ただの考察好き

ただ考えるの好きです

偉人が現代に生まれない理由

2015-10-29 16:27:31 | 日記
私の父は「織田信長」が大好きだった。本能寺で明智光秀にシバかれたオッサンである。織田信長が好きという日本人男性は多い。嫌いな人のほうが少ない気がする。

織田信長。まあ普通、日本人が持つ印象と言えば、型破りな事を好み、実力主義で日本統一を成し遂げようとした傑物。まあこんなところか。まあ色々と、その歴史には諸説あって、その記録も眉唾な部分の多い人物のひとりでもある。
例えば長篠の戦いでは、信長は華々しく鉄砲を大胆に用いた戦略で大勝利した。これが40年前の真実であったワケだが、最近の研究では鉄砲が使用された形跡が殆ど発見できないとの事。

そして、当時、日本で鉄砲はさほど珍しい武器でも何でもなく、割とポピュラーな武器で認知度も高かった。じゃあ何で積極的に武将は戦争で使用しなかったかと言えば、当時の鉄砲の性能は、とても戦略兵器と呼べないオモチャでしかなかった。
雨が降ればもう使えないという部分でもアウト。しかも弾丸のクォリティが低く、撃ってもまっすぐに弾が飛ばないばかりか、弾のサイズですら均一に作る技術が無かった為、弾が飛ばない事もあった。また弾の強度が足らず、発射の瞬間に砕けて、敵に砂粒を浴びせた程度に終わる事すらあった。そんなもん、実戦で誰も使うワケがない。武将が使わないのには、それなりの理由があったのである。

じゃあ織田さん何やってたん?それを調べるのは学者の仕事。俺の仕事ではないので、それは断定しない。

まあとりあえず、やればやれるよ日本統一、って事を実行しようとした人なので、男の子の憧れの的なのだ。父もそのひとりだった。

だから若い時分は羽振りが良かった。何もかも上手くいっていたかも知れない。織田さんに憬れる人って、もう若くてフェロモンがドッバドバの時に、上手く歯車が回る人が多い。もう俺、なんか無敵みたいな。

だけどさ。

全員とは言わないけれど、40歳ころから、ポッキリと何かが折れたように何もかも上手く行かなくなる。理由は様々だ。まあ共通すると言えば「計画がない」のだ。

未来設計が変に現実味が無かったり、もしくは存在すらしていない。何でだろう?と考えた。

親父はバカじゃない。職人としては一流だ。棟梁としても優秀だったと思う。建前の段取りも計画の立て方も抜きん出ていた。しかし。

未来設計となると、てんでダメだった。貯蓄だとか貯金だとか、当然やれない人。未来が常に白紙。何とかなるさ、で、何ともならなかった人。

んで、よくよく考えると40歳って、曲がり角でもあるんだよね。まだまだ働き盛りではあるんだけど、無茶がきかなくなってくる、その初期の頃合いだ。

そして、今までやってきた事の清算が出る時期でもある。そういう事もあるが・・・。

やっぱり。織田さんそのものが、野望半ばで潰えた人だからってのも、大きい理由だと思う。それが織田さん人気の原動力でもあるんだけど。明智のハゲにシバかれにゃ、天下統一を成し遂げた人だったろう、そんな夢を見れる人なんだ。

だけど現実はシバかれて野望は挫けた。俺はね。思うんだよ。

織田さん、生き残っても、やっぱ天下統一は無理だったんじゃないかって。

そんで、もっと惨めな終わり方をした人なんじゃないかな?天下統一どころか、領地も全て失って哀れ野垂れ死にという結末が待っていたかも知れない。

明智にシバかれて伝説の人になりはしたけど、もし、明智が血迷わなかったなら、歴史に残らない人で終わったかもね。秀吉や家康にかき消された可能性もある。家康や秀吉に倒された場合、きっと悪人として記録には残されるから。
だって、元々の上司を討つんだもの。正当な理由は作らないと、庶民が納得できないから。倒すべき理由のあった人として、歴史に残されただろう。

そんな人なんだよ。どうあっても、たぶん、家康には勝てなかった。根回し工作巧いし、智略も立てられる、何より、未来のビジョンが家康にはあった。天下統一して、じゃあ、幕府をどう作っていきましょうかねっていう計画も、ちゃんとあった。

明智がシバいた事で、秀吉、家康は仇を討ち、信長を美談として残しはしたけど。もし、明智が倒さなければ、このふたりのどっちかが、いずれ倒さなければっていう風になったはず。
その時、織田さんがやれたか?と考えるが、どう考えても「秀吉に丸裸にされて、家康にバッサリやられる」構図しか思いつかない。

だから、そんな人に憬れる人も、そんな結末をたどるんじゃないかって。つまり、人に憬れた時点で、その人のような人生にする事はあるかもだけど、その人を越える事もまた、出来ないんじゃないかって。

今の世の中、憧れの人って多いよね。大勢の人が誰かに憬れている。ビル・ゲイツだったり、エジソンだったり。現代人は偉人に憬れる。

だからなんだ。

偉人が現代に、生まれないのはそれが理由だと思うんだよ。

目標が人間だから。目線が人並みなんで、人を越える結果が出せない。優秀にはなれるけど、傑物にはなれない。

過去の偉人ってさ。

それぞれの理想はあったけれど「この人のようになりたい」と考えた人は少ないんだよね。

ライト兄弟なんて「鳥のように空を飛びたい!」てんで人間じゃねえし!

だから野望のある人は、人間に憬れている程度では、所詮、その程度で終わるよって事だ。その憧れの人を越える事は、絶対とまで言わないが、殆どの人がその手前で心が折れる。

特に野望が尻切れトンボで終わった人に憬れると、残り半生の記録がないんで、追従しようにもできず、路頭に願いが迷うだけだ。

人を越えたいっていうのに、人を見ていてどうする。

きっとそれが、今の世界には足りないんじゃないかな。

人に憬れていては、いつまでも人でしか居られない。人を越えたいのなら、せめて偉人たちが見つめていたものを凝視しよう。偉人を見る必要はないし、憧れる意味もない。

偉人への憧れは、人並みの人生を送れればそれでいいという人が見る、夢みたいなものだ。最初から偉人を越えるつもりがないので、それだけで凡人確定である。

だから、偉人の残した言葉や考え方を真似ても無意味なんだ。その思考や生き様をトレースしても、ただの猿真似で終わってしまう。

偉人の立ったところに立ちたい人は、偉人の業績や偉人伝など読んでいてはだめだ。

偉人の見ていたものを見るべきだ。

鳥、宇宙、世界の果て、次元の彼方、夢のまた更に夢の向こう側。

今はそれを教えるものが少なすぎるんじゃないかなって思った。


ひたすら気分の悪かった49日法要

2015-10-25 00:33:44 | 日記
会社から休暇をもらって、600キロ離れた実家へと、父の49日法要の為に訪れた。もう年齢が44歳なので、帰り着く頃にはへとへとだ。しかも、朝の5時まで仕事。

3時間だけ寝て、8時に出発。実家についたのは・・・夕方5時くらいだったろうか。だが優しい言葉なぞ微塵も期待できるはずもなく。

誰も気遣いなどしない。当たり前という言葉が突き刺さる。そのまま、弟夫婦の子供の為に、階段にゲートの設置。何も階段対策しようとしないから、俺が自ら持ち込んだ。一番怖いのが、目を離した隙に、子供が階段から転落する事故だからだ。

しかし母はそれよりも「私を外食に連れていけ」と言う。

その前に、隣の父の兄夫妻のところへとあいさつに行った。色々とお世話をいただいているにも関わらず、我が母は兄夫婦を憎んでいる。怒鳴り散らす事が多い我が家へと、色々と気遣ってもらった上で、様々な忠告を穏やかにいただいているのだが、それが気に入らないのだ。

それを「おばちゃん」は知っているが、やはり穏やかに受け止めてくれている。我が母が、もう高齢にも関わらず、俺ら兄弟に誕生日プレゼントを要求して、怒鳴り散らしたらしい。俺は送って置いたのだが、それでも送る時は
「親父が亡くなっているのに。もう誕生日をいちいち祝う年齢でもないだろうに」
 と俺も思っていた。もういい加減、要求を止めて欲しいが、それを言うと何処に当り散らすか分からない。誰が被害を被るか、分からないのだ。
 おばちゃんから
「もう祝うような歳でもないのだし・・・もう、ええ加減、気持ち悪くない?」
 と尋ねられ、正直に言葉が出た。
「本当に気持ち悪いです」

 帰れば母が不機嫌になっている。
「また隣でいらん事をしゃべったやろ!ほんま気分悪いわ!この家の事を他人に話すな!」
 さすがにそれは、こう言い返した。
「俺は人に知られて困るような事はしていない。人は普通、そういうものだろう。人に隠れて、こそこそ何かをする事が、人としてそんなに偉いのか?」
 そんな事を言い返した。さすがに母は反論できなかったので、話題を変えた。妻の母の状態が衰弱しつつあると言う事を、ついでに話に入れた。
「妻の母の体重が30キロをきった。歩くのも正直、辛そうだ。お父さんのほうは半身まひであるし、この先はこれまでのように、こっちの実家に妻は帰られない。お金も貯めなくてはならないだろう?お墓もまだ買っていないのだし。妻の母に、万が一不幸があれば、そっちのほうのお金も要るし、そっちのお墓も買わなければならない」
 やんわりとソフトに、もう俺の家族はこっちに来ない事を告げた。
 すると母は「はあ?」と小馬鹿にしてこう言った。
「あの家、年金、入ってるんやろ!?年金暮らしできるんやろ!?私はあんたら育てるんで、年金もやれんかったんや!おかげで今、苦労しているんやで!」

 あのな。正直思った。

 妻の実家と、私の実家はほぼ同世代。妻の実家は、いわゆる「富山の薬売り」で、私の実家は「元大工の建築業」

 そして妻の実家は4人家族で妻は姉妹。私の実家は5人家族で1姫2太郎だ。

 ほぼ、人数的には変わらない上に、俺の実家は26年前に、俺が働きに出ているので、扶養から抜けている。つまり、その分のお金は浮いていないとおかしい。
 その後に姉が嫁に出たし、弟も働きだした。
 年金は無理でも、お金を貯める術は幾らでもあるべきじゃないのか?

 それが妻の実家は、遠く富山を離れた地で、地道にコツコツと働き、奥さんもほぼ専業主婦として家に尽くした。収入は我が家よりもずっと少ない。なのに年金も支払い、かつ貯金や自分の住むマンションもある。
 そしてちゃんと妻姉妹も高校卒業させた。様々な困難も、乗り越えた。

 よほど、生活は辛かっただろうが、今、妻の実家はその苦労を乗り越えたおかげで、ほっと一息ついたところなのだ。得をしたのではない。報われたのだ。

 どれだけ、我が家のやりくりが下手なのか、母は自分で暴露している事に気付かない。私は不幸、私はずっと貧乏だと言うが

 父の残した数千万円の資産を、ひとりで全部、譲り受けておいて、貧乏もへったくれもないだろう。私ら姉弟の分や親戚に回す分も全て奪い取った。全部、遺言で自分だけに回すよう、手配したのだ。

 その点を指摘すると
「現金が無いんだから!土地はあっても現金がないの!」
 土地は売らないの一点張り。そして、私にこう言った。
「今度からボーナスのお金も、余計に振りこんでもらわんと!生活できないから!」
「生活?」
「そうよ!」
「さっきまで友達と旅行に行くとか話していなかったか?」
「あのね!友達と旅行に行くのも生活の一部じゃないの!私に旅行生活させないなんて、殺す気か!」
 それで死ねるなら、ぜひ死んでみていただきたい。母の放蕩生活というか、旅行好きや、変な宗教にハマったりだとか、おかしい部分もまとめてそれで止められるのなら、むしろ世の為だ。

 そう言うとヒステリーを起こすので、口にするのは止めた。ファミレスで大声で気違いのようにわめきたてる老婆は、公害でしかない。人に迷惑をかけないように配慮した。

 世の中には、信じられないだろうが、こういう「おかしい親」が普通に居て、とんでもない無茶を押し通そうと揉めに揉めるのだ。


 それから49日の準備だ。弟と共にやる。姉は「手伝いに来る」という話だったが、まあテンプレで当然来ない。俺は仕事を休んで、遠地から駆け付けて手伝って「当然」だが、姉は「手伝わないで仕事をするのが当然」なのだ。

 しかし49日当日の「私やってますアピール」の凄い事。何も知らない親戚一同は素直に騙されていた。と、いうか揉めるのが面倒だったのだろう。
 全て朝から、私と弟と、母の姉の子である女性とで準備した事だ。するとその女性も、自分の母をどうも好きではないらしい。

 ・・・・母の家系はどうも、姉妹そろって子供に好かれていないらしい。なんか育ち方に重大な問題があったのかも知れない。そして、母の姉妹関係も、どうも良好とは言いにくい。何でこう、険悪な関係が好きか、理解不能。

 どういう育ち方をしたのか、詳細の事実を知るすべはない。母の語る自分の過去は美談以外、何も用意されていないからだ。
 自分がどれだけ親孝行で素晴らしい人間でありながら、どれだけ苦労したのか。それしか言わない。

 たぶん、調べれば大半が「でっち上げ」な事は、何となく分かる。本当に親孝行な人は、親孝行を自慢したりなどしないからだ。

 しかし気になる事があった。弟が風邪をひいていたのだが、医者からもらった薬もあまり効かないのか、夜中に不気味なうめき声を上げて、弟の嫁さんが怖がって起きてきていた。本当に気味の悪い声だった。
 まるで呪われているような。
 すると、父の兄も風邪気味で、母も喘息を起こし、両膝が激痛らしい。
 そして姉は少し前に運転途中で貧血を起こし事故。怪我はしなかったが、車は今年2度目の入院。

 俺だけが何もない。

 父も、自分の妹が亡くなったその年に、その後を追うように亡くなったし。
 ああ、弟のもめ事もあったし。

 なんか、振り返ると今年の我が家はメチャクチャやな。何だろ。ちょっと怖い。俺にも伝染しそうで怖かった。ホラー小説が書けそうだ。

 まあ、喪主である母が膝の痛みを理由に、ほぼ式を投げ捨てだとか。まあ、また首をひねる珍事奇行を積み重ねる。もうこれもテンプレだな。
 そしてまあ、その後の食事会は俺もなんか、正直どうでも良くなって、適当に笑い話をしてみせた。

 まあ、たぶん姉か母か分からんが、親戚の女性に「俺は帰ってきても、何もしない」だとか触れ回ったのか、一部親戚女性のヒンシュクを買うが、もうどうでもいい。皆もどうでもいいって感じだったし。
 まあ簡単に、そんな口車に乗るような女性に、味方に付いて来られても正直戦力足り得ない。むしろ、自分の致命傷になる。

 早期に見分けがついて幸運だった。ああ、この人は簡単に人を見下せるのか、と分かって良かった。

 49日が終わると、俺もすぐに帰る支度をした。この家にもう何分も居たくない。ただ、弟夫婦には話しておいた。
「俺はおふくろに何事かあっても、その遺産の一切を受け取らない。それは母にも言った。お前か、姉貴にやれ、と。俺は一切受け取らない。だが、世の中にはもしも、という事がある。こんな時に、と思う時にこそ不幸がある。おふくろの病状が悪化した上に、この家の高額な税金も納めなきゃならない事態だって十分考えられる。その場合、母をどうする?俺が引き取る選択肢もあるが」
「それはなるべく無い方向で」
「じゃあ、具体的にどうするのか、アテはあるのか?」
「・・・・・」
 無言。またノープラン。無計画は母譲りだ。
「あのな。税金にツケはきかんぞ?それなりの家に住んでおったら、それなりの額を要求され、支払うまで勘弁されない。そして、俺の住むところにおふくろが来る選択肢もないと言うた。じゃあ選択肢はひとつしかない」
「なに?」
「この家を手放す事も、視野に入れておかんとあかんという事だ。もしその時が来たら、その話もお前がおふくろとせにゃ。ここに住んでいるお前らが、そういう話をせにゃならんよという事だ」
「この家は俺と親父の作って家で思い出がある」
「あのな」
 俺は母譲りのお花畑な脳みそに鉄槌を入れたい気分だった。金のアテもないが、家も離せないだとか。だが冷静に話をする。
「お前がこの家に、どんな想いがあろうが、家がそれに応える事はないぞ。家は、家以上の事はやれん。雨風をしのぐ事以外の事はようやらん。お前が尽くすべき家を間違うな。お前が尽くすべき家は、この嫁さんと、お腹の子と違うのか?」
 弟は全く理解不能という顔だった。
 考えた事もないのだろう。だから、分かりやすく説明した。
「あのな。古代、人は洞窟に住んだ。そして戦後は家とも呼べないバラックに人が住み、子を成し、家族を成して、今の世がある。つまり、家とは物体の事じゃない。そこに守るべき人が居たなら、そこが家と違うのか?そこに自分が守るべき家族が居たら、そこが洞穴でもバラックでも、そこは立派な家と違うのか?人がおらねば、家ではないのよ」
 そこまで言われて、ようやく「ああ」とそれなりに耳に入ったようだった。
「この家の存在が、家族を苦しめるのなら、もうそれは家とは呼べんよな?そのいざって時に、家に見合った税金も納められないのでは、己の背丈に会ってない、不格好なだけの重荷と違うのか?」
「・・・・・」
 やっぱり伝わって無い。まあええか。
「大切にするものを見誤るな。家屋を大事にしたって、何も返してはくれん。優しい気遣いも無ければ、労りや労いの言葉もくれんぞよ?」
 嫁さんのほうは感動していたみたいだが、そういう話ではない。未来を考えろって事なんだが。

 まあ。
 44年間。一度も真剣に、誰も未来を考えなかった家だしね。
 ただ目先の事ばかりだったから。

 俺が26年前に、どう脅されようと家を出たのは、そういう生き方が嫌だったというか、付き合えないなー、とか思ったのかもな。

 まあ、たぶん。この先も目先の事でウロチョロと騒動を我が家は起こし続けるのだろうね。
 まあ、残る母が亡くなれば。

 俺たち姉弟の縁も自然に解けるだろう。だってこの44年。
 姉も、弟も。

 俺の部屋に訪れる事は一度もなかった。毎回、俺から様子を伺いには行っただけだ。俺が行く事はあっても、誰も俺のところに来る事はない。子供の時から、何の関心も寄せられない長男であったと同時に。

 お互いが、お互いを大切に想う事もない。ただの同居する肉塊でしかなかった。それがこの先数年で、意識が変化する事もないだろう。

 姉の先々も見え始めている。その子供たちが姉を嫌い始めていた。ああ、正常に「我が家」を受け継いだか、それが今日、はっきり姉の子供たちから伝わってきた。

 たぶん、俺はそんなに長く生きられない。内臓がかなりのダメージを抱えている。ストレスで色々とやられちゃっていた。

 だが息子が成人するまでは、何とかごまかして仕事を続け、食べられるようになった頃まで、生命が持てばいい。それだけでいい。

 そして、俺の葬式には、誰も呼ばない。誰とも会いたくない。俺の実家に関わった全員に、俺はもう会いたいとすら思わない。墓を買い、葬式代と、ちょっとの遺産を残していきたいな。

 妻には、たくさんの事をしてやれないだろうから、それが辛いな。せいぜいでやれる事を、やれるだけはしていきたいな。


 色々と考えて。色々話し合って。俺にやれるだけの事を。そして

 俺の家を、俺は、俺の代で断ち切れるように。こんな悪夢を、こんなに呪わしい気持ちを。引き継がせないように。しないようにしないと。

 家の価値は人それぞれ。

 俺の家は

 もう二度と戻りたくない家だ。過去に戻る方法があっても、俺はたぶん。あの家には。もう二度と。あの玄関を潜りたいとさえ思わない。

 玄関の扉を開ければ、まっくろい気配の漂う家。

 遺影の中の父の顔は笑っているが

 俺の中に、父の顔はない。思い出せない。

 そして母も亡くなればじきに

 母の顔も忘れるだろうな。

毒親が子の成功を妬む事も普通にあると知って

2015-10-10 04:22:02 | 日記
毒親が子の成功を妬む事があると知って、ようやく合点がいった事がある。毒親という言葉を知ったのも最近で、驚く程、私の親にあてはまり、ようやく「毒親だったんだ・・・」と思い知ったのだが。

私の親は、よく私を蔑んでは叩きのめし、悦にひたっていた。あの悦に浸って興奮している視線を、今でも思い出せる。私ら兄弟が気違いのように泣き叫べば、泣き叫ぶ程、私の親が口から涎を垂れ流して、加虐をより一層強めた。

抵抗できない弱い子をいたぶるのは物凄く楽しいという感情は、誰でも潜在的に持っている。泣き叫べば、泣き叫ぶ程、背筋がゾクゾクと快感で痺れ、愉悦を感じるという事は、誰でも持つ感情だ。

それを現実に、我が子に出来るか否か。それだけの事だ。

さて、話が脱線した。元に戻そう。


私の親は、とにかく自分の子を支配下に置いていないと気が済まない。姉が大学に行く時に、アパートに住みたいと言った時でさえ、大喧嘩になった。独り立ちを許せない。家を出る事は即ち、重大な裏切り行為なのだ。その考えが間違っている事を、親が知らないワケがない。他の親がそういった事をすれば、直ちに「その考えは間違った子育てだ」と、説教できるのに

自分の、我が子となると話が違い、恐ろしい剣幕で責め立てる事が可能な思考ができる。しかも一切の矛盾を感じる事が出来ず、指摘しても「それは違う!」と認めようとしない。

矛盾する思考を、整合しようとしない。むしろ拒否をする。自身に都合が悪い事は、直ちに留保して、永遠に先送りにする。

だから私の親は、家を何回も建てる金がありながら、年金に入っていない。将来の事よりも目先の金と家だったのだ。だから今、普通に家計が苦しい。貯蓄も無いに等しいが、家は4000万円級の資産価値がある。だから土地の所得税が毎年凄い事になっていて、より家計を圧迫している。

だのに、家を売って安い物件に変えるという事が出来ない。今、大きい家に住む事が彼らにとっては重要な事であり、未来の事など考える価値がないのだ。

正常な親なら、先々を考えて家を売却して半額程度のマンションなりに入る事を考える。もう老後なので、長期の居住計画は建てなくていいから、マンションのほうが結論から言えば負担が軽くなり、生活資金もそこそこ確保できる。普通に冷静な大人であれば、年金もなく、収入も細々とした状態であれば、負担の大きい物件を引き払える。病気になり、床に伏せる事も考えるから、今のうちに処分して、部分を現金化して置く。

子になるだけ、不安や負担をかけぬようにと配慮するのが、健常な精神状態にある、親の判断だと思うし、私だってそうだ。

だが長年、矛盾した思考を整合しようとせず、短絡的に行動し続けた私の両親は、そういう考え方を「恥ずかしい」と一蹴するのだ。恥ずかしいも何も、収入が殆どないのだ。家も空き部屋ばかりである。
そんな子供じみた見栄っ張りを発揮しても、彼らはその点に関して「恥ずかしい」の考えはしないよう、そこは回避して自分の意見を押し通す。

じゃあ、その負担分は誰が払うのかと言えば、子供が支払って当然だと胸を張って言えるのだ。ドラマで、そんなシーンを見たのだそうだ。長年住んだ家を、頑なに引き払わぬ美しき日本の文化だとか。
確かに。何百年と続いた旧家なら、それも確かにアリかも知れない。

だがこの家は、築20年程度なのだ。文化もへったくれもない。私が働きに出た後に作った家なので、私にとっても、全く思い出のない家なのだ。それも収入のない上に、無駄に大きく、掃除も行き届かない。
膝が痛くて階段が登れないのに、二階を作り、そこを掃除する事が出来ない我が親の頭は、一体どういう事になっているんだろうと思ってしまう。

まあ、ぶっちゃけ、ただの「見栄」なのだ。他の家に負けたくない。勝っていないと気が済まない。そんな我が親は「武士は食わねど高楊枝」という言葉が大好きだが

現実、明治維新で多くの武家が食べられなくなって、現実の美しき日本の祖先は何をされましたかと言われれば?高楊枝など誰もせず、多くの者が強盗となり、奥方は遊郭に入られた。結局、食べようと必死になったのである。
誇りも見栄も、現実の空腹には何の意味もなかったのだ。

見栄っ張りで短絡的、先々を考えて計画的な行動を取る事を嫌い、子供を支配下に置きたがる我が親の一部分を示したところで。

私が世間で言う「一流企業」に入って、我が親は少しも喜ばなかった事が、ずっと疑問だったのだ。ずっと「家を出た裏切り者」「企業に属した卑しい負け犬」まだまだ、もっと多彩な表現でバカにされ続け、忌み嫌われた。
その「一流企業」の同期に、それぞれの親御さんはどうなのかと、尋ねる機会があれば聞いてみたし、その地方の人々の意見にも触れてきた。

やっぱり、どこも「喜ぶ」ものなのだ。頑張れよ、家の事は考えず、仕事に専念して精を出せと送り出してくれるものらしい。私の親だけなのだ。攻撃してくるのは。やっと入れたのに。
資金援助もしてもらってないし、何の負担も与えていない。就職して怒る要因が無いにも関わらず、どうしてだか、我が親だけは喜ぶ事をしなかった。

変だね、とずっと思っていたが、解析する糸口が見つからない。それが結婚して、自分が親となれば理解できるかと思ったが、やっぱり出来ない。妻も「理解できない」と首を傾げる。

それが最近になって。「子供に嫉妬する親が居る」事を知り、それでようやく合点がいったのだ。

普通の親は、子の成功を喜ぶものだが、毒親に類する者の中に、自分の子供の成功を妬ましく思う者が居る事を知った。自分が負けたような感情を持ってしまうらしい。私にとって仕事は貴賤がなく、食べていく為に必要な事でしかない。
この会社に入ったのも、安定した収入を求めての事だ。だからずっと、喜ばない自分の親の事が理解できなかった。

まさか子供の成功を喜べない親が居るなどとは、思ってなかったのだ。そんな精神構造がまず理解できない。そこで「毒親」の事を調べ、殆どの事に我が親が当てはまる事実に愕然としたし。

その上、デミサイコパスの疑いも出てきた。

今の今まで「躾の厳しい親」だと思っていた。言う事がいちいち矛盾していても。そういうものだと思っていた。

しかし毒親という存在を知り、私の中にあった、我が親の「おかしな部分」が一気に説明がついて、愕然ともしたし、落胆もした。

44年、信じ続けたものは。ただの親のわがままと欲望をぶつけられていただけに過ぎなかった。教育なんかじゃなかった。

そして、もう。手遅れなのだろう。毒親は伝染する。子供に伝わるのだ。事実、姉の子供のひとりが、精神破綻の寸前までいったし、私の弟は女子高生を孕ませた上、学校を中退させてしまい、その子の運命を大きく狂わせた。

実害が出始めているのだ。

私は20年以上前に家を出ていたし、親の教育に反発的だったので、それが幸いとなってしまった。だが、それだけで怪物の子が、人間になれるワケがない。私を人間たらしめてくれたのは、私の妻と、息子だ。普通の慈愛というものを、私に行動で教えてくれた。

この先も、私の実家は大きな騒動を、何度となく引き起こすのだろう。それを想像するだに、恐ろしい。多くの未来を想定したが、どれも酷い悲劇につながった。明るい未来が描けない。

そして一番の悲劇は、彼らが「毒親」である事を、指摘されても認めないという点だ。坂を転げる石が、自分で止まれないように。

彼らも自分を止める事が出来ない。

そして私自身も。私の家族にこの毒が回らぬよう、必死で生きていくしかない。

そして、その為に。

「親の望む良い子」になるという事を放棄しなくてはならない。

この先の生涯も、また親に呪われ続けるしかないのだ。

我が子に、こんな呪いを受け続けさせないために。

ここで断ち切る為に。


私の毒親

2015-10-03 02:16:44 | 日記
読んでいて気持ちの良い話ではないので、閲覧は注意して下さい。ただ、自分の記憶や気持ちの整理に書いているだけです。

私はもう40歳の半ば。家族の記憶の中で一番古いのは、母が精神病院へと私を連れていった記憶だ。たぶん、まだ小学生になる前だと思う。そこだけ、鮮明に覚えているのは、その前後にはっきりと「異常な何か」があった為だ。

その「異常な何か」が思い出せない。あまりに過酷なので、思い出すのを心が拒否していると表現すべきか。とにかく、母はいつもとは全く違う病院へと私を突然、連れ込んで「この子は頭がおかしい!普通じゃない!」ととにかく医者にわめきたてた。異常な剣幕で、周囲が慄いてこっちを見つめていたのをはっきり覚えている。当時の私にとって、母がわめきたてるのは極めて普通の事だったので「あれ?」と謎に思ってしまったのだ。

これが普通なんじゃないの?って、その時、初めて気になった。そして医者は母に対し「お子さんに異常はありません」と最初は優しく説いていたが、母が全く聞かないので、叱りつけるように怖い顔で怒鳴りつけた。
「お子さんは普通です!あなたが異常なんです!!」

そう言われ、初めて私は母が恐ろしくなった。普通じゃないんだ・・・これ、普通じゃないんだ、と。鬼の形相をした母の顔を、その時初めて鮮明に認識した。そうだ。鬼じゃないか。鬼だ。その後も凄い喧騒を母はやらかし、その病院を飛び出ていったが、私に逃げる術はなかった。

当時に「毒親」の概念はなく、ただ「躾の厳しい親」としか、誰にも認識できなかったし。

父親も気分で私を死ぬ寸前まで殴りつけた。ただ、気分が何となく悪いから。いつも理由はそれだった。姉は肉ダルマになって転げまわる私を見て、必死に父に気に居られようとした。まるで父の愛人のように寄り添った。

だから父も、姉に対しては周囲に「異様」と表現される程の、溺愛を示した。全てを買い与えられる姫と呼ばれ、私を姉は「不出来の長男」「出来損ない」と呼んだ。小学生の頃から既に、姉とはまともな会話をしていない。

主人と下僕。そういう立場だった。

姉に異様な溺愛を示し、夜の街遊びも派手な父と母は、よく家を破壊する程の喧嘩をした。姉は父に加担して、母を見下し口汚く罵るようになった。父は大工で力も強かったから、最終的には噛みついた母が一方的に殴り倒され、その母の怒りの矛先は常に私に向けられた。

母と姉の対立も異常なものとなり、血を見ない日はなかった。毎日が修羅場だった。地元でも、私の母の異常な攻撃性は評判となっていたのだろう。学校でも「あの気違い母の子」といじめの対象となった。
母は初対面だと、凄く愛想もよく、気立てもよく見えるらしい。

そして主婦はグループや派閥を作る。ABCのグループ、DEFのグループがあったとして。母はABCのグループの会話に加わった時にはDEFをとことん、貶し倒すのだ。そしてDEFに加われば、ABCを貶し倒すという事を日常的にやっていた。極端すぎる、八方美人だった。それがバレて町内の婦人会から総スカンにあったのだろう。母は毎日のように、どこでも喧嘩をやらかした。

「他人は敵だ!信用するな!」と私らに教育した。私と弟はまだその頃、比較的仲が良かったと思う。記憶が欠けていて、殆ど思い出せないのだ。ただ近所からは「弟思いのお兄ちゃん」だと言われ、嬉しかったのを覚えている。泣きそうな程、嬉しかった。褒められた記憶は、それしかない。

そして同時に、毎日、全身をあざだらけにして登校する私に、担任が「その痣はどうしたの!?」と驚いて問われ、母の言いつけ通りに「転びました」「階段から落ちました」と答えていた事も思い出す。

父に動けなくなるまで折檻され、私が泣きわめく無様な様を見る度に、ゾクゾクと快感の悦にひたる父と母の視線を感じていた。私が泣きわめくのを見たいのだ。気違いになって赦しを請う無様な姿を見ては、悦んでいた。

そして中学生の頃には、衝動的に3度の自殺を図ったが、どれも失敗した。学校にも、家にも居場所はない。逃げ場はない。「死のうか、死のうか」とひとりになるとよく呟いて、それをある日、母に聞かれて笑われた。
「死ねやバーカ」
「お前なんぞ、産んだのが間違いやわ、クソが」
「死ねよ、ほら死ねよ」
「俺はなあ、お前の親やから、お前を殺す権利もやるんやクソバカが」
 そう言われるのが普通になっていた。

 そして農業高校に進学した。勉強ができなくて、そこしか行くところがなかった。農業をしたいワケでもないのに、3年間通った。姉は優雅にバスや電車の通学で、しかも常に私は従者として、父に迎えに行かされた。姉が怪我でもしたら、お前を殺すからな、何かあればお前が死んでも姉を返せよと命令した。
 私は小学生の頃から使っている自転車で、ずっと高校に通っていた。だから高校でも変な目でみられた。小さい自転車なので、とても珍奇に見られた。
 タイヤの溝もなくなり、ギヤの歯が丸くなってかからなくなっても、それしか使う事を許されなかった。

 でも益もあった。その農業高校は歴史がとても古く、地元の議会はその高校出身者で殆ど占められている。偏差値は低いが、つながりは強く、どこにでも就職が可能だった。だから、政治家でしか知り得ない情報も入っていた。
「この地方の産業は、今後、栄える可能性はない」そう先生は教えてくれた。
 外に働きにいくしかない、と。

 それが、家から逃げ出す最後のチャンスだった。口実だった。だが父は許さない。「長男が家を出るなぞありえるか」「この親不孝が。貴様は人間の情もないのか。クソ野郎」と蹴飛ばされ、角材で殴りつけた。
「長男の自覚もないクソは死ね。それが世界の為や」「お前なんぞ、世界の誰が取り合うかバカが」
 それでも、私は逃げ出して世界でも有名な巨大企業に、期間社員として何とか逃げ込む事が出来た。そして、気が狂ったように働いた。遠く故郷を離れた地で、ひとり生き抜いていく為に。

 そしてそれが認められ、その企業に正社員として正式に雇われた。これでようやく、父に認めてもらえる、母に喜んでもらえる。褒めてもらえる。貶される事も、叩かれる事もない。そう思った。

 だが、誰も喜んでくれない。ずっと意味がわからない。ただ、私を「家を捨てた親不孝者」と罵り「男やったらなぁ、でっかい企業の尻尾になって喜ぶな恥ずかしい。小さいメダカの頭のほうが、まだ立派と言うもんやバカが」
 家に帰る度に、そう言って認めてもらえない。どうして?
「お前は男として更に格が下がったのよ、値打ちがないのよ。はあ?世界でトップを争う企業?だから何や?てめえはただの社員だろうが!ただの使い走りよ。大工の格下。お前はクソ以下よ」
 そうなのか?そうかもしれないと思った。
「家を捨てた恥ずかしい長男」そう20年以上、今日に至るまで言われ続けている。

 そしてとうとう、弟も私を見限った。私に向かい「お前は親を裏切った不幸の子。お前が兄貴なのが、俺の恥じよ」そうなじられた。「俺は親父と一緒に大工をして家を守る。お前は逃げたからな」
 確かにそうだ。だから、何も言い返せない。

 だが、その弟が15年ほど前から、妙に歯車が狂いだした。車を横転する大事故や、指定された保護具を付けず、足場から落下して大怪我を負ったかと思えば。
 親に隠れて、パチスロで300万円の借金を消費者金融に作り、母が私に嘆きの電話を入れてきた。
「あの親不孝者が」その時はそういうのだが。
 しばらくすると「弟は優しい良い子。親の面倒を見る孝行息子」に評価が戻る。

 その次はスマホの料金で月20万円だとかで、私にまた母が苦情の申し立て。弟への不満をぶつけられ、それを私が宥めるという日々。善良な意識じゃない。ただ、母に気に入られる良い子になりたかっただけだ。
 そして、私は結婚をした。非常に真面目で、尽くしてくれる年上の女性で、今でも本当に感謝をしている。
「俺は、親の面倒を見られないから、一生、家族になじられるしかない。だから、嫁にはそういう思いをして欲しくない」と、嫁の実家のすぐそばに、アパートを借りた。
 私の親は猛反対した。
「そんななあ、嫁の実家の近くに家を構えたら、舐められるぞ、金を吸われるぞ、バカにされるぞ、お前はそれでええんか」と今でもなじられる。
 それでも。こんな気持ちを嫁に味わって欲しくない。嫁も、私の実家には尽くしてくれて、片道600キロの道のりを付き合って、毎年、私と実家への旅を共にしてくれる。
 だが、私の家で見る毎日の修羅場に、恐れ、慄き始めた。
「怖い・・・この家・・・」
 私は段々と実家の存在が重くなっていた。段々と、帰るのも嫌になってきていた。嫁もなじり始めたのだ。その度に、私は実家の人間と真正面から口論となった。どうして?仕事もちゃんとして、嫁も真面目に尽くしてくれるのにどうして?
 分からないまま、ただ嫁を庇い続けた。今でも。

 そして嫁は、本当によくしてくれて、子宝を恵んでくれた。長男を授かった。無事に産んでくれた。今度こそ、喜んでくれるだろう。長男が、長男を得たのだ。家を継ぐ者を作った。
 だけど、喜んでくれたのは、最初の3年だけで、すぐに実家は飽きてしまった。「遠くの内孫より、近くの外孫よ」と、嫁に出た姉の子を可愛がった。
 私の長男は、帰る度に無視だった。存在が空気だった。
「これは当たり前の事やから。遠くに居る孫を可愛がれるワケがないやろ。近くの孫を大事にするのは道理やんか?何かおかしいか?」と、母が言う。父も同意だった。「遠くの孫など、所詮、他人よ」と。

 そして姉は父に家を買ってもらい、弟は実家の資産を全て継ぐ事になった。「お前は家を捨てたのやから、お前には何もやらん」と何故か何度も念押しされた。うん、そうだね、その通りだ。何も要らない。そう答えた。
 食べていくのに十分な年収はあるし。それは当然だと私も了承した。

 そして、弟がそんな時に、未成年淫行をやらかした。女子高生を孕ませてしまったのだ。その時の父母の怒りは凄まじく、その時に私に向かって初めて、優しい言葉をくれた。こんな時だけ、優しくされるのかと正直思って、情けなかった。
 弟は実家で、給料がそのまま小遣いの生活に関わらず、預貯金はゼロ。
 実家にも大きい家や土地はあるが現金はない。大工はとっくに食べられなくなって、廃業し、地元の小さい建築業から仕事を細々ともらって生計を立てていた。
 それでも弟はその子と結婚をすると言う。子供も産むと。私はそれは止めろと何度も言った。
 お金が無いのだろう?結婚し、子供も産むとなれば高校も中退しなきゃならないと言われている。今時の中卒扱いはしんどい未来を背負わす事になる。未来ある子に、そんな過酷な事を背負わすな、と。
 でも、私の意見は通らなかった。ただゴネる弟に、実家も面倒になって、結婚する話に切り替えた。

 高校は中退。結婚式もなく。女の子は実家に住んだ。もうこうなったら、どうしようもない。産ませるというなら、せめて産まれる子にと、最大限の支援を始めた。産まれる子には幸せになる権利がある。

 そして、父の癌が発覚した。余命3か月。父はこう言ったそうだ。「何で俺はこんな惨めな最期なんや・・・」と。私は、せめて最後くらいは孝行しようと可能な限り、休暇を取って実家に帰った。不思議なのは、実家の落ち着きぶりだった。父が死ぬのは当然の成り行きと、普段と変わらない生活を送る。これが普通なのか?姉も母も、弟も、ただじっと、父が死ぬのを待っていて。

 段々と私も、変だ、と思うようになった。これ、普通じゃない。だが母は「こいつ(父)のわがままに、最後まで振り回される、私が不幸よ」と吐き捨てるように言う。
 そして父が亡くなり、母が喪主だが姉が葬式の段取りを全て行った。その時、初めて母は姉を褒め称えた。

 凄く、仲良くなっていて、今までの40年は何だったんだろう?と思う程だった。そして私の嫁は、なじられ続けた。「所詮、他所の子よ。気のきかん、頭も悪い、教育もなってない・・・」と言われ続けた。
 何故だ。何故、共に父に尽くそうとしてくれた、嫁に何故?

 そして通夜。親戚の人と私家族、私の母は通夜を共にしたが、姉と弟はさっさと家に帰ってしまった。全然、興味すら湧かないようだった。まるで「死体の傍で寝るなんて冗談じゃねえよ!」と言わんばかりに、さっさと帰ってしまった。
 母は「これでせいせいしたわ。楽になった。これで旅行にも行ける」と親戚を前に、そう何度も嬉しそうに言う。

 600キロ彼方から駆け付けた、私家族は通夜を共にするのに、実家の姉や弟はしない。何で?旅行?え?何?これ、通夜・・・だよね?亡くなった人の事をしのぶ夜だよね?親戚と私は、父の話で盛り上がり、母は旅行の話しかしないという、異常な夜になった。その夜、父の遺体を覗き見た母は、少し慄いた。
「泣いてる・・・・」
 父の遺体が涙を流し続けていた。

 そして翌日、火葬をした時も、私の嫁は母に威嚇され続けた。あちこちで怒鳴られ、走らされた。親戚はただ憐れむような視線を送るだけだった。母がどれだけ、かみつく人間か知っているからだ。下手に庇えば、どんなケンカをやらかすかわからないからだ。私の子も、私から離れたところで母に怒鳴られて、その時は親戚の女性たちがその身を盾にして、庇ってくれた。

 私は。母を。殴れば良いのだろうか。この怒りを、ぶつけて良いものか、ただ堪え、ただひたすら、親戚が気を遣って葬式を進めてくれるのだから、台無しにしてはいかんと飲み込んだ。

 葬式が終わり、こうして家に帰り、嫁の無念を受け留める。「どうしてこんな扱いを受けるの・・・?」
 だから、私も決意した。「もう耐えなくていい」
「俺が怒鳴られるのはいい。それは構わん。だが、嫁や子に責任はない。だから、俺はもう、あの家の、敢えて親不孝の汚名を喜んでかぶろうと思う。もう奴らの事など知った事か。俺にとっての家族は、もう、君らだけでいい。もう諦める。平和的解決も、認められる事でさえ。君らを幸せにする事だけに、俺は専念する。もう40年、俺は吠えられ、なじられた。今更、何を言われてもなんとも思わん」
 あの家にとって「最低の男」になろうと決めた。
 俺には、嫁と息子が大事だ。

 大事にしてくれない、大事にもしないという実家に俺はもう。

 親不孝の道を選んでも。それで地獄に落ちても。呪われても。

 私は。もう構わないと思った。俺はこの選択が正しいだとか、全然思わない。私は、したい事をするだけなのだ。

 もうこれからは、そう生きようと思う。この世に生まれ、精一杯、思うように生きよう。どんなになじられても。

 俺は善良な人間になんかならない。悪魔でいい。呪われる道を行こう。

 ただ嫁と息子を、護り、幸せにしたいだけの小さな悪党として生きようと思う。