ネコきか!!

バビデ
ヤンユジュ
ホイミ
レロレロ

うなぎ 中編

2008-05-31 | 小説・その他
しばらくすると俊が戻ってきた。
持っている皿に乗っているのはうなぎの蒲焼である。
新メニューというからどんなものが出てくるか、期待半分、構え半分の誠一郎であったが、自身ありげな俊の顔を見る限りただの蒲焼ではないようだ。
「いろいろ試してみたんですが、現状では一番おいしくできてます」
一口食べてみる。
うなぎ自体もさることながら、タレもよくできている。
脂がのって濃厚な身を、それだけでは終わらないようにタレが支えている。
「タレも自家製か?」
「ええ。基本的な作り方は関西風ですが、どこにでもある蒲焼じゃお客さんは来ませんから。僕の店だけの味を、そして僕にしか作れないものを目指しました」
「関西風ということは関東風もあるのか」
「はい。うなぎの開き方や串の刺し方、焼き方など細かく違います。一番の違いは味ですね」
「ほう」
「関東の蒲焼は素焼きした後せいろで蒸して脂を落とすので、柔かく淡白な味になります。関西のそれは素焼きの後、タレをつけて本焼きするので濃厚な味になります」
語る俊の目は輝いているように見えた。喋りたくて仕方ないのだろう。
「うまい。素人の俺が言うのもなんだが、これならすぐ店に出せるんじゃないか」
「そうですか。そう言ってもらえると安心です」
ぱくぱくとうなぎを食べる誠一郎を俊は満足げに眺めていた。
やがて食べ終えると、
「どんな人なんだ」
と、誠一郎は聞いてきた。
「なにがですか?」
「交際相手だ」
「そうですね、摑み所がない人、ですかね」
「摑み所がない」
誠一郎は眉をひそめた。摑み所がないとは理解しにくい人間を指す。まさか妙な人間では?
そんな父の様子を見て、
「ああ、いや、悪い人じゃないんですよ。美人ですし、貯金もしています。考え方もしっかりしてますし、なにより僕を支えてくれます。それに今食べたうなぎのアイデアも、一部は彼女が出したものなんですよ」
と、俊は慌てて言った。
「なら、どの辺が摑み所がないんだ」
「多少、その、放浪癖がありまして。旅行好きといえば聞こえはいいんですが」
「大丈夫なのか?」
「そのことでけんかもしましたが、彼女もわかってくれました。実は、近いうちに彼女を連れて会いに行こうと思ってたんです」
この様子では何も問題なさそうだ。
誠一郎は一瞬の胸のざわめきをかき消した。
「ところで、父さんはうなぎの捌き方をご存知ですか?」
「いや、知らん」
突然の質問に誠一郎はある種のしこりを感じた。
話を逸らされた?
「うなぎってヌルヌルして摑めないでしょう。でも、ちゃんと持ち方がありまして、中指で挟むように持つんです。これも慣れが必要でして。ボクも最初はよく逃げられました。そうしたら専用の包丁でしめます。骨まで包丁を入れて、でも頭を落とさないように刃を入れます。しめたら氷水で黙らせます。うなぎって意外と力が強いんですよ。暴れられてまいりました」
俊の目は上を向いている。
そのときの様子を思い出しているのか。さも苦労したというような顔をしている。
「そして目打ちを打ちます。錐みたいなものでうなぎを固定するんです。後は身を開いていくだけです。まあ、骨とかも取りますが、それは置いときましょう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「なんですか?」
「用を足してくる」
「でしたら、そこの廊下の突き当りを右へ」
「ああ、すぐ戻る」
誠一郎はトイレに入るとふう、と肩で息を吐いた。
突然うなぎの捌き方を語りだした俊はやはり様子がおかしい。
なにかあるな、と思った。
この家に入ったときから感じていた違和感。
どことなくおかしい息子。
そもそも誠一郎は調理に興味はない。食べるほう専門である。俊が知らないはずはない。
その父に調理法を語り聞かせるとは。
誠一郎の疑問は膨らむばかりだった。

