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私の毒親

2015-10-03 02:16:44 | 日記
読んでいて気持ちの良い話ではないので、閲覧は注意して下さい。ただ、自分の記憶や気持ちの整理に書いているだけです。

私はもう40歳の半ば。家族の記憶の中で一番古いのは、母が精神病院へと私を連れていった記憶だ。たぶん、まだ小学生になる前だと思う。そこだけ、鮮明に覚えているのは、その前後にはっきりと「異常な何か」があった為だ。

その「異常な何か」が思い出せない。あまりに過酷なので、思い出すのを心が拒否していると表現すべきか。とにかく、母はいつもとは全く違う病院へと私を突然、連れ込んで「この子は頭がおかしい!普通じゃない!」ととにかく医者にわめきたてた。異常な剣幕で、周囲が慄いてこっちを見つめていたのをはっきり覚えている。当時の私にとって、母がわめきたてるのは極めて普通の事だったので「あれ?」と謎に思ってしまったのだ。

これが普通なんじゃないの?って、その時、初めて気になった。そして医者は母に対し「お子さんに異常はありません」と最初は優しく説いていたが、母が全く聞かないので、叱りつけるように怖い顔で怒鳴りつけた。
「お子さんは普通です!あなたが異常なんです!!」

そう言われ、初めて私は母が恐ろしくなった。普通じゃないんだ・・・これ、普通じゃないんだ、と。鬼の形相をした母の顔を、その時初めて鮮明に認識した。そうだ。鬼じゃないか。鬼だ。その後も凄い喧騒を母はやらかし、その病院を飛び出ていったが、私に逃げる術はなかった。

当時に「毒親」の概念はなく、ただ「躾の厳しい親」としか、誰にも認識できなかったし。

父親も気分で私を死ぬ寸前まで殴りつけた。ただ、気分が何となく悪いから。いつも理由はそれだった。姉は肉ダルマになって転げまわる私を見て、必死に父に気に居られようとした。まるで父の愛人のように寄り添った。

だから父も、姉に対しては周囲に「異様」と表現される程の、溺愛を示した。全てを買い与えられる姫と呼ばれ、私を姉は「不出来の長男」「出来損ない」と呼んだ。小学生の頃から既に、姉とはまともな会話をしていない。

主人と下僕。そういう立場だった。

姉に異様な溺愛を示し、夜の街遊びも派手な父と母は、よく家を破壊する程の喧嘩をした。姉は父に加担して、母を見下し口汚く罵るようになった。父は大工で力も強かったから、最終的には噛みついた母が一方的に殴り倒され、その母の怒りの矛先は常に私に向けられた。

母と姉の対立も異常なものとなり、血を見ない日はなかった。毎日が修羅場だった。地元でも、私の母の異常な攻撃性は評判となっていたのだろう。学校でも「あの気違い母の子」といじめの対象となった。
母は初対面だと、凄く愛想もよく、気立てもよく見えるらしい。

そして主婦はグループや派閥を作る。ABCのグループ、DEFのグループがあったとして。母はABCのグループの会話に加わった時にはDEFをとことん、貶し倒すのだ。そしてDEFに加われば、ABCを貶し倒すという事を日常的にやっていた。極端すぎる、八方美人だった。それがバレて町内の婦人会から総スカンにあったのだろう。母は毎日のように、どこでも喧嘩をやらかした。

「他人は敵だ!信用するな!」と私らに教育した。私と弟はまだその頃、比較的仲が良かったと思う。記憶が欠けていて、殆ど思い出せないのだ。ただ近所からは「弟思いのお兄ちゃん」だと言われ、嬉しかったのを覚えている。泣きそうな程、嬉しかった。褒められた記憶は、それしかない。

そして同時に、毎日、全身をあざだらけにして登校する私に、担任が「その痣はどうしたの!?」と驚いて問われ、母の言いつけ通りに「転びました」「階段から落ちました」と答えていた事も思い出す。

父に動けなくなるまで折檻され、私が泣きわめく無様な様を見る度に、ゾクゾクと快感の悦にひたる父と母の視線を感じていた。私が泣きわめくのを見たいのだ。気違いになって赦しを請う無様な姿を見ては、悦んでいた。

そして中学生の頃には、衝動的に3度の自殺を図ったが、どれも失敗した。学校にも、家にも居場所はない。逃げ場はない。「死のうか、死のうか」とひとりになるとよく呟いて、それをある日、母に聞かれて笑われた。
「死ねやバーカ」
「お前なんぞ、産んだのが間違いやわ、クソが」
「死ねよ、ほら死ねよ」
「俺はなあ、お前の親やから、お前を殺す権利もやるんやクソバカが」
 そう言われるのが普通になっていた。

 そして農業高校に進学した。勉強ができなくて、そこしか行くところがなかった。農業をしたいワケでもないのに、3年間通った。姉は優雅にバスや電車の通学で、しかも常に私は従者として、父に迎えに行かされた。姉が怪我でもしたら、お前を殺すからな、何かあればお前が死んでも姉を返せよと命令した。
 私は小学生の頃から使っている自転車で、ずっと高校に通っていた。だから高校でも変な目でみられた。小さい自転車なので、とても珍奇に見られた。
 タイヤの溝もなくなり、ギヤの歯が丸くなってかからなくなっても、それしか使う事を許されなかった。

 でも益もあった。その農業高校は歴史がとても古く、地元の議会はその高校出身者で殆ど占められている。偏差値は低いが、つながりは強く、どこにでも就職が可能だった。だから、政治家でしか知り得ない情報も入っていた。
「この地方の産業は、今後、栄える可能性はない」そう先生は教えてくれた。
 外に働きにいくしかない、と。

 それが、家から逃げ出す最後のチャンスだった。口実だった。だが父は許さない。「長男が家を出るなぞありえるか」「この親不孝が。貴様は人間の情もないのか。クソ野郎」と蹴飛ばされ、角材で殴りつけた。
「長男の自覚もないクソは死ね。それが世界の為や」「お前なんぞ、世界の誰が取り合うかバカが」
 それでも、私は逃げ出して世界でも有名な巨大企業に、期間社員として何とか逃げ込む事が出来た。そして、気が狂ったように働いた。遠く故郷を離れた地で、ひとり生き抜いていく為に。

 そしてそれが認められ、その企業に正社員として正式に雇われた。これでようやく、父に認めてもらえる、母に喜んでもらえる。褒めてもらえる。貶される事も、叩かれる事もない。そう思った。

 だが、誰も喜んでくれない。ずっと意味がわからない。ただ、私を「家を捨てた親不孝者」と罵り「男やったらなぁ、でっかい企業の尻尾になって喜ぶな恥ずかしい。小さいメダカの頭のほうが、まだ立派と言うもんやバカが」
 家に帰る度に、そう言って認めてもらえない。どうして?
「お前は男として更に格が下がったのよ、値打ちがないのよ。はあ?世界でトップを争う企業?だから何や?てめえはただの社員だろうが!ただの使い走りよ。大工の格下。お前はクソ以下よ」
 そうなのか?そうかもしれないと思った。
「家を捨てた恥ずかしい長男」そう20年以上、今日に至るまで言われ続けている。

 そしてとうとう、弟も私を見限った。私に向かい「お前は親を裏切った不幸の子。お前が兄貴なのが、俺の恥じよ」そうなじられた。「俺は親父と一緒に大工をして家を守る。お前は逃げたからな」
 確かにそうだ。だから、何も言い返せない。

 だが、その弟が15年ほど前から、妙に歯車が狂いだした。車を横転する大事故や、指定された保護具を付けず、足場から落下して大怪我を負ったかと思えば。
 親に隠れて、パチスロで300万円の借金を消費者金融に作り、母が私に嘆きの電話を入れてきた。
「あの親不孝者が」その時はそういうのだが。
 しばらくすると「弟は優しい良い子。親の面倒を見る孝行息子」に評価が戻る。

 その次はスマホの料金で月20万円だとかで、私にまた母が苦情の申し立て。弟への不満をぶつけられ、それを私が宥めるという日々。善良な意識じゃない。ただ、母に気に入られる良い子になりたかっただけだ。
 そして、私は結婚をした。非常に真面目で、尽くしてくれる年上の女性で、今でも本当に感謝をしている。
「俺は、親の面倒を見られないから、一生、家族になじられるしかない。だから、嫁にはそういう思いをして欲しくない」と、嫁の実家のすぐそばに、アパートを借りた。
 私の親は猛反対した。
「そんななあ、嫁の実家の近くに家を構えたら、舐められるぞ、金を吸われるぞ、バカにされるぞ、お前はそれでええんか」と今でもなじられる。
 それでも。こんな気持ちを嫁に味わって欲しくない。嫁も、私の実家には尽くしてくれて、片道600キロの道のりを付き合って、毎年、私と実家への旅を共にしてくれる。
 だが、私の家で見る毎日の修羅場に、恐れ、慄き始めた。
「怖い・・・この家・・・」
 私は段々と実家の存在が重くなっていた。段々と、帰るのも嫌になってきていた。嫁もなじり始めたのだ。その度に、私は実家の人間と真正面から口論となった。どうして?仕事もちゃんとして、嫁も真面目に尽くしてくれるのにどうして?
 分からないまま、ただ嫁を庇い続けた。今でも。

 そして嫁は、本当によくしてくれて、子宝を恵んでくれた。長男を授かった。無事に産んでくれた。今度こそ、喜んでくれるだろう。長男が、長男を得たのだ。家を継ぐ者を作った。
 だけど、喜んでくれたのは、最初の3年だけで、すぐに実家は飽きてしまった。「遠くの内孫より、近くの外孫よ」と、嫁に出た姉の子を可愛がった。
 私の長男は、帰る度に無視だった。存在が空気だった。
「これは当たり前の事やから。遠くに居る孫を可愛がれるワケがないやろ。近くの孫を大事にするのは道理やんか?何かおかしいか?」と、母が言う。父も同意だった。「遠くの孫など、所詮、他人よ」と。

 そして姉は父に家を買ってもらい、弟は実家の資産を全て継ぐ事になった。「お前は家を捨てたのやから、お前には何もやらん」と何故か何度も念押しされた。うん、そうだね、その通りだ。何も要らない。そう答えた。
 食べていくのに十分な年収はあるし。それは当然だと私も了承した。

 そして、弟がそんな時に、未成年淫行をやらかした。女子高生を孕ませてしまったのだ。その時の父母の怒りは凄まじく、その時に私に向かって初めて、優しい言葉をくれた。こんな時だけ、優しくされるのかと正直思って、情けなかった。
 弟は実家で、給料がそのまま小遣いの生活に関わらず、預貯金はゼロ。
 実家にも大きい家や土地はあるが現金はない。大工はとっくに食べられなくなって、廃業し、地元の小さい建築業から仕事を細々ともらって生計を立てていた。
 それでも弟はその子と結婚をすると言う。子供も産むと。私はそれは止めろと何度も言った。
 お金が無いのだろう?結婚し、子供も産むとなれば高校も中退しなきゃならないと言われている。今時の中卒扱いはしんどい未来を背負わす事になる。未来ある子に、そんな過酷な事を背負わすな、と。
 でも、私の意見は通らなかった。ただゴネる弟に、実家も面倒になって、結婚する話に切り替えた。

 高校は中退。結婚式もなく。女の子は実家に住んだ。もうこうなったら、どうしようもない。産ませるというなら、せめて産まれる子にと、最大限の支援を始めた。産まれる子には幸せになる権利がある。

 そして、父の癌が発覚した。余命3か月。父はこう言ったそうだ。「何で俺はこんな惨めな最期なんや・・・」と。私は、せめて最後くらいは孝行しようと可能な限り、休暇を取って実家に帰った。不思議なのは、実家の落ち着きぶりだった。父が死ぬのは当然の成り行きと、普段と変わらない生活を送る。これが普通なのか?姉も母も、弟も、ただじっと、父が死ぬのを待っていて。

 段々と私も、変だ、と思うようになった。これ、普通じゃない。だが母は「こいつ(父)のわがままに、最後まで振り回される、私が不幸よ」と吐き捨てるように言う。
 そして父が亡くなり、母が喪主だが姉が葬式の段取りを全て行った。その時、初めて母は姉を褒め称えた。

 凄く、仲良くなっていて、今までの40年は何だったんだろう?と思う程だった。そして私の嫁は、なじられ続けた。「所詮、他所の子よ。気のきかん、頭も悪い、教育もなってない・・・」と言われ続けた。
 何故だ。何故、共に父に尽くそうとしてくれた、嫁に何故?

 そして通夜。親戚の人と私家族、私の母は通夜を共にしたが、姉と弟はさっさと家に帰ってしまった。全然、興味すら湧かないようだった。まるで「死体の傍で寝るなんて冗談じゃねえよ!」と言わんばかりに、さっさと帰ってしまった。
 母は「これでせいせいしたわ。楽になった。これで旅行にも行ける」と親戚を前に、そう何度も嬉しそうに言う。

 600キロ彼方から駆け付けた、私家族は通夜を共にするのに、実家の姉や弟はしない。何で?旅行?え?何?これ、通夜・・・だよね?亡くなった人の事をしのぶ夜だよね?親戚と私は、父の話で盛り上がり、母は旅行の話しかしないという、異常な夜になった。その夜、父の遺体を覗き見た母は、少し慄いた。
「泣いてる・・・・」
 父の遺体が涙を流し続けていた。

 そして翌日、火葬をした時も、私の嫁は母に威嚇され続けた。あちこちで怒鳴られ、走らされた。親戚はただ憐れむような視線を送るだけだった。母がどれだけ、かみつく人間か知っているからだ。下手に庇えば、どんなケンカをやらかすかわからないからだ。私の子も、私から離れたところで母に怒鳴られて、その時は親戚の女性たちがその身を盾にして、庇ってくれた。

 私は。母を。殴れば良いのだろうか。この怒りを、ぶつけて良いものか、ただ堪え、ただひたすら、親戚が気を遣って葬式を進めてくれるのだから、台無しにしてはいかんと飲み込んだ。

 葬式が終わり、こうして家に帰り、嫁の無念を受け留める。「どうしてこんな扱いを受けるの・・・?」
 だから、私も決意した。「もう耐えなくていい」
「俺が怒鳴られるのはいい。それは構わん。だが、嫁や子に責任はない。だから、俺はもう、あの家の、敢えて親不孝の汚名を喜んでかぶろうと思う。もう奴らの事など知った事か。俺にとっての家族は、もう、君らだけでいい。もう諦める。平和的解決も、認められる事でさえ。君らを幸せにする事だけに、俺は専念する。もう40年、俺は吠えられ、なじられた。今更、何を言われてもなんとも思わん」
 あの家にとって「最低の男」になろうと決めた。
 俺には、嫁と息子が大事だ。

 大事にしてくれない、大事にもしないという実家に俺はもう。

 親不孝の道を選んでも。それで地獄に落ちても。呪われても。

 私は。もう構わないと思った。俺はこの選択が正しいだとか、全然思わない。私は、したい事をするだけなのだ。

 もうこれからは、そう生きようと思う。この世に生まれ、精一杯、思うように生きよう。どんなになじられても。

 俺は善良な人間になんかならない。悪魔でいい。呪われる道を行こう。

 ただ嫁と息子を、護り、幸せにしたいだけの小さな悪党として生きようと思う。


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