一日使って、W杯初戦での日本の結果を自分なりに咀嚼していた。
サッカーミーハー、それもJリーグでちゃんとサポーターというよりW杯イベントファンという、いかにも素人の一ファンにすぎないけれど、サッカーという競技は大好きだし、これまでこんなにはまったスポーツはない。
サッカーは最高に魅力的だと今でも思う。日本がドイツ大会に参加しているだけで栄誉だとも、だ。
が、さすがに12日の試合結果には、心底落ち込んでもいた。
私がジーコ采配に疑問を感じたのは、これまでの世論がどうあれ、今回が初めてのことだった。
そして、思った。ジーコにとってのW杯の大きさを…。
ジーコの小野投入の意図はわかるような気がした。
1)後半、DFラインが下がり、カウンターを狙う日本の中盤前線との間に大きなスペースができてしまったこと
2)それまでが、サイド突破のチャンスを、ずっと生かせない試合展開だったこと
3)膠着状態を破るために、中盤でボールをまわしてチャンスをつくる可能性に賭けたこと
4)中盤でのボールキープ率を高め、試合のリズムを少し落ち着かせ、前線・DFラインの体力温存を狙ったこと
5)坪井の故障と茂庭の投入で、交代要員が限定されたこと
これらを踏まえた、ジーコなりの結論だったと思う。
結果的にそれがうまく機能しなかったので、采配としては間違いだったのかもしれない。
「たられば」の話をしてもしょうがないが、一見、オーストラリアに思いっきり押し込まれていても、実はずっと日本がゲームを支配していたと思うので、むしろもっと攻撃的な布陣を組むべきだったのかもしれない。
その方が選手にはわかりやすかったろうし、気分的にパワーアップできたような気がする。
中途半端に先制点をとって慎重になった分、「攻撃こそ最大の防御」のジーコイズムが崩れたともいえる。
だが、なんというのかなあ。
昨日の試合、問題があったとすれば、たった一つだけだ。
追加点がはいらなかったということに尽きるだろう。
それだけのことなのだ!
ものすごくゆゆしい問題だが、どの国の試合にも頻繁にあったりする。
もともと、サッカーはそんなに簡単に点がはいるスポーツじゃないのだから…。
決定力不足は今に始まったことではないが、昨日なぜそうなったのか?を冷静に考えると、もともと日本が体質的に【点とり屋】じゃない国だった上に、体力消耗が激しすぎたからだと思っている。
私個人は初戦惨敗の原因を、誰にもみいだせない。選手は全員、素晴らしい集中力で戦っていたと思う。
強いていえば、時間の使い方が下手だった。
ゲームを優勢なまま、上手に保持する経験値が劣っていたのかもしれない。
日本勢は小柄なだけに、ピッチを走り回ることでしかチャンスは生まれないのではあるけれど、ただ走らされ続ければ、どうやっても不利になる。
オーストラリアのとった戦略は一つだけ。上下左右、ピッチを目一杯使ったロングボールの多用である。
わかってはいてもそれに乗せられた、というのが昨日の展開だろう。暑さもある。
むろん、得点をあげられなかった問題は大きい。
だが、それをいうならオーストラリアだって、あれだけ攻めても得点できなかったのだから、お互い様だ。
むしろ、得点できないフラストレーションは、オーストラリアの方が勝っていたはずだ。
相手の苛立ちにうまくつけこむ、懐の深さが、日本には足りなかった。
今回のW杯をみていて感じるのが、オランダやチェコなど、ヨーロッパ強豪の「勝利の方程式」然とした戦い方に対して、日本のように体格・体力・感受性の面で丸っきり異なる文化がいかに対抗しうるか?という難問である。
相手を吹っ飛ばす体格とパワープレイがありさえすれば、サッカーという競技は簡単に成立する。(オランダなどがそうだという意味にあらず)
早い話、デカくて、強いシュートが打てて、獰猛でありさえすれば、技術力が少々劣っていようが、単調な押し込みプレイだろうが、ラフな展開でも得点でき勝ててしまう競技を、いかに不利ではなく戦うのか?
