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京極夏彦先生の『姑獲鳥の夏』を再度読了いたしました。
京極先生の本を読む度に思うのは、
自分の気持ちをどのように相手に伝えるのか。
その手段や方法を間違えると
こんな悲しくも、切ないことになってしまうんだなって。
長い付き合いだからわかってくれるだろうとか。
言葉にしなくても、キットきづいてくれるだろうとか。
自分の常識=万人の常識
そんな風に考えてしまうって
ちょっと危ないななんて思うのでした。
私の目が認識しているものと。
他の人の目が認識しているものが
同じものかどうか。
それを確認する手段は言葉でしかなくて。
本当に同じものを見ているかどうかさえ
あやふやであり。
伝え合う手段は『言葉』だけなんだなって。
同じ日本語でも
その言葉の意味を共通に認識していないと
会話って成り立たないんだなって。
どんなに中のよい人でも。
たとえ家族でも
分かってもらおう何て思うのは
こちらの傲慢?怠慢な事なのかもしれない。
自分の気持ちを伝えるには
何にも飾らない素直な言葉が大切なのかな?
なんて、読むたびに思うのでした。
『姑獲鳥の夏』
読めば読むほどいろいろと気づかされる点が多いです。
す~は~。
滅茶苦茶の感動を有難う<(_ _)>