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TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 41

2014年10月13日 | 日記
 マダガスカルから少し離れるが、丁度今が上海蟹のシーズンなのでそのことに触れたい。上海蟹を注文すると、オスとメスの二匹が必ずセットで供される。その年に依ってメスが旨いとかオスが旨いとか云われる。或いは10月はメスが旨く、11月はオスが旨いとも云われている。従って、メスだけが売れたりオスだけが売れたりしないように、オスとメスを必ずセットにして売るのだそうだ。だが、残念なことに、私はその微妙な味の差が分らない。微妙な差を感じ取る中国人の舌は尊敬に値する。食通であると宣言している日本人が、今年のメスの何処が旨いとか11月のオスのどの箇所が旨いとかいう人がいる。本当にその差が分るのであれば、それはそれで尊敬出来る。11月のオスが旨いと云われても、11月のメスだって旨い。
 香港や中国の人に蟹は体を冷やすから、沢山食べてはいけないと云われる。だが、経済が許すなら全身が凍えるほど食べたい。

 今は鬼籍にある中学からの友人が「パリで何回もコンニチハと云われた」と嬉しそうにしていたことがあった。日本人が海外に遊びに行けるような状態になったばかりの頃のことである。彼はどうして日本人だと分ったのだろうと疑問を持ってフランス人に聞いてみた。「こんな遠くに来れる東洋人は日本人しかいない」とそのフランス人は答えたそうだ。
 私はタイのバンコクでそのような経験をした。日本人の服装(着ているシャツ?)が他のアジア人と違うからわかるのだそうだ。同じことを他のアジアの国々でも云われた。それが、マダガスカルのトマシナでは、道端の子供たちに「ニイハオ」と云われた。不法滞在の中国人が如何に多くなっているかの証拠であろう。








 森への入口にある集材場にかなりの量のパリサンダーのフリッチが集まりだした。手前の赤い帽子は監督中のジルス・ベド社長。炎天下の中で手作業の労働はかなりきつそうだった。だが、彼等は不平も云わず、私を見ると笑顔さえ見せてくれた。私は「ミソートラ」(ありがとう)、そして「モラモラ」(ゆっくり、ゆっくり)とか「エケナ?」(大丈夫か?)と声をかけるしか彼等の労働に報いるすべがなかった。


 木陰を見つけて小休止。これを何度も繰り返して欲しかった。








 対岸に渡ると、前回とは別の場所に一本一本を撫でてみたくなるような素晴らしい色と木目を持つパリサンダーが積まれていた。太さも文句の云いようのないものばかりだった。


 お昼の時間。バンガローで用意してくれるお弁当は鶏のフライの日が多かったが、全く飽きることがなかった。何とも云えないぐらいに美味しかった。最初はアヒルかと間違えるほどであった。ローストビーフ、ハムの燻製、それに野菜と沢山の果物。毎日のお昼の時間が楽しみであった。


 森の民との交流。ジルス・ベド社長は私よりかなり若いが、何処へ行っても地域の人たちと如才なく話し、全員を自分の味方につけてしまう。不思議な能力の持ち主である。






 伐採の許可を取っていない「マダガスカル・ローズウッド」(マダガスカル固有の紫檀)。一人の樵がパリサンダーと間違えて切り倒してしまったそうだ。折角だからとフリッチにしてしまった。当局にこの不始末を届けるべきであったが、そのようなことをしたら、この地での伐採の全てを取り消されてしまう恐れがあった。
 BIEの社員の一人が云った。「社長、間違えたものは仕方ありません。これを売れば罪になるでしょうが、売らなければ単なるミスです。パリサンダーの中に入れて、日本に出荷しましょう。その代金を請求しなければいいのです」。それを聞いたジルス・ベド社長は笑い出した。社員の云ったことを要約して私に説明してくれた。私は同意した。間違えたものは仕方がない。私もお世話になっている新木場の業者にこれをタダで差し上げてしまおうと心に決めた。
 間違えて切ってしまった樵も、それをフリッチに加工してしまった作業員も、事の成り行きの説明を受けて安心したように地面に座り込んでしまった。最初は気軽に考えていたが、許可を受けていない木を切ることの重大さに気が付いたようだった。
 前回、木の地肌を見ただけで、私にはパリサンダー、紫檀、それに黒檀の区別がつかないと云ったことをご記憶だろうか。専門家である樵でさえ間違えることがあるのであるから、私に分らなくて当然であると、多少の自信を取り戻した。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 40

