學燈社の『國文學』十一月号を読んだ。創刊五十周年記念の特集が「演劇ー国家と演劇」だったためだ。国文学の専門誌が、いったいどのような演劇論を掲載しているか興味があった。他にも、青土社の『ユリイカ』が演劇特集を組むなど、ここのところ、日本の演劇界にはさまざまなアプローチがあり、なかなか興味深い。
わけても、坪内逍遥や森鴎外など明治の文豪と呼ばれる人々が『演劇改良運動』を始めたように、国文学と近代演劇とは、切っても切り離せない間柄として出発したのだし、日本の近代文学研究の源流という視点から、日本演劇史や演劇理論史などが、多様なレベルでもっと語られていいはずである。
明治日本が規範としたヨーロッパでは、近代文学の基本は戯曲であり、知識人が演劇を語ることは最低限の教養とみなされていたし、日本の文学運動が言文一致体や自然主義文学含めて、当時の演劇再生運動と密接に関わっていたのも、本家本元のヨーロッパ的風土における演劇(戯曲)のポジションに、そのルーツがある。
だが、日本近代文学研究においては、小説を始めとする執筆者個人の主観の掘り下げが主体であり、演劇論や戯曲研究などが表舞台に出ることはなかった。
文学研究と銘打っても、文学者その人の私生活や心象を人物史的に辿ることが中心になったのも、いかにも日本的な嗜好だろう。書かれた小説や詩歌は、作者の私的伝記とつきあわせる素材に過ぎず、人物評伝ではない、純粋に文学的なアプローチによる文学研究は、今日までもあまり省みられていないと個人的に感じる。
この傾向はまさしく歌舞伎にもいえることであって、歌舞伎研究は畢竟「役者史」になってしまうところがある。あるいは、近松研究や黙阿弥研究など、近世戯作者の「個人史」を辿る方向性だ。
歌舞伎が内包する演劇表現そのものについては、実は、通り一遍のことしか研究されていない。
あくまでも近世的美意識にこだわって、今現在残されている舞台機構や錦絵などの流通物から、近世歌舞伎の姿を検証しようとする試みは、専門家といえども、服部幸雄氏くらいしかしていないのではないだろうか?
もちろん、歌舞伎がライブであったことも大きい。それも、大衆に向け消費されていく商品として、提供され続けてきたために、「当時、具体的にどんな風であったのか?」がわからないのである。
かろうじて商品の雰囲気を伝える残滓はあっても、それらの商品がどのようなものとして享受されたか、またどのように変容していったのかの記録があまりに少ないため、隔靴掻痒のジレンマに陥るのだ。
演劇(もしくは芸能)という表現形態独特の、再現不可能性がそこにはある。
絵画や言葉、あるいは楽譜で記録される表現との違いは、演劇(もしくは芸能)には、常に同時代性がついてまわることだ。そして、この同時代性そのものが、演劇の依って立つ場ということである。
同時代性とはすなわち、舞台表現を試みた演劇人たち送り手と、それらの舞台を共有した見物や客など受け手との
両者の共犯関係の中にこそ認められるものであるため、双方が死んでしまうと手がかりがなくなる。
オーラルヒストリーでしかみえてこないものが厳然としてあって、広義的・一般的解釈を阻むのである。
また、歌舞伎はもとより明治以降の近代演劇含め、いわゆる「演劇論」が主観的舞台解釈(つまり、まあ、単なる好き嫌い)や役者評伝、劇作家評伝等、人物論や個人的領域を出ず、先日書いた通り、たとえば演劇評論そのものが、批判を受ける当の演劇人にとって、筋違いと感じられたり、無意味だと思われてしまう理由の一つには、日本という国に占める【思想・哲学】というものの位置が、欧米的フレームからするとあまりに脆弱だったということがあげられるのではないか?と私は考えている。
絶対神の世界を相対化し、人間主義となった西欧の近代思想体系の中での演劇は、常に「神とは何なのか?」「人間的であるとはどういうことなのか?」という真摯な問いかけであり、人間力の限界点や臨界点を、舞台という場で試す挑発的行為、いわばバーチャルに提供される実践哲学でもあった。
これらの問いかけや挑発、いいかえるなら【思想・哲学】は、日々を精一杯生き抜くだけの、一般大衆や民衆には無関係だったかもしれないが、文学を始め、生きる意味をつい自問してしまう【認識という営為に携わる者】に
とっては、実にリアルかつ切実な発露であり、皆が共に考えることができる共通命題という側面をもっていた。
だからこそ、演劇と文学、あるいは芸術や哲学との間の格差がなかったのである。すべて、同じ土俵だったのだ。
