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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 28

2014年07月14日 | 日記
 必要な荷物を持って一階に降りていくと、ジルス・ベド社長が嬉しそうな顔をして車から降りてくるところだった。「どうしたんだ?」と聞くと、「マンザ・ケリーに会ったんですよ!久しぶりのマンザ・べでした」と云った。「マンザ」は美人の意で、「ケリー」は少しとか細いの意であるが、この場合は若いの意である。「ベ」は非常にの意である。即ち、「若い美人に会いました。久しぶりの物凄い美人でした」と云ったのである。この辺り一帯はほぼ全員がアフリカ系のサカラバ族、バラ族、マファリ族が主に住んでいる。これらの部族には楽しくなるような美人は少ない。フォー・ドーファンのアンタンヌシ族は同じアフリカ系でも例外的に美人が多い。理由は知らない。「朝早くから、そんな美人に会えてよかったな。そういうのを日本では縁起がいいと云うんだ」と云うと、更に嬉しそうな顔になった。憎めない奴だ。
 
 ベド家のルーツは東海岸のフェナリブ(貿易港のトマシナから100キロほど南に行った所)である。この辺りはベツィミサラカ族の居住地である。この「ベツィミサラカ」はマダガスカル編の11でも少し触れたが、「一致団結」の意味だそうだ。彼の「ザオダヒ」(義理の兄弟)であるジョセ・マリエ・ダヒー氏もベツィミサラカ族である。アンセルメ・ジャオリズィキーが後で云ったことだが、同じアフリカ系である自分でもベツィミサラカの仲間には入り辛いと云っていた。だが、アンセルメ・ジャオリズィキーが彼等から疎外されていたわけではない。だが、何か壁がるように感じていたらしい。


 今朝も順調に作業は始っていた。昨日、私が選んでおいたフリッチは既に製材所に運び終えていた。




 乱雑であった製材工場は、上の写真のように雑然としていた工場は既に片づけられ、材の一部は製材されていた。


 パリサンダーはきちんと四角に切り揃えられていた。これではフリッチではなく角材である。おまけに、切り落とした材で板まで作り上げていた。このような丁寧な仕事は必要ない。汚れを落とすために表面をざっと削ればいいのである。仕事を早く片付けるためにも、以後はそのような方法で行うように伝えた。


 アンタナナリブからジルス・ベドのすぐ下の弟のルイス(向かって右)が応援に来ていた。彼がこの製材工場の作業を仕切っていたようだ。ルイス君は機械、特に新しい機械が好きで、アンテナを高く伸ばせば森の中でも使える携帯電話を持っていた。


 森と製材工場との中継地点。此の中継地を設定したことで作業性が格段に良くなった。


 仕事が終わった後、ホテルに送ってくれるのかと思っていたが、この家に連れてこられた。リビングルームではルイス・ベドが既に寛いでいた。彼は強い酒だ好きで、ラム酒にバニラビーンズを漬け込んだ酒を飲んでいた。かなりアルコールの度数が上ると云っていた。私にもどうかと勧められたが辞退した。以前にも触れたが、マダガスカルのラム酒は世界最高品質と評される時期があった。原料となるサトウキビの育成に適した土地であるとのことだ。


 先に述べたように、アフリカ系が主な住人であるのに、この家にはインド系の、かなりのお年の人がいた。ジルス・ベドとは親しいようだが、紹介されたわけではないのでどのような関係であるかは不明である。だが、察するところ、この家はベド家のもので、この老人はベド家の使用人であり、この家の留守居役のようなものであると想像した。


 BIEの社員と一緒にいるのはどう見てもアラビア系のアンタイサカ族かアンティファシイ族のように見えた。彼等はずっと南の東海岸が主な居住地であるのに、かなり遠くに住んでいることになる。此のアラビア系のオジさんもベド家の使用人のようである。ジルス・ベドはその辺のところを何も云わないので、敢えて聞かなかった。だが、ベド家はかなりの資産家のようである。