昨夜の試合は、特にそこが問われてしまった気がして、なんとも切ない気分になった。
サッカーが面白いのは、国別対抗にしろクラブ戦にしろ【文化】と【文化】のぶつかり合いがあるからだ。
サッカーという競技が世界スポーツである以上、日本がサッカーで強くなることを目指す際に「不利をいかに有利にしてみせるか?」の問いは、永遠についてまわる。
日本代表のサッカーに「これが日本のやり方だ」という相応のスタイルがみえてきて、代表絡みの批判にも「日本らしい/らしくない」といった議論が自然にできるようになって、やっと一人前なんだろうな~と思う。
そんなことをあれこれ考えられるのも、W杯出場がかなったからこそだ。
ところで、日本のサッカーファンは戦術論好きな人が多いらしく、フォーメーションばかりが話題になる傾向があると思う(シミュレーションゲームの影響もあるかな…)。
同時に、代表監督に育成を期待する人も多いし、野球同様、監督論ばかり云々されるところもある。
また、これは私もなのだが、テレビ観戦主体になるとボール周辺のことしか目にはいらないため、ピッチ全体の動きを前提とせず、「シュートを決めたのが誰それ=神」といった、近視眼的評価にも陥りやすい。
その要因を、私なりに漠然と考えてみた。
まず、サッカーの実地経験者が少ないことが一つだろう。サッカーは野球よりマイナーな競技だ。
そして、もう一つ。
日本人にとって一番親しみのある野球のように、止まってバッティングをし、打たれたボールを守備範囲で拾いあう、役割分担がはっきりしたスポーツをみる癖がついているというのも、案外大きいと思う。
野球とは、テレビでもついていける(それなりに映すことのできる)範囲のスポーツなのである。
もちろん、実際に球場で観戦すると、もっとずっとワクワクはするが、テレビ的には投手と打者の心理戦だけでも相応に楽しめてしまう競技ではあるのだ。
さらに、今年からやっと始まったWBCだが、野球のワールドカップがこれまでなかったために、国内リーグ戦に馴染んではいても、「国の代表」がいかにあるべきか?のイメージがない、というのもありそうである。
要するに、クラブチームと代表チームの役割分担に、そもそもピンと来ないところがあるのだ。
サッカーで強くなるためには、もっとサッカーを好きになり、日常的にプレイすると同時に、生で観戦し、サッカーに親しむことが、うんと大事だ。
テレビでの代表戦だけじゃなく、Jリーグの試合会場に足を運び自分の目で試合をみるようになると、ピッチ上のドラマがよりくっきりと伝わると同時に、試合運びの妙もずっとわかるはずだ。
映像でも、真上からの俯瞰カメラであれば、ダイナミックな動き全体が了解できる。
「押し上げる」「引く」はもちろん、プレスの実際、スペースの有無、スペースを作りだす動き、スペースにボールを運ぶ動き、スペースに走り込むタイミング、ゴール前のDFを引き連れる囮的動き等々、トータルな駆け引きが手にとるようにわかることだろう。いわゆるフォーメーションというものが、決して固定的ではないこともだ。
選手がいう「連携」「コミュニケーション」、あるいは「気持ち」という言葉の意味も、精神論じゃなくわかると思う。全員、一斉に動き回っているスポーツなのだから…。
テレビでは野球同様、映像が球際に寄ってしまうため、試合のごく一部しかみえてこない。
このため、全体がなかなか伝わらず、「木をみて森をみず」になりがちなことが少々悔しかったりもする…。
日本のGL突破は厳しいとは思うのだが、それでも、クロアチアやブラジルという世界の強豪と、本当の真剣勝負で戦えるチャンスはめったにない。
世界でたった32チームしか経験できないW杯に日本は実力で出場したのだから、そのことを大いに誇って、私はやっぱりこの機会をうんと楽しみたい。
そして、思うことは一つ。
選手たち一人一人に、選手人生に残るような、納得のいく試合をしてほしいことだけだ。
勝ち負けはもちろんなのだが、たとえば初出場のコート・ディヴォワールの戦い方、負けても「素敵なチームだ」と思える戦い方を目指してほしい。一流のサッカー大国と戦える、願ってもいないチャンスなのだから…。
今の日本代表には、それが必ずできるはずである。そこが、前回のW杯と大きく違うところだ。
その姿は、無数の人にサッカーの素敵さを教えてくれる。
かつてW杯をたまたまみたことで、すっかりサッカーにはまってしまった私のように、である。
今回のW杯が終わったら、次は競技場で、サッカーの魅力にひたってほしい。
サッカーは、麻薬みたいに全世界の人々を魅了してやまない、最高に楽しいスポーツなのだから!
