ネコきか!!

バビデ
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ホイミ
レロレロ

おかえりなさい

2008-02-05 | 小説・その他
 家の戸を開けると電気が消えた。
 いつものことだ。
 家の主である俺が帰ると、たとえどんなに賑やかな声が聞こえていようと、それは一瞬にして静寂と成り果てる。
 繰り返すがいつものことだ。
 これはすでに日常となり、まるで俺の存在を否定するかのように家の中には生き物の気配がしない。
 この家に住んでいるのは俺と妻、そして息子と娘の四人だ。妻は専業主婦で、子供たちはまだ十歳に満たない。
 家は二階建てということもあり、部屋数はそれなりにあるが、俺の帰宅を合図にかくれんぼをするほど酔狂でもあるまい。一応、部屋という部屋を全て探してみたが徒労に終わった。
 断っておくが妻との関係は良好だ。いや、だった、のほうが正しい。なにしろこの状態になってもう一年になる。俺はともかく、向こうはどう思っているか。
 中に入ると夕げのいい香りが腹を刺激した。匂いに釣られて居間へ入るが、やはり誰もいない。
 俺は蛍光灯を点けると、買ってきたコンビニ弁当を開いた。たった一人の食事だが、これも慣れた。
 冷蔵庫を開けると、俺が買った覚えのない品が入っている。やはり家族はここにいるのだと思うのは早計だろうか。
 風呂の湯に浸かると、昼間に溜めた疲れがどっと押し寄せてきた。
 時々虚しくなる。
 俺はなんのために働いているんだろう。
 ゆっくり息を吐くと、熱めの湯が身体に染み渡ってきた。
 いけない。どうも感傷的になっているようだ。
 パンツ一丁で冷蔵庫から缶ビールを取り出すと一気に飲った。心地よい刺激が喉を通る。
 ぷはあ、と息を吐くと体中の力が一気に抜けた。
 なんだか疲れた。今日はもう寝よう。

 朝日が居間を照らす。
 どうやらテーブルで寝てしまったらしい。
 洗面所で顔を洗うと、突っ伏したときについたであろう腕の跡が、くっきりと顔に残っていた。
 髭を剃って身支度を整え、インスタント味噌汁で白米を流し込む。
 ゴミ袋を持って会社に向かう様は、通勤途中のいい父親に見えるだろう。
「あら、おはようございます」
「おはようございます」
 隣の家の奥さんだ。ウチの奥さんとは仲が良いらしい。めったに会わないが、ずけずけと物を言うこの女を、俺はあまり好きではなかった。
「最近、ご家族で一緒にいるところ見ないわね。ケンカでもしてらっしゃるの?」
「ええ、まあ、そんなとこです」
 会社で覚えた愛想笑いが役に立つ。この場合、少しだけ困ったなという風に見せるのがポイントだ。
「だめよ。そういうときは男から謝らないと。ただいまって入ってごめんなさいって言えば解決よ。女に謝らせると、後が怖いわよ」
「はは、気をつけます」
 好き勝手言ってくれる。怖いのはあんたのことだろう。
 俺は笑顔で別れると、心で悪態をついた。

「帰り、一杯どうだ」
 この一言に俺が応えたのは、発言者が同僚の大塚だったからだ。こいつとは学生の頃からの付き合いで、数少ない友人の一人だ。会社の連中は仲間ではあるが友人ではない。都合のいいときだけ誘って愚痴を聞かせるのは友人と呼ぶまい。
 仕事を終わらせて近所の居酒屋に入ると、まずは生ビールを注文した。つきだしはたこわさだった。
「お待たせいたしました。生ビールです」
 一気に飲み干した。やはり一人で飲むときより格段にうまい。俺は口元の泡を拭いもせず、おかわりを注文した。
「家のほうは変わらずか」
と大塚が言った。こいつには何度か相談にのってもらったことがある。始めのうちは警察に行ってみろと言われたが、俺が家に入ると消える住人など誰が信じるだろう。試しに連れ帰ったこともあるが、やはり明かりはつかなかった。
「ああ。相変わらずだ。さすがに一年も経つと慣れちまった。正直、自分が嫌になる」
「なんなんだろうな。家主が帰ったら消える家族なんて聞いたこともない」
「まるで都市伝説だよ」
「都市伝説ねぇ」
 大塚は残ったビールを飲み干すと、
「それってさ、大概なんらかの対処法があるんだよな」
「ポマードって三回言ったりとか」
「口裂け女な。新聞にも載ったもんな。『口裂け女、北海道に上陸』」
「台風かよ」
 俺はつい噴き出してしまった。天気予報図にマスクをした女が映っている。それも渦巻きの中心に。なんてシュール。
 口裂け女は、通りすがりの男を呼び止め、「あたし、キレイ?」と聞いてくる。キレイと答えれば、「これでもかあ!」とマスクを外して裂けた口を露出し、襲いかかってくる。キレイじゃないと答えれば、爪や包丁でやはり殺されてしまう。これを撃退するにはポマード、と三回言えばいい。なぜポマードなのかは不明だが、それが都市伝説たる所以だろう。
「お待たせいたしました。生ビールです」
「あ、俺も生ビールおかわり。それと唐揚げと、モツ煮込みと――」
 口裂け女はどうでもよかったが、何かが俺の中に引っ掛かっていた。
 都市伝説――?

 帰り道。
 大塚と別れた俺は不快感を拭えずにいた。
 例えるなら、喉の奥に魚の骨が刺さっているような。
 何が気になるのか。何が引っ掛かっているのか。
 俺はハイライトをくわえると、記憶を朝に戻した。
 今日は起きて朝食を摂り、隣の奥さんに出くわし、とりあえず会社に行って、大塚と飲みに行った。
 それだけだ。
 どこかにこの不快感を消す鍵があるはずだ。
 どこだ?
 さらに記憶を紐解いていく。
「だめよ。そういうときは男から謝らないと。ただいまって入ってごめんなさいって言えば解決よ」
「それってさ、大概なんらかの対処法があるんだよな」
 対処法?
 いや、謝ることか?
『口裂け女、北海道に上陸』
 これは関係ないだろう。
 やはり都市伝説の対処法が気になるのか。
 ハイライトを携帯灰皿に押し込み、ううむと唸る。
「ただいま、ごめんなさいったってなあ」
 つい独り言をこぼしてしまった。
 待てよ?この一年で俺が一度も口にしていない言葉がある。
 それは――。
 俺は人目も憚らず思い切り走った。
 もちろん目指すは自宅だ。
 途中、転んだりしたが、どうでもよかった。
 今はただ、俺の立てた推論の結果が知りたかった。
 日頃、運動とは縁のない生活のせいで息も絶え絶えではあったが、なんとか家の前まで着いた。
 家には明かりが点いている。
 俺は大きく深呼吸し、息を整えた。
 ドアノブに手をかける。
 手は震えていた。
 ドアを開けた。
 暗闇が広がった。
 いつも通りだ。
 ここで、この一年間しなかったことをすれば、恐らく事態は変わる。
 胸に手を当て、大きく息を吸い込んだ。
 やることはひとつだ。
 たった一言で結果がでる。
 俺は吸い込んだ息を言葉に変えた。
「ただいま」
 明かりが、点いた。

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