 食事が終った後で、ジルス・ベド社長が「お話があります」と云って、私を誰もいない部屋に連れて行った。「C社長の件です。実は、私どもとの取引をどのようにして知ったか知りませんが―恐らく中国人を通してだと思いますが―C社長が自分の取引先を横取りするなと云ってきているのです。貴方と長く取引なさっていたことは知っています。この仕事をC社長にお返ししてもいいのですが、正当な理由もなしに相手の要求を受けるわけにはいきません。それに、我々の仕事は既に始っています。義理の兄(ジョセ・マリエ・ダヒー商務官)に相談したところ、義兄はフランスに出張しているアンセルメ・ジャオリズィキー課長に調査を依頼してくれました。課長は来週に帰ってきます。帰り次第すぐに調査をすると約束をしてくれたそうです。貴方が、C社長との仕事を復活させたいとおっしゃるなら、それはそれで結構です」と云った。
 意外な話を聞いた。C社長は全ての財産を失ったと聞いた。パリサンダーを輸出するには相当な資金が必要である。彼を復活させるために、彼と再び取引をするのはやぶさかではない。而し、何か裏がありそうだ。しばらく考えてから「とにかく、このやりかけた仕事はBIEとやり遂げよう。その後のことはアンセルメの調査が終ってから相談すればいいと思う。それでどうだろう?」と云うと、ジルス・ベドはホッとしたような顔をした。そして笑顔が戻った。


 朝早くにホテルのレストランに降りてきたが、まだ朝食の支度が出来ていなかった。朝の6時前の時間は涼しく、此処がアフリカなのだろうかと疑いたくなるほど清々しかった。


 道路の見える場所に陣取り、外を見ていたが、人は全く歩いておらず、何故か人力車が放置されていた。




 製材工場に運ぶ準備がどんどん進められていた。ジルス・ベド社長は頭の回転がかなり良いようで、私の要求を的確につかむと、作業員に指示を与えた。BIEの社員に聞いたところ、ジルス・ベドの指示は大まかであるが、作業員がよくその意を汲んで仕事をしているようだ。最初はどうなるものかと心配したが、この説明を聞いて安心した。以後、私は何もせず、口も出さずにいた。選木もBIEの社員がやり、判断がつかぬ時だけ私に聞きに来た。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 26