2014年10月06日 | 日記
 マジュンガに泊ったのはちゃんとしたホテルであったので、豊富なお湯でシャワーが使えた。それだけではなくバスタブまであった。而し、アンツォヒヒのバンガローはモロンダバのそれと同じように水のシャワーであった。それで、モロンダバで行ったように太陽光の温水を誰よりも早く使うことにした。

 本館の裏庭には放し飼いの鶏とアヒルが多数飼われていた。ビルマの田舎と同様に、小屋はあるが出入りを自由にしてあった。ビルマと違う点は、飼い主がちゃんと餌を与えていた。だが、鶏もアヒルも意地汚いのか庭中をほっつき歩いては餌になる虫を探していた。
 ある日、気がついてみるとアヒルの一羽が何故か私になついていた。餌をやったこともないのに何処までもついてきた。一度などは私のバンガローの入口までついてきたことがあった。頭を撫でて帰るように云った。理解したのか、彼(彼女?)はトボトボと帰って行った。アヒルの顔を見ても識別はつかないが、羽の汚れ具合で他のアヒルと区別出来た。以後、裏庭に行き、そのアヒルの様子を見るのが楽しみになった。それが、そのアヒルの姿が見えない日があった。ついに人間どもに食われてしまう順番が来てしまったのだと想像し、複雑な思いがした。もしかしたら今日のお昼の弁当だったのか?私の滞在中に順番が来てほしくなかった。


 今朝は早く到着したせいか、森の民はテントを片付け始めていたところだった。


 少し奥の方に行くと、そこでは全員が忙しそうにしていた。朝食は既に終わったようだった。


 この森の民の一家は高床式の家を建設するようであった。どうやらこの地に永住することを決めたらしい。


 マンゴーの木。収穫の時期を迎えると、果実の重さで全ての枝は地面に向けて垂れ下がる。


 信じられるだろうか?白く丸で囲んである直径2センチにもなっていないマンゴーが、10月の初めには15センチかそれ以上の大きさに育つ。そうなったら届く範囲の実は手でもぎり取り、うすべったい種に沿って切り落とした実にナイフでさいの目の切れ目をつけてかぶりつく。至福の時である。
 これと同じ大きさのマンゴーを伊勢丹の地下で一個1,500円で売っていた。私は一度に最低でも4,500円分は食べていた。




 お昼になり、森の民の樵の一団が対岸から賑やかに帰ってきた。


 トラクターを降り、伐採地に入って行くと樹木は密集しており、森の民から離れてしまったら、二度と文明の地に戻れなくなる。遅れぬよう、必死について行った。


 パリサンダー。これがパリサンダーだと云われても、私には黒檀や紫檀の木との区別が全くつかなかった。前にも述べたように、木の皮の文様も葉の形もほぼ同じなのである。同じ場所に全て並べてみなければ区別がつかないとは情けない。


 フリッチに仕上がったパリサンダーが置かれていた。材の幅は規定の寸法を何とかクリアーしていたが、木目と色は魅力のある物ではなかった。










 最初のフリッチを見て失望した私を見て、ジルス・ベドはニヤニヤしていた。そして、次の置き場に私を急がせた。そこには彼に抱きつきたくなるような、フリッチや加工する前のパリサンダーが山のようにあった。
 前にもご説明したように、木目が良いからと高値で売れるわけではない。だが、この素晴らしいパリサンダーを私から買ったと新木場に噂が流れれば、私は取引先に不自由しなくなる。競争相手も蹴落とせる。現に、新木場の大手の銘木の輸入問屋がパリサンダーから手を引いてしまっている。残る強敵は西の方の業者である。

