ただの考察好き

ただ考えるの好きです

ただの個人論

2016-08-16 22:14:10 | 日記
母親の散財が益々酷くなっている。昨日、父の初盆をして帰ってきたのだが、もう父の仏壇がひな壇になっていた。まるでテーマパーク状態である。ここで常識云々言うつもりはない。

そも葬儀に常識らしい常識は存在しない。それぞれの家、宗派によって大きく異なる事こそが普通だからだ。だから父の仏壇がテーマパーク化しようとも、それで母が納得なら、それをどうこう言うのは野暮だろう。

だが俺まで納得するかしないかは、それもまた俺の自由。俺の感性からすると、葬儀はしめやかに行われるべきで、基本的に質素であるべきだ。派手に散財を葬儀でやるのは、金持ちや芸能人のやる事であって、お金のない人が無理にする事ではないと、俺は思っている。それが俺の感覚だから、実に気分が悪い。悪趣味にも程がある。気持ちが悪いのだ。

また料理も毎回、山ほど余る。それは仕方がない。そういうものだからだ。だが、余った料理を糖尿病持ちの母が、豚のようにあさり続けるのは、子供として見たくない姿だった。糖尿病持ちなのに、寿司を口に押し込み続けるその母は、俺等や他人には偉そうに健康食や食べ方を指導する人間なのだ。

妻の父親も高血圧などの病気があり、わがままだと評されているが、それでも食べるものには細心の注意を払い、毎日自分でコントロールをしているのに。偉そうに訓示を他人に垂れる我が母は、それが全くできない。人には言うが、自分が実行する気は持ち合わせていない。同じ血が、俺にも流れている。そう思うと、この先を嘆いて死にたくなる。

俺の生きた先が、この豚の姿かと思うと、いっそ子供が成人したら、即座に病死してしまいたくなる。

そして金の無心をされる。金がない、金がないと言う母は、70坪の家をひとりで独占して住んでいるのだ。資産価値は4000万円を下らない。金に関する考え方の違いに辟易する。

俺なら、金がないのなら、こんな家は即座に売る。思い出とか甘い事を言っていられる程、世の中は甘くないのだ。自分は貧乏なのだから、身の程を知ってさっさと売りに出し、小さいアパートに入るなり、売った金で老人ホームに入るなりする。それはあくまで、俺の考え。だから押し付けない。だが俺の気分の悪さは死ぬまで解ける事はないだろう。

だから母と平気で口論をした。もういい。俺は人でなしでいい。俺はこの家にも、この街にも馴染めない。正論なんぞ知った事か。俺は気分が悪いのだ。葬儀を毎回、チンドン屋のお祭りのようにしたがる感性に、俺は付いていけない。ただの祭りだ。

だから失望されようと思った。この家に嘆かれよう。人でなしと言われよう。この家に嫌われたい。俺は捨てられたい。俺はこんな家が嫌だ。せっかく25年以上も、600キロ離れた土地で暮らしているのだ。何の援助も貰っていない。何の助けも受けてはいない。元々、語る事は世界の偉人か神様かという上から目線で語るが、やっている事はそこらのドブより臭い、人間丸出しの我が家に付いていけないから、外に逃げ出したのだから。

母は、既に俺の年齢すら知らない。興味がないのだ。ただ金を寄越せと言う。その為に育てたのだからと面と向かって言う。それが常識なら、俺は非常識でいい。

俺はいっそ、悪党でいい。だから揉めてきた。どうせ本質は悪なのだ。俺の行き着く先が、あの豚の姿なのだから、悪党で良いではないか。むしろ、そっちのほうがいいだろう。どうせ豚にしかなれないのだ。
俺は、あの家の「良い人間」でいるよりも「根性の腐り切った豚」で居たい。

これは第一歩。豚が豚の自覚を忘れないのなら、それはちょびっと、まだマシな生き方が出来るのではないかと思うのだ。