2014年06月30日 | 日記
 マダガスカルに向け、成田を出発したのは1995年の2月だった。マラリアが癒えてから2年8カ月もマダガスカルから離れていたことになる。マラリアを恐れてマダガスカルに来なかったわけではない。私の唯一の取引先であったC社長と急に連絡が取れなくなってしまったからである。会社にも自宅にも電話したが誰も出なかった。そのうちに呼び出し音もしなくなってしまった。社員に連絡したくとも、個人で電話を持てるマダガスカル人は少なかった。困り果て、商務省のアンセルメ・ジャオリズィキー課長に電話した。彼は私からの電話に喜びと恐怖を感じているようであった。早い話が、私がマラリアで死亡してしまったと信じていたようだった。アンセルメだけではない、アンタナリブに居る私の友人や知人は全員がそのように信じていた。「C社長が貴方のご友人から受け取られたファックスを私にも見せて下さいました」と云った。私が先輩にお願いして送って頂いたファックスの内容に誤解があったようだ。先輩は貿易業者の通信手段が、LT電報(書簡電報)、テレックスの時代から貿易業に携わっていたので、その文章の書き方が昔のままであったのだ。当時の電報は住所も含めて19文字以内であれば通常の電報代よりずっと安かったが、それでもかなりの値段であった。長い住所だったったらそれを書くだけでかなりの文字数になるので、貿易業者はケーブルアドレス(電報用の宛名)を持っていた。私の会社の場合は「JAMCOXXXX」である。そして残りの18文字で全ての内容を書く方法を取っていた。「貴社の電報に関して」と書く場合に「RYTGM」と書けば一文字で済む。テレックスになってからは、通信時間で課金されたので、送る前に事前にさん孔テープを作っておく。最低料金に収めるには、さん孔テープの長さを1メートル以内に収めていた。従って、LT電報よりはかなり有利ではあったが、それでもかなり気を遣った。「RYRTLX#233」(貴社のテレックス233番に関して)と云う書き出しで始めるのが常であった。先輩はファックスを送る場合でも、LT電報やテレックスの文書の作成法を引きずっていたのである。後で聞いたのだが、「彼のマラリア菌の血中濃度が10%で、かなり重篤であり、当分仕事に復帰出来ない」と書き送ったらしい。先にも書いたように、常識では5%のマラリア菌が体内にあると重体である。それが10%で、しかも「仕事に復帰出来ない」と暗号混じりのファックスを受け取ったのでは、私が死亡して「仕事に復帰出来ない」と誤解しても仕方がなかったであろう。C社長にしてもアンセルメにしても貿易業者間同士でやり取りをしていたLT電報やテレックスの文書の作成法を知らなかったのである。それで私の所に電話もなければお悔やみの手紙もなかった。彼等は私が死んだことで、冷たいようだが完全に諦めてしまったのである。如何にもマダガスカル人らしい諦めの良さであった。
 後でC社の元社員(マダガスカル編15に写真が載っているアフリカ系のお嬢さん)から聞いたことだが、私とはもう取引出来ぬと考え、中国系の会社と取引をしたらしい。中国から公金を横領して香港経由でマダガスカルに密入国した中国人にたぶらかされて、中国系の会社と取引をした。そして騙されてしまった。そればかりではなく、博打に引きずり込まれて全ての財産を失ってしまった。今はアンチラナナ(マダガスカル最北端の街、以前の地名はディエゴスアレス)に居るらしいとのことだった。
 このような事情で、信頼出来る業者を失ってしまった。新しい取引相手を見つけるまでにかなりの時間がかかってしまった。当然商務省のアンセルメ・ジャオリズィキー課長も業者を探してくれたが、パリサンダーの取引にはかなりの資金が必要である。私には前金でパリサンダーの代金を払うほどの資金力はなかった。その上、パリサンダーを貯蔵し、選木をする場所(最低でも300坪ほど)と機材が必要である。私の取引條件はあくまでもL/C(信用状)による支払である。この條件で取引出来る業者を探すまで、遊んでいるわけにはいかなかった。それで、インドネシア、ビルマ、ラオスと出張を繰り返していたのである。

 ある日、麻布にあるマダガスカル大使館の商務官から電話があった。パリサンダーを扱う業者の件で相談したいので大使館までご足労願えないかとのことだった。早速商務官のジョセ・マリエ・ダヒー氏を大使館に訪ねた。彼はアンタナナリブ大学でアンセルメ・ジャオリズィキーと同級生であると自己紹介をした。そして、自分の家内はベド一族の娘で、その弟がBIEと云う会社を持っている。彼がパリサンダーを扱えるので、取引をしてみないかとの話だった。彼から貰った資料を基にアンセルメに連絡を取ってみた。商務官のダヒー氏の云っていることは全て本当の事であり、ベド家の当主はラチラカ大統領時代に20年間も法務大臣を務めていたとのことだった。アンセルメは信用度の問題ないと云ってくれた。

 BIE社長のジルス・ベド氏から、「ご希望のパリサンダーが集りましたので、お出で頂きたい。貴社の取引條件は全て受け入れます」とのファックスが2月の初めに届いた。大使館では例外的に、ビザを申請に行ったその日に発行してくれた。そのお蔭で2月12日には成田を出発出来た。香港、モーリシャス、レ・ユニオンを経由して二日後、アンタナナリブの空港に着いた。税関を通り抜けると、私の名前を書いたボール紙を掲げたジルス・ベド社長が迎えに来てくれていた。
 
 久しぶりに、本当に久しぶりにコルベール・ホテルに着くと、どの従業員も大歓迎してくれた。荷物を置いてすぐに商務省にアンセルメ・ジャオリズィキー課長を訪ねた。残念だったが彼は先週ヨーロッパ(恐らくフランス)への出張に行ってしまった。メモを残しておいてくれた。留守中は秘書兼課長代理と英語の上手な若いお嬢さんを私の助手として自由に使ってくれとのことだった。


 商務省のビルは洒落ている。使い勝手もよさそうだ。


 アンセルメ・ジャオリズィキー課長の優秀な秘書。メリナ族(東南アジア系)のご婦人である。以前のブログでもご説明したように「メリナ」とは「ストレート・ヘアー」(真っ直ぐな髪)の意味である。