 香港のことに触れたい。1997年、香港が英国から中国に返還される年であった。所用で香港に行く必要があった。用事はすぐに終わるので、家内に一緒に行かないかと誘ったが断られた。彼女はもう少しずらして、返還の「7月1日」を跨いで香港に行く予定を立てていた。即ち、家内は入国の時のパスポートに「香港」のスタンプ、出国の時には「中華人民共和国」のスタンプが押されることを計画していたのである。呆れるほどのミーハーである。
 私はそれより10日ほど前に行った。ホテルは利用せずに娘のマンションに泊ることにした。娘の住まいは香港の郊外である屯門にある。香港にこれほどの緑があるのかと驚かされるほど樹木の多い、静かな住宅街である。そこには屯門地区を循環している路面電車が走っており、非常に便利である。それに、屯門の港からは香港島に行くホーバークラフトの高速艇が就航している。
 そんな住宅街のあちこちに以下のようなポスターが貼ってあった。かなり以前から貼ってあるらしく、はがれかかったり、印刷の色が変わっていたりもしていた。
    倒数百天  心懐祖国  家在屯門  屯問区慶祝香港回帰祖国
 返還までは後100日、家は屯門にあっても、心は懐かしい祖国にあると云う事だろう。私はこのポスターを見て、香港の人たちは返還に反対なのだと感じた。「どうなるかわからないが、今のうちに中国におべっかを使っておけ」と云うのがこのポスターの心底にあるように思えたのである。それで、心の許せる香港の人に聞いてみた。すると、「自分たちは元々中国人だから、香港が中国に戻るのはいいです。而し、共産主義になるのは絶対に嫌なのです」との答えがすぐに返ってきた。
 返還後に香港に行ったとき、中国の云う一国二制度はそれらしく機能していた。而し、香港の魅力は全くなくなっていた。西洋でもない、東洋でもない不思議なところが香港にあったのである。それが一変していた。バーやクラブの従業員に白人の姿が全くなくなっていた。中国政府は外国人を全て排除し、中国本土からそれに代わる人たちを香港に連れてきたのだ。ご存じのように、中国人程サービス業に適さない国民はいない。
 また、庶民からは別の愚痴を聞かされた。今までの香港は英国の女王陛下の土地であったので地代は一切無料であった。而し、返還後は中国政府に地代を払わなければならないようになったそうだ。

 今回の、若者を中心とするデモは、返還直後からの不満が一挙に爆発したように感じる。私の娘も国籍は日本であるが、デモに参加すると、先日家内にメールをしてきた。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 39

2014年09月29日 | 日記
 アンツォヒヒはマジュンガからは東北に200キロほどの所にある。マダガスカルで一番暑いと聞いていたマジュンガよりは遥かに暑かった。アンタナナリブから北へ直線で約500キロなので飛行機ではそれほどの時間がかからない筈であった。而し、マイクロバスより細い胴体に翼をつけたような小さな飛行機で、しかも途中の小さな飛行場に立ち寄ったのでかなりの時間がかかった。だが、退屈はしなかった。真っ白い髭を生やしたフランス人のパイロット―機長であり、客室乗務員でもあるただ一人の乗員―は、席も近かったので私に飛行機の操縦法を教えてくれた。操縦させてくれたのではない、操縦法を教えてくれたのである。それだけでも、小型飛行機を操縦出来る気分になった。アンツォヒヒに着く前に途中の小さな飛行場に降り、乗客を降ろすと直ぐに飛び立った。それ以後はBIEの社員と私とで貸切状態であった。副操縦士の席に移動したかったが、無理に移動すれば操縦の邪魔になると考えて諦めた。だが、私の席からでも飛行機の前方、それに下方も見えた。以前にパプア・ニューギニアでこれよりかなり小さな飛行機に乗った経験があるが、その時は殆どが海の上だけであったので、陸地の上を飛んでいる今回の方がずっと興味深かった。








 楽しいフライトも此処までであった。アンツォヒヒは言葉に云い尽くせないほどの暑さであった。砂漠に降りたのかと一瞬思った。陽炎の向こうにバスの停車場みたいな空港小屋があり、辺り一面が白かった。あまりの暑さで、空港についての記憶はこれだけしかない。空港小屋までどうにか辿り着くと古いルノーのタクシーが我々を待っていた。私とジルス・ベド、それにBIEの社員の一人が乗ると、タクシーはすぐに走り始めた。残りの社員は気の毒にこのタクシーが引き返すまで小屋で待つはめになった。




 道路から2、3メートル引っ込んだ所にバンガローが並んで建っていた。モロンダバ(マダガスカル編の9~12をご参照願いたい)のバンガローよりは大きく、しっかりと作られていた。




 中に入ると、外の暑さからは全く想像がつかないぐらいの涼しさであった。どのような建方をしてあるのか想像出来ないが、熱を完全に遮断してあることは確かだった。エアコンはないが天井に大きな扇風機があった。而し、今はそれを廻す必要がないほど涼しかった。
 別棟に、本格的な木造の建物があった。そこにはオーナーと従業員の住居、キッチン。その横には15人ほどが一緒に食事の出来る食堂があった。ウィークデーの朝食と夕食は此処ですることになるのだが、窓からはたくさんの風が入り、非常に涼しかった。気温は非常に高いが、湿度が低いため直射日光を遮れば、かなり涼しく凌げることが分かった。但し、屋根は熱を遮断する特別な工夫がなされていたのだと思う。

