ただの考察好き

ただ考えるの好きです

死した後も

2023-08-07 05:10:20 | 日記
母が亡くなり、しばらく経過して。落ち着いて。

私の姉弟は、母の遺した遺産を巡り、今も苛烈な攻防をしているだろう。弟が全て相続したが、欲深い姉が諦めるわけがない。何としても略取の方向に行く。それが私の家族が、私の姉弟に遺した遺産。

憎しみと。恨みと。強欲。

弟に全て委ねるのは、ずっと前から父母の間でシナリオが決まっていた。そもそも「自分は親に大切に扱われなかった」という共通意識を持つ末っ子夫妻だ。
自分の作った家族の末っ子に、特別な意識を抱いてもそれは無理からん。思えば、弟が生まれてから、私の家族の歯車はより狂ったように思う。

古い考えに支配されながらも、実の感情では末っ子に全て与えたい両親の感情は誰にも制御不能だっただろう。元々が自分の支配欲を制御できるふたりではなかった。
目的を達成する為に物欲を制御できる反面、それ以外の欲の制御はより出来なかった。物欲一点を御するために、それ以外の欲を解放していないと、精神の安定を図れないふたりだったのだ。

そんな両親の背姿を見て支配されながら育った姉弟だ。その末期に家族らしい慈愛は何も期待できないだろう。

私が両親の言動に矛盾を感じたのはいつからだっただろうか。どこか「おかしい」と感じたのは、いつからなんだろう?

はっきりと矛盾を感じたのは、それまで彼らは私に対し「長男でありながら、実家に留まらず、外で働く無法者」と何十年もなじってきて。
しかし、それを私を含む周囲は「長男ありきで考える、古い考えに支配されている人たち」と捉えていたけど。

もし、本当に古い考えに支配されていたのならば。

私に、実家の名を継ぐ、唯一の男児が生まれた時に。
口惜しくても、私や息子に何か相続せねばと考えに至るはずなのだ。色々言いたい事はあっても、教えではそうする以外に選択の余地はない。

ところが。
彼らはその教えにあっさりと背いて。色々と理由を付け足して。
早々に弟に全ての遺産を継がせる準備を整えていた。その一方で私たち夫妻をなじる事も延々を続けていた。結果。
彼らの策謀は功を奏し。

弟へと数千万の遺産の相続に成功した。

そして結果。それ以外がどうなるか。それを両親は少しも考えはしなかった。どうでも良い事だったのだ。

だから私はもう、実家を振り返る事はない。関わりたくもない。何十年も壮大な茶番に付き合わされてきたのだ。

母の死後も。母の慈愛というより。母の強欲以外、何も思い出せない。
ドラマや映画。アニメでは、母の慈愛は絶対で。唯一の慈悲のように描かれるが。

私には何もない。

ただ横暴で、強欲をぶつけられただけだった。私への両親の遺産は強欲と憎しみと失望だけだった。

私はそうならぬよう、生きる事はできるだろう。
しかし。
それだけの話だ。

我が子へ注ぐ自分の慈愛の正体に。

親は最期まで気づかない。見ようとはしない。

それは、ただの欲で。
それを認識した時点で、初めて愛に変換できる。

自分の欲や気持ちを我が子にぶつけているだけなのだと。
自分の愛を定義できた瞬間から。

初めて親は。
我が子への「慈愛」を考えられる。

自分の気持ちが全て慈愛からくるものであり、我が子へと叩きつける感情は全て我が子を思っての事なのだと。
その恐ろしい呪われた考えから脱却する、それが唯一の手段だ。

自らの愛を疑うこと。
それは愛に偽装した欲なのだと気付く事。

それに気づいた時に。
親の慈愛とは何かという問いかけが初めて生まれる。

結論は「よく分からない」だ。

どうしても全て疑わしいし。何もかもが欲からくる感情でしかないように思う。それで良いのだ。
己を疑う事を知らない者が、己の正体に気づく事はないのだ。

自分の正体を疑う事を知らない者が
自分探しの旅に出たところで、より悪くなって帰ってくるだけだろう。

旅に出た馬が、駄馬になって帰ってくるだけの事だ。

鏡に映る自分の顔が実は。
正反対の姿であるという気づきさえ浮かばない。
己を「醜い」などと形容しながら。他人に撮られた写真で自分の姿を見て、己の実像と、己の想像との乖離にショックを感じる、よくある話だ。
想像以上に醜い自分の姿に。

だから写真で撮られるのを嫌う。醜い自分を見たくないからだ。

それは何も悪い事じゃない。そこから、どうするかで人間の価値は決まる。
「自分は、どうやら己の信じている自分とは違うようだ」と気づけば。それは価値ある事だろう。

親としての自分も同じだ。
己の我が子に向ける慈愛の正体は、その一切が欲から来てる。
だから。
どうすれば良いのか。

常に己に問いかけ、出ない答えに苦しみぬく。
その連続が慈愛なのだ。

真の愛とは、己の慈愛が全て己の醜い欲求に過ぎないと気付く事であり。
だからどうすれば良いのだと、常に己に問い続け、苦しんで生きてゆく姿勢を指す。

その気高い姿こそ、我が子に親が遺すものだろう。

欲のままに死ねるか。
我が子にそれを遺せるものか。

だから親は。
己は欲という名の肉塊であると知り。
そしてどうするかで、親としてどうなるかが決まる。

私はせめて。
我が子に私の死後。呪わしく思われたくない欲がある。思い出す旅に憎悪しか湧かない親になりたくない欲がある。

ならどうすれば良いのか。
出ない答えに苦しみぬく姿勢こそが、その欲を叶える最も手堅い道だと。

今は信じてる。

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