今かなり盛り上がっている本に、『生協の白石さん』という一冊がある。あいにくとまだ読んでいないのだけれど、おおよその内容は聞きかじっていて、「きっと、とても心温まるいい本なんだろうな」と予想している。いつも親しく読ませてもらっているSaさんの覚え書きでもとりあげられており、「やっぱりな…」となんとなく嬉しい気持ちにもなった。
とはいうものの、私はしばらくこの本を読まないと思う。
本を読むタイミングは人それぞれ色々あると思うのだが、私はかなりの慎重派かもしれない。
話題になっている本をその最中に読むことは、これまでもあまりなかった。「今、話題の一冊!」というセールスコピーでは、私は本を買わないし、読まない。
もちろん、話題になっている本の情報は、私のように話題に疎い人間の耳にも届くからこそ「話題」なのだ。根が弥次馬だ。当然、「ほぉ、そういう本があるのか!」と、興味はある。
一方で相当に意固地なところもあり、興味が人一倍あっても「話題になってるなら、ことさら今、私が読まないでもいいだろう」と読まないでおくことも多い。一種のやせ我慢体質なのである。
だが、私が『生協の白石さん』をまだ読まないでおこう、と思ったのは、そういうことでもない。
今の今だと、一読者として、おそらくこの本と幸せな出会い方ができないような気がして、なのだ。
この本が書籍という形で世に出たのは、ネットで話題が沸騰したからだ。
というか、そもそもが、ネット上でのあるブログを単行本化するという企画だった。
件のブログを読んでいただろう編集者が、内容を吟味した上で、一般性・公共性を持ちえていると判断したのだろうし、早い話、「売れる!」と踏んだのだ。
さらに、ネット展開含めた「白石さん現象」(とあえて名づけてみる)的流れの中に、書籍化する値打ちが確かにあると判断したのだろう。何よりも「白石さん現象」には人間ドラマがあり、そのドラマがウィットとペーソスに富んでいるというのが、おそらく素晴らしかったのだと思う。
ネットで話題になったものがすべからくベストセラーになるはずもない。大化けする作品には、同時代性はもとより、人が人として共感しうる「心」があり、2ちゃんねるという匿名巨大掲示板発で話題になった『電車男』にもそれはあったのだと考えている。(私個人はまだ読んでないし、多分これからも読まない気がするが)
ベストセラーか否かは、本そのものの価値とは無関係だと思うけれど、巷で話題になる本の多くがベストセラーになることを考えると、手前味噌ではなく「話題の…」という枕詞を社会から許されるほどのポピュラリティをもつ本というものは、おのずと限定されるだろうし、『生協の白石さん』にはその資格があると思っている。
だが、私は「白石さん」が「現象」になるような、社会の様があまり好きではない。
「白石さん」ご自身は素晴らしくチャーミングな人だと思うし、「白石さん」が大学生協でずっとなさってきたことというのは、あくまでも「白石さん」ご自身の生き方や考え方(素敵なウィット含めた)に委ねられるものだと思う。また、「白石さん」の心意気に受け手の学生たちが喜び、共感し、励まされたことにも嘘はないだろうし、ネットという場を介して自然発生的に話題にしたくなり、その結果多くの人を巻き込んで、いつの間にか大いに盛り上がったことも素直な現実だと思う。
どこにも悪意はないし、目立ちたいとか有名になりたいなどという、つまらない功名心もない。
だが、しかし、ある大学構内にある生協という限られた場所を媒介として成立していた関係性が、ネットを通じて全国区になっていき、「みんなの白石さん」になっていくことは、実際問題、かなり怖いことでもある。
