前回からの続きです。
さて、坂本龍馬という人はいったい何を目指していたのだろう。
ごく一般的な評価としては、龍馬はんは勤皇の志士であり、当初尊皇攘夷であったが、勝海舟との出会いにより開国派に転向、迫り来る外国勢力に対抗するには富国強兵しかないと悟り、それにはまず幕府を倒すことを目標として薩長同盟を締結させ、大政奉還のフィクサーとなってそれを実現した矢先に帰らぬ人となった、という見方。
「日本を今一度洗濯いたし申し候」
龍馬はんの名セリフである。これがひとつの龍馬はんの目標であったことは間違いない。そして本当に洗濯してしまった。脱藩した一介の浪人が、徳川300年の幕藩体制を終わらせた。このことに後世の人間はシビれる。まさに「奇跡の男」だった。
しかし、洗濯を半ばし終えた龍馬はんの視線はまだ遠くを見ていた。普通であればこれだけの仕事をすればもう人生満足である。実際西郷は維新革命の後は抜け殻のようになってしまっている。しかし龍馬はんはまだ志半ばであったような感がある。
「世界の海援隊でもやりましょうかな」
この有名なエピソードは虚構とも言われる。龍馬はんが新政府構想を西郷に示した、その名簿に龍馬自身の名前がなかった。西郷が何故かと尋ねたところ、「わしゃ役人が嫌いだ」と答えて上記の文言を言ったとされる。しかし「尾崎三良手扣」には龍馬はんが作ったとされる「新官制擬定書」が記されていて、その中に龍馬はんの名前もある。したがって龍馬はんは新政府に入ろうとしていたのであって、「窮屈な役人にはならんぜよ」とは言っていない、ということである。
虚構だったかもしれない。しかし陸奥宗光はこの「世界の海援隊」の発言から「西郷より龍馬は二枚も三枚も上に見えた」と言っており、またお龍の回顧談からも、役人になりたくない龍馬はんの言動が見てとれる。仮に新政府に名前を連ねざるを得なくても、それも龍馬はんにとっては通過点であるという見方が出来るのではないか。やはり目指すところは「世界の海援隊」ではなかったかと思うのである。
この「世界の海援隊」はキーワードである。司馬遼太郎氏は後に「竜馬にとって維新革命は片手間の仕事ではなかったか」と発言している。明治維新が片手間。しかしそう考えると、龍馬はんの考え方がすっと理解できるようにも思えるのである。
龍馬はんが新政府のあり方を示した「船中八策」。その中には「世界の海援隊構想」を実現しようとする内容が盛り込まれている。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
つまり外交は新しく公正な条約を作り、海外と金銀価値、物価を平衡しろ、と言うのだ。これ無くして海外貿易は成り立たない。八策のうち二策までも貿易重視の内容になっている。これがつまり、龍馬はんの維新政府発足の目的であったと言える。これを実現せんがために龍馬はんは「日本を洗濯」しようとしたのだ。
この龍馬はんの思想はどこから生じたものであるのか。通説によると、まず土佐の絵師河田小竜との出会いから始まる、とされる。このジョン万次郎と親交の深かった小竜には確かに影響はされただろう。そして、志士となって名士と交流するに至って龍馬はんの「来るべき日本の未来」は具体化していったものとされる。まず勝のとっつぁん。そして大久保一翁、横井小楠。現在の幕府では外国の脅威に太刀打ち出来ず、雄藩連合によって政府を運営し、いずれ共和体の政府を作るべきであるという考え方。それは前述の「船中八策」にも大いに盛り込まれる。「上下議政局」「万機宜しく公議に決すべき」「新に無窮の大典を選定すべき」等々。既に議会制民主主義、憲法制定まで視野に入れている。封建時代から一足飛び過ぎる、と後世の僕達にも思えるほど斬新である。勝海舟らはこれを目標としていたことはほぼ間違いあるまい。また西郷ら倒幕派は、討幕革命が一次目標でありここまで先を見据えてはいなかったかもしれない。龍馬はんの先進性が伺える。
しかしこれも龍馬はんにとっては手段にしか過ぎなかったのかもしれないのだ。「世界の海援隊」を見据えていたとすれば。
この考え方は勝のとっつあんの影響だけでは導き出せない。
それでは、龍馬はんの真の思想背景を形作ったものはなんだろうか。
それはやはり「才谷屋」の血が成せるものだったのではないだろうか、と僕は夢想するのである。坂本家は土佐郷士だがもともとは商人である。「勤皇思想」といった形而上の考えでは左右されない何かがあったような気がしてならない。
