私は毎年5月4~5日に行なわれる
神戸市東灘区の元住吉神社例大祭=だんじり祭りに
若仲として出ている。
子若(小学生)の綱がだんじりを曳く間は、
綱の先頭に立ち小若の指揮を取っている。
その為、子供達から毎年質問攻めに合う。
「どこのだんじりが一番大きいの?」
「だんじりの重さは?」
などの基本編から
「なぜだんじりの屋根に女の子は乗れないの?」
という神事に対する根元的質問に及ぶこともある。
先般、相撲の土俵上で倒れた市長を救うため
女性看護師さんが土俵にあがり問題になった。
世論も土俵に女性が上がるべきではない派と、
男女差別だ!土俵に女性が上がってもよい派に二分した。
しかし、いつしか人命救助に話がすげ替えられ
相撲協会が謝罪して終結。
なぜ女性が土俵に上がってはならないのかの議論には至らなかった。
相撲をスポーツとみるか、神事とみるかで見解が異なるからだ。
元住吉神社のだんじりは長らく7台だったが、
昨年、観音林地區が和歌山から小だんじりを購入。
観音林地區の悲願が叶い8台目のだんじりとして例大祭に加わった。
この日が観音林地區だんじりの伝統の始まりとなる。
観音林地區のだんじり提灯にはLEDのライトが仕込まれ、
屋根裏に取り付けられたバッテリーで
2夜は煌々と灯りを絶やすことはない。
また屋根方の身を守る命綱は
ワイヤーアクションで使うハーネスが付けられている。
安全性は抜群だがだんじり祭りという神事の様式に合うのか?
私見だが、私は合わないと感じている。
おそらく観音林地區の執行部は、
LEDの機能性とハーネスの安全性を優先したのだろう。
そもそも御輿は神社の所有物で、
例大祭では降臨した神様の「乗り物」であるのに対し、
だんじりは氏子の所有物で神様の乗る御輿の後ろにつく「楽団」である。
つまりだんじりは氏子の所有物だから、
氏子が決めれば何でもありともいえる。
全国の祭りをみてもLEDライトの提灯や電飾は珍しくなくなった。
今年恥ずかしながら、うちのだんじりの屋根方がてんごをして
戦隊者のスタイルで登場した。
神事としてはあり得ない行為で、
私は呆れを通り越し、恥ずかしさで一杯になった。
何かにつけアバウトな私ですら恥ずかしさを感じたのだから
地元で生まれ育った年寄連中は怒り心頭だったに違いない。
見ていた観客の中にはだんじり祭りを神事と捉えていない方々も多い。
そんな方からみれば戦隊者の衣装で統一された屋根方を見て
「面白い」と感じるかもしれない。
しかし地元で生まれ育った方々が、
戦隊者衣装の屋根方にジャックされただんじりを見たいだろうか?
だんじりを曳く若仲だけが氏子ではない。
地區に住む人々こそが氏子であり、若仲はその代表者に過ぎない。
繰り返すがだんじり祭りは単なる見せ物ではない。神事なのだ。
五穀豊穣、大漁祈願や無病息災を願って神と交信する神事なのだ。
地域社会において固有の習慣や生活様式が長い歴史に揉まれながら
伝統として受け継がれてきたのがだんじりである。
しかし、そういう観点からすると(百歩譲って)、
屋根方がしでかした戦隊者衣装も
歴史のユリ戻しの一駒と言えなくもない。
歌舞伎の由来ともなった「かぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)」もまた
その時代にはそぐわない異端児だった。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて
江戸や京都などの都市部で流行した異風を好み、派手な身なりをした
常識を逸脱した行動に走る者たちのことを呼んでいた。
今でも御影のだんじりの中には、屋根方が女形姿で舞う地區もある。
まさに「かぶきもの」の血を引き継いでいるのだ。
伝統は多数決で決めるものではない。
老いも若きも、地元民も新参者も一緒になって、
入念な議論を繰り返しながら、
少しずつ時代に併せていくことも伝統の一駒だ。
守るだけではなく、新しいことに挑戦することも必要だ。
ただし、だんじりは神事であることを忘れてはならない。
したがって祭りの運行責任者=四役の一存で変革をするものではない。
何かを変えようとしたら面倒でも地元で生まれ育った年寄に相
談しながら決めなければならない事もある。
ブリタニカ国際大百科事典には
哲学者マックス・シェーラー氏が
「様式化された伝統を死んだ伝統とし、
様式化せずに精神的態度の中に流れているものを真の伝統」
と呼んだと記されている。
奥の深い言葉だが、一言で言えるほど簡単ではないことを、
伝統の継承者=若仲の一員である私たちは知っている。
祭りの参加者は、皆さん良かれと思って行動している。
極論を言えば、ルールは己の精神にある。
しかし、だんじりは一人では動かない。
力を一つにしてこそ重さ4トンのだんじりは動き出す。
だから何かを変えようとしたら話し合うしかない。
ちなみに私はそれほど強くない。
様式化することで精神的態度が固まる派である。
伝統にどのように向き合い、どのように継いでいくのか。
地域社会の中でだんじりを守る若仲の果たす役割は大きい。
結論はない。
伝統とは?伝承とは?祭りとは?を考えさせられた
平成最後のだんじりは事故なく無事終わった。
神戸市東灘区の元住吉神社例大祭=だんじり祭りに
若仲として出ている。
子若(小学生)の綱がだんじりを曳く間は、
綱の先頭に立ち小若の指揮を取っている。
その為、子供達から毎年質問攻めに合う。
「どこのだんじりが一番大きいの?」
「だんじりの重さは?」
などの基本編から
「なぜだんじりの屋根に女の子は乗れないの?」
という神事に対する根元的質問に及ぶこともある。
先般、相撲の土俵上で倒れた市長を救うため
女性看護師さんが土俵にあがり問題になった。
世論も土俵に女性が上がるべきではない派と、
男女差別だ!土俵に女性が上がってもよい派に二分した。
しかし、いつしか人命救助に話がすげ替えられ
相撲協会が謝罪して終結。
なぜ女性が土俵に上がってはならないのかの議論には至らなかった。
相撲をスポーツとみるか、神事とみるかで見解が異なるからだ。
元住吉神社のだんじりは長らく7台だったが、
昨年、観音林地區が和歌山から小だんじりを購入。
観音林地區の悲願が叶い8台目のだんじりとして例大祭に加わった。
この日が観音林地區だんじりの伝統の始まりとなる。
観音林地區のだんじり提灯にはLEDのライトが仕込まれ、
屋根裏に取り付けられたバッテリーで
2夜は煌々と灯りを絶やすことはない。
また屋根方の身を守る命綱は
ワイヤーアクションで使うハーネスが付けられている。
安全性は抜群だがだんじり祭りという神事の様式に合うのか?
