日本史の中で、どうも僕が判りにくいのが南北朝というヤツである。
鎌倉時代の終焉から、室町時代にかけてのTV、あるいは小説などを見るたびになんとなく釈然としない思いにいつもかられてしまう。勉強不足だと言ってしまえばそれまでなんだけれど、高校日本史を20年以上も前にやっただけの僕にはややこしすぎる。
そもそも、なんで南北朝時代なんてものが出現しちゃったんだろうか。
南北朝の原点は、持明院統と大覚寺統の対立に始まる、ということくらいはわかる。
じゃなんでそんなふうに皇室が分裂しちゃったのかと言うと、それは後嵯峨天皇の皇位継承のやり方にあった。
後嵯峨天皇とはいつの人かと言うと、鎌倉執権で言えば北条経時、つまり泰時と時頼の間の頃の人。承久の乱があり、後鳥羽、