しかるに、人間そのものが自然(対外世界)と容易に一体化し、溶け合うことが当然とされる日本において、西欧流の「世界に屹立する自我」という概念は、輸入したとしても了解困難で、社会的必然性に欠けていたのだろう。
西欧的絶対神がなかった国には、神と対峙する自我の発見はありえない。
そも、前提とされた、弁証法的に止揚すべき二項関係そのものが、成立していないからだ。
西欧における近代的自我と共に登場する【演劇】は、自我の再発見へ至る道筋を求める模擬プロセスや、ある種の生き方提案、「今、私は人間というものを、こんな風に考えている」というプレゼンテーションであったにもかかわらず、日本という磁場においては、その【演劇】の捉え方がご本家とは異なり、錯綜し、多分に一時現象化、結果的に矮小化してしまうのもいたしかたない。
所詮【演劇】は、明治政府が急遽輸入した借り物の概念、必然なき徒花に過ぎなかった側面があるのだ。
というようなことを漠然と考えていたのであるが、『國文學』で面白かった論評は幾つかある。
一つ目は、世田谷パブリックシアター、現プログラム・ディレクターの松井憲太郎(佐藤信率いる黒テント出身)
の『レパートリー・システムとは何か』だ。
レパートリー・システムとは、年に一定期間実施される、劇場独自の新作および再演上演プログラムである。
自治体運営の公共ホールディレクターの任にある松井は、ヨーロッパ特にドイツの公共劇場で盛んなこのシステムを通じて、ヨーロッパの伝統として存続する演劇の公共性について考える。
(前略)演劇の伝統についての記憶の集合体としてレパートリー作品は、いまだに新しい解釈や技法を触発
することが可能なキャパシティを持った、豊かな演劇の財産として機能しているのである。
ところが日本には、能、歌舞伎、新劇、小劇場演劇など、それぞれの演劇の形式の登場によって分断された、
またそれぞれに自己完結していく演劇史や理論が複数あって、日本演劇のレパートリーといったものを形成
するための土壌となりうるような、連続性や共通項を持った一筋の上演史は育まれてはこなかった。(後略)
箱型行政措置で地方に乱立した公共ホール運営をめぐり、日本でも公共的に提供し続けるべきなんらかの演劇レパ
ートリーが求められるようになった、と松井は語る。劇場専属の芸術監督制度他、地方自治体で取り組まれている演劇活動はたしかに拡大傾向にあるが、果たしてその取り組みが松井が指摘する、国全体の共有財産としてのレパ
ートリー作品たりえるのか、そのようになるのか、私個人はやや疑問ではある。
ただ、グローバリズムの時代、地方のローカリティー同様、日本という国そのものへの内省的興味が高まっていることは事実だと思う。七十年代安保世代によるカウンター・カルチャー、あるいは政治闘争イデオロギーとしての演劇メソッド以外での、汎歴史的統合的な「日本化」の試みが意識的に行われるようになるのであれば、かなり面白いだろう。
二つ目は、劇作家・演出家である斎藤憐(オンシアター自由劇場出身)の『劇作の時代、演出の時代』だ。
彼は、西洋的前衛の延長線でしか評価する物差しをもたない、明治以降から連綿と続く日本の演劇評論家の態度に対し、痛烈な皮肉を送る。イプセン・チェーホフ・ストロンドベリ等、十八世紀末の西洋写実演劇の出発にしてもそれらが起こった都市の多くの劇場で、旧態依然とした芝居が数多く演じられるほど豊かだったゆえ、新しい演劇形態が珍しがられ、退屈しのぎに享受されたにすぎないと述べ、知的退廃としての演劇の限界を指摘する。
「金があるから、退屈もあり新しさが求められる」とは事実そうで、西欧演劇のほとんどは、国家の文化財として保護育成される環境に完全依存して成立しており、商売とはまったく無縁だ。
いわゆる西欧演劇が、迂遠で観念的な試みであっても「十分、食っていける」のは、税金や助成金、寄付金などによって演劇人たちの社会的立場が保障されているからであって、稽古収入など副業ありきの家元制度以外「芝居で食うこと」が極めて困難な日本とはまったく異なる。
西欧演劇とは、当初から、まさしく国家制度の一環なのだ。王侯貴族がパトロンだった時代、領国、王国、帝国、民主国家または社会主義国家等、体制上での変遷はあっても、そも演劇とは、為政者の偉容を誇る制度的資産であり続けているのである。
一方、活況を呈する、日本の平成演劇シーンはどうであろうか?