うなぎ 前編

2008-05-27 | 小説・その他
ドアチャイムが鳴った。
家を購入して以来、最初にそれを鳴らしたのは他ならぬ彼の父だった。
「久しぶりだな、俊」
「父さん。連絡をくれれば駅まで迎えに行ったのに」
家主――石原俊はにっこりと破顔し、父――石原誠一郎を招き入れた。
「散らかってるけど気にしないで」
「いい。いきなり押し掛けたこっちが悪い」
言いつつ誠一郎は舌を巻いた。散らかってるどころの話ではない。何もないのである。男の一人暮らしと聞いていたが、本当にここで暮らしているのだろうか。
通された客間はちゃぶ台以外何もない。埃ひとつ落ちていない畳がかえって誠一郎の気にかかった。
「父さん、昼食はまだでしょう?丁度作っているところだったんで、少し待ってて下さい」
そう言うと、俊は部屋を出て行った。
誠一郎はゆっくりと部屋を見回した。掃除の行き届いた清潔感ある部屋である。鬼姑が見ても満点を出すだろう。
料理人になると言って俊が家を飛び出したのが十二年前。なかば勘当同然だったが、去年の夏に自分の店を持ったという手紙が届いた。ほとぼりも冷めていたし、バツが悪いなりにようやく足を運ぶこととなったのである。
感動の再会にならないだろうことは予想していたが、会わなかった年月を感じさせない俊の態度に誠一郎は違和感を拭えないでいた。
ただ座っているのも落ち着かないので部屋をウロウロする。
一本の糸が落ちていた。そんなことに息子の人間味を感じ拾い上げると、それは糸ではなく髪の毛であった。俊の髪は料理人なだけに短く刈られていた。これは十五センチはある。とすると――。
誠一郎の顔がほころぶ。
あいつもいい年だ。ひょっとすると孫の顔が拝めるかもしれん。
想像をかきたてながら隅にあるゴミ箱に捨てた。
「お待たせしました。どうしたんです?何か嬉しいことでも?」
俊が昼食を持って入ってきた。
「あ、いや、なんでもない」
慌てて正座をする父を見て、俊はクスリと笑った。
並べられた料理は一般家庭にあるようなものであったが、そこかしこに食べる人間への気遣いが感じられた。
「いただきます」
「いただきます」
息子と向かい合って食事を取れることがこんなに嬉しいとは。
自然と箸が進む。
見た目こそ質素だが味は段違いである。
自分の店を持つだけあって、その腕は確かなようであった。
「料理人、しっかりやってるようだな」
「それはまあ。修行しましたから」
「店のほうはどうなんだ。うまくいってるのか?」
「まあ、ぼちぼちってとこですね」
「その喋り方はなんとかならんか。堅苦しい」
「すみません。癖になってまして」
なんとか会話を弾ませようとしてみたが、どうしてもぶっきらぼうになってしまう。誠一郎は素直になれない自分が歯がゆかった。
沈黙が流れる。聞こえるのは箸が食器に触れる音くらいだ。
意を決して言ってみた。
「ところで、お前彼女とかいないのか?」
それまで落ち着き払っていた俊が、思いがけない質問にむせた。
この父から彼女などという単語が出てきたことが予想外だったのである。
「げほっ、げほっ。いきなりなに?」
「お前もいい年だ。気になる女の一人や二人いるんだろう?」
「そりゃボクだって男ですから」
「いつ一緒になるんだ」
「やだなあ、気が早いですよ」
言いつつも俊の顔は笑みを隠せずにいた。
これはひょっとするとひょっとするかもしれない。
「まあ、気が向いたら帰ってこい。その人も連れてな。母さんも会いたがってる」
「母さん……」
俊の箸が止まった。
家を出る直前まで母は俊の味方だった。
俊に料理を教えたのも母だったし、家を出るときこっそり金を工面したのも母だった。
「母さん、どうしてる?」
「元気にやってる。最近はガーデニングに凝りだした。食い物だけだがな」
「食べ物だけ?」
「ああ。お前に調理してもらうと言っていた。母さんも驚いてたぞ。連絡ひとつ寄越さなかったバカ息子が、自分の家と店を持つようになったなんてな。これで彼女もいると知ったら卒倒しかねん」
「そうですね」
誠一郎の口がへの字に曲がる。そのときの様子が見えているのだろう。
「あ、そうだ。ちょっと食べて頂きたいものがあるんですが」
「なんだ」
「うなぎですよ。店の新メニューを考えてましてね。モニターになってもらえればと」
「ほう、うなぎか。母さんの好物じゃないか」
「じゃあ、これから作ってきます。少し時間はかかりますが」
「ああ、ゆっくり待たせてもらおう」
俊は空いた皿を手に台所へ戻っていった。
まだおかずは何品か残っている。
それぞれ完成度が高くよい出来だ。
その才能を潰そうとしていたのかと思うと、誠一郎はやるせない気持ちになった。
「父親失格だな」
大きく息を吐く。
白米と一緒に食べるおかずは、やはり美味かった。

おかえりなさい

2008-02-05 | 小説・その他
 家の戸を開けると電気が消えた。
 いつものことだ。
 家の主である俺が帰ると、たとえどんなに賑やかな声が聞こえていようと、それは一瞬にして静寂と成り果てる。
 繰り返すがいつものことだ。
 これはすでに日常となり、まるで俺の存在を否定するかのように家の中には生き物の気配がしない。
 この家に住んでいるのは俺と妻、そして息子と娘の四人だ。妻は専業主婦で、子供たちはまだ十歳に満たない。
 家は二階建てということもあり、部屋数はそれなりにあるが、俺の帰宅を合図にかくれんぼをするほど酔狂でもあるまい。一応、部屋という部屋を全て探してみたが徒労に終わった。
 断っておくが妻との関係は良好だ。いや、だった、のほうが正しい。なにしろこの状態になってもう一年になる。俺はともかく、向こうはどう思っているか。
 中に入ると夕げのいい香りが腹を刺激した。匂いに釣られて居間へ入るが、やはり誰もいない。
 俺は蛍光灯を点けると、買ってきたコンビニ弁当を開いた。たった一人の食事だが、これも慣れた。
 冷蔵庫を開けると、俺が買った覚えのない品が入っている。やはり家族はここにいるのだと思うのは早計だろうか。
 風呂の湯に浸かると、昼間に溜めた疲れがどっと押し寄せてきた。
 時々虚しくなる。
 俺はなんのために働いているんだろう。
 ゆっくり息を吐くと、熱めの湯が身体に染み渡ってきた。
 いけない。どうも感傷的になっているようだ。
 パンツ一丁で冷蔵庫から缶ビールを取り出すと一気に飲った。心地よい刺激が喉を通る。
 ぷはあ、と息を吐くと体中の力が一気に抜けた。
 なんだか疲れた。今日はもう寝よう。