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は ■2006年版 ■2005年版>
サッカーミーハー、それもJリーグでちゃんとサポーターというよりW杯イベントファンという、いかにも素人の一ファンにすぎないけれど、サッカーという競技は大好きだし、これまでこんなにはまったスポーツはない。
サッカーは最高に魅力的だと今でも思う。日本がドイツ大会に参加しているだけで栄誉だとも、だ。
が、さすがに12日の試合結果には、心底落ち込んでもいた。
私がジーコ采配に疑問を感じたのは、これまでの世論がどうあれ、今回が初めてのことだった。
そして、思った。ジーコにとってのW杯の大きさを…。
ジーコの小野投入の意図はわかるような気がした。
1)後半、DFラインが下がり、カウンターを狙う日本の中盤前線との間に大きなスペースができてしまったこと
2)それまでが、サイド突破のチャンスを、ずっと生かせない試合展開だったこと
3)膠着状態を破るために、中盤でボールをまわしてチャンスをつくる可能性に賭けたこと
4)中盤でのボールキープ率を高め、試合のリズムを少し落ち着かせ、前線・DFラインの体力温存を狙ったこと
5)坪井の故障と茂庭の投入で、交代要員が限定されたこと
これらを踏まえた、ジーコなりの結論だったと思う。
結果的にそれがうまく機能しなかったので、采配としては間違いだったのかもしれない。
「たられば」の話をしてもしょうがないが、一見、オーストラリアに思いっきり押し込まれていても、実はずっと日本がゲームを支配していたと思うので、むしろもっと攻撃的な布陣を組むべきだったのかもしれない。
その方が選手にはわかりやすかったろうし、気分的にパワーアップできたような気がする。
中途半端に先制点をとって慎重になった分、「攻撃こそ最大の防御」のジーコイズムが崩れたともいえる。
だが、なんというのかなあ。
昨日の試合、問題があったとすれば、たった一つだけだ。
追加点がはいらなかったということに尽きるだろう。
それだけのことなのだ!
ものすごくゆゆしい問題だが、どの国の試合にも頻繁にあったりする。
もともと、サッカーはそんなに簡単に点がはいるスポーツじゃないのだから…。
決定力不足は今に始まったことではないが、昨日なぜそうなったのか?を冷静に考えると、もともと日本が体質的に【点とり屋】じゃない国だった上に、体力消耗が激しすぎたからだと思っている。
私個人は初戦惨敗の原因を、誰にもみいだせない。選手は全員、素晴らしい集中力で戦っていたと思う。
強いていえば、時間の使い方が下手だった。
ゲームを優勢なまま、上手に保持する経験値が劣っていたのかもしれない。
日本勢は小柄なだけに、ピッチを走り回ることでしかチャンスは生まれないのではあるけれど、ただ走らされ続ければ、どうやっても不利になる。
オーストラリアのとった戦略は一つだけ。上下左右、ピッチを目一杯使ったロングボールの多用である。
わかってはいてもそれに乗せられた、というのが昨日の展開だろう。暑さもある。
むろん、得点をあげられなかった問題は大きい。
だが、それをいうならオーストラリアだって、あれだけ攻めても得点できなかったのだから、お互い様だ。
むしろ、得点できないフラストレーションは、オーストラリアの方が勝っていたはずだ。
相手の苛立ちにうまくつけこむ、懐の深さが、日本には足りなかった。
今回のW杯をみていて感じるのが、オランダやチェコなど、ヨーロッパ強豪の「勝利の方程式」然とした戦い方に対して、日本のように体格・体力・感受性の面で丸っきり異なる文化がいかに対抗しうるか?という難問である。
相手を吹っ飛ばす体格とパワープレイがありさえすれば、サッカーという競技は簡単に成立する。(オランダなどがそうだという意味にあらず)
早い話、デカくて、強いシュートが打てて、獰猛でありさえすれば、技術力が少々劣っていようが、単調な押し込みプレイだろうが、ラフな展開でも得点でき勝ててしまう競技を、いかに不利ではなく戦うのか?