これほど大量の演劇(パフォーマンス)が上演されている国はないと思うのだが、公演で食べていける人数は微々たるものだろう。が、別の形で何とかやっていけるからこそ、泡沫のように次から次へと劇団が生まれ、芝居が上演されていることも事実だ。それらの舞台に、日常に倦んだ大衆がささやかな刺激を求めて集うているのが、現実だと思う。これは極めて豊かな社会に違いない。なんだかんだといっても、金あまり社会なのである。
また、日本は人口が多く所得水準も高い。チケット代を個人支出に負っても、広く薄い負担ですむ。
このような社会にあって、演劇の品質管理はとどのつまり、各演劇人の独断に任される。放任主義なのだ。
あえて国家が介入する必然性はないし、日本であるか否かも伝統との連続性も問われない。何らかの意味で、刺激的でありさえすればいい。判断は、居合わせた観客のリアクションに依拠する。お客様第一主義なのである。
私自身の関心は、演劇シーンというよりも、むしろ、歌舞伎という近世演劇表現の方法論をいかに考えるか?、といったあたりに集中している。
かつてみていた小劇場演劇、現代最前線の演劇含め、歌舞伎との接点をいかにみいだすことができるか?や、日本化した劇的なるものの代表サンプルとして歌舞伎を捉えた際、そこにみいだされる原理めいた衝動の正体は何なのか?、あるいはそれとはまた別に、日本固有の文化資産である歌舞伎を、豊かな源泉として残していくためには、どのような解明や取り組みが必要なのか?等について、ダラダラと思案しているにすぎない。
けれど、この考えは歌舞伎を制度的に取り込んでいく手法の模索であり、【日本または近世】という幻想的価値観の共有を、前提にしているところがある。これは、いわゆる西欧的な【思想・哲学】にとても近い。
まだまだ駄目だ、展開フレーム自体が異なっているではないか!との思いを、あらためて強くした。
このような論法を進めると、身の丈にあわない国家主義にこりかたまった明治的「演劇改良運動、のようなもの」になってしまう可能性が高いのである。
供給原理から考えると、伝統芸能として公的助成はあるものの、今に至るまで商業演劇たりえて興行を打っている歌舞伎は、国家保護のアテもないままに生まれては消える多くの劇団の演劇スタイルと、そう大差はない。
加えて、近代以前の劇作システム、「演出家を必要としない、役者中心主義」に徹した演劇形態でもある。
大きな政府が国家的試みとして支援する西欧演劇界隈と、今も昔も、実は小さな政府でありながら、なぜか社会の諸相が一枚岩の互助会状態、奇妙に社会主義的平等が達成されている日本での演劇界隈。
まこと蟻地獄のようではあるが、さまざまな差異をも心に留めつつ、私なりに今後も七転び八起きでいきたい。
ちなみに今回の『國文學』には、舞台美術家、堀尾幸男の『舞台の美術ー歌舞伎「研辰の討たれ」』
も掲載されていて、実はこの論が購入の動機だったのだが、私の求める方向は何一つみいだせなかった。
堀尾にとって歌舞伎という枠組みは多分どうでもよかったのだろう。それよりも、野田秀樹が重要だった
ことが了解でき、予想していたこととはいえ、なんとはなしに肩すかしを喰った気分ではある…。
また、青年団の平田オリザが寄稿していないのも不思議だった。早稲田小劇場の鈴木忠志以降、方法論
としての演劇に最も自覚的であり、国境を越えた舞台づくりをしている彼の最新考も読んでみたかった。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は こちら>