私見だが、私は合わないと感じている。
おそらく観音林地區の執行部は、
LEDの機能性とハーネスの安全性を優先したのだろう。
そもそも御輿は神社の所有物で、
例大祭では降臨した神様の「乗り物」であるのに対し、
だんじりは氏子の所有物で神様の乗る御輿の後ろにつく「楽団」である。
つまりだんじりは氏子の所有物だから、
氏子が決めれば何でもありともいえる。
全国の祭りをみてもLEDライトの提灯や電飾は珍しくなくなった。
今年恥ずかしながら、うちのだんじりの屋根方がてんごをして
戦隊者のスタイルで登場した。
神事としてはあり得ない行為で、
私は呆れを通り越し、恥ずかしさで一杯になった。
何かにつけアバウトな私ですら恥ずかしさを感じたのだから
地元で生まれ育った年寄連中は怒り心頭だったに違いない。
見ていた観客の中にはだんじり祭りを神事と捉えていない方々も多い。
そんな方からみれば戦隊者の衣装で統一された屋根方を見て
「面白い」と感じるかもしれない。
しかし地元で生まれ育った方々が、
戦隊者衣装の屋根方にジャックされただんじりを見たいだろうか?
だんじりを曳く若仲だけが氏子ではない。
地區に住む人々こそが氏子であり、若仲はその代表者に過ぎない。
繰り返すがだんじり祭りは単なる見せ物ではない。神事なのだ。
五穀豊穣、大漁祈願や無病息災を願って神と交信する神事なのだ。
地域社会において固有の習慣や生活様式が長い歴史に揉まれながら
伝統として受け継がれてきたのがだんじりである。
しかし、そういう観点からすると(百歩譲って)、
屋根方がしでかした戦隊者衣装も
歴史のユリ戻しの一駒と言えなくもない。
歌舞伎の由来ともなった「かぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)」もまた
その時代にはそぐわない異端児だった。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて
江戸や京都などの都市部で流行した異風を好み、派手な身なりをした
常識を逸脱した行動に走る者たちのことを呼んでいた。
今でも御影のだんじりの中には、屋根方が女形姿で舞う地區もある。
まさに「かぶきもの」の血を引き継いでいるのだ。
伝統は多数決で決めるものではない。
老いも若きも、地元民も新参者も一緒になって、
入念な議論を繰り返しながら、
少しずつ時代に併せていくことも伝統の一駒だ。
守るだけではなく、新しいことに挑戦することも必要だ。
ただし、だんじりは神事であることを忘れてはならない。
したがって祭りの運行責任者=四役の一存で変革をするものではない。
何かを変えようとしたら面倒でも地元で生まれ育った年寄に相
談しながら決めなければならない事もある。
ブリタニカ国際大百科事典には
哲学者マックス・シェーラー氏が
「様式化された伝統を死んだ伝統とし、
様式化せずに精神的態度の中に流れているものを真の伝統」
と呼んだと記されている。
奥の深い言葉だが、一言で言えるほど簡単ではないことを、
伝統の継承者=若仲の一員である私たちは知っている。
祭りの参加者は、皆さん良かれと思って行動している。
極論を言えば、ルールは己の精神にある。
しかし、だんじりは一人では動かない。
力を一つにしてこそ重さ4トンのだんじりは動き出す。
だから何かを変えようとしたら話し合うしかない。
ちなみに私はそれほど強くない。
様式化することで精神的態度が固まる派である。
伝統にどのように向き合い、どのように継いでいくのか。
地域社会の中でだんじりを守る若仲の果たす役割は大きい。
結論はない。
伝統とは?伝承とは?祭りとは?を考えさせられた
平成最後のだんじりは事故なく無事終わった。
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