唐辛子粉売り 浅草雑芸団 上島敏昭氏
【1751(宝暦元)~1771年(明和8年)頃】
町人文化が花開き、消費の活発化とともに増え始めた行商人の多い江戸の町でも、唐辛子の行商人は、とくに目立った存在のようである。この頃に登場した粉唐辛子売りは、赤を基調とした衣裳で決め、大きく真っ赤な張子の唐辛子を担いで、口上とともに売り歩いたとされる。「とん、とん、とんがらし、ひりりと辛いは山椒の粉、すいすい辛いは胡椒の粉、芥子の粉、胡麻の粉、陳皮の粉、中でも良いのが娘の粉、居眠りするのは禿の粉、とん、とん、とんがらし・・・・・」。行商人の掛け声として江戸の辻々を賑わせているうち、唐辛子は人びとの身近な存在になっていったと推測されるのである。「とんがらし」と呼んだ誇張が印象深いが、数え歌でも同じ誇張がされている。それは羽根突き唄として日本全国で歌われ、地域によって唄の内容に違いが見られるのである。江戸近郊(東京・多摩東部)のものは、「とんがらし」バージョンである。「いちじく、にんじん、さんしょにしいたけ、牛蒡に蝋燭、七草白菜、胡瓜に、とんがらし」。唐辛子は、地方によって「こしょう」とか「南蛮」と呼ばれていることはよく知られているが、「とんがらし」という呼称というか、俗語も今だに顕在であり、東京近郊では戦後も長い間使われていたといわれている。このようにして、「とうがらし」を、「とんがらし」と呼んだだけで、言葉が独り歩きを始めたわけで、実に面白いものである。ところが、「とんがらし」の一人歩き、まだまだ終わらないのである。粉唐辛子の行商が流行し始めた、江戸時代の明和年間、甲州街道・日野宿に、「トンガラシ地蔵」が建立されている。幕末の志士、沖田総司が幼少時に頻繁に詣でた、唐辛子を供えると目の病が治るご利益があるといわれるが、江戸近郊の俗称である「とんがらし」で呼ばれていることで、お地蔵さんが身近に感じられるものである。江戸時代の生活文化情報誌である、喜多川守貞が江戸と上方を比較執筆した考証的随筆といわれる近世風俗志「守貞謾稿」(著者 喜多川守貞 校訂 宇佐美英機 岩波書店)に、「蕃椒(とうがらし)粉売り」という記述がある。「七味蕃椒と号して、陳皮・山椒・肉桂・黒胡麻・麻仁等を竹筒に納れ、鑿をもってこれを突き刻み売る」。粉唐辛子の振り売りの様子が、克明に描かれているが、同じ唐辛子の振り売りでも「生蕃椒売り」も、「守貞謾稿」に記述されていて興味深い。曰く、「とうがらしの根とともに抜きて、小農等売り巡る」、江戸近郊の農民が、江戸稼ぎで現金収入を得ていた様子が推察されるのである。おそらく品種は、「内藤とうがらし」。トウガラシは、小さなドラマの連続である。
日野宿。トンガラシ地蔵。
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。