わけても、坪内逍遥や森鴎外など明治の文豪と呼ばれる人々が『演劇改良運動』を始めたように、国文学と近代演劇とは、切っても切り離せない間柄として出発したのだし、日本の近代文学研究の源流という視点から、日本演劇史や演劇理論史などが、多様なレベルでもっと語られていいはずである。
明治日本が規範としたヨーロッパでは、近代文学の基本は戯曲であり、知識人が演劇を語ることは最低限の教養とみなされていたし、日本の文学運動が言文一致体や自然主義文学含めて、当時の演劇再生運動と密接に関わっていたのも、本家本元のヨーロッパ的風土における演劇(戯曲)のポジションに、そのルーツがある。
だが、日本近代文学研究においては、小説を始めとする執筆者個人の主観の掘り下げが主体であり、演劇論や戯曲研究などが表舞台に出ることはなかった。
文学研究と銘打っても、文学者その人の私生活や心象を人物史的に辿ることが中心になったのも、いかにも日本的な嗜好だろう。書かれた小説や詩歌は、作者の私的伝記とつきあわせる素材に過ぎず、人物評伝ではない、純粋に文学的なアプローチによる文学研究は、今日までもあまり省みられていないと個人的に感じる。
この傾向はまさしく歌舞伎にもいえることであって、歌舞伎研究は畢竟「役者史」になってしまうところがある。あるいは、近松研究や黙阿弥研究など、近世戯作者の「個人史」を辿る方向性だ。
歌舞伎が内包する演劇表現そのものについては、実は、通り一遍のことしか研究されていない。
あくまでも近世的美意識にこだわって、今現在残されている舞台機構や錦絵などの流通物から、近世歌舞伎の姿を検証しようとする試みは、専門家といえども、服部幸雄氏くらいしかしていないのではないだろうか?
もちろん、歌舞伎がライブであったことも大きい。それも、大衆に向け消費されていく商品として、提供され続けてきたために、「当時、具体的にどんな風であったのか?」がわからないのである。
かろうじて商品の雰囲気を伝える残滓はあっても、それらの商品がどのようなものとして享受されたか、またどのように変容していったのかの記録があまりに少ないため、隔靴掻痒のジレンマに陥るのだ。
演劇(もしくは芸能)という表現形態独特の、再現不可能性がそこにはある。
絵画や言葉、あるいは楽譜で記録される表現との違いは、演劇(もしくは芸能)には、常に同時代性がついてまわることだ。そして、この同時代性そのものが、演劇の依って立つ場ということである。
同時代性とはすなわち、舞台表現を試みた演劇人たち送り手と、それらの舞台を共有した見物や客など受け手との
両者の共犯関係の中にこそ認められるものであるため、双方が死んでしまうと手がかりがなくなる。
オーラルヒストリーでしかみえてこないものが厳然としてあって、広義的・一般的解釈を阻むのである。
また、歌舞伎はもとより明治以降の近代演劇含め、いわゆる「演劇論」が主観的舞台解釈(つまり、まあ、単なる好き嫌い)や役者評伝、劇作家評伝等、人物論や個人的領域を出ず、先日書いた通り、たとえば演劇評論そのものが、批判を受ける当の演劇人にとって、筋違いと感じられたり、無意味だと思われてしまう理由の一つには、日本という国に占める【思想・哲学】というものの位置が、欧米的フレームからするとあまりに脆弱だったということがあげられるのではないか?と私は考えている。
絶対神の世界を相対化し、人間主義となった西欧の近代思想体系の中での演劇は、常に「神とは何なのか?」「人間的であるとはどういうことなのか?」という真摯な問いかけであり、人間力の限界点や臨界点を、舞台という場で試す挑発的行為、いわばバーチャルに提供される実践哲学でもあった。
これらの問いかけや挑発、いいかえるなら【思想・哲学】は、日々を精一杯生き抜くだけの、一般大衆や民衆には無関係だったかもしれないが、文学を始め、生きる意味をつい自問してしまう【認識という営為に携わる者】に