 朝日が居間を照らす。
 どうやらテーブルで寝てしまったらしい。
 洗面所で顔を洗うと、突っ伏したときについたであろう腕の跡が、くっきりと顔に残っていた。
 髭を剃って身支度を整え、インスタント味噌汁で白米を流し込む。
 ゴミ袋を持って会社に向かう様は、通勤途中のいい父親に見えるだろう。
「あら、おはようございます」
「おはようございます」
 隣の家の奥さんだ。ウチの奥さんとは仲が良いらしい。めったに会わないが、ずけずけと物を言うこの女を、俺はあまり好きではなかった。
「最近、ご家族で一緒にいるところ見ないわね。ケンカでもしてらっしゃるの?」
「ええ、まあ、そんなとこです」
 会社で覚えた愛想笑いが役に立つ。この場合、少しだけ困ったなという風に見せるのがポイントだ。
「だめよ。そういうときは男から謝らないと。ただいまって入ってごめんなさいって言えば解決よ。女に謝らせると、後が怖いわよ」
「はは、気をつけます」
 好き勝手言ってくれる。怖いのはあんたのことだろう。
 俺は笑顔で別れると、心で悪態をついた。

「帰り、一杯どうだ」
 この一言に俺が応えたのは、発言者が同僚の大塚だったからだ。こいつとは学生の頃からの付き合いで、数少ない友人の一人だ。会社の連中は仲間ではあるが友人ではない。都合のいいときだけ誘って愚痴を聞かせるのは友人と呼ぶまい。
 仕事を終わらせて近所の居酒屋に入ると、まずは生ビールを注文した。つきだしはたこわさだった。
「お待たせいたしました。生ビールです」
 一気に飲み干した。やはり一人で飲むときより格段にうまい。俺は口元の泡を拭いもせず、おかわりを注文した。
「家のほうは変わらずか」
と大塚が言った。こいつには何度か相談にのってもらったことがある。始めのうちは警察に行ってみろと言われたが、俺が家に入ると消える住人など誰が信じるだろう。試しに連れ帰ったこともあるが、やはり明かりはつかなかった。
「ああ。相変わらずだ。さすがに一年も経つと慣れちまった。正直、自分が嫌になる」
「なんなんだろうな。家主が帰ったら消える家族なんて聞いたこともない」
「まるで都市伝説だよ」
「都市伝説ねぇ」
 大塚は残ったビールを飲み干すと、
「それってさ、大概なんらかの対処法があるんだよな」
「ポマードって三回言ったりとか」
「口裂け女な。新聞にも載ったもんな。『口裂け女、北海道に上陸』」
「台風かよ」
 俺はつい噴き出してしまった。天気予報図にマスクをした女が映っている。それも渦巻きの中心に。なんてシュール。
 口裂け女は、通りすがりの男を呼び止め、「あたし、キレイ?」と聞いてくる。キレイと答えれば、「これでもかあ!」とマスクを外して裂けた口を露出し、襲いかかってくる。キレイじゃないと答えれば、爪や包丁でやはり殺されてしまう。これを撃退するにはポマード、と三回言えばいい。なぜポマードなのかは不明だが、それが都市伝説たる所以だろう。
「お待たせいたしました。生ビールです」
「あ、俺も生ビールおかわり。それと唐揚げと、モツ煮込みと――」
 口裂け女はどうでもよかったが、何かが俺の中に引っ掛かっていた。
 都市伝説――?

 帰り道。
 大塚と別れた俺は不快感を拭えずにいた。
 例えるなら、喉の奥に魚の骨が刺さっているような。
 何が気になるのか。何が引っ掛かっているのか。
 俺はハイライトをくわえると、記憶を朝に戻した。
 今日は起きて朝食を摂り、隣の奥さんに出くわし、とりあえず会社に行って、大塚と飲みに行った。
 それだけだ。
 どこかにこの不快感を消す鍵があるはずだ。
 どこだ?
 さらに記憶を紐解いていく。
「だめよ。そういうときは男から謝らないと。ただいまって入ってごめんなさいって言えば解決よ」
「それってさ、大概なんらかの対処法があるんだよな」
 対処法?
 いや、謝ることか?
『口裂け女、北海道に上陸』
 これは関係ないだろう。
 やはり都市伝説の対処法が気になるのか。
 ハイライトを携帯灰皿に押し込み、ううむと唸る。
「ただいま、ごめんなさいったってなあ」
 つい独り言をこぼしてしまった。
 待てよ?この一年で俺が一度も口にしていない言葉がある。
 それは――。
 俺は人目も憚らず思い切り走った。
 もちろん目指すは自宅だ。
 途中、転んだりしたが、どうでもよかった。
 今はただ、俺の立てた推論の結果が知りたかった。
 日頃、運動とは縁のない生活のせいで息も絶え絶えではあったが、なんとか家の前まで着いた。
 家には明かりが点いている。
 俺は大きく深呼吸し、息を整えた。
 ドアノブに手をかける。
 手は震えていた。
 ドアを開けた。
 暗闇が広がった。
 いつも通りだ。
 ここで、この一年間しなかったことをすれば、恐らく事態は変わる。
 胸に手を当て、大きく息を吸い込んだ。
 やることはひとつだ。
 たった一言で結果がでる。
 俺は吸い込んだ息を言葉に変えた。
「ただいま」
 明かりが、点いた。