 お昼に出されたアヒルのフライが旨かった。両手の指を油まみれにして夢中になって食べた。ジルス・ベド社長が「これから森に行きますので、充分に食べて下さい」と云っていたが、云われなくたってこんな旨いものはたくさん食べる。意地汚いと思われようが気にならないほど旨かった。




 白く丸で囲んであるのはバナナの花である。アメリカのスーパー・マーケットでサラダの材料として野菜売場にあるのを見たことはあったが、実際のバナナの樹(?)にぶら下がっているのは初めて見た。


 バナナ畑のオーナーの家族が遅めのお昼を食べていた。軒下に居れば涼しいだろうに、このご婦人は軒の外に出て食事をしていた。まるで日光浴でもしているように感じた。


 バナナ畑のご近所の一家。私がバカチョンカメラを持っているのを見ると、一家の写真を撮ってくれと手ぶりで頼まれた。


 やっとパリサンダーの生える森に着いた。ジルス・ベドは下の川を指差しながら、「伐採地はあの川の向こうにあります」と説明してくれたが、橋はどこにも見当たらなかった。


 下に降りていくと、子供たちが川の中で楽しそうに遊んでいた。「あの子たちはパチンコで魚を獲っているのです」とジルス・ベドが笑いながら説明してくれた。「パチンコで魚を?」と私は聞き返した。我々が子供のころ遊んでいた例の「パチンコ」、木の三又とゴムを利用して石を飛ばす、あのパチンコであるか確かめた。確かにそうであった。ジルスの説明では、乾期には水が少なくなるため、魚は通常の方法では泳げないので、横になって泳ぐのだそうだ。だからパチンコで容易に魚に命中出来るらしい。ヒラメやカレーはそのような構造になっているが、普通の川魚が横になって泳ぐなど実物を見るまで信じられなかった。確かに器用に泳いでいた。残念だが泳いでいる写真は撮れなかった。偏光(PL)フィルターの使える一眼レフでなければ、水面の反射で泳いでいる魚は撮れなかった。


 森の民が夕食用に焼いた魚。子供たちがパチンコで獲った魚である。私が写真を撮りたいと云うと、一番いいお皿に乗せてくれた。20センチほどのこの魚は白身で味は蛋白であったが非常においしかった。


 森の民のおかみさんは、「もう少しでご飯が炊き上がるから、一緒に食べていかないか?」と勧めてくれたが、感謝して遠慮した。是非食べたかったが、太陽は山の向こうに落ちようとしていた。暗い山道を車で走るのは非常に危険である。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 38

2014年09月22日 | 日記
 私が貿易の仕事を始めたのは輸出からであった。その時の師匠は友人の兄貴であり、学校の先輩でもあった。私の書いた手紙を見て、呆れかえっていた。「お前さん、軍隊の作戦要務令じゃあるまいし、こんな手紙じゃだめだ。お客様になんとか品物を買って頂くのが目的だろう!」と叱られた。独特の軍隊調の英文が私の中にしみ込んでいたのだ。民間では絶対に使わないであろう「and/or」(或いは又)だとかの表現をつい使ってしまう。このブログの表題にもなっている「TDY」もその一つである。また最近は日本の民間企業でも使われ始めた「OJT」(on the job training、仕事に就く上で最初に受ける訓練)もそうである。
 先輩は丁寧に、「買って頂くための手紙」の見本を数種類書いてくれた。これを下敷きにしてあらゆる手紙が書けた。此の先輩に教えて頂かなければ私の貿易業は始められなかった。貿易のルールは参考書を見れば何とか理解出来るが、微妙な英文の表現までは私が買ってきた参考書にはなかった。それに参考書の英文は下手くそな紋切型であった。中には小学生でもこのような表現はしないであろう例文まであった。私が貿易業を営むにあたって友人をはじめ多くの方々にお世話になったが、此の先輩には感謝しきれないほどお世話になった。今は鬼籍にあるが、ずっと感謝し続けている。
 英文の師匠はもう一人いる。同じ経済学部の同級生であった。日本語を書かせたら小学生にも劣る下手な字と文章であるが、英語を書かせたら恐れ入る。彼はハワイで生まれ、カメハメハ大王の血を引いていると云っているが定かではない。私が原宿に事務所を持ってから付き合いが再開された。それまで彼は日本航空に勤めており、アラスカ、パリ、ロサンゼルス等々に派遣されていた。勉強は駄目だったが、語学力は抜群であった。第二外国語にスペイン語を選択し、それをたったの2年で完全にマスターしてしまった。スペイン語圏に手紙を出すときは随分と彼のお世話になった。また、英文の微妙な表現の時、「どっちを書けばいい?」と聞くと彼は的確に答えてくれた。今でも、お互いに悪口を云い合いながら付き合っている。だが、その友人はパソコンを使えないのでこのブログを読めない。だから悪口をここに書けばいいが、息子さんが読んでいるかもしれないので用心している。

