エクセルの金曜日

一息つこうかと喫茶店に足を向けた時、首からさげた携帯をなにげなく掴んで視野に入れ、携帯電話が着信を知らせる緑色の光の点滅を繰り返していた事にボクはやっと気がついた。電波が弱い所には行っていないし、i-modeにもしていないし、着信音はレベル3にしているのになぜ鳴らなかったのだろう？ボクは不思議に思いながら立ち止まって留守番電話センターの番号を押した。“面接が月曜日に決まりましたので、空けておいて下さい。詳細はまた連絡します。”電話は派遣会社からだった。
週明けに面接が決まった事を確認したボクの頭と心は、すぐさま今買ってきたばかりの“エンジェルハート”14,15,17巻に思い焦がれて、喫茶店へ向かって足早に歩きだした。

ボクは喫茶店の入口近くの席に座って膝の上に鞄を置き、水を注いだグラスを運んできた店員がメニュー表を差し出そうとする前にホットコーヒーを注文して、鞄からコミックスの入った袋を取り出して中身をテーブルの隅に置いた。その時、ストラップの先の携帯電話は口が開いた鞄の中で宙づりになっている状態で、右手でストラップを掴んで引っぱり上げると画面は着信履歴を表示していた。“留守番電話は聞いたから後で会社に電話すればいいや”・・・ボクは液晶画面を表に向けて、ガラスのテーブルの上に置くとコミックスに手を伸ばした。

一気に“エンジェルハート”を読破したボクの心は、穏やかで暖かい気持ちで満たされていた。まだ半分残っている珈琲を口にしてみると、すっかり冷めて苦味が増していた。テーブルに置いてあった携帯で時間を確かめると、もう１時間以上も経過していた。
緩い午後は今月でお終いかもしれないのかぁ・・・時計を見つめながらボクは、この緩やかな時間が無くなるかもしれない事に少し残念な気持ちになった。でもまだそうと決まったわけではない、ただ面接が決まっただけなのだ。実際に働けるかどうかを気にするのはまだ早い。

店を出て地元に戻った時に電話が鳴った。派遣会社だ。
ボクは“お疲れさまです●●です・・・”っと話を始めようとする営業担当の声を遮るように“留守番電話聞きました”と割って入ると“あっ・・・その件なんですが・・・●●さん・・・”と声のトーンが少し落ちた事が解った。また先を越されて他の人に決まっちゃったか・・・ボクはすぐさまそう思った。経験値が足りなくて技術的にも未熟なボクにはよくある事なのだ。横繋がりの派遣会社の営業さんもきっと一苦労だろう。
“実は面接が早まって金曜日になったんですが・・・”え？違ったか・・・それにしては何か含んでる切り出し方だ。もしかすると、以前に散々な面接になってしまった“あの会社”がまた絡んでいるのか？さすがなボクでもそれは避けたい。“実はですね～エクセルの技能試験があるんですよ・・・”“エクセルですか”“そうなんです”短い沈黙が流れた後に、採用されたらどんな業務内容なのか、どんな試験なのかを聞いた。

ボクは・・・ウインドウズのマシンは１年は御無沙汰だった。自宅にある譲り受けたマシンは、設定の一部をいじってしまった為にログインも出来なくて粗大ゴミになっている。毎日使っているマッキントッシュにエクセルだけはインストールしてあるが、ウインドウズとはマウス操作も違うし、ダイアログの出し方さえ違う。さらにはエクセルなんて使う機会は全く無い。以前に投入された会社でも、エクセルの初歩程度でしか使った事がない。
ボクは・・・データ入力の仕事は、簡単な表を作成するとか、フォーマットされたモノに数値入力でもするんだろうと簡単に考えていたのだが、エクセルでフローチャートを作成すると聞き、少なからずボクは怯んで“マックじゃちょっと操作が違うんですよねぇ”心ここに有らずのような口調で呟いた。“取りあえず・・・参考資料と過去の試験問題をメールに添付して送りますから開いて見て下さい”そう言うと営業担当は電話を切った。

そしてボクは・・・メールで送られてきたその資料に目を通し、過去に出題されたと言う問題を開いてみたが、マックでのエクセルの操作自体をすっかり忘れていた。あちこち触ってだんだん思いだしてきたその時・・・“予期しない事で”エクセルが落ちた・・・。フリーズしないだけマシではあった。その問題は、エクセルの操作の初歩には間違いない単純なモノではあったが・・・出題は２題、時間は30分・・・未熟なボクにはちょっと時間が足りないと思われた。

念の為にマックを再起動している時、さっき買って読んだ“エンジェルハート”がフローリングの床の上に転がっているのが目に入った。表紙のヒロインの瞳は微笑んでボクを見ていた。