珈琲と猫

2007-08-21 | 小説・その他
朝。
目覚めのコーヒーを飲む。
起きたてで豆を挽くのは少々辛いのでインスタントで妥協した。
コーヒーをゆっくり口に含みながら、まだ寝ている頭を起こしていく。
なにか聞こえる。
外を見てみると、向かいのマンションの駐車場に1匹の猫がいた。毛なみから察するに子猫以上成猫未満といったところか。
車の隣に座り、にゃあにゃあと鳴き続けている。
何を言いたいのかはさっぱりわからないが、なんとなくそいつを観察してみた。
視線が合った。
にゃあと一声鳴くと車の下に隠れてしまった。
どうやら嫌われたらしい。

昼。
上司に呼び出され説教された。
原因は全く見当違いのことであったが、面倒だったので黙っていた。
屋上で飯を食いながら缶コーヒーを飲んだ。同僚に飯とコーヒーは合わないだろうと言われたが無視した。
どうせコンビニ弁当だ。美味いも不味いもないだろう。

夜。
新しい豆を購入。
家に帰り早速豆を挽いた。
電動ミルは高くて手が出せないため手動ミルだ。
別にコーヒーが好きなわけではなく、ただの習慣だ。両親が好きだっただけである。
江戸川乱歩を読みながらコーヒーを飲んでいると、隣の部屋から物を投げつける音と罵声が聞こえてきた。
最近越してきた新婚らしい。らしいというのは挨拶に来なかったことと、今も聞こえる罵声の内容からだ。
週に一度はやらかすが、よくこれで結婚する気になったものだ。
一時間もすれば罵声は泣き声に変わり、翌日には何事もなかったかのように振る舞うのだろう。
男と女はわからない。

朝。
今日も猫はいた。
昨日と同じ場所で、昨日と同じ様に鳴いている。
目が合うとやはり引っ込んでしまった。
ちょっちょっと舌を鳴らしてみた。
車の下からこっちを覗いている。
冷蔵庫からししゃもを持ってきてちらつかせた。
5分くらいにらめっこが続いただろうか。
にゃあと鳴くと恐る恐るこっちに近づいてきた。
さすがに生のししゃもをやるわけにはいかないのでカニカマをあげた。
始めはこっちの様子をちらちらと窺っていたが、すぐに食べることに集中しだした。

昼。
新人の仕事のできなさに辟易する。
上司に怒られるのは自分なので手伝ってやった。
礼も言わずに、こんなの終わりませんよ、とへらへら笑っているこいつを心底殴りたくなったのは言うまでもない。
どんな教育を受けてきたんだか。
向いていないのに教育係をやらされているのは上司に嫌われているからだろう。
ため息もでない。

夜。
コインランドリーから戻り、衣類を畳む。
肉が安かったので肉野菜炒めをおかずに飯をかきこんだ。
テレビをつけると野球中継をしていた。興味がないので別のチャンネルにする。どの局もバラエティで面白味がない。
借りてきたDVDでも見るとしよう。そういえば明日が返却期限だった。
床に就いてしばらくすると、猫の唸り声が聞こえてきた。鳴き声が二種類ということは縄張り争いかなにかだろう。
隣室の男がうるさいとわめいている。うるさいのはお前だ、阿呆。

朝。
インスタントコーヒー片手に窓を開けた。
ちょっちょっと舌を鳴らす。
しかし、あの猫は見当たらない。
ちびちびとコーヒーを飲みながら待ってみたが、やはり現れる様子はない。
昨日の唸り声はあいつだったんだろうか。
どうやら用意した猫缶も無用のようだ。猫好きの同僚にでもやるとしよう。
冷たくなったコーヒーを一気に飲み干すと俺は家を出た。