 このブログを開設出来たのは、カワセミの撮影の師匠格の一人でもある通称「和田掘のF」さんに全面的にお世話になった。ワード、エクセル、それにフォトショップの使用法には絶対的な自信があるが、ウェブに関しては知識が非常に乏しい。20年ほど前、ホームページを持っていたことがあった。その時はホームページを作るためのソフトを買ってきて、それによって作ったのである。その後、当方の事情でプロバイダーを変えたことを機に、そのホームページは消滅した。それ以後、どのように頑張ってもホームページを復活させることは出来なかった。このブログはFさんの手助けなしには一行も書けなかった。此の事にも非常に感謝している。


 フリッチの一本一本に番号をふり、トマシナ(以前の地名はタマタベであった。、マダガスカル唯一の国際貿易港)への出荷準備を終えたパリサンダー。


 私が撥ねたフリッチの山。曲っている、木目が良くない、細すぎる、長さが足りない、色が良くない、節がある。このようなものは日本に持っていっても一銭の価値もない。家具の業界であるなら買って頂けるかもしれないが、私はその業界に取引はなかった。BIE社が他に売ることになっている。




 曲った材を真っ直ぐにしたり、或いは私が真っ直ぐに見えるように加工している。用心しないと実際は曲っている材でも真っ直ぐに見えてしまうことがある。彼は名工である。


 屋根のある倉庫に入りきらないフリッチは厚い布をかぶせて出荷を待つ。




 割れ止めの木工用ボンドを丁寧に塗る。乾くと白いボンドが透明になる。






 「化ける」であろう上等なフリッチ。このような素晴らしい木目のパリサンダーを見ていると立方メートル当たり幾らとの契約をしなかった方が良かったと反省することもあった。


 小型トラックに積めるだけ積み、屋根のある倉庫に移動する。


 ジルス・ベド社長の次弟のルイス・ベドと長男。




 ジルス・ベド社長の長兄一家。彼等はパリに住んでいる。奥さんはフランス人。


 ジルス・ベド社長の末弟。彼はアメリカに留学しているが、夏休みでアンタナナリブに帰ってきていた。母親はこの末の子が一番のお気に入りのようである。

 次回からはマジュンガよりさらに暑いアンツォヒヒに行く予定である。乾期になり、川の水が少なくなると、横になって泳ぐ魚がいる川にご案内したい。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 31

2014年08月04日 | 日記
 何回目かのマダガスカル出張から帰った翌々日、モーリシャス航空の東京支店のお嬢さんから電話があった。「また、ファーストクラスで帰って来たでしょう。図々しいわよ」とのっけから云われた。彼女が客に対する礼儀を失していたわけではない。それだけ親しくなったとお考え頂きたい。確かにモーリシャスからクアラルンプールまではファーストクラスで帰ってきた。而し、これは私が望んでこうなったわけではない。ツーリストクラスの予約を乗客の収容人員以上に受けてしまい(オーバーブック状態)、仕方なく何人かをビジネスクラスに移す。そうすると、ビジネスクラスからはみ出してしまう乗客が出る。その客をファーストクラスに移すのである。この場合、それが私だっただけのことである。大勢いるビジネス客の中からどのように選別するかは定かではないが、私は何回かこの幸運に恵まれた。恐らく、私が持っていたモーリシャス航空の「プラス・カード」の番号が「TYO 002」(東京2番)になっていたからであろう。東京支店のお嬢さんが「新しく出来たモーリシャス航空のカードをお送りします。2番になっていますが、うちの支店長が1番を取ってしまったんです。済みません」と笑いながら云っていたことがあった。クアラルンプールとモーリシャスの間、及び香港とモーリシャスとの間の飛行時間は10時間もある。それも夜行便である。乗り継ぎ、乗り継ぎの連続の中の夜行の10時間は非常にきつい。それでこの分だけをビジネスクラスにしたのである。本来はこのようなことは出来ないが、全行程を日本の航空会社で発券できないのが幸いした。然も、その料金の差はごく僅かであった。現在の料金体系と違い、当時は一般的にツーリストクラスの正規の航空運賃の4倍から6倍がファーストクラスの運賃であり、その中間がビジネスクラスの運賃であるとお考え頂きたい。
 私の場合、友人の旅行会社を通して航空券を買っていたのでかなり安く買えた。それに僅かの上乗せで中間だけをビジネスクラスの航空券を買えたのである。初めてファーストクラスに乗ったのはクアラルンプールとモーリシャスの間であった。モーリシャス航空の搭乗ゲートには二人の空港職員がいた。ゲートを通り抜けようとしたら、私の手から搭乗券を取り上げ「これが貴方の新しい搭乗券です」と別の搭乗券を渡された。見ると「First Class」と書かれていた。怪訝な顔をすると、「それでいいのです。楽しいフライトを!」と云うと、そのお嬢さんは手を振って引き上げていった。
 ツーリストクラスの乗客より先に搭乗し、席に着くと直ぐに飲物のサービスがあるのはビジネスクラスと同じだが、一人あたりの座席の広さが違う。前の席の所に置いてあったフットレスト(足乗せ)を取るには一旦立ち上って取りに行くほどだった。食事がすごかった。オードブルは生ハムかキャビアを客の好みで選ばせ、メインディッシュがステーキの場合は「〇〇様、お肉の焼き具合は如何致しますか?」と、座席の横にひざまずいて聞かれた。食器は全て陶器で、ナイフとフォークは銀製であった。