この本は、そのようなとまどいやためらいにもふれ、とてもイイ感じに仕上がっているらしいので、一読すれば、私の書いていることなんて軽く吹っ飛ぶような気もするのだが、それでも私はなんとなく、「白石さん」は当初の「白石さん」のままでいてほしいし、大学関係者でもない立場で中途半端に参加したくない気がするのである。
いや、むしろ、どちらかというと「白石さん」ご当人ではなく、受け手の側が発信者となっていたブログ主体の、【語られる客体としての「白石さん」現象】が、単行本化される過程で、当事者として「白石さん」ご自身が関わることができたために、【語る主体としての「白石さん」自身】たりえるようになったのかもしれない。
「白石さん」のファンだった学生たちと、いつの間にか時の人となってしまった白石さんとが、色々考え合わせた上であえて書籍化に踏み切った意味は、「白石さんに日常に戻ってもらうこと」そのものだったのかもしれない。
アメーバのように増殖する、ネット上でのオルレアンの噂のようなものに対し、現実の楔としての役割を単行本が果たしているのかもしれないのだろうから、この本は出てよかったのだろうとも感じる。
だけれども、私個人のタイミングとして、『生協の白石さん』は、やはり時期尚早である。
本を読めば、おそらくブログも読みたくなるだろう。そうやって結果的にメディアミックスされてしまい、万人が読めるようになってしまった、あるいはブログでのコメント欄などを通じ参加できるようにさえなってしまった、白石さんの一言カードは、かつて持っていたであろう、ある大学構内の生協に出入りする必然性をもった、特定一部分だけに共有されうるコミュニケーションでは、もはやない。
本人の望むと望まざるに関わらず、完全公開された、白石さんの箴言的なものとして流布していく宿命を担わされているような気がし、なんとなく、そういう構図がとても切なく感じる私がいるのである。
白石さんの回答を意気に感じ、話題にせずにはいられなかった学生たちの心根とも異なるに違いないのだけれど、当事者でないとわからない温度差のようなものは必ずあるから、そのような違和感に一般性は与えられない。
これほどまでにブームになりさえしなければ、本好きの一部だけが「いい本だね…」といいあえる、そんな技ありの一冊であれば、何も問題はなかったかもしれない。
だが、大ベストセラーたる『生協の白石さん』はすでに現象となってしまっており、かつては無邪気に一言カードの回答について話していたであろう学生たちでさえ、前の立場に徹することは難しくなってしまった。
「現象」とは、まあ、常にそのように非情なものであり、自己目的化していくものではあるが、白石さんの活動
が日本的美談の範疇にはいる領域であるだけに、より一層悶々とした気分になる。
生協に勤める白石さんの一言カードとはまるで異なるけれど、閉じられた一対一のコミュニケーション、探す側と提供する側、お互いに相手をまったく知らない者同士のウィットと愛情に溢れた、二十年以上にもわたるやりとりが、丸ごと一冊、『チャリング・クロス街84番地ー書物を愛する人のための本』という本にまとめられている。
ロンドンのある古書店の一担当者と、その古書店に注文を出したアメリカ在住の作家、二人の間に、現実にあった往復書簡である。
私はこの本を、十五年前くらいに、人生の先輩である方から、あるお祝いの機会に頂戴した。
本をもらうということは親や親戚以外、めったにないことだったのだが、読み終えた時、贈ってくださった方の、その思いが本当に嬉しかった。こんなに素晴らしい本を若輩者に奨めてくださり、実際に一冊を委ねてくださったお心に深く感動したのである。
聞けば、この方にとって『チャリング・クロス街84番地』は大好きな一冊だそうで、一人でも多くの人に読んでほしいとのことで、本をお贈りになる際にはこれ、と決めておいでだとのことだった。素敵だ!