電報

2007-02-13 | 小説・その他
『チチキトク スグカエレ』

まるでドラマのような電報が届いた。
父が危篤ということよりも、未だ電報が存在することのほうが千鶴子を驚かせた。
携帯電話の番号も、メールアドレスも知らせていないのでは仕方がない。住所と家の電話番号を変えていないのが救いか。もっとも、家の電話に出ることはない。だから、このような手段にでたのだろう。母には悪いことをした。
上京して以来、父とは一度も顔を合わせていない。
記憶にある父は常に眉間に皺を寄せ、よく千鶴子と口論をした。
大概は千鶴子に非があるのだが、若さ故か、千鶴子はそれを認めようとせず、父も口下手であったため、最後は必ず父の平手打ちで決着がついた。
暴力でしか物事を解決出来ない男。
父親にそんなレッテルを貼るのに、そう時間はかからなかった。
二度と会いたくない。
逃げるように家を飛び出して十年になる。
たまに母が訪ねてくるが、いつも一人だった。
どことなく寂しげな顔で、帰ってくる気はないのかと聞かれるが、その度に父の顔が脳裏をよぎり、千鶴子に二の足を踏ませるのだった。
今さら合わせる顔などない。
千鶴子は気分転換に散歩にでることにした。
仕事に追われ、せかせかと歩く道も、無目的で歩いてみると様々な発見がある。
立ち並ぶ家々。
庭に水を撒く夫人。
犬とじゃれる子供。
意識して見なければこの先も気付くことはなかったろう。
だったら。
千鶴子は入ったことのない道を選んだ。
何やら騒がしい。
そこは公園だった。
子供たちが楽しげに遊んでいる。
ベンチに腰を下ろすと、煙草に火をつけた。
ゆっくりと煙を吐き出す。
滑り台やジャングルジム、ブランコにシーソー。どれも遊んだことのある遊具だ。
「千鶴子?」
顔を上げると女が立っていた。年の頃は千鶴子と変わらない。女は千鶴子と目が合うなり興奮した様子で言った。
「やっぱり千鶴子だ。あたしよ、あたし。覚えてる?」
千鶴子が怪訝そうな顔をすると、
「やだ、覚えてないの?中学時代、部活で一緒だった八重垣結維」
ああ、言われてみれば昔の面影がある。
結維は千鶴子の隣に腰掛けると近況を話しだした。
結維は結婚して、一児の母になったという。
「ほら、砂場にいるでしょ?ウチの旦那と息子」
砂場の成人男性は一人しかいない。あれが旦那か。とすると、隣にいるのが息子。
まだ二歳くらいであろう子供を父親が暖かく見守っている。
「ホント、ウチの人って子煩悩なのよね」
そういえば、あんな頃もあったのか。
千鶴子にもあった子供時代。
父とよく公園に遊びに行き、砂山を作ったものだ。お世辞にも手先が器用とはいえなかった千鶴子は、砂山にトンネルを掘ろうとして山を崩落させた。何度やってもうまくいかず、ついに泣き出しそうになったとき、父は千鶴子の泥だらけになった手を握って、頑張れ、と言った。そしてにっこりと笑いかけるその眼指しはとても暖かかった。
今にして思えば、ブランコ漕いでいるときも、滑り台を滑るときも、傍らには必ず父がいた。
いったいどこで間違えてしまったのか。
気付けば午後五時を過ぎていた。
「あら、もうこんな時間?それじゃ、夕飯の用意があるから。あたしね、あそこの社宅に住んでるの。二○二号室。よかったら遊びにきてね」
結維は息子のところに駆け寄ると、千鶴子に手を振った。旦那は息子を抱き上げ千鶴子に一礼し、かつての同級生一家は家に帰っていった。
煙草に火をつける。
ゆっくりと煙を吐き出す。
右頬を涙が伝っていった。
携帯電話を取りだし、番号をプッシュする。
「もしもし、母さん?……うん、明日には帰れるから。だから、それまで父さんのことよろしくね」
会ってなんと言えばいいのかもわからない。もしかしたら間に合わないかもしれない。それでも、なにもしないよりはいい。
千鶴子は涙を拭き、公園を後にした。





死街幻夢 後編

2006-07-27 | 小説・その他
飲食店、本屋、デパート、アミューズメント。様々な店に入ったが、やはり誰も居らず、故に街の機能は全て停止し、まさしくここは死都であった。
街をさまよい続けてすでに三時間は経過していた。
順一朗の身体は脱水症状を起こし、もはや歩くのが困難になっている。
足が絡まり転んだ。立ち上がる気力もない。助けを求めようにも誰も居らず、訳もわからずこんなところで惨めに死んでゆくのだろうか。
風が吹いた。それを涼しいと思うこともない。だが。
顔を上げた。生きたかった。風で飛ばされたのか、目の前に新聞が転がっていた。
見出しには、○市に原子爆弾投下、とある。
目を疑った。○市は順一朗が倒れている、この都市である。
ありえない。人こそないが、ビル群は健在だ。原爆など落とされれば辺りは焦土と化しているだろう。
記事を読む。
×月×日――今日だ――午後二時、○市に原子爆弾が投下された。死傷者五万八千、重軽傷者――。
ではここはどこだ。自分は一体……。

街はすでに原型を留めていない。倒壊したビルや家屋。張り付いたままの影。淀んだ空気。ここは地獄であった。
防護服に身を包んだ者たちがそれぞれに何かを運んでいる。彼等の手にしたバケツには運良く形が残った手足が入っていた。
「おい、もちっと丁寧に扱え。仏さんなんだぞ。えーと、こりゃ身分証明書か。……『JYUNICHIRO』、ね」