土佐は「天保庄屋同盟(我らの総主は山内でなく天皇)」もあり勤皇思想も強く、確かに若いときは土佐勤皇党に所属し、武市半平太にも影響されただろう。しかし龍馬はんは、この勤皇思想の中から平等思想を抽出したような気もする。そして「土佐にはあだたん(入りきらない)男」であった龍馬はんは、脱藩して長州に向かう。檮原の山中を抜け伊予へと国抜けを果たし、龍馬はんは伊予長浜の冨屋金兵衛宅で宿泊している。
ここが龍馬はんの出発点ではなかったか、と僕は夢想したりもするのである。豪商冨屋金兵衛は勤皇派を擁護し援助していた。まず「勤皇の商人」との出会いから、武士だけではなく何故商人が封建時代を終わらせたいのか、という思想の片鱗と遭遇したのではとも思える。想像にすぎないが。そして三田尻へ渡り下関へ。ここには勤皇商人の大御所、白石正一郎との出会いが待っていた。
白石正一郎は商人というより志士だったのかもしれない。倒幕に財産を使い果たした男だからだ。しかし、武士階級でない人間が「勤皇思想」だけでここまでするのだろうか。白石にも商人の思想はあったはずである。この時ではないが下関には豪商伊藤助太夫も居た。この人物を龍馬はんは信頼し後に助太夫宅を「自然堂」と号し、お龍も住まわせた。
この商人たちとの出会い。これは龍馬はんには大きかったのではないか。他の志士達には「金づる」でしかなかったこの豪商たちに、もともと才谷屋であった龍馬はんのアンテナは何かを察知したのではないか。そしてさらにこの後、龍馬はんはもっと深く商人の思想の世界に入っていくこととなるのだ。
さらに次回に続く。いったいいつ終わるのか。
さて、坂本龍馬という人はいったい何を目指していたのだろう。
ごく一般的な評価としては、龍馬はんは勤皇の志士であり、当初尊皇攘夷であったが、勝海舟との出会いにより開国派に転向、迫り来る外国勢力に対抗するには富国強兵しかないと悟り、それにはまず幕府を倒すことを目標として薩長同盟を締結させ、大政奉還のフィクサーとなってそれを実現した矢先に帰らぬ人となった、という見方。
「日本を今一度洗濯いたし申し候」
龍馬はんの名セリフである。これがひとつの龍馬はんの目標であったことは間違いない。そして本当に洗濯してしまった。脱藩した一介の浪人が、徳川300年の幕藩体制を終わらせた。このことに後世の人間はシビれる。まさに「奇跡の男」だった。
しかし、洗濯を半ばし終えた龍馬はんの視線はまだ遠くを見ていた。普通であればこれだけの仕事をすればもう人生満足である。実際西郷は維新革命の後は抜け殻のようになってしまっている。しかし龍馬はんはまだ志半ばであったような感がある。
「世界の海援隊でもやりましょうかな」
この有名なエピソードは虚構とも言われる。龍馬はんが新政府構想を西郷に示した、その名簿に龍馬自身の名前がなかった。西郷が何故かと尋ねたところ、「わしゃ役人が嫌いだ」と答えて上記の文言を言ったとされる。しかし「尾崎三良手扣」には龍馬はんが作ったとされる「新官制擬定書」が記されていて、その中に龍馬はんの名前もある。したがって龍馬はんは新政府に入ろうとしていたのであって、「窮屈な役人にはならんぜよ」とは言っていない、ということである。
虚構だったかもしれない。しかし陸奥宗光はこの「世界の海援隊」の発言から「西郷より龍馬は二枚も三枚も上に見えた」と言っており、またお龍の回顧談からも、役人になりたくない龍馬はんの言動が見てとれる。仮に新政府に名前を連ねざるを得なくても、それも龍馬はんにとっては通過点であるという見方が出来るのではないか。やはり目指すところは「世界の海援隊」ではなかったかと思うのである。
この「世界の海援隊」はキーワードである。司馬遼太郎氏は後に「竜馬にとって維新革命は片手間の仕事ではなかったか」と発言している。明治維新が片手間。しかしそう考えると、龍馬はんの考え方がすっと理解できるようにも思えるのである。
龍馬はんが新政府のあり方を示した「船中八策」。その中には「世界の海援隊構想」を実現しようとする内容が盛り込まれている。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
