ロサンゼルスから国内便でサン・フランシスコ方面に向かって一時間か二時間のところに「San Jose」と云う街がある。土地の人間は「セノゼ」と云っているが、それ以外の人たちはその他に「サン・ジョセ」「サン・ノゼ」、又はメキシコ風に「サン・ホセ」と云う人もいる。どれが正しいのか私にはわからない。だが、土地の人たちが云うセノゼで通したい。
現役時代の事であるが、ロサンゼルスでの仕事が全て終わった。取引先の好意で仕事が予想をはるかに超える速さで終わったのだ。「San Jose」に高校時代から家族ぐるみで付き合っていた仲の良い友人がいる。彼女のご亭主は空軍の大尉で、戦闘機の重要な部分を撮るプロのカメラマンだったが日本人と結婚したことにより、その任を解かれてしまった。彼は「友好国のお嬢さんと結婚して、この仕事を続けられないとは冗談じゃない」と云って空軍を辞めて、一流のピザ店での修業を終えると自分のピザの店を開いた。その店を開くにあたり、友人の母親から多額の資金を預かり、空軍の軍人軍属に両替と送金をお願いした。私からその話を聞いた多くのアメリカ人の友人たちの協力を得てかなりの額の闇ドルを彼に送ったことがあった。この機会に友人に会い、その店の状況を知りたいと電話してみた。友人は喜び、何日でも私の家に泊って行ってくれと云われた。
取引先に、「San Jose」への行き方を聞くと、ロサンゼルス空港まで送ってくれ、「あそこのカウンターでチケットを買い、そこで乗り場を聞いてくれ」と云って彼は再会を約して帰ってしまった。チケットを買った後は乗り場までは簡単に行けた。友人に予定到着時間を電話すると「主人と一緒に空港まで迎えに行くわ」と云ってくれた。
「San Jose」まで行く飛行機に乗ると、座席のテーブルには既にビールの小瓶とおつまみが置かれていた。座席が狭く、田舎を走るバスに乗った感じだった。隣に座った客と話が弾み、「どこまで行くんだ?」と聞かれた。おかしなことを聞く奴だなと思ったが、「セノゼだ」と云うと、「それなら此処だ」と云って前方に向かって「降りる客がまだいるぞ!」と大声で云ってくれた。そして、私に「出口は後ろだ。またな」と云ってくれた。後ろを見ると、階段が下ろされているのが見えた。礼もそこそこに急いで出口に向かった。「San Jose」で客を下ろすと、次の空港まで行くのだそうだ。チケット売り場ではそのようなことは一言も云ってくれなかった。危ないところだった。
友人のご主人に「俺の店に寄って、ピザを食って行ってくれ。旨いぞ!」と云われた。確かに旨かった。ロサンゼルスで食べたピザは台が厚めに切った硬い食パンのようだったが、彼の店「Old Calif」(オールドカリフ、古き良き時代のカルフォルニアを懐かしんで付けた名前だそうだ)のパイの台は何処までも薄く、具が多く、何よりチーズが旨かったのを覚えている。
上野寛永寺の写真を掲載するが、最近撮ったものではない。何年か前に撮ったものである。当時は時間さえあればどこへでも、また掛け持ちで撮影に歩き廻っていた。車を止して電車とバスでの移動に感動し、非常に便利だと感じていたのを覚えている。