 マダガスカル編の6で少し触れたが、マナカラは宝石の街として特に名高い。だが、我々は宝石を買いにマナカラを訪れたわけではない。マナカラの山にはパリサンダーの他にも床柱に適した銘木が多くあるのである。山から切り出した材は、海岸通りを使ってトマシナまで何の苦も無く運べる。マダガスカル国内の輸送費が、西海岸から買うより格段に安くつくのである。輸送費も重要であるが、フリッチにしてからトマシナに到着するまでの日数が少なくて済むのは、私にとって非常な経済的効果である。
 昨夜は遅くまで業者と協議を重ねたが、我々の考えているほど簡単ではないことが判明した。山からマナカラの街まではトラックが通れるほどの道路はなく、人力を主体にした少量ずつの運送方法しかないことが致命的であった。それでも業者は取引に意欲を見せた。而し、人力主体の運送方法には問題がありすぎる。業者が持ってきたサンプルは、私がこれまでに見たどの木よりも美しい木目を持っていた。紫檀の一種であることは想像出来たが、学術名は不明であった。ただ、パリサンダーよりは紫の部分の色が濃く、中には黒に近い色を持ったサンプルもあった。パリサンダーより、ずっと高値で新木場に売り込める自信はあった。フォー・ドーファンの山中から運び出すことを考えれば、比較にならぬほどの容易さではあったが、解決しなければならぬ問題が多く残った。一番の問題は、材の太さと長さを我々の要求を満たすとなると、フリッチの一本当たりが非常な重量になる事であった。山の中では、機材を使っても大変に危険を伴う作業になる。人力が主体では、作業員に重篤な怪我、或いは最悪の事態を引き起こす事だってあり得る。結論は先送りになった。




 ホテルの窓とベランダからはこのような景色が見渡せた。


 フィアナランツィオに向かう山道に入ると、直ぐにこのような景色に出会った。


 マダガスカルで初めてみる暗い感じの村だった。人の姿も見かける事もなかった。非常に重い空気を感じた。だが、ジルス・ベドは全く何も感じている様子はなかった。


 山に向かう道を住人が道をふさいでいた。追い越すにも細い道ではどうすることも出来ない。




 周囲が開けた場所に出ると、心も開けてくる。多少でも植林の跡が見られたのは嬉しかった。




 後部座席にベド家の使用人を乗せてきた理由が理解出来た。村の作業員に協力し、邪魔な倒木の処理に当らせた。この時期はまだ雨季が終っていないので、山道ではこのような個所がいくつもあるようだ。


 周囲が開けると、心も浮き浮きとしてくる。


 盗伐材。既に手作業での製材までしてあった。ジルス・ベドもこれほど大量の盗伐は見たことがないと云っていた。誰に売るのであろうか。


 盗伐したものはこのように隠しておくのだそうだ。枯れ枝をどけると、その下に切り倒したばかりの丸太があった。




 マダガスカル編の6でご紹介した砂金の道。バケツに掬って持って帰りたかった。