パンダは入信をしませんし、薦める立場でもないのです。
これはあくまでも個人的な興味からの参加の記事です。誤解なきように。
この記事はシロートのパンダがヴィパッサナー瞑想の機会を得た4/16の名古屋初期仏教デーの参加の日記です。
アルボムッレ・スマナサーラ長老に日曜日に半日まるまる延々ご指南賜われました。ものすごく有意義でした。
あくまでも個人的な興味から顔を出した時のスケッチ的なメモであり、喧伝でも詳細でもなく、私自身が思い出せたら有益かしら?っておもったのんを書き記すものですので、そこいらへんを程よく端折って読める方にだけ、覗き見のようにご覧ください。
最初は質疑応答。
- 知識になるものをからだにいれる際に気をつけるべきサティはなんでしょうか?
どんなに難しい本でも書いてるのは人間です。「自分で書いてる気」になって読めば、どんな本も通り一遍読めば必ず身につきます。 - 末期がんになった知り合いの方にがいるのですが、^恐れ^という感情があります。きもちってなんでしょうか?
恐れは欲から来ていますがどうしたらなくせますか?という小学生の女の子の言葉に、慈悲の瞑想を勧めていらっしゃいました。沢山の人にお世話になって、感謝を持てさようならの気持ちでいるしかない。お世話になりました、という気持ちになってほしい。
すべてのものごとは・おいて・おいて・去るべきである。
「生きている時間」は伸びない。賢く生きている人ははい、おしまい、で済ませられます(そう考えらる知恵に達してるの意)。
誰であろうと一人でこの世を去っていく。独りでいることを研究しなさい。 - 気づいたときには家族をもてなそうな自分がわかり、周りで家族の和気あいあいや、年配者のお子さん・お孫さんのノロケ話にさえもヤキモキ地ちゃうのです。この執着をなんとかしたいです。
執着に楽しみを探してきたんでしょう?子供を育てると一口に言っても、大変な苦しみが(言っていないだけで)ある。
「絵は好きですけれど、カンバスは大嫌い」は成り立たない論法です。
「誰かが私を幸せにしてくれる」という精神性は危険。
海を見ているように無執着に過ごし生きること。あなたのものにはなりませんよ、海は。 - 仏教に触れるようになり、大人物やリーダー、しっかりした大人になれるかと思ってたけれど、真理を学んでもどうも正当に評価されてない気がします。
仏典や教養書読んだだけで仏教の教えは人に入りやしない。
影響力を与える力も、慈悲の心から出せる。厳格世界を正しいと思ってるから失敗するんです。
So What?の精神。
がんです、と宣告され「ああ、大変!」と騒ぎ出すのが世間。
「そうですか、で、なに?」で済ませられる心境に迎えるのが真の仏教徒。欲のある人は自らプログラムを作り出すことに長けてるばかりでやきもきや妄想、幻想ばかりが増える。
これで概ね2時間が終了。
このあとヴィパッサナー瞑想の実践で3時間を使っていただける。
● ヴィパッサナー瞑想の実践
- 腕を上げ下げする瞑想(15分)
- 立つ瞑想(20分)
- 歩く瞑想(1時間)
- 座る瞑想(20分)
前のめりに倒れるときも首は伸ばす。腰から背筋をスローモーションのように心象しながらいい具合の位置で「止める」を人形の如き堅牢さでとどめおくこと。
腹式呼吸必須。
瞑想の目的は日常に毒されきってしまってる妄想や邪念などからの開放で、余計なものを取り払いやすくしつらえ直す感じです。人本来の命の部分が自然に振る舞えてたことを、社会生活の因習とか約束事に愛相しすぎちゃってすっかり生き物として自身も体感からくる慧眼も損なってしまっているのを、いくらかでも自分の身体感覚経由で、正気を取り戻す訓練、と思えばいいという感じでした(師はもっと数段格式高くこれらを表現されていましたが、実践中のメモはご法度でしたんでうろ覚えですんまそん)。
身体感覚の方から入ってくる伝達と同時に、その実況を延々まだんなく続けることで、竜巻のよな情報量で自分自身の余計な邪念とか予定調和、妄想、思い込みの入る余地を徹底的に排除する。
日常擦れした自分の感性、体幹をまともに調整し直すのがこの「観察前提」の動きで、逐一自分自身で感覚を定義し直す。し直すと今書いたけど、本当はただただ味わうのであり、意味を当てないことが肝心。意味などはない。全ては「状態」なのであって、意味合いで成り立ってるものなどほぼない。
人間の感性面を聡明に調整し直すには有効と感じます。科学でも体育でも啓蒙でもかなわん手法が完成してた気がします。長老曰くブッダについてもらって習うのが大事、とのこと。さもあらん。