テレビ朝日の番組でまた理解不明の日本語に出くわした。芸人ではなく、テレビ局のディレクターが云ったのだ。「道をお尋ねさせて貰って宜しいでしょうか?」。云われた人もそれにつられたのか、おかしな云い廻しだった。「最近は行かせて貰っていないので知りません」。その場所には誰かの許可を貰って行くのだろうかと不思議に思って聞いていたが、単に「最近は行っていないので、よく分からない」と云うことだ。
どうして「道を教えて頂けないでしょうか」とか「道を教えて下さいませんか」と云えないのだろうか。以前にも触れたと思うが、ドラマの撮影現場で「そこを退いて貰っていいですか?」と突然云われたときは一瞬戸惑った。「恐れ入りますが、そこを退いて頂けませんか」と云われたのだ。
江戸時代の遊郭に「里言葉」とか「廓言葉」と云われる特殊な言葉遣いがあった。遊女の生国の訛りを隠すためにそのような言葉を遣わせたのだ。それはそれでいい。だが、現在の、あのおかしな言葉遣いは一体何のためのものだろうか?地方出身のお笑い芸人やテレビ局のADやディレクターが、里言葉と同じような感覚で使うようになったのだろうか?
何年も前に、楽しみと暇つぶしを兼ねてドラマのエキストラをやっていたことがあった。その撮影現場で聞いたのが、「~して貰っていいですか?」の連発だった。我々についてくるエキストラ事務所のマネージャーまでが撮影スタッフの真似をして使っていた。この様なおかしな言葉遣いはテレビ局から生まれたのだろうか。それともそのような云い廻しをする方言があるのだろうか。それがテレビで使われるようになると、日本語をよく知らない連中が最新流行の言葉遣いと勘違いをし、それが徐々に使われて彼らの間に広まったのだろうか?
それ以外に、今は身近なところで「大丈夫」と云う言葉が使われている。銀行、病院、それに区役所などで「えぇ、それで大丈夫です」と云われることがよくある。「えぇ、それで大丈夫です」と云われた場合は安心して、これでいいのだと判断出来る。だが、「大丈夫です」とだけ云われると、そのようなことをしなくとも「良い」なのか、「そうして下さい」なのか判断が出来ない。そのようなときは必ず聞き返し、相手から確認を取ることにしている。すると相手は、私が日本語をよく理解出来ないオジさんなのだと云う目で私を見る。面と向かって話すときはそれでいい。以前のガラ系の携帯が壊れ、ガラホになってから使い方を教わるために電話した。ここでも、大丈夫、大丈夫の連発である。そのように云われるたびに確認をとる必要がある。私は貿易業を始めてから、相手が戸惑わない、簡単明瞭な通信文を書くことを心掛け、出張で取引先に会うときも相手から聞き返されないように、一回で理解しやすいように話すことを心掛けてきた。
幸いなことに、私の写真仲間にはそんなおかしな言葉を使う人たちはいない。そんな仲間の一人と日本民家園に行ってきた。懲りずにその写真を見て頂きたい。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:1,600、 f4、 1/10秒、 露出補正:-1、 WB:オート。
家業が「油屋」だった井岡家。商家だったせいか、座敷が小ぎれいになっている。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:200、 f11、 1/30秒、 露出補正:-1、 WB:オート。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:400、 f11、 1/60秒、 露出補正:-1、 WB:オート。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:800、 f5.6、 1/10秒、 露出補正:-2、 WB:オート。
「新築の古民家」の三澤家。これから何十年も「健康な家屋」でいられるよう、莫大な費用と時間をかけて修復した。使える材料はそのままに、新しくしなければならないところは作り直した。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:200、 f11、 1/60秒、 露出補正:-1、 WB:オート。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:100、 f11、 1/45秒、 露出補正:-1、 WB:オート。
最近のカメラ雑誌を見ると、プロのカメラマンが静止している被写体を1/800秒で撮ったり1/1,200秒で撮っている。その為にISO感度を3,200とかそれ以上に上げている。そして絞りを6.3とか9.6とかの訳の分からないf値にしている。フィルム時代には、f2.8、f4、f5.6、f8、f11、f16と規則正しい絞りで撮っていた。デジカメになり、感度は無制限と云えるほど上げることが出来、絞りも中間値で設定出来るようになった。だが、私はフィルム時代のようなf値の設定をし、感度はぎりぎりに抑え、それに依ってシャッター・スピードが落ちても手振れしないようにして撮っている。いわば限界への挑戦を未だに続けているのだ。フィルムの時代は高度な技術が伴わなければプロとして通用しなかった。現在は高感度に設定出来るカメラ、それに手振れ防止付きのレンズと自動焦点が可能なレンズが彼らの未熟な技術を助けている。修行僧ではないので、私も彼らのような安易な方法で楽に写真を撮ればいいと思うが、頭と体が動く限り「ギリギリへの挑戦」を続けたい。これが私の写真を撮る楽しみでもある。
どうして「道を教えて頂けないでしょうか」とか「道を教えて下さいませんか」と云えないのだろうか。以前にも触れたと思うが、ドラマの撮影現場で「そこを退いて貰っていいですか?」と突然云われたときは一瞬戸惑った。「恐れ入りますが、そこを退いて頂けませんか」と云われたのだ。
江戸時代の遊郭に「里言葉」とか「廓言葉」と云われる特殊な言葉遣いがあった。遊女の生国の訛りを隠すためにそのような言葉を遣わせたのだ。それはそれでいい。だが、現在の、あのおかしな言葉遣いは一体何のためのものだろうか?地方出身のお笑い芸人やテレビ局のADやディレクターが、里言葉と同じような感覚で使うようになったのだろうか?
