一 閑 堂

ぽん太のきまぐれ帳

【社会派】というフレーム

2006年03月20日 | 日々つれづれ
初日にみてきた三月歌舞伎座の感想をあげていないが、多分何も書かないで終わると思う。二月新派の感想も、だ。
実は、今の気分から一番遠いものが「芝居」なのである。「芝居」が大好きだからこそ、うんと遠い。
「芝居」はハレなんだな~と思う。気分を高揚させ、非日常に連れていってくれるけれど、独特の晴れがましさが今の気持ちに似つかわしくない。フィットしない。
むしろ、抽象的なことを考えたりする方がしっくりくる。情感ではなく、理性だけを働かせる方が、いい。
単純作業なんかもいいのかもしれない。ふと思いついたが、編物などは、精神安定にとてもよさそうだ。
私にとって、編物に近いのは「皿洗い」なのだが、家では洗える食器にも限りがあるので、そのかわりに「あれこれ考える」のがいい。脳の筋肉を動かすと、どこかすっきりする(笑)。

昨夜、NHKアーカイブスをたまたまみた。イタイイタイ病のドキュメントで、1970年代前半のものだ。
ことさら興味があった訳ではないのだが、他にみたいものがなかったので、なんとなくみてしまった。
ぼんやり眺めていて、感じたことがある。
放映内容のイタイイタイ病についてではない。純粋に映像演出上のこと、放映体裁に関してである。
映像とナレーションに接している内に、「かつて、NHKが大嫌いだった理由」のようなものが、甦ってきた。
いかにもとってつけたような、それでいて過剰な暗喩をこめた絵づくりは、当時【社会派】と銘打たれていた、様々なメディアの常套であり、その背後に潜む暗黙の正義の押しつけに、昔の私は強い反発を覚えたのである。

60年代後半から70年代前半の映像は、まずBGMに特色がある。邦画も同じだ。
前衛的な邦楽。
必ずといっていいほど、これらが使われている。
それも、尺八の音色が一番多い。次いで、筝だろうか。あるいはかなり凝って、琵琶とか…。
まずもって、三味線なんて聞いたことがない。
なぜか?
尺八が一番わびさびがきいていて、どこかしら深刻かつ夢幻だからだ。筝も琵琶も同じだ。
三味線、それも細棹三味線なんかがはいろうものなら、一気に画面が軽薄になってしまう。アッパラパーなモードに突入してしまうから、「現代心理を深くえぐる」効果がないのである。
が、和楽器でも、尺八・筝・琵琶、篠笛、鼓、大鼓、あるいは三味線でも太棹だったりすると、重さを感じさせる音がだせる。余情も、だ。
当時、雅楽系の楽器の出番はまだなかった。雅楽はまだ十分やんごとなかったのだろう。
吹きすさぶ風のような尺八が音頭をとって、そこに筝が静かに加わり、ところどころに鼓の間の手、空気を切り裂く「はぁー」という声…、といったような現代邦楽が今でも嫌いな理由の一つに、何やらを暗示させたがるよう、音響効果として繰り返しとりいれられたことがある。

次に、ナレーション
ナレーターの声のトーンが今より一段高い。
戦前はもっと高かったのだが、美声の基本は「甲の声」という伝統的美意識だったのかもしれない。
昔の邦画をみていると、女優の声の高さに驚くことがあるが、俳優も男性ナレーターもご同様だった。
そして、説教くさい喋り方。
原稿の紋切り型含め、ナレーションはなぜああも偉そうだったのだろうか?
これも作法の内で、立派なことを話す時には、立派で真面目な口調で諭すように…という美意識があったからだ。
マスコミというものが、「正しいことを広くしろしめし、諭し、教える役割を担っている」と信じられていた時代、全国放送、天下のNHKアナウンサーはいわば国民の手本でもあったし、共通語の模範でもあった。
常に立派でいることが求められ、立派な人にはそれにふさわしい話し方があったのである。
ニュース映画のアナウンスが弁士っぽい調子だとすると、社会の公僕たるNHKは、その話術の伝統に依拠しながらも、生真面目でお硬く、時に高圧的だった。