 メリナの陽気なお嬢さん。彼女には今回だけではなく、マダガスカルに来る度に手助けをして貰った。

 アンタナリブの空港から、直線で400キロほど南に行った海岸の近くにあるマジュンガ空港に降りた。どんよりと曇っていたが、かなりの気温であった。迎えの車に乗り、森の中へ向かった。






 パリサンダーの集積場には既にかなりの材が集まっていた。先遣されたBIE社の社員が地元の労働者とともに働いていた。




 一見して新しい材ではないことが分かったが、表面を削り落とせば問題ない。然しかなり汚れていた。今後の事もあるので、BIE社のジルス・ベド社長に「パリサンダーは太けりゃいいってもんじゃない。木目が大事だ。それに、汚れがつかぬよう、もっと丁寧に扱って貰いたい」と注文を付けた。物事は最初が肝心である。
 私の被っている帽子は、ビルマの森林警備隊の正規の装備品である。隊長から「記念に」と頂いたものである。少し小さいが、長い間大事に使っている。


 このパリサンダーもかなり汚れている。このままでは日本に持ち帰っても商品価値としては最低ランクにされてしまう。木目は良さそうである。ジルス・ベド社長とどうしたらいいか相談した結果、近くの製材工場で、全ての材の表面を削り落として貰うことにした。




 BIEの社員も現地の労働者も実によく働いていた。


 辺りが暗くなり、危険が伴うので今日の作業を終了することにした。アフリカ人は怠惰だとか、怠け者だとか云われるが、やるときはやるのだ。


 右端はBIEのジルス・ベド社長、左から二番目が現地の労働者の元締め。選木だけ先に済ませ、寸法を測るのは表面を削ってからにすることで話がまとまった。削る手間と、削り落とした分だけBIEの負担になるが、社長は気持ちよくそれを承諾した。私は先方の提示した価格を値切らなかった。此のことは、今後ずっとお互いの信頼を育むこととなった。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 5

2013年09月30日 | 日記
 私が床柱用の銘木を輸入しようとしたのには以下のような理由がある。小型船舶用のビルジ・ポンプの輸出の傍ら、ヨーロッパからブランド物のハンドバッグやネクタイを輸入していた時期があった。而し、かなりの偽物が安い価格で日本の市場に出廻り、価格面では到底太刀打ち出来なかった。当時の市場に出廻っていたイタリー製のグッチなどは本物より偽物の方が圧倒的に多かった。他の用事で香港に出張した際に偶然セリーヌ、クリスチャン・ディオール、グッチ、ロンシャン等々のバッグを製造していた現場に出くわした。全て同じ業者が製造していた。偽物づくりの社長が「どうです、いい出来でしょう!」と自慢げに製品を見せてくれた。その殆どが日本向けに出荷される予定だと云っていた。今でこそ日本の法律が改正され、偽物が水際で防がれているからいいが、当時は偽物がどんどん入り、本物の方が少ないぐらいだった。
 
 そのような業界に嫌気がさし、絶対に偽物が作れないもの、日本が外国から買わざるを得ないものは何か、その辺のところを考えてみた。その結果が材木だった。材木業界は堅い木と柔かい木に分かれており、堅い木の中でも一般建築材と銘木の業界に分かれていた。夫々に異なった材木を扱う専門業者から教えを受け、なかでも入手が一番難しい床柱用の「銘木」を選ぶことにした。銘木の中で最も珍重されているのはご存じのように紫檀と黒檀である。中でも、日本では縞黒檀が最も人気があり、入手も非常に難しい。業界にはこの縞黒檀だけを専門に輸入している人たちがしっかりと手を結び、簡単には割込めないと判断した。それで、私は「紫檀」の方を専門とすることにした。いわゆる本紫檀は世界中でインドにしかなく、インド政府は紫檀の輸出を一切禁じている。従って、日本の市場に流通している物は全て紫檀の代用品である。図書館に通い、紫檀の代用品になるものはどんな木か、何処にあるのかを徹底的に調べた。その結果、堅い木は赤道を挟んで南緯、北緯とも15度あたり迄に分布している。世界地図を広げ、最も行きにくい国、最も取引し辛い国、そしていい木が豊富にある国。その基準で選んだのがビルマであった。この狙いは悪くはなかった。カリンは木目もよく、紫檀の代用になる。またタマランとかティットカヤなどの銘木がふんだんにある。後で知ったことだが、既にタイ人がビルマからカリンを輸入し、床柱用に加工して日本に輸出していた。後発の私でも、ビルマからカリンをフリッチ(丸太の白太を多少残して四角にしたもの、杣角(ソマカク)とも云う)の状態で輸入すれば充分に戦えると考えた。