死街幻夢 前編

2006-07-26 | 小説・その他
現在の気温三十六度。コンクリートジャングルと化した東京にとっては、ごく当たり前の数字だ。ビルや家庭で使われているエアコンは、その内部だけを快適にするため熱気を排出し続け、故に近い将来平均気温は四十度を越すといわれている。毎年言われている異常気象は例年通りとなり、こうして文明の利器に頼りきった人類は滅びへの一途を辿るのかもしれない。
順一朗は午後二時の炎天下を一人歩いていた。
彼はアパートを家賃滞納で追い出され、行くあてもなくただ街を彷徨っていた。
アスファルトからは熱気が上り、目前の世界を陽炎たらしめんとしている。
周りの人間も汗をたらしながらせかせかと歩き、角でタムロしている女子校生などは人目も憚らずスカートで足を扇いでいる始末だ。世も末だと思うが気持ちはわからないわけでもない。
あまり見ていると因縁をつけられるため足早にその場を離れた。近頃の学生は何をしでかすかわからない。昨日も友人が学生同士の暴行事件に巻き込まれ、頭に三針の怪我をしたばかりだ。
これも暑さのせいなのかもしれない。早くどこかの店に入って体を休めなければどうにかなってしまいそうだ。見よ、あまりの熱気に歩行者の足も揺らめきを見せ、既にこれは幻ではないかと訴えかけている。
順一朗は額の汗を拭うと大きく息を吐き、ゆっくりと周りを見回した。
誰もいない。
見えるのは揺らめく足だけだ。それすらも一つ、また一つと消えていき、ついに彼は一人きりになってしまった。
きっと夢だ。湯だった頭を冷やすため、彼は近くの電気店へ入った。
涼しくない。それどころか暑い。どうやら冷房が働いていないようだ。
人の気配もしない。
吹き出る汗を拭いながら考える。閉店、入口が開いているわけがない。店内改装、人がいるはずだ。なら……?
面倒臭くなった。仮に推論が当たったところで涼しくなるわけでもなし、さっさと別の場所へ行ったほうが得策である。
電気店を出ると強い日射しが順一朗を照らした。じりじりと焼けつく暑さに彼の脳は悲鳴をあげつつある。なんでもいい。なにか冷たいものを。そういえば駅前の広場には噴水があった。
順一朗は噴水まで走るとシャツを脱ぎ捨て水面にダイブした。水はすでに湯になっていたが底のほうはまだ温く、順一朗はわずかだがその体温を下げることができた。