何年も前に、楽しみと暇つぶしを兼ねてドラマのエキストラをやっていたことがあった。その撮影現場で聞いたのが、「~して貰っていいですか?」の連発だった。我々についてくるエキストラ事務所のマネージャーまでが撮影スタッフの真似をして使っていた。この様なおかしな言葉遣いはテレビ局から生まれたのだろうか。それともそのような云い廻しをする方言があるのだろうか。それがテレビで使われるようになると、日本語をよく知らない連中が最新流行の言葉遣いと勘違いをし、それが徐々に使われて彼らの間に広まったのだろうか?
それ以外に、今は身近なところで「大丈夫」と云う言葉が使われている。銀行、病院、それに区役所などで「えぇ、それで大丈夫です」と云われることがよくある。「えぇ、それで大丈夫です」と云われた場合は安心して、これでいいのだと判断出来る。だが、「大丈夫です」とだけ云われると、そのようなことをしなくとも「良い」なのか、「そうして下さい」なのか判断が出来ない。そのようなときは必ず聞き返し、相手から確認を取ることにしている。すると相手は、私が日本語をよく理解出来ないオジさんなのだと云う目で私を見る。面と向かって話すときはそれでいい。以前のガラ系の携帯が壊れ、ガラホになってから使い方を教わるために電話した。ここでも、大丈夫、大丈夫の連発である。そのように云われるたびに確認をとる必要がある。私は貿易業を始めてから、相手が戸惑わない、簡単明瞭な通信文を書くことを心掛け、出張で取引先に会うときも相手から聞き返されないように、一回で理解しやすいように話すことを心掛けてきた。
幸いなことに、私の写真仲間にはそんなおかしな言葉を使う人たちはいない。そんな仲間の一人と日本民家園に行ってきた。懲りずにその写真を見て頂きたい。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:1,600、 f4、 1/10秒、 露出補正:-1、 WB:オート。
家業が「油屋」だった井岡家。商家だったせいか、座敷が小ぎれいになっている。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:200、 f11、 1/30秒、 露出補正:-1、 WB:オート。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:400、 f11、 1/60秒、 露出補正:-1、 WB:オート。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:800、 f5.6、 1/10秒、 露出補正:-2、 WB:オート。
「新築の古民家」の三澤家。これから何十年も「健康な家屋」でいられるよう、莫大な費用と時間をかけて修復した。使える材料はそのままに、新しくしなければならないところは作り直した。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:200、 f11、 1/60秒、 露出補正:-1、 WB:オート。

キヤノンEOS5DMkⅣに17-40mm、4Lを装着。 ISO:100、 f11、 1/45秒、 露出補正:-1、 WB:オート。
最近のカメラ雑誌を見ると、プロのカメラマンが静止している被写体を1/800秒で撮ったり1/1,200秒で撮っている。その為にISO感度を3,200とかそれ以上に上げている。そして絞りを6.3とか9.6とかの訳の分からないf値にしている。フィルム時代には、f2.8、f4、f5.6、f8、f11、f16と規則正しい絞りで撮っていた。デジカメになり、感度は無制限と云えるほど上げることが出来、絞りも中間値で設定出来るようになった。だが、私はフィルム時代のようなf値の設定をし、感度はぎりぎりに抑え、それに依ってシャッター・スピードが落ちても手振れしないようにして撮っている。いわば限界への挑戦を未だに続けているのだ。フィルムの時代は高度な技術が伴わなければプロとして通用しなかった。現在は高感度に設定出来るカメラ、それに手振れ防止付きのレンズと自動焦点が可能なレンズが彼らの未熟な技術を助けている。修行僧ではないので、私も彼らのような安易な方法で楽に写真を撮ればいいと思うが、頭と体が動く限り「ギリギリへの挑戦」を続けたい。これが私の写真を撮る楽しみでもある。