つまり外交は新しく公正な条約を作り、海外と金銀価値、物価を平衡しろ、と言うのだ。これ無くして海外貿易は成り立たない。八策のうち二策までも貿易重視の内容になっている。これがつまり、龍馬はんの維新政府発足の目的であったと言える。これを実現せんがために龍馬はんは「日本を洗濯」しようとしたのだ。
この龍馬はんの思想はどこから生じたものであるのか。通説によると、まず土佐の絵師河田小竜との出会いから始まる、とされる。このジョン万次郎と親交の深かった小竜には確かに影響はされただろう。そして、志士となって名士と交流するに至って龍馬はんの「来るべき日本の未来」は具体化していったものとされる。まず勝のとっつぁん。そして大久保一翁、横井小楠。現在の幕府では外国の脅威に太刀打ち出来ず、雄藩連合によって政府を運営し、いずれ共和体の政府を作るべきであるという考え方。それは前述の「船中八策」にも大いに盛り込まれる。「上下議政局」「万機宜しく公議に決すべき」「新に無窮の大典を選定すべき」等々。既に議会制民主主義、憲法制定まで視野に入れている。封建時代から一足飛び過ぎる、と後世の僕達にも思えるほど斬新である。勝海舟らはこれを目標としていたことはほぼ間違いあるまい。また西郷ら倒幕派は、討幕革命が一次目標でありここまで先を見据えてはいなかったかもしれない。龍馬はんの先進性が伺える。
しかしこれも龍馬はんにとっては手段にしか過ぎなかったのかもしれないのだ。「世界の海援隊」を見据えていたとすれば。
この考え方は勝のとっつあんの影響だけでは導き出せない。
それでは、龍馬はんの真の思想背景を形作ったものはなんだろうか。
それはやはり「才谷屋」の血が成せるものだったのではないだろうか、と僕は夢想するのである。坂本家は土佐郷士だがもともとは商人である。「勤皇思想」といった形而上の考えでは左右されない何かがあったような気がしてならない。
土佐は「天保庄屋同盟(我らの総主は山内でなく天皇)」もあり勤皇思想も強く、確かに若いときは土佐勤皇党に所属し、武市半平太にも影響されただろう。しかし龍馬はんは、この勤皇思想の中から平等思想を抽出したような気もする。そして「土佐にはあだたん(入りきらない)男」であった龍馬はんは、脱藩して長州に向かう。檮原の山中を抜け伊予へと国抜けを果たし、龍馬はんは伊予長浜の冨屋金兵衛宅で宿泊している。
ここが龍馬はんの出発点ではなかったか、と僕は夢想したりもするのである。豪商冨屋金兵衛は勤皇派を擁護し援助していた。まず「勤皇の商人」との出会いから、武士だけではなく何故商人が封建時代を終わらせたいのか、という思想の片鱗と遭遇したのではとも思える。想像にすぎないが。そして三田尻へ渡り下関へ。ここには勤皇商人の大御所、白石正一郎との出会いが待っていた。
白石正一郎は商人というより志士だったのかもしれない。倒幕に財産を使い果たした男だからだ。しかし、武士階級でない人間が「勤皇思想」だけでここまでするのだろうか。白石にも商人の思想はあったはずである。この時ではないが下関には豪商伊藤助太夫も居た。この人物を龍馬はんは信頼し後に助太夫宅を「自然堂」と号し、お龍も住まわせた。
この商人たちとの出会い。これは龍馬はんには大きかったのではないか。他の志士達には「金づる」でしかなかったこの豪商たちに、もともと才谷屋であった龍馬はんのアンテナは何かを察知したのではないか。そしてさらにこの後、龍馬はんはもっと深く商人の思想の世界に入っていくこととなるのだ。
さらに次回に続く。いったいいつ終わるのか。
本当にあの卓越した目はどうやって形成されたのか興味があります。
どんなにいろいろな方の意見を伺っても不思議な気がして!!
で、このまま終わらないでもっと続けて下さいね!
暗殺の話も面白かったですが凛太郎さんの龍馬論、もっと拝聴したいです
龍馬論と言えるほどのものを書く実力はないのですが(ヒロリンさんのような専門家ならともかく)、なんとなしにぼんやりと考えていることが書いてみたくて続けています。
冨屋金兵衛との出会いが出発点、と書いた人は多分まだいないと思います。しかしこれは夢想です。もうひとつ、よく知らないので言及しなかったのですが義母さんの伊予さんの里(じゃなくて以前嫁いでいた家だったか)の川島家という回漕業の家に龍馬はんはよく出入りしていて、世界地図ばっかり眺めていたらしいです。まあこれは伝説かもしれませんけどね。そんなところにももしかしたら萌芽が、なーんてことも夢想します。