続く

逃亡依頼 後編

2006-06-29 | 小説・その他
「俺が奴らを引き付ける。その間に隙間をぬって逃げろ」
「えっ!?」
奴らの人数は八人。無謀だがやるしかない。
俺は奴らに向かって走り出した。誰でもいいから当たれと跳び蹴りで突っ込む。後はどうにでもなれだ。
突然の行動に驚いたのか、三人を急所の一撃で仕留められた。
それでも、こっちが不利なのは変わらない。俺のパンチは空を切り、黒服の拳が俺の腹を直撃する。内からせりあがる吐気にうずくまると、五人分の蹴りが一斉に襲いかかってきた。だが、奴らの意識が俺に向いていれば裕子も逃げやすくなるはずだ。ここは耐えろ、俺。
五分も我慢すれば大丈夫だと思っていたが、蹴りの嵐は意外とすぐに止んだ。
顔を上げると、黒服たちは全員うつ伏せにのびていた。その傍らには鉄パイプを持った裕子が息をきらせて立っていた。
「なんでまだいるんだよ!」
怒鳴る俺に裕子は、
「なんでじゃない!弱いくせに無理してさ。あなたと一緒じゃなきゃ意味がないの!」
……参った。目に涙浮かべてそんなこと言われたら、俺はどうすればいい?
俺は痛む腹を押さえて立ち上がり、
「とにかく行こう。他の奴らがかぎつけてくる」
「そこまでじゃ」
突然の新参者の登場に俺は身を固くした。
小柄な爺さんは俺を一蔑するとフンと鼻で笑い、
「姫様、お戯れはそこまでに。ご帰還の準備は整っております。このような下賤な輩は捨ておき、この爺と本星にお戻り下さいませ」
と恭しく礼をした。
「おい、爺さん。なんのことかだかわからないが、あんたがこいつらを指揮していたのか」
「その通りじゃ」
「何故こんなことをする?裕子がなにかしたのか」
「たわけが。無知とは罪じゃの。お前が裕子様と呼んでいるその方は――」
「やめて!」
裕子の悲痛な叫びが爺さんの声を止めた。
「そこからは私が話すわ」
爺さんは背筋を伸ばすと、
「これは出すぎた真似を致しました」
と、深々と頭をさげた。
「どういうことだ?」
「私ね、月の人間なの」
あまりに突拍子もない話に俺の頭は豆腐色に染まった。
「……何言ってんだ」
「こんな話、誰も信じないわよね。いいわ、証拠を見せてあげる。爺、アレを」
「かしこまりました。小僧、上を見ろ」
爺さんは空を指差した。
その先には、見間違えようのない程巨大なアダムスキー型ユーフォーが浮かんでいたのである。
ユーフォーは瞬間移動したり、チカチカと光ったりした。サービス満点だ。
開いた口が塞がらない。いや、ホントに。
「わかったでしょ。私は存在しない人間なのよ」
「姫様の父親、月の王が病床に伏してからというもの、隙を見ては政権をかすめとろうという者が後をたたんようになった。中には姫様をたぶらかさんとする輩もおった。心身共に疲れ果てた姫様はわしらの目を盗み地球に降りたのじゃ。後はお前の方が知っていよう。わしらの誤魔化しも限界にきておる。姫様、どうか月にお戻り下され」
爺さんは哀願するような目で裕子を見た。
「いや」
裕子は首を縦に振らなかった。
「私が戻ったところで何も変わらないわ。お飾りの姫なんて何の役にもたたない。それでもいいなら私のハリボテでも立てておきなさい」
「そ、そんな」
「爺、あなたもそうよ。昔からみんなで王様、王様って父様のことばかり気にして、私のことなんて放ったらかしで、そりゃ、母様が亡くなってから特に父様元気なかったけど、だからってどうして私のことを誰も見てくれないのよ」
これが本当の裕子なんだろう。心の奥底を吐露するうち、その目からは大粒の涙が溢れていた。
「でも彼だけは違った。いつでも私だけを見てくれる。私が月に帰る理由なんてこれっぽっちもないわ」
「姫様……」
爺さんはしばらくの間頭を垂れていたが、やがて両膝をつき、額を地面に擦り付けた。
「姫様がそのような思いをなさっていたこと、わしらは気づきませんでした。いかような罰も爺がすべて引き受けます。しかし、それでも姫様には月にお戻り頂きたいのです。姫様がいなくなって、わしらは初めて気づきました。過ちは繰り返しませぬ。どうか、どうか」
ここまで言うと爺さんは顔を上げた。その目は真っ直ぐに裕子を見ていた。
裕子は目をそらしている。
二人の間を沈黙が流れた。
「もういいだろ」
しかし、その沈黙を破ったのは第三者である俺だ。
「爺さんもここまでしてるんだ。裕子、月へ帰るんだ」
裕子は信じられないという目を俺に向けた。
「小僧」
爺さんも同じ目をした。だが、その意味はまったく反対だ。
「なによ、あなたまで私をいらないって言うの」
「そうじゃない。だが、このままここにいれば必ず後悔する日が来る。あの時戻っていればよかったと思う日が必ず来る。爺さん、親父さんの容体は」
「日に日に悪くなっておる」
「ならなおさらだ。お前が爺さんに向けた思いを他の皆にもぶつけてこい。そんで、親父さんにも顔見せてこいよ。案外ケロッと治るかもしれないしな」
「でも……」
「いいから。たまには俺の言うことも聞いてくれよ。『畑中』の店長にうまい肉用意させとくし、それに、心にもやもや抱えたままっての、けっこう、辛いぞ」
「……わかった。爺、回収を」
「かしこまりました」
爺さんが腕時計のようなものをいじると、ユーフォーから光の柱が降りてきて裕子と、まだのびている黒服たちを吸い上げた。
「すぐ戻ってくるからね!」
「ああ!」
やがてその姿は見えなくなった。ユーフォーの中にいるんだろうか。
「一件落着……かな」
「うむ」
「うわっ」
そういえば、まだいたんだった。
「もとはといえばわしらの失態。小僧、礼を言うぞ」
と言いつつも、目はそらしている。ツンデレってか。
「いいさ。その失態のおかげで俺はあいつと会えたんだ。礼を言うのはこっちだ」
「いいよるわ。ところで小僧、実はな――」

あれから三日。
俺は会社を無断欠勤して逃亡の日々を過ごしている。というのも、
「実はな、月の法律で他星の生命体との無断接触は禁じられておるのじゃ」
「じゃああいつ、まずいんじゃないのか」
「まずいのはおまえじゃ。この法を破った場合、接触した相手を抹殺することになっておる」
「爺さん、まさか」
「安心せい。このようなことを姫様は望んでおらぬ。おそらく、法の改正を要求するじゃろう。それまでは小僧、がんばって逃げ延びてくれぃ。ほいじゃぁの」
言いたい放題言うと爺さんもユーフォーの中へ消えていった。そして、瞬き一つする間にユーフォーは俺の視界から消えていた。
それから五分もすると、さっきとは違う黒服がやってきた。右手には銃を一丁下げている。その銃口が上がる前に、俺は脱兎のごとく逃げ出していた。
気分はまるでかくれんぼだ。でも、三日間も続くといいかげん疲れてくる。
「早く戻ってこないかなぁ」
俺は次の隠れ場所を探しながらつぶやいた。