その方ではないのだが、私にとっても、この一冊は、誰にもお奨めしたいとっておきの本である。
たしか映画化もされていたと思うが、私はみていない。というか、あえてみなくていいような気がしている。
本好きの者同士の洒落のきいた、時に辛辣なやりとりは、読むだけで楽しい。最後の展開含め、私にはとびっきり上質で大人な、心に残る一冊である。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は こちら>
とはいうものの、私はしばらくこの本を読まないと思う。
本を読むタイミングは人それぞれ色々あると思うのだが、私はかなりの慎重派かもしれない。
話題になっている本をその最中に読むことは、これまでもあまりなかった。「今、話題の一冊!」というセールスコピーでは、私は本を買わないし、読まない。
もちろん、話題になっている本の情報は、私のように話題に疎い人間の耳にも届くからこそ「話題」なのだ。根が弥次馬だ。当然、「ほぉ、そういう本があるのか!」と、興味はある。
一方で相当に意固地なところもあり、興味が人一倍あっても「話題になってるなら、ことさら今、私が読まないでもいいだろう」と読まないでおくことも多い。一種のやせ我慢体質なのである。
だが、私が『生協の白石さん』をまだ読まないでおこう、と思ったのは、そういうことでもない。
今の今だと、一読者として、おそらくこの本と幸せな出会い方ができないような気がして、なのだ。
この本が書籍という形で世に出たのは、ネットで話題が沸騰したからだ。
というか、そもそもが、ネット上でのあるブログを単行本化するという企画だった。
件のブログを読んでいただろう編集者が、内容を吟味した上で、一般性・公共性を持ちえていると判断したのだろうし、早い話、「売れる!」と踏んだのだ。
さらに、ネット展開含めた「白石さん現象」(とあえて名づけてみる)的流れの中に、書籍化する値打ちが確かにあると判断したのだろう。何よりも「白石さん現象」には人間ドラマがあり、そのドラマがウィットとペーソスに富んでいるというのが、おそらく素晴らしかったのだと思う。
ネットで話題になったものがすべからくベストセラーになるはずもない。大化けする作品には、同時代性はもとより、人が人として共感しうる「心」があり、2ちゃんねるという匿名巨大掲示板発で話題になった『電車男』にもそれはあったのだと考えている。(私個人はまだ読んでないし、多分これからも読まない気がするが)
ベストセラーか否かは、本そのものの価値とは無関係だと思うけれど、巷で話題になる本の多くがベストセラーになることを考えると、手前味噌ではなく「話題の…」という枕詞を社会から許されるほどのポピュラリティをもつ本というものは、おのずと限定されるだろうし、『生協の白石さん』にはその資格があると思っている。
だが、私は「白石さん」が「現象」になるような、社会の様があまり好きではない。
「白石さん」ご自身は素晴らしくチャーミングな人だと思うし、「白石さん」が大学生協でずっとなさってきたことというのは、あくまでも「白石さん」ご自身の生き方や考え方(素敵なウィット含めた)に委ねられるものだと思う。また、「白石さん」の心意気に受け手の学生たちが喜び、共感し、励まされたことにも嘘はないだろうし、ネットという場を介して自然発生的に話題にしたくなり、その結果多くの人を巻き込んで、いつの間にか大いに盛り上がったことも素直な現実だと思う。
どこにも悪意はないし、目立ちたいとか有名になりたいなどという、つまらない功名心もない。
だが、しかし、ある大学構内にある生協という限られた場所を媒介として成立していた関係性が、ネットを通じて全国区になっていき、「みんなの白石さん」になっていくことは、実際問題、かなり怖いことでもある。
この本は、そのようなとまどいやためらいにもふれ、とてもイイ感じに仕上がっているらしいので、一読すれば、私の書いていることなんて軽く吹っ飛ぶような気もするのだが、それでも私はなんとなく、「白石さん」は当初の「白石さん」のままでいてほしいし、大学関係者でもない立場で中途半端に参加したくない気がするのである。
いや、むしろ、どちらかというと「白石さん」ご当人ではなく、受け手の側が発信者となっていたブログ主体の、【語られる客体としての「白石さん」現象】が、単行本化される過程で、当事者として「白石さん」ご自身が関わることができたために、【語る主体としての「白石さん」自身】たりえるようになったのかもしれない。
「白石さん」のファンだった学生たちと、いつの間にか時の人となってしまった白石さんとが、色々考え合わせた上であえて書籍化に踏み切った意味は、「白石さんに日常に戻ってもらうこと」そのものだったのかもしれない。
