猿之助の通し狂言『義経千本桜』の思い出をもう一つ。昔から大好きな「小金吾討死」である。 . . . 本文を読む
『義経千本桜』というと、私なぞはまず「猿之助!」と思ってしまったりするのだが、今月にちなんで、歌舞伎座最後となった猿之助版の思い出を掘り起こしてみる。
最初の一つは、芝翫と猿之助が踊った「吉野山」だ。
私はこの二人の踊りがとても好きだった。何度も組んでいるため、以心伝心といった趣があったのだ。 . . . 本文を読む
てぬぐいさんの記事を読んで、妙に納得してしまった。そこで、私も自分なりにけじめをつけとこうかな~と思い立ち、野田秀樹と私との関わりをまとめてみることにした。芝居や本などでも、かつて好きだったものが、今必ずしもそうではないといった感性の岐路みたいなものが、人生には沢山あるから面白い。 . . . 本文を読む
前進座の『三人吉三』をみてきたのにちなみ、歌舞伎座興行で忘れ難かった、玉三郎お嬢、仁左衛門お坊、團十郎和尚の『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』についての感想をあげてみる。
桜姫ファンにとっては嬉しくも懐しい、仁左玉團(昔は孝玉海老だったが…)の組み合わせも楽しみだったが、私としては玉三郎お嬢に、身も世もなくメロメロになってしまった。是非とも再演してほしい顔合わせである! . . . 本文を読む
今月の歌舞伎にちなみ、羽左衛門・弁慶、芝翫・おわさという、いわば親世代でみた『弁慶上使』の感想をあげてみる。ちなみに、この演目はこれが初見だった。
当然といえば当然なのだが、親子でも、芝翫と福助とは、芸の資質が異なる。
私が思うところ、福助の方が熱いのだ。一方、芝翫は冷たい。絶対零度の芝居をする役者だ。 . . . 本文を読む
九月文楽『芦屋道満大内鑑』とからめて、今回は省かれた「乱菊(道行)」を、歌舞伎座でみた時の感想をあげてみたい。文楽には花道がないため、おそらくは歌舞伎ほどドラマチックにはならないと思うのだが、白狐の美しい姿がそこここにみえ隠れするだろう信太の森の幻想美ならば、文楽の方がうまく表現できるだろう。
一方、生身の役者が演じる歌舞伎なら、この「乱菊」こそが葛の葉のキモだと思うのだ。福助が勤めた、六年前の素 . . . 本文を読む
納涼歌舞伎『法界坊』つながりで、平成中村座浅草初演時の感想をあらためて掲載してみよう。
中村座は東京公演だけだが、今まですべてみてはいる。ただ、二回目、義太夫狂言を古典どおりに上演した時以外、初回、三回目の感想はほぼ似たものである。私が勘三郎に感じている苛立ちに近いものは、あまり変わっていない。おそらく多くの歌舞伎ファンも、多かれ少なかれ、似たことを感じているのではないだろうか?
中村屋の試みをめ . . . 本文を読む
暑さも盛り。ついては、これが同じ『伊勢音頭』か?というくらいに、まるっきり異なる過去の舞台の感想を再掲してみよう。仁左衛門の福岡貢、玉三郎の万野、お紺だけ福助で今回同様。六年前だ。
私自身の『伊勢音頭』の出発点にはならないが、忘れられない一幕だった。万野の玉三郎がすごかったのだ。
ところで、私が八月の納涼歌舞伎をことのほか楽しみにしているのは、三津五郎・勘三郎コンビが好きだからだ。芝居巧者の二人が . . . 本文を読む
海老蔵の夏巡業にことよせ、五年前の感想を掘り起こしてみた。彼の実盛があまりに貴人風だったので(記事はこちら)、光源氏初演時の感想を、だ。内容のよしあしではなく、生涯忘れられない劇的体験としての芝居が誰の中にもあると思うのだが、私にとって新之助時代の『源氏物語』初演はその一つである。芝居をみて、熱気にあてられ体調をこわした初めての経験といい、いまだに忘れられない特別な舞台である。
五月團菊祭『源氏 . . . 本文を読む
昔書きとめておいた芝居の感想を、時期に応じて掲載していくことにした。第一弾は、話題の『十二夜』つながり、蜷川幸雄と菊之助とが出会った作品、『グリークス/10本のギリシア劇によるひとつの物語』だ。
年月がたてば、時代の気分も変わり、舞台の記憶も風化する。常に【今】の文脈、ライブであることを求められる舞台の印象を振り返ることには、あまり意味はないかもしれない。ただ、お芝居とは、記録映像以外ではこんな形 . . . 本文を読む