ深く、愛情があるのだ、と言えるだろうか。神の怒りは内容を伴わない言葉であると感じるであろうか。神が激しい怒りを表わし、憐れみを与えるのを止めた時、神は人間に対する真の愛を感じていなかったと言えるだろうか。神は、人々の邪悪な行いに対して激しい怒りを表したのであり、神の怒りには何ら欠陥は無い。神の心は人々の悔い改めにより動かされる。神の心を変化させるのは、この悔い改めである。神の感動、神の心の変化、神の人間に対する憐れみや寛容さには、全く欠陥が無い。これらは清く、純粋で汚れの無いものである。神の寛容さは、純粋に寛容さであり、神の憐れみは、純粋に憐れみである。神は、人間の悔い改めと行動の変化に従って、怒り、憐れみ、寛容さという性質を示す。神が示すものは、それが何かによらず、すべて純粋である。それらはすべて率直であり、その本質は創造物が示すいかなるものよりも傑出している。神が表現する行動の原理、神の心あるいは具体的な判断、あらゆる業には、全く欠点がない。神が判断をくだすと、神はその通り業を行う。そして神はこの要領で計画を全うする。その結果は正確かつ完璧である。なぜならその結果の元となるものが完璧だからである。神の怒りは、完璧である。同様に、いかなる創造物も持っていない神の憐れみや寛容さは聖なるものであり、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものである。

 

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神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-02-16 00:17:14 | 聖書の奥義を開く

   ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

 

 

   こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

   ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

   神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

   この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。


神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-02-16 00:17:14 | 聖書の奥義を開く

   ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

 

 

   こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

   ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

   神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

   この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。


神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-02-16 00:17:14 | 聖書の奥義を開く

   ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

 

 

   こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

   ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

   神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

   この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。


サタンがヨブを初めて誘惑する(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる)

2020-02-15 23:59:34 | 聖書の奥義を開く

a.神が語った言葉

   (ヨブ記1:8)ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

   (ヨブ記1:12)ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンはヤーウェの前から出て行った。

b.サタンの返答

   (ヨブ記1:9-11)サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

   ヨブの信仰を完全なものとするため、神はサタンがヨブを誘惑することを許す

 

 