 材木の話から離れて恐縮だが、是非とも2007年9月に至近距離から銃撃されて亡くなられたジャーナリスト長井健司さんのことに、ご冥福を祈りながら触れたい。「ビルマ編1」でも述べた通り、当時のビルマ(現ミャンマー)は何年もの間ジャーナリストの入国を拒み続けていた。それが世界の圧力に負け、渋々認可するようになった。それで長井さんは入国出来たのだが、軍政府のジャーナリストを忌み嫌う体質は変っていなかった。偶然に生前の、ビルマにおける長井さんのお姿をテレビで拝見した。ラングーン(現ヤンゴン)市内で激しく行われているデモの取材に行く前の様子だと思う。日本語を話す通訳が一緒だった。その通訳が「非常に危険です、充分に気を付けて下さい」と云った。前後のことがわからないので何とも云えないが、恐らく「ビルマに入国している外国人のジャーナリストは危険、特にデモの現場では」と云ったのではないだろうか。長井さんは「自分は戦場でもっと危険な目にあっている。心配ない」とおっしゃっているのを耳にした。その瞬間、私は何かおかしい。あの人はビルマの内情を良く知らないのではないかと感じた。我々貿易屋でもその国の事情を事前に調べてから入国する。戦場では弾は前方の敵からしか飛んでこない。而し、当時のビルマのような国では前方からとは限らない。弾は横からでも後ろからでも飛んでくる。私は危険を誰よりも早く察知し、それを避けようと努力している。不審そうな目で私を見ている軍人に気がつくと、にっこり笑って、片手をあげながら「ミンガラバ」(こんにちは)と云う。相手は仕方なしに「ミンガラバ」と応える。この段階で拘束もされないし、不審尋問もされない。
 後で聞いた話だが、長井さんの周辺には常に監視者がいたとのことだ。その監視者が長井さんの情報を逐一上官に報告していた。ビルマの常識では考えられないことだが、長井さんはビデオカメラを構え、見物人の中から道路に飛び出た。その時を狙って上官が兵隊に「撃て」と命令したようだ。兵士は命令されればアメリカの大統領だって迷わずに撃つだろう。そのように訓練されている。命令に従わなければ部隊が全滅する事だってあり得る。
 長井さんのことを確かめようと、ミント・ウー社長に手紙を書いた。全く返事がなかった。返事がないことが返事なのであろうと考えた。即ち、私が書いたことは全て事実であると彼は云っていたに違いない。2007年の段階では郵便物の検閲はまだ行われていた。


 インヤ・レイク・ホテル。インヤ湖のほとりにある、迎賓館も兼ねるビルマの最高級ホテルと称されている。私も一度泊まったが、シングルは文字通りのシングル・ルームでバスルームを除けば8畳よりちょっと広い程度。料金はストランドホテルより安く、USドルで40ドルだった。いまさらストランド・ホテルに替えるわけにはいかないので我慢した。だが、夜になるとヤモリが慰めに来てくれた。空港には近いが、街中に出るには車がなければ到底行けない。ちなみに私の定宿にしているストランド・ホテルの部屋は此処の3倍か4倍の広さがある。


 インヤ湖の一部。私の一番好きな場所である。来るたびに今度こそは釣竿を持ってこようと思うのだが、一度も実現出来なかった。


 トゥングーの村落。私の目に突然日本の田舎の風景が飛び込んできた。このような場所に来ると、カリンが集まらないのも忘れて心が安らぐ。子供の頃の疎開を懐かしく想い出した。