さらに、社会問題を扱う番組でのナレーションにはこれまたセオリーがあって、ブツブツと事実だけを拾い上げ、なんらかの感情を排して画面に載せるというやり方が多かった。
客観報道という立場表明が、見事に様式化していたのである。

「どこそこ県どこそこ郡、字なになに。 (沈黙)  この地に、なにがしのなにさんが住んでいる。 (沈黙)
 生業は農業。 (沈黙) なにさんは一人暮らし。 (沈黙) 長男は○年前に家を出たきりだ。 (沈黙)」


という調子である。(上記は、昨夜放映されたものとはまったく関係ない。私がつくったただの一例だ)

この言葉少ないナレーションで登場するが、これまた様式化している。
たいてい、情景の俯瞰で始まり、畑で汗水たらして働く人の姿をとらえ、さらにはほとんど無意味な細部のアップが必ずはいる。額に光る汗のしずくだったり、耕す土のうねりだったり、耕耘機のシャベル部分だったりする。
こういう技法は、モンタージュやら構成主義っぽい。
あるいは、田舎道を一人で歩く老人の姿を、黙々と執拗に追ったりする。
夏であれば、蝉の声をやたらと大きく拾い、野草の花々を何気なく捉えて、空にあおってみせたり…。

一見すると、あたかも無駄を排した画面づくりのようにみえる。ナレーションも控えめだ。
が、私には臭いほどに冗舌な、そのものズバリの印象操作だと思えた。
作り手の揺らぎようのない立場が、どの画面からも透けてみえるのだ。
それも、寡黙を装ったイメージ戦略として、である。
なんらかのことを暗示し、心情的・直感的に訴えるという手法であり、うさんくさいことこの上もない。
ベースは「自然・大地礼賛」「過疎の哀しみ」「老いの無情」等々。感傷的な価値観のオンパレード!

その結果、トータルでの情報量は微々たるものだったりする。
映画的クローズアップを多用したり、路傍の情景をやたら切り取ってみせたりするものだから、番組全体がなんらかの「仄めかし」に終始してるだけのことも多い。
社会派ドキュメントを文学化し、より多くの人にアピールするのが狙いだったのかもしれないが、こういう手法は欺瞞であり偽善だと、当時から私は感じていた。ただの青臭い自己完結に過ぎず、表現以前だろう、と。

とどのつまり、世界はすでに決まってしまっているのだ。
取材チームが「こうだ」とみこんだ通りのものでしかなく、番組はそれらを扇情的に訴える手段に成り下がっている。ナレーションで黙ってみせるのも、背後に「わかるだろう?」という甘えがあるからであり、感傷的に景色をすくいあげてみせるのも、そこに意味深な前衛邦楽をかぶせるのも、畢竟無言のメッセージに過ぎず、取材を通じて、自身の視点を相対化するなんて考えは微塵もない。
まして、取材対象に対して、「理解したい」「肉迫したい」と感じる思いもないのだ。
なぜなら、制作チームはすでに「理解している」からである。
この自家撞着のあざとさには、みていて、本当に辟易したものである。

今のドキュメンタリーは、【社会派】といったフレームがなくなっただけ、ずいぶんと進歩したと思う。
【社会派】は価値観であり、イデオロギーだった。【社会派】が通れば道理も引っこんだりしたのだ。
NHK特集やNHKスペシャルはわりによくみているが、かつてのドキュメンタリーに感じた、全身がかゆくなるような気分には陥らないですんでいる。
予断をもった、ある結論に導くための映像化を避けるようになったと思うし、複雑化する社会の中、単純な二元論そのものに力がなくなったこともあるのかもしれない。
そんなことを、ふと感じた。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は  ■2005年版  ■2006年版

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