多分ピンチは一旦引き受けて損したものに微笑むのだと思う。
見られるべきは覚悟である。
損を得ないものは、他も得られない。
「損を厭う」態度自体に、もう因果があり、損もできる、と「しなかった」に分岐が宿っていることを知らない人が多すぎる。
負けようが構わない、には宿ってるものがある。
それは狙ってそうすれば「狙ったな」が先に立って分岐を起こす。
そういうコズルイことにも、起因がある。
こざかしくある人には、こざかしさの因果で相応じゃないか、と皆がおもうように、天賦の方だって相応しいところに、順当でこたえてくれる。それだけのことだ。
優しさ由来であっても、憎しみ由来であっても、「誰かのために」って気持ちで始めたことって、その結果を「やってあげたのに」が根っこにあることになります。
相手がそう望んでるかどうか以前に「してあげてるのに」を宿しています。言外に・無意識にそうしてるケースも多く見受けます。
ノー・ニーズなのに、「良かれと思って」なる「自己解釈」が成分多めすぎて、「ありがた迷惑」になるのを辞さぬほどには「自己愛」ベースの挙動とも言い直せます。
こう言い回すとちょっと底意地悪めに印象されるでしょうが、実際そうです。
悪意でも善意でも、その発症に「良かれと思って」だけで動けてしまうと、相手との認識に齟齬があります。そこに「目を瞑った」非礼は、自分に許した行動でした。
承諾も了解もなく「良かれ」を敢行したのは、すいませんがエゴです。相手の意向が入っておりません。
けれど人は怒り出すんです。
すごく怒り出すんです。
「こんなにしてあげたのに」って。
この自作自演には「善意で始めた」を、始めた人自身に免罪符にしてる卑怯があります。
「相手の望み」<「自分の善意」
は、そりゃ「善意なら許される」なる自己愛の甘さがあります。
そこ、人って見ないんです。
弱くって、直視ができないんです。
善意発祥の失敗を犯した人に対しても、「善意からだったんだよね・・」って周囲も心当たりがあったりして、強くも叱責したがらない雰囲気を醸成します。
なんなら、いらぬ同情まで見せたりします。むろん、誤解して「次回もしでかす」に加担しただけになりがちです。悪循環は存外世間に頻発しています。
ダメよね。
誠意があるのならきちんと「それは相手には重かったんだよ」と言添えなくちゃね。
往々にして「良かれ」でしたことが、しくじりの種になるものです。
そういう目に遭う、を念頭に置いて、所作というのは須(すべから)く、「自分に結果を負う」において、為すものです。
「相手に良かれと思って」には、嘘があります。そこは自重しましょう。….しにくいけどね❤️
怒ってる人らの似通う理由は、その根っこに「思った通りでなさ」があるから。
思った通りでなさ、というのは、「自分の思い描いた通りじゃない」からが、「怒ってもいい理由」に出来る人の所作。
「思った通りになんか、なるはずがないじゃん」な人には、その刹那では「怒る理由」には、そもそもできない。
トランプとプーチンのそれは「イチャモンつけて相手を恫喝」する類の、国家ぐるみで命の存続に関わるやり口になった。
ロシアは人口分布がいびつになるまで、いつも戦争でしくじる国になってる。国体が損なわれるまで貫徹するお国柄ではあるけれど、この精神性ではいつまでも安泰な国家運営に至れない。
アメリカは典型的なポピュリズムさに埋没して「世界の方が避け出す」国に陥ってしまったのは、トランプの度重なる愚挙のせいだ。
なお悪いのは悪意ある煽動をし、そそのかすを許す土壌のまま、他責を恥じぬと知れた者を、「悪いものに悪い者をぶつける」荒療治で敢行してみたら、この機を逃すまいとばかりに、「やりたい放題」を始められ、「触らなければ安泰」だった所の破壊が進んでしまった。
回復不能なラインを遠に越え、このルビコン川はもう再びやってこないまで完膚なきまで破壊が続いてる。
「自国民が亡くなっていく」景色を、私たちは今、ニュースで刻々と目の当たりにしているが、「このままでは良くない」まで分かってても、それでも重い腰はあげないままでいくのだろうか。
パレスティナに至ってはネタニヤフが罪のない人の命を「テロリストの温床」とみなしただけで奪っている国にイスラエル陥らせた。
国の総意がそうであるとは、到底信じ難い、まぎれもない虐殺だ。
遠からず波及してくる「誰かのしくじりのとばっちり」を座して待つのはサディストだ。
私たちは「しくじらせない」は多分、阻止できなかった。
次策は「しくじりを広範に波及させない」だが、これもやや遅きに失してる。
さて、じゃあ、どうするか?
まだ「こうでいる」のを続けるのか。
「そうでいてしまった」記憶は、生きてこれからを過ごす私たちに、否応なく「思い出させ続ける」刻みとなって、心深くに常駐する。
それにしたって「生き残れてた側」に運よくあっただけの暁光にすぎない。「運の悪かった」落命側は、否応なくそう見舞われたに過ぎず、落ち度なんてなかった。
亡くなっていったロシア兵も、ウクライナ兵も、パレスティナ人も、今アメリカで困窮にあえぐ人らも「こんなはずじゃなかった」と思いながら、「向こう」に渡った。
この無念さを人類はわかる。
やるせなさと言ってのけるのは、狡さの加担が香る。
今の異常さは、人が作ったものだ。
自然発生ではなく、「思ってた通りをした」せいの、行き先は、こうだった。