とっては、実にリアルかつ切実な発露であり、皆が共に考えることができる共通命題という側面をもっていた。
だからこそ、演劇と文学、あるいは芸術や哲学との間の格差がなかったのである。すべて、同じ土俵だったのだ。
しかるに、人間そのものが自然(対外世界)と容易に一体化し、溶け合うことが当然とされる日本において、西欧流の「世界に屹立する自我」という概念は、輸入したとしても了解困難で、社会的必然性に欠けていたのだろう。
西欧的絶対神がなかった国には、神と対峙する自我の発見はありえない。
そも、前提とされた、弁証法的に止揚すべき二項関係そのものが、成立していないからだ。
西欧における近代的自我と共に登場する【演劇】は、自我の再発見へ至る道筋を求める模擬プロセスや、ある種の生き方提案、「今、私は人間というものを、こんな風に考えている」というプレゼンテーションであったにもかかわらず、日本という磁場においては、その【演劇】の捉え方がご本家とは異なり、錯綜し、多分に一時現象化、結果的に矮小化してしまうのもいたしかたない。
所詮【演劇】は、明治政府が急遽輸入した借り物の概念、必然なき徒花に過ぎなかった側面があるのだ。
というようなことを漠然と考えていたのであるが、『國文學』で面白かった論評は幾つかある。
一つ目は、世田谷パブリックシアター、現プログラム・ディレクターの松井憲太郎(佐藤信率いる黒テント出身)
の『レパートリー・システムとは何か』だ。
レパートリー・システムとは、年に一定期間実施される、劇場独自の新作および再演上演プログラムである。
自治体運営の公共ホールディレクターの任にある松井は、ヨーロッパ特にドイツの公共劇場で盛んなこのシステムを通じて、ヨーロッパの伝統として存続する演劇の公共性について考える。
(前略)演劇の伝統についての記憶の集合体としてレパートリー作品は、いまだに新しい解釈や技法を触発
することが可能なキャパシティを持った、豊かな演劇の財産として機能しているのである。
ところが日本には、能、歌舞伎、新劇、小劇場演劇など、それぞれの演劇の形式の登場によって分断された、
またそれぞれに自己完結していく演劇史や理論が複数あって、日本演劇のレパートリーといったものを形成
するための土壌となりうるような、連続性や共通項を持った一筋の上演史は育まれてはこなかった。(後略)
箱型行政措置で地方に乱立した公共ホール運営をめぐり、日本でも公共的に提供し続けるべきなんらかの演劇レパ
ートリーが求められるようになった、と松井は語る。劇場専属の芸術監督制度他、地方自治体で取り組まれている演劇活動はたしかに拡大傾向にあるが、果たしてその取り組みが松井が指摘する、国全体の共有財産としてのレパ
ートリー作品たりえるのか、そのようになるのか、私個人はやや疑問ではある。
ただ、グローバリズムの時代、地方のローカリティー同様、日本という国そのものへの内省的興味が高まっていることは事実だと思う。七十年代安保世代によるカウンター・カルチャー、あるいは政治闘争イデオロギーとしての演劇メソッド以外での、汎歴史的統合的な「日本化」の試みが意識的に行われるようになるのであれば、かなり面白いだろう。
二つ目は、劇作家・演出家である斎藤憐(オンシアター自由劇場出身)の『劇作の時代、演出の時代』だ。
彼は、西洋的前衛の延長線でしか評価する物差しをもたない、明治以降から連綿と続く日本の演劇評論家の態度に対し、痛烈な皮肉を送る。イプセン・チェーホフ・ストロンドベリ等、十八世紀末の西洋写実演劇の出発にしてもそれらが起こった都市の多くの劇場で、旧態依然とした芝居が数多く演じられるほど豊かだったゆえ、新しい演劇形態が珍しがられ、退屈しのぎに享受されたにすぎないと述べ、知的退廃としての演劇の限界を指摘する。