アメーバのように増殖する、ネット上でのオルレアンの噂のようなものに対し、現実の楔としての役割を単行本が果たしているのかもしれないのだろうから、この本は出てよかったのだろうとも感じる。
だけれども、私個人のタイミングとして、『生協の白石さん』は、やはり時期尚早である。
本を読めば、おそらくブログも読みたくなるだろう。そうやって結果的にメディアミックスされてしまい、万人が読めるようになってしまった、あるいはブログでのコメント欄などを通じ参加できるようにさえなってしまった、白石さんの一言カードは、かつて持っていたであろう、ある大学構内の生協に出入りする必然性をもった、特定一部分だけに共有されうるコミュニケーションでは、もはやない。
本人の望むと望まざるに関わらず、完全公開された、白石さんの箴言的なものとして流布していく宿命を担わされているような気がし、なんとなく、そういう構図がとても切なく感じる私がいるのである。
白石さんの回答を意気に感じ、話題にせずにはいられなかった学生たちの心根とも異なるに違いないのだけれど、当事者でないとわからない温度差のようなものは必ずあるから、そのような違和感に一般性は与えられない。
これほどまでにブームになりさえしなければ、本好きの一部だけが「いい本だね…」といいあえる、そんな技ありの一冊であれば、何も問題はなかったかもしれない。
だが、大ベストセラーたる『生協の白石さん』はすでに現象となってしまっており、かつては無邪気に一言カードの回答について話していたであろう学生たちでさえ、前の立場に徹することは難しくなってしまった。
「現象」とは、まあ、常にそのように非情なものであり、自己目的化していくものではあるが、白石さんの活動
が日本的美談の範疇にはいる領域であるだけに、より一層悶々とした気分になる。
生協に勤める白石さんの一言カードとはまるで異なるけれど、閉じられた一対一のコミュニケーション、探す側と提供する側、お互いに相手をまったく知らない者同士のウィットと愛情に溢れた、二十年以上にもわたるやりとりが、丸ごと一冊、『チャリング・クロス街84番地ー書物を愛する人のための本』という本にまとめられている。
ロンドンのある古書店の一担当者と、その古書店に注文を出したアメリカ在住の作家、二人の間に、現実にあった往復書簡である。
私はこの本を、十五年前くらいに、人生の先輩である方から、あるお祝いの機会に頂戴した。
本をもらうということは親や親戚以外、めったにないことだったのだが、読み終えた時、贈ってくださった方の、その思いが本当に嬉しかった。こんなに素晴らしい本を若輩者に奨めてくださり、実際に一冊を委ねてくださったお心に深く感動したのである。
聞けば、この方にとって『チャリング・クロス街84番地』は大好きな一冊だそうで、一人でも多くの人に読んでほしいとのことで、本をお贈りになる際にはこれ、と決めておいでだとのことだった。素敵だ!
その方ではないのだが、私にとっても、この一冊は、誰にもお奨めしたいとっておきの本である。
たしか映画化もされていたと思うが、私はみていない。というか、あえてみなくていいような気がしている。
本好きの者同士の洒落のきいた、時に辛辣なやりとりは、読むだけで楽しい。最後の展開含め、私にはとびっきり上質で大人な、心に残る一冊である。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は こちら>
ぽん太さんも、こうしか書きようがないよなあ。と、こちらこそすまん。なのでした。
さて、本来(?)は、ワタシのところへ書くコメントなんでしょうが、まあ、ちょっと迷ってこちらへ書きます。
確かにワタシも、あの本を手にした瞬間に、その収束の行方を気にしたということは、何度も表しました。。。あの現象の中に入っても(確かに入りましたね)、この本止まりだな、という感はありました。それは、白石氏の取っている立場を、本から、そして、TV放映から、感じたからなのです。
ワタシ自身のこの現象への興味も、自分の中で、ソフトランディングさせようと思ってましたが、ぽん太さんの記事、コメントを読みまして(決して、それは、おお、そうか、という類ではなく、そうそう、そうなんだ。に近い思いも持っていました)、おせっかいながら、今の思いを吐露します。
まず、件のblog
~ぽん太さんはご覧になっていないというのですから、やっぱり、ワタシのコメントに書くことなのかな?~、
ひとつ:「今日は何位かな?」は、もう、止めようよ
ふたつ:TV番組を含めた媒体に登場する白石さん情報を募ることも、もう、やめようよ。
理由は、白石さんという“生きた”オトナを担ぎ出して、blogにするのは、もう、あの本が出たところまでだと思うよ、ただ、それだけです。
ワタシなんかが心配する次元より、更に上を行くワカモノたちなのかなあ?ちょっといっぱい生きているからねと、勝手に思っているおばさんの持つつまらない心配なのかなあ?