昨夜の試合は、特にそこが問われてしまった気がして、なんとも切ない気分になった。
サッカーが面白いのは、国別対抗にしろクラブ戦にしろ【文化】と【文化】のぶつかり合いがあるからだ。
サッカーという競技が世界スポーツである以上、日本がサッカーで強くなることを目指す際に「不利をいかに有利にしてみせるか?」の問いは、永遠についてまわる。
日本代表のサッカーに「これが日本のやり方だ」という相応のスタイルがみえてきて、代表絡みの批判にも「日本らしい/らしくない」といった議論が自然にできるようになって、やっと一人前なんだろうな~と思う。
そんなことをあれこれ考えられるのも、W杯出場がかなったからこそだ。
ところで、日本のサッカーファンは戦術論好きな人が多いらしく、フォーメーションばかりが話題になる傾向があると思う(シミュレーションゲームの影響もあるかな…)。
同時に、代表監督に育成を期待する人も多いし、野球同様、監督論ばかり云々されるところもある。
また、これは私もなのだが、テレビ観戦主体になるとボール周辺のことしか目にはいらないため、ピッチ全体の動きを前提とせず、「シュートを決めたのが誰それ=神」といった、近視眼的評価にも陥りやすい。
その要因を、私なりに漠然と考えてみた。
まず、サッカーの実地経験者が少ないことが一つだろう。サッカーは野球よりマイナーな競技だ。
そして、もう一つ。
日本人にとって一番親しみのある野球のように、止まってバッティングをし、打たれたボールを守備範囲で拾いあう、役割分担がはっきりしたスポーツをみる癖がついているというのも、案外大きいと思う。
野球とは、テレビでもついていける(それなりに映すことのできる)範囲のスポーツなのである。
もちろん、実際に球場で観戦すると、もっとずっとワクワクはするが、テレビ的には投手と打者の心理戦だけでも相応に楽しめてしまう競技ではあるのだ。
さらに、今年からやっと始まったWBCだが、野球のワールドカップがこれまでなかったために、国内リーグ戦に馴染んではいても、「国の代表」がいかにあるべきか?のイメージがない、というのもありそうである。
要するに、クラブチームと代表チームの役割分担に、そもそもピンと来ないところがあるのだ。
サッカーで強くなるためには、もっとサッカーを好きになり、日常的にプレイすると同時に、生で観戦し、サッカーに親しむことが、うんと大事だ。
テレビでの代表戦だけじゃなく、Jリーグの試合会場に足を運び自分の目で試合をみるようになると、ピッチ上のドラマがよりくっきりと伝わると同時に、試合運びの妙もずっとわかるはずだ。
映像でも、真上からの俯瞰カメラであれば、ダイナミックな動き全体が了解できる。
「押し上げる」「引く」はもちろん、プレスの実際、スペースの有無、スペースを作りだす動き、スペースにボールを運ぶ動き、スペースに走り込むタイミング、ゴール前のDFを引き連れる囮的動き等々、トータルな駆け引きが手にとるようにわかることだろう。いわゆるフォーメーションというものが、決して固定的ではないこともだ。
選手がいう「連携」「コミュニケーション」、あるいは「気持ち」という言葉の意味も、精神論じゃなくわかると思う。全員、一斉に動き回っているスポーツなのだから…。
テレビでは野球同様、映像が球際に寄ってしまうため、試合のごく一部しかみえてこない。
このため、全体がなかなか伝わらず、「木をみて森をみず」になりがちなことが少々悔しかったりもする…。
日本のGL突破は厳しいとは思うのだが、それでも、クロアチアやブラジルという世界の強豪と、本当の真剣勝負で戦えるチャンスはめったにない。
世界でたった32チームしか経験できないW杯に日本は実力で出場したのだから、そのことを大いに誇って、私はやっぱりこの機会をうんと楽しみたい。
そして、思うことは一つ。
選手たち一人一人に、選手人生に残るような、納得のいく試合をしてほしいことだけだ。
勝ち負けはもちろんなのだが、たとえば初出場のコート・ディヴォワールの戦い方、負けても「素敵なチームだ」と思える戦い方を目指してほしい。一流のサッカー大国と戦える、願ってもいないチャンスなのだから…。
今の日本代表には、それが必ずできるはずである。そこが、前回のW杯と大きく違うところだ。
その姿は、無数の人にサッカーの素敵さを教えてくれる。
かつてW杯をたまたまみたことで、すっかりサッカーにはまってしまった私のように、である。
今回のW杯が終わったら、次は競技場で、サッカーの魅力にひたってほしい。
サッカーは、麻薬みたいに全世界の人々を魅了してやまない、最高に楽しいスポーツなのだから!
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は ■2006年版 ■2005年版>
それでも、日本代表を巡るなにかに関して、非常にもやもやした気分を持っていました。
この記事はなんか納得できたので、誰かに言いたくて投稿しました。
海外組「幻想」と「限界」/沢木耕太郎/日経6/30朝刊
それ以外の記事は読んでいませんのでお話になりませんですいません^^;
我が家は日経をとっていないため、読めないのが残念です。
今度、図書館に行った折りにでもチェックしてみます。
あ、あと、歌舞伎評論家の上村さんもサッカーについてユーモアたっぷりに書いていますヨ。
でも、他の記事も読みたかったので昨日は図書館に行ったんですが、四回目しか探せず(ションボリ)
もう一度掲載日をしっかり確認して、図書館に行こうと思ってサイトにアクセスしたら、なぜか全文が読めるようになっておりました~~~!!!
urasimaruさん、それと記事を送ってくださったNさん、ありがとうございます。
でもって、私なりに、日本代表についてまとめようと思っています。
ほんに、ありがとうございます。
沢木耕大郎といえば『深夜特急』。また読み返したくなりました。