「金があるから、退屈もあり新しさが求められる」とは事実そうで、西欧演劇のほとんどは、国家の文化財として保護育成される環境に完全依存して成立しており、商売とはまったく無縁だ。
いわゆる西欧演劇が、迂遠で観念的な試みであっても「十分、食っていける」のは、税金や助成金、寄付金などによって演劇人たちの社会的立場が保障されているからであって、稽古収入など副業ありきの家元制度以外「芝居で食うこと」が極めて困難な日本とはまったく異なる。
西欧演劇とは、当初から、まさしく国家制度の一環なのだ。王侯貴族がパトロンだった時代、領国、王国、帝国、民主国家または社会主義国家等、体制上での変遷はあっても、そも演劇とは、為政者の偉容を誇る制度的資産であり続けているのである。
一方、活況を呈する、日本の平成演劇シーンはどうであろうか?
これほど大量の演劇(パフォーマンス)が上演されている国はないと思うのだが、公演で食べていける人数は微々たるものだろう。が、別の形で何とかやっていけるからこそ、泡沫のように次から次へと劇団が生まれ、芝居が上演されていることも事実だ。それらの舞台に、日常に倦んだ大衆がささやかな刺激を求めて集うているのが、現実だと思う。これは極めて豊かな社会に違いない。なんだかんだといっても、金あまり社会なのである。
また、日本は人口が多く所得水準も高い。チケット代を個人支出に負っても、広く薄い負担ですむ。
このような社会にあって、演劇の品質管理はとどのつまり、各演劇人の独断に任される。放任主義なのだ。
あえて国家が介入する必然性はないし、日本であるか否かも伝統との連続性も問われない。何らかの意味で、刺激的でありさえすればいい。判断は、居合わせた観客のリアクションに依拠する。お客様第一主義なのである。
私自身の関心は、演劇シーンというよりも、むしろ、歌舞伎という近世演劇表現の方法論をいかに考えるか?、といったあたりに集中している。
かつてみていた小劇場演劇、現代最前線の演劇含め、歌舞伎との接点をいかにみいだすことができるか?や、日本化した劇的なるものの代表サンプルとして歌舞伎を捉えた際、そこにみいだされる原理めいた衝動の正体は何なのか?、あるいはそれとはまた別に、日本固有の文化資産である歌舞伎を、豊かな源泉として残していくためには、どのような解明や取り組みが必要なのか?等について、ダラダラと思案しているにすぎない。
けれど、この考えは歌舞伎を制度的に取り込んでいく手法の模索であり、【日本または近世】という幻想的価値観の共有を、前提にしているところがある。これは、いわゆる西欧的な【思想・哲学】にとても近い。
まだまだ駄目だ、展開フレーム自体が異なっているではないか!との思いを、あらためて強くした。
このような論法を進めると、身の丈にあわない国家主義にこりかたまった明治的「演劇改良運動、のようなもの」になってしまう可能性が高いのである。
供給原理から考えると、伝統芸能として公的助成はあるものの、今に至るまで商業演劇たりえて興行を打っている歌舞伎は、国家保護のアテもないままに生まれては消える多くの劇団の演劇スタイルと、そう大差はない。
加えて、近代以前の劇作システム、「演出家を必要としない、役者中心主義」に徹した演劇形態でもある。
大きな政府が国家的試みとして支援する西欧演劇界隈と、今も昔も、実は小さな政府でありながら、なぜか社会の諸相が一枚岩の互助会状態、奇妙に社会主義的平等が達成されている日本での演劇界隈。
まこと蟻地獄のようではあるが、さまざまな差異をも心に留めつつ、私なりに今後も七転び八起きでいきたい。
ちなみに今回の『國文學』には、舞台美術家、堀尾幸男の『舞台の美術ー歌舞伎「研辰の討たれ」』
も掲載されていて、実はこの論が購入の動機だったのだが、私の求める方向は何一つみいだせなかった。
堀尾にとって歌舞伎という枠組みは多分どうでもよかったのだろう。それよりも、野田秀樹が重要だった
ことが了解でき、予想していたこととはいえ、なんとはなしに肩すかしを喰った気分ではある…。
また、青年団の平田オリザが寄稿していないのも不思議だった。早稲田小劇場の鈴木忠志以降、方法論
としての演劇に最も自覚的であり、国境を越えた舞台づくりをしている彼の最新考も読んでみたかった。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は こちら>
urlのところに、はじめて近松座の歌舞伎を見た英国人の劇評を載せてみたりします。ごくごく短く、特に役にたつとも思えないのですが、西洋/東洋って、聞くと、わっちの病が…(胡弓の音…笑)
さっそくブックマークいたしましたぁ。
劇評での演目は「釣女」と「曽根崎」なんですね。
そうですね、「哲学」や「思想」って言葉じたい、輸入翻訳したもんですからねぇ。
でもね、日本って大昔から輸入モンで豊かになってきた国なんですよ。唐天竺高麗と、まあ、そりゃあ色々輸入しまくりました。
ことに言語系と思想系はほとんど輸入ですよね。漢字がそもそも輸入した文字ですもんね。他にも、仏教然り、儒教然り。
神道がなんとなく体系だったのも、そもそもは仏教のせいですし…。
あと、行政制度や工芸品、建築物、それに遊廓(!)もそうですね。雛形はみんな外国にあります。日本より優れた文明をもった外国から、なんでもかんでも取り入れて、今の日本に至ってる訳ですもん。
だから、それご維新だ!ってんで、薩長の皆々さま方が欧州列強を視察されたり、あれこれ持ち帰られたのは、実に伝統的態度だったと思います。
旧劇と新劇ってのも、仏教来てから、こりゃいかんぞよと神道頑張る…みたいなもんだと思うし。
だから、まあ、そういうことを建国以来えんえんとやってる国が日本なんかな~と。
ただし、どうも紅毛人の考えだけは、うまく日本化できないゾ、って感じがあるのではないかしらん? それはもしかすっるってぇと、宗教の異質性から来るもんじゃないかいナァ…などと、ぼんやりと感じるのでありました(笑)。
浦島たろーが竜宮城(?)にいってた時の古文書です。めちゃくちゃなサイトの構造が作者のシナプスパターンの写しかもしれません。
さらに中高とプロテスタントの学校にいたりしたもんだから、「一神教?日本じゃねーよ」という反動的考えに凝り固まって笑)
ま、毛唐でもコオロギの詩を書いたりしてますから、通じるところとそうでないところがマダラにあるのかもしれないです。
宝探しめいたお楽しみつき!って感じですし。
ただ、日本の外にでてわかる日本の不思議さ、素敵さっつーもんって、やっぱりありますかねぇ。
「え?これってフツーでしょ?」といわれてしまう多くのことが、「いや、それはフツーじゃないよ、とっても日本らしいよ」って感じられて、その面白さ不思議さを、もう片方で「これぞ、ベーシックスタンダード。これぞ世界の見え方」と信じ込んでる紅毛人その他に、「ほらね、物事には色んな見解があるんだからさ…。も少し、見聞を広めようよ。そっちの考えって、超ゴーマンだよ」とぶつけたくなる気分っちゅーもんが、ムクムクと涌き起こってきたりします。
自分の中でも、色んなことがかなりマダラ模様なので、こっから先は東!そっちから先が西!なんて、簡単には決められませんがね(笑)
ああ、いけない。わっちも癪が・・・(笑)