ぴらにあの写真館 in 伊豆大島→都会へ(新・日記帳)

8年間の伊豆大島生活から都会へ移住しました…
旧日記帳(ODNまいぺーじの思い出)は、BOOK MARKよりどうぞ!

カーフェリー&な~んでか長崎の旅!(番外編)

2010-09-16 20:09:48 | おでかけ(国内)
*やったぞ吉田松陰の研究・・・の巻!

 ちぴらが学校に提出する自由研究のために、現地、本、インターネットなどで調べてまとめた文章(原文のまま)。多少、雑な表現もありますがご容赦下さい・・・

○子供のころは父の百合之助と、おじの玉木文之進に勉強を教わった。
 とくに文之進はきびしく、蚊にさされたところをかいただけでなぐられたり、ガケからつきおとされたりしたらしい。

○二十一回猛士という名前をつかっていた。
 生きている間に21回のすごいことをするといういみ。(じっさいには3~4回だった)
 吉の字をくずすと「十一と口」、田の字をくずすと「十と口で、あわせて「二十一回」になる。

○青森のたっぴ崎から九州の平戸までたびをして一生で13000Km歩いた。
 日本全国の人たちが生活に困っているのを見て、どうにかしなければいけないと思った。
 そのためには外国にいって、すぐれたぎじゅつをべんきょうしなければならないと考えて、アメリカの黒ふねにのりこもうとした。
 たびのとちゅうでトイレに行くと、その分時間をとりもどすために走った。

○べんきょうにむちゅうで、みだしなみに気をつかわなかった。
 ふところに本をなん冊も入れて歩くため、きものがいつもグズグズだった。かみの毛もめったにとかさないのでいつもボサボサだった。
 佐久間しょうざんにでし入りに行ったとき、あまりにもよごれていたのでおいかえされた。

○かんたんに人をしんじてしまうくせがあった。
 「人を信じてしっぱいするとしても、人をうたがってしっぱいすることがないように生きたい」と考えていた。
 はじめて会った人にまでヒミツの計画をばらしてしまうことがあって困った人だったらしい。

○世の中のじょうほうをあつめていた。
 日本じゅうにいるしりあいからおくられてきた手紙を「飛耳長目(ひじちょうもく)」というファイルにとじて松下村じゅくのみんなで読んでいた。

○べんきょう大好き。
 ろうやの中でもばんにんまでいっしょにべんきょう会をやっていた。

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