 ペグーにある製材工場から仕事を終えてのんびりと帰宅する人たち。扇風機一つない劣悪な労働条件の中で、彼等は一生懸命働いている。


 ラングーン川を行き来する水上タクシー。中には乗合船もある。夕闇が迫るころに活発に動く。川の中央に出るまでは手で櫓をこいでいるが、そのあとは足でこぐ。足で櫓をこいでいる姿をお見せ出来ないのは残念である。


 材木商ココ・ジィーの子供たち。この写真を見る限り、ビルマが世界の最貧国の一つであることを全く連想させない。この一家が一番ではないが、ラングーンでは裕福な方であろう。軍事政権下で思うような経済活動は出来ない筈だが、このお宅にお邪魔する度にどのようにして財を得たのか考えさせられる。先祖から引継いだものではない。








 上の写真は全てラングーン近郊の川沿いにある製材工場。夫々に敷地はやたらと広いが、工場内は家内工業の域を出ていない。


 仏教が熱心に信じられている国なのに、このような教会を時たま見かける。共産主義国家の中では宗教を禁じている国さえある中、このビルマの軍事政権がキリスト教を容認しているのは奇妙なことであると感じた。


 何のビルか知らないが、東京駅を想像させた。マレーシア、タイ、ビルマと廻ってくると日本の風景が無性に恋しくなる。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 4

2013年09月23日 | 日記
 ビルマは宝石の宝庫である。中でもルビーはその量と品質で他の追随を許さない。ルビーは「鳩の血の色」が最も珍重される。ビルマのルビーはまさにこの「鳩の血の色」である。サファイアや翡翠も豊富である。又地下資源として、石油、石炭、鈴、亜鉛、タングステン、鉛、鉄鉱石が多く埋蔵されている。その上豊かな林産資源がある。畑では胡麻、落花生、トマト、綿、タバコ、数え上げればきりがないほどの作物がなんの苦労もなく育つ。世界有数の米の生産国でもある。それが、どうして世界最貧国の一つになってしまったのであろうか。軍が支配している社会主義の一番悪い面だけが出てきたのであろうと私は想像する。

 偶然知合った裕福そうなご婦人がネックレスを外して私に見せてくれた。鎖の先には犬の牙のような形の金の塊がついていた。長さは2センチほどだったが、厚さも幅も1センチはあった。手のひらに乗せるとずしりとする重さを感じた。「これは私のお守りにしていますが、子供の頃に河原で水遊びをしているときに見つけたのです。熱心に探せばもっとあったでしょう。砂と土が混じった所を掘れば、今でもルビーやサファイアが出てきます。昔は、それが全部自分のものになりました。今は政府がみんな持っていってしまいます。それで誰も探さなくなりました」。そう云うと寂しそうな表情をして、そのネックレスを首に戻した。私が「黙って自分のものにしてしまえばいいでしょう」と云うと、「何処にでも居るでしょ、他人の事をじっと見ていて、それを得意げに密告する人が」。そして、辺りを伺うようにしてから私に近づいて小声で云った。「ビルマには、英語を話す人が大勢います。それと日本語を話す人もいます。特に軍事政府には日本語の得意な人が大勢雇われています。普段は日本語を一切使いません」。

 豊かだったころのビルマを想像させられたと同時に、その逆の希望の見えないビルマを見せつけられた思いだった。このことを取引先のミント・ウー社長に確かめてみると「確かにそうです」と云い、そのあとで「知らない人と親しくしない方がいいです」と云われた。隣で従弟のタン・アンが大きく頷いていた。理由は教えてもらえなかったが、何か私には云いにくいことがあるようだった。

 カリンの取引は一向に進まなかった。集積地に行ってみると、ほんの少ししかなかったり、軍が管理していて他には出荷出来ないと云われたりした。利益の上がりそうな商取引は軍が直接乗り出すか、息のかかった業者にやらせるのだそうだ。バンコクのホテルで大手の商社マンからこのような話を聞いてはいたが、実際にそうだとは信じられなかった。