どうも私はついついどうでもいい突っ込みをしてしまって、根が優しくないところがあります。
ただ、私にとってこの本は、周辺事情がなければいさんで買い、読んだであろう本、さらには「おすすめだよ!」と暑苦しくまわりに奨めていたかもしれない一冊だった…という思いがありまして、それだけに読んでもいないのに、関係者一同さらには楽しまれた読者の方に対しても、失礼かもしれない、かつ、かなり奇妙な思い入れがあるような気がしています。
「本当は大好きなになりそうなのに、諸々の要因で仲を割かれている」状態の欲求不満って感じですねぇ。
だから、Saさんが読まれて楽しまれたご様子はSaさんだからこそ、「うんうん、そうだろうそうだろう」ととても腑に落ちましたし、その安心感からつい愚痴りたくなった次第です。あの本が嫌いだという意見もあるようですが、私は自分が好きなことが、あらかじめわかっているような気がするのですね。第六感で、なんですが…。だから、「よかったよ」と書かれたSaさんの記事に、自分なりに共鳴してしまったんです。
あちらに集うておいでの方々始め、楽しまれた方々の思いに水を差すつもりはまったくなかったのですが、結果的にそうなってしまったとしたら、本当に申し訳なく思っています。お許しくださいませ。
私はきっと白石さんが好きです。
理由は簡単で、業務としても、また仕事に携わる姿勢としても、とても人間的かつ大人のウィットに富んでおられる方のようだからです。
憧れる仕事スタイルでもあり、おそらくその態度に嫌味がないという点でも、かっちょいー!と感じます。
どこか枯れた諧謔のようなものがあって、それに揺るぎはない。世間がどう思おうと、誰がどう感じようと、「我が道を淡々と行く」覚悟ができた人のような気がして、そんな匂いにも惹かれるのです。
一言カードは、たとえばそのような精神の自由さや人としてのお茶目さ、いたずら心から出てきたものだろう、とも思います。
ぶっちゃけ、ちょっと変人なんだろうか?と思いますしね。そこもカッチョイーじゃない?って。
「白石さんがちょっと偏屈かつ心優しく、さらにはうんとダンディなら、まわりもダンディで通そうよ」
おそらく、私の気持ちはこれに尽きる。
それがこっちの勝手な思い入れであっても、私はそう思ってしまう。不遜ながら、そちらの記事を読んだ時、実はSaさんも、きっと同じことをお感じになっておられたような気がしてました。
それゆえ、学生さん達はじめマスコミ各位には、白石さんのスタイルを尊重してあげてほしいのです。
それがわかっていたら、私は今日にでもこの本をゲットし、大喜びで読むことでしょう。
そして、誰にでも彼にでも「面白かったよ~」と大騒ぎしていたことでしょう。
でも、多分、あと三ヶ月もすると、白石さん現象はかなり落ち着くでしょうから、その頃になれば私にとっての機は熟するのかな?と思ってはいますけど。
とりあえず、絶対読みたい一冊ですので。