逃亡依頼 中篇

2006-06-27 | 小説・その他
男たちの目はサングラスに隠れて見ることは出来ないが、その視線がこちらを向いていることはわかった。
「早く!」
「あ、ああ」
俺と裕子は裏通りを戻り、人の大勢いる表通りへと走った。
「なんなんだよ、あいつら。お前、何かしたのか」
「いいから走って!」
元々気の強い女ではあったが、いつもと違う凄みを感じた俺はそれ以上黒服について訊くことができなかった。
表通りに出ると、
「ごめん。巻き込んじゃったね」
と、裕子は言った。
「あたし、追われてるの。訳は言えないけど、お願い、今夜一晩だけあたしを守って」
「……守るのはいいけど、訳が話せないのはどうして?」
「知らない方がいいから」
いきなり守れと言われて理由は話せない、じゃ、納得できないだろう。しかし、
「わかった」
「ホント!?」
俺が『お願い』を聞く気になったのは、俺が見たことのない必死な顔を裕子がしていたからだ。俺は覚悟を決めた。惚れた女の頼みだ、今夜一晩くらいなんとかしようじゃないか。
「で、具体的にはどうするんだ。どこかにたてこもるか」
「それこそ奴らの思うつぼよ。一ヶ所に固まっちゃだめ。常に移動するの」
「それじゃ、ここも長くはいられないな。と、言ってるそばからおいでなすったぜ」
ヒトゴミの中を頭一つ高い黒服が向かってくるのが見えた。
「よし、逃げるぞ!」
俺は裕子の手を固く握り走った。ある程度奴らを引き離したら、少しばかり休むのを繰り返す。
しかし、
「何人くらい来てるんだ?まちまちな方向から追ってきてるみたいだけど」
「わからない。でも、十人やニ十人じゃないと思う」
それだけの数を相手にしろってか。冗談きついね、まったく。と、
「ちっ、もう来やがったか」
だんだん奴らのスピードも上がってきている。
このままでは捕まるのも時間の問題だろう。さて、どうする?
「またやってる」
「え?」
裕子は俺の手を下ろさせ、
「爪、噛んでた」と言った。
「直らないね、その癖」
以前、裕子に指摘されて気付いたが、どうやら考え事をしているときは爪を噛んでいるらしい。気を付けるようにしていたが、まさか、こんなときにも言われるとは思わなかった。
俺は爪をさすりながら、
「いいじゃないか、見逃してくれよ」
「だめよ。男はみだしなみにも気を使うものよ」
賛同はするが、今はそんな場合じゃない。
「とにかく逃げるぞ」
だが、行く先々で黒服が道を阻み、俺たちはとうとう袋小路に追い詰められてしまった。

続く

逃亡依頼 前編

2006-06-26 | 小説・その他
月はなぜ、こんなにも明るいのか。雲ひとつない空にぽっかりと浮かんだ月は、そのしなやかなカーブを失うことはなかった。いつからなのかは知る由もない。なにしろ俺以外の誰もこの怪現象に気付かないのだ。初めはいぶかしく思ったが、じきに興味を失った。確かに満月はそこにあり、それを見る俺もまたここに存在するのだ。

今日は恋人、裕子とのデートである。仕事で遅れたなどと通用する女ではない。俺はスーツ姿のまま待ち合わせ場所へと急いだ。途中、何人かに声をかけられたが、どうせなにかの勧誘だろう。ああいうのは相手にしてはいけない。
「おーそーい」
着いた第一声がこれか。まあ、いつものことだ。
「遅いって、時間には間に合っただろ」
「駆け込んでくるだけでも鬱陶しいの。いつも言ってるじゃない。男は常に余裕を持てって」
男に限らんだろ、と口に出すほど浅はかではないつもりだ。
「ね、来る途中、なにもなかった?」
「いや、別に」
「そっか、ま、いいや」
裕子は伸びをすると、
「行こう。時間がもったいない」
と言った。
裕子は近頃できたというゲームセンターに俺を引っ張っていった。取りたいヌイグルミがあるらしい。
「これこれ、クマのブーさん。赤いシャツと右手の肉切り包丁がキュートでしょう」
「……そうだね」
これ、版権とかまずいんじゃないのか?
オープン仕立てで設定が甘めらしく、SJ(スーパージャンボ)をわずか六百円で取ることができた。
上機嫌の裕子。部屋に飾るんだろうな、それ。
「んー、満足満足。さ、次はどこ行こうか」
「俺、腹へっちゃったよ」
「じゃあ、食事にしましょ」
向かった先は、路地裏にあるステーキ屋『畑中』で、俺の知り合いが店長をしている。会計も割引いてくれるので、週に一度は通っていた。難点といえば、路地裏という場所の都合上、店を知っている人間が少ないことだ。
「いつ来ても暗いわね」
「路地裏だしな」
人気も少ないはずの路地裏は、しかし今日は違っていた。
前方に、闇に溶けこむべく、黒いスーツに黒眼鏡の男たちが立っていた。
「なんだ、あれ。メンインブラックか?」
と、茶化すと、裕子は俺の手をグッと握り、
「戻ろう」
と言ってもと来た道を小走りで俺を引っ張っていった。
「なんなんだよ、おい」
「いいから。後ろ見ちゃだめよ」
そう言われると見たくなるのが人情だろう。俺は振り返った。
「あっ」
さっきの黒服たちがこっちに、というより俺たちに向かって歩いてきていた。

続く