   ヨブ記1:8は、聖書の中でのヤーウェ神とサタンのやりとりが記録されている最初の箇所である。そこで神は何と言っただろうか。聖書は次のように言っている。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』。」。これが、神がサタンに語ったヨブの評価である。ヨブは完全で正しい人、神を畏れ悪を避ける人だと神は言った。このやりとりの前、神は、ヨブを試みるためにサタンを用いることを決意し、ヨブをサタンの手に渡すことを決意した。ある意味では、神がヨブをサタンに渡したことで、神のヨブに対する見方と評価が正しく、何も間違えていなかったことが証明される。それにより、ヨブの証しを通してサタンが辱められる。そしてまたそれは、ヨブの神に対する信仰と神への畏れを完全なものとする。それゆえ神は、サタンが神の前に現れた時、曖昧な表現は使わず、単刀直入にこう聞いた。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。この神の質問には次のような意味がある。神はサタンがあらゆるところを巡っているのを知っており、神のしもべであるヨブをしばしば偵察していることも知っていた。サタンはしばしばヨブを誘惑し、攻撃し、何とかヨブを崩壊させようとした。ヨブの神への信仰と神に対する畏れは堅固なものではないと証明しようとしたのである。サタンはヨブを虐げる機会をうかがって、ヨブに神を捨てさせ、神の手からヨブを奪おうと考えた。しかし神はヨブの心を見、ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避けることを知った。サタンに対する質問を通して、神はヨブが完全で正しい人であり、神を畏れ悪を避け、神を捨ててサタンに従うことは決してないことを伝えたのである。ヨブに対する神の賞賛の言葉を聞いたサタンは、屈辱から怒りを感じ、その怒りは大きくなり、何としてもヨブを奪いたいと思った。サタンは完全で正しく、神を畏れ悪を避けることのできる人間などいないと信じていたからである。そしてまたサタンは人間の完全さと正しさを嫌っていたので、神を畏れ悪を避ける人を憎んでもいた。ヨブ記1:9-11には以下のように書かれている。「サタンはヤーウェに答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』。」神はサタンの悪意に満ちた性質をよく知っており、ヨブを虐げようと企んでいたことも良く知っていた。そのため神は、サタンに改めてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間であることを伝えることで、サタンが神と調和してその真の姿をヨブの前に現し、ヨブを試すようにすることを望んだのである。つまり、神はあえてヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であると強調し、そうすることで、ヨブの完全で正しく、神を畏れ悪を避ける生き方を憎み、深く怒るサタンを用いてヨブを試したのである。ヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける事実を通して、結果的にサタンが恥じ入り、完全に辱められ、打ち倒されるためである。そうすることで、サタンはヨブが完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人であることを疑ったり非難したりすることはなくなるだろう。そのような訳で、神の試練とサタンの誘惑は避けることは困難だったのである。神の試練とサタンの誘惑に耐えることのできる者はヨブ以外にいなかった。このやりとりの後、サタンはヨブを誘惑する許可を得、サタンの最初の攻撃が始まった。この時はヨブの財産に対して攻撃が行なわれた。次の聖句に書かれたヨブの財産に関する非難の言葉からそのことが分かる。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。…あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。この言葉に対して、神はサタンがヨブの全財産を取り上げることを許している。これこそが神がサタンと語った目的であった。しかしその時、神はサタンにひとつのことを要求した。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ記1:12)これが、ヨブへの誘惑をサタンに許可し、ヨブをサタンの手に渡した際に神が出した条件だった。そしてこれが、神によって定められたサタンへの制限だった。つまり神は、ヨブに危害をくわえてはならないと命令したのである。なぜなら、神はヨブが完全で正しいことを知っており、ヨブが神の前で完全で正しい人でいられることを疑っておらず、試練に耐えられると信じていたからである。それゆえ、神はサタンにヨブを誘惑することを許すと同時に、制限を与えたのである。サタンはヨブの全財産を取り上げることを許されたが、ヨブに指1本触れることはなかったのである。これは何を意味するだろうか。それは、神はその時ヨブを完全にサタンに渡したわけではないということである。サタンはヨブを試みるためにどのような手段も使うことができたが、ヨブ自身に危害を加えることはできず、髪の毛に触れることすらできなかった。それは、人間の全ては神によって制御されており、人間が生きるか死ぬかは神によって決められることで、サタンにそれを決める権利はなかったからである。神がサタンにヨブを試す許可を与えた後、サタンは即座にヨブへの誘惑を開始した。サタンはあらゆる方法でヨブを試み、間もなくヨブは神に与えられたたくさんの羊や牛などの財産を失った。このようにして、神の試練がヨブに注がれた。

   聖書を読めば、どうしてヨブに試練が降りかかったかが理解できるが、試みに会っているヨブ自身は、はたして何が起こっていたか理解していただろうか。人間に過ぎないヨブが、自分に降りかかった試練の背景にあるものを知るはずもない。しかし、神を畏れ、完全で正しいヨブには、神からの試練だと認識することができた。霊的領域で起きていたことや、試みの背後にある神の意図はヨブには分からなかったが、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れ悪を避けて生きるべきだということをヨブは知っていた。このような出来事の中でのヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていた。神は何を見ていたのだろうか。神は、神を畏れるヨブの心を見ていた。というのは、ヨブの心は初めの時から試練を受けた時までずっと、神に対して開かれており、神に委ねられており、自身の完全さと正しさを手放すことはなく、神を畏れ悪を避ける生き方を変えなかった。神にとってこれ以上嬉しいことはなかったのである。次に、ヨブの試練がどのようなものであったか、そしてそれらの試練にヨブがどう対処したのかを検討する。それでは聖句を読む。