 たったこれだけの量では商売にはならない。5万円にも満たない金額だろうが、彼等にとってはかなりな金額である。この金銭感覚の差が、商売感覚のずれを生んでいる。


 モー・ルィンさん。カリンを集めることで非常にお世話になった林産省の高官。ルインとは「輝く」と云う意味だそうだが、「最近の私はちっとも輝いていません」と淋しそうに云った。いくら良い政策を出しても軍につぶされてしまうそうだ。モー・ルィンさんは1992年に急な病で亡くなられた。非常に残念である。心からご冥福を祈る。


 ラングーン(ヤンゴン)の中心街から少し行くと、もうこのようなのんびりとした風景に行きあたる。ラングーンから北西に向かっている道路に面したドライブインからの眺め。


 夕暮れ時、ラングーンに帰る途中で実に心のなごむ風景に出会った。この辺りに住み、釣りをしながら暮らせたらどんなにいいだろう。


 ラングーンにあるパゴダの一つ。中に入れてもらえないのか、自分たちの意志で中に入らないのかは知る由もないが、外で熱心に祈る人たちがいた。
 ビルマでは肌の色が白くて太っていることがステータス・シンボルだと聞いている。色の黒い人たちは蔑まれている。同じビルマ族でも黒人のように黒い人もいれば白人のように白い人もいる。その所為だろうか、ご婦人方は頬に白い粉(タナカ)を塗っている。日焼け止め効果だけではなく、此れを塗るとひんやりして涼しいのだそうだ。


 材木商ココ・ジィー (大きい長兄の意)の奥さんのセン・セン(実際の発音はセとテの中間音。百万・百万の意)が、昼食に川エビを塩焼きにして出してくれた。ビルマに来て初めて味あう美味だった。大きさは小ぶりの伊勢エビほどもあり、味も似ていた。ボジョー・マーケットで1ビス(Viss 約1.6Kg)で闇のチャットで買えば60円ぐらいだったと覚えている。これを日本で売ったら大儲けできると考え、サンプルを持って水産仲売り業者に当たったが誰も相手にしてくれなかった。
 現在は天然ものだけでは間に合わず、養殖されて大々的に近隣諸国に輸出されている。それも結構な値段で。私の商売は機が熟すよりずっと早く走り出すから大儲け出来ないのだと、家内や友人たちから云われている。これもそのいい例だった。


 ひっかしがったビルにつっかえ棒をしているように見えるが、近くで見るとそのようなディザインなのだと納得した。ラングーンには風変わりなビルがある


 ラングーンの交通の激しい場所で、突然に全ての通行が強制的に止められた。誰か偉い人が通るのだろう。人々は文句も云わずに従っていた。


 交通規制の後で、ビルマではめったにお目にかかれない高級車がやってきた。ピカピカに磨かれた新車だった。
 ビルマを走っている車はほとんどが日本から輸入された中古車だ。それも、トラックやバンは以前の持ち主書いた社名が入ったままだ。日本語で書かれていれば、「自分は日本の車に乗っている」と自慢出来るからだそうだ。


 ある日の外貨の交換レート。ホテルの会計のお兄さんが毎日掲げるが、中身が変っていることは殆どなかった。赤線で囲ってあるところが日本円だが、今日は10,000円を換えると449チャットになる。闇なら5,000チャットだ。


 ストランドホテルのレストラン。朝食は6時ごろから11時近くまでだらだらと続けられている。お蔭で混むこともなくゆっくりと朝食が楽しめる。USドルで払うと、8ドルから10ドルぐらいだが、闇のチャットで払えば140円からせいぜい180円だ。軍の悪政を逆手にとって何が悪い?
 どこの国でもホテルでの食事は非常に高い傾向があるが、ここビルマでは特に高い。衛生面を気にせずに外で朝食を取れば、この値段の5分の1から10分の1だ。而し、現在はもっと物価が上っているそうだ。


 ラングーン(ヤンゴン)国際空港の全容。ビルマの国旗が掲揚されているところは写真撮影が禁止されている。破ればフィルムだけではなくカメラも没収され、身柄も拘束されるそうだ。
 私が乗っているタイ航空の飛行機は滑走路へのタキシングの途中なので大丈夫だとは思うが、ビルマの領空を出るまでは安心出来ない。それで、周囲を気にしながら撮った。