c.ヨブの反応

   (ヨブ記1:20-21)このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。

   ヨブが自分の所有するものを全て返したのは神に対する畏れに起因するものである

   「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」という神の言葉の後、サタンはその場を去り、間もなく、ヨブは突然の激しい攻撃を受けた。まず、ヨブの牛とロバが略奪され、しもべ達が殺された。次に、ヨブの羊としもべ達が焼き殺された。そしてらくだとしもべ達が殺され、ついには彼の息子、娘たちの命も奪われた。この一連の攻撃が、最初の試練でヨブに降りかかった試練である。神の命令により、これらの攻撃の最中、サタンはヨブの財産と子ども達だけを攻撃し、ヨブ自身を傷つけることはなかった。だがヨブは、多くの富を持つ裕福な人間から、無一文の人間へと変わってしまったのである。このような突然の激しい試練と財産の喪失に耐えられるものはいないが、そのような中でヨブは並外れた側面を見せた。聖書は次のように言っている。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。ヨブが自分の子ども達と全財産を失ったと知った時にまず見せた態度はこのようなものであった。まず驚くこともうろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを現すことなどなかった。つまり、ヨブは自分に起こった災難が偶然でもなく、人間によるものでもなく、ましてや報いや罰などではないと初めから分かっていたのである。それはヤーウェからの試練であり、ヤーウェが自分の財産と子ども達を取り上げることを望んだのだと知っていたのである。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていた。ヨブの完全で正しい人間性ゆえに、降りかかった災難を理性的に、自然に判断し決断することができ、並外れた冷静さで対応することができたのである。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した。」「上着を裂き」というのはヨブが衣服を身につけておらず、何も持っていなかったことを意味する。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味する。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸でうまれ、今日も何も持たず、赤児のままで神のもとに戻ったことを意味する。降りかかった全ての出来事をヨブのように受け止めることができる被造物は存在しない。ヨブのヤーウェに対する信仰は、単に信じるという領域を越えていた。それは神への畏れであり、従順である。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝したのである。さらにヨブは、自分の命も含めて、全財産を自らすすんで神に返すことができたのである。

   ヨブの神への畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さ正しさは人間が持つべき人間性の頂点である。彼は神を見ることはなかったが、神は存在すると認識しており、ゆえに神を畏れた。そして神への畏れのゆえに、彼は神に従うことができた。彼は神が自分の持てるもの全てを自由に取り上げることを許し、そしてそのことを不満に思うこともなく、神の前にひれ伏し、たとえその瞬間に神が自分の肉体を取り上げることがあろうとも、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのである。彼の行動全てが彼の完全で正しい人間性によるものだった。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果、神の存在に対する経験と確信は揺らぐことがなかったのである。そしてこのようなものが基礎となって、神による導きと彼が万物において目にしてきた神の行いに沿って、自分にすべきことを課し、神の前での考え方や振る舞い、行いや行動の原則を標準化したのである。時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的で実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせた。これがヨブの誠実さの根源となっているものである。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性を持っており、実際に神を畏れ、神に従い、悪を避けるという経験をしており、それと同時に「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」という認識を持っていた。これらの理由だけで、サタンのあれだけひどい攻撃を受けながらも固く立ち、神の証人となることができた。またこれらの理由だけで、神の試練を受けた時にも神を失望させず、神に満足する答えを返すことができたのである。ヨブの最初の試みに対しての行動は非常にまっすぐなものだったが、後の世代の人々は一生努力を重ねてもヨブのようなまっすぐさを会得したり、あるいは彼のような行動がとれるまでになれたりするかは定かではない。今日、ヨブのまっすぐな行動を見て、そのヨブの行動と神を信じ従っていると自称している人々の「死までの完全な従順と忠誠」の叫びと決意とを比べると、あなた方は恥じ入るだろうか、あるいは恥じ入らないだろうか。

   ヨブと彼の家族の苦しみを聖書で読んで、みなさんの反応はどのようなものだろうか。戸惑いを感じるだろうか。驚いているだろうか。ヨブが受けた試練は「恐ろしい」と言えるものだろうか。つまり、聖書に書かれているヨブの試練を読むだけでも恐ろしく、実際にそれがどのように恐ろしいものだったかを説明するまでもない。であれば、ヨブに起こったことは「演習」ではなく、「銃」と「銃弾」を伴う「実戦」であることがわかる。では誰の手によってこの試練は起こされたのだろうか。もちろんサタンによってである。サタンによって直接行なわれたのである。しかし、神がその権限を持っていた。神はサタンに、どのようにヨブを試みるかを指示しただろうか。神はそのようなことは伝えていない。神はサタンにひとつの条件を与えただけで、その後ヨブに試練が臨んだ。ヨブに試練が臨んだ時、サタンの邪悪さと醜さ、サタンの人間に対する悪意と嫌悪、神に対する敵意が人々に伝わった。それにより、ヨブの試練がどれほど壮絶なものであったかが言葉では表現できないことが分かる。この瞬間に、サタンの人を虐げる悪意に満ちた性質と醜い顔とがはっきりと現れたと言える。サタンは神の許可により得た機会を用いて、残虐にも激しくヨブを痛めつけ、その程度は今日の人々には耐えられないほど想像を絶するものであった。ヨブはサタンの試みに遭ったけれども証しに堅く立ち続けたというより、むしろ、神がヨブに与えた試練の中で、ヨブ自身がサタンと戦うことで、自身の完全さと義を守り、神を畏れ悪を避ける道を守ったという方が良いだろう。この戦いで、ヨブは多くの羊と牛、全ての財産、息子・娘達も失った。しかし彼は完全さと義、神に対する畏れを捨てることはなかった。つまり、このサタンとの戦いで、ヨブは完全さ、正しさ、そして神への畏れを失うより、財産と子供を失う方を選んだのである。人間であるということはどういうことなのか、その根源を手放さないことを選んだ。聖句にはヨブが財産を失った全過程が簡潔に記されており、その事に対するヨブの対応や態度も記されている。記述が簡潔な故に、試練にあったヨブがあたかもゆったりと構えていたかのような印象を与えるが、もしその時に起こったことを再現し、悪意に満ちたサタンの性質も再現したならば、聖句に書かれているように簡単ではない。実際には書かれているよりはるかに過酷だったのだ。人間と神に認められているもの全てに対するサタンの扱いは、それほどまでに破壊的で憎しみに満ちているのである。もし神が、ヨブ自身に害を加えてはならないとサタンに伝えなかったならば、サタンは平気でヨブを殺していただろう。サタンは誰も神を崇拝することを望まず、神の目に義なる者や完全で正しい者が神を畏れ続け、悪を避け続けることを望まない。人々が神を畏れ悪を避けることは、サタンを避けて見捨てるということである。それであるから、サタンは神からの許可を利用して、怒りと憎しみを情け容赦なくヨブにぶつけたのである。ヨブの心と体が、内側も外側も、どれほど苦しんだかが分かるであろう。その時の様子がどんなであったかは今日のわたしたちが知ることはできず、聖句を通して、試練に遭ったヨブの当時の感情を僅かに知ることができるのみである。

   ヨブの揺るぎない高潔さはサタンを恥じ入らせ、慌てて退散させた

   ヨブが試練に遭っていた時、神は何をしていただろうか。神はその様子を観察し、試練の結果がどうなるかを待っていた。観察し、待っている間、神はどう感じただろうか。勿論、悲しみに打ちひしがれた。しかし、あまりの悲しみに、サタンがヨブを試みることを許可したことに対して、神は後悔しただろうか。神は後悔しなかった。ヨブが完全で義人であり、神を畏れ悪を避ける人であると神は堅く信じていた。神はサタンによってヨブが神の前に義なる人間であることを証明させる機会を与え、サタンの邪悪さと卑劣さを暴露させただけである。それはヨブにとって、義人であり、神を畏れ、悪を避ける自身を世界の人々とサタンさらには神に従う人々にまでも証しする機会となった。そしてこの試練の結果は、ヨブに対する神の評価が正しく、何も間違っていないことを証明しただろうか。ヨブは果たしてサタンに打ち勝っただろうか。ヨブがサタンに打ち勝ったことを証明する典型的な言葉が書かれている。ヨブは言った。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」これがヨブの神に対する従順であった。そしてヨブはまた言った。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。」ヨブのこれらの言葉は、神は人の心の奥深くを見ていること、人の考えを見ていることを証明するもので、ヨブに対する神の評価に誤りはなく、確かにヨブは正しいひとであったことを証明する。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。これらの言葉はヨブの神への証である。サタンを脅かしたのはヨブが普通に使っていたこのような言葉で、それがサタンを辱め、慌てて退散させることになった。さらにはサタンに足かせをつけ、骨抜きにした。それだけでなく、ヨブの言葉はヤーウェ神の偉大さと業の力を実感させ、その心が神に支配されている者がどれほど並外れた能力を持つことができるかをサタンに思い知らせた。そして更には、ヨブという取るに足りない普通の人間が、神を畏れ悪を避けることに対する驚くべき力をサタンに対して見せつけたのである。こうしてサタンは最初の戦いに敗れたのである。「痛い思いをして理解した」にも関わらず、サタンはヨブを諦めようとせず、その邪悪な性質も変わらなかった。ヨブを攻撃しようと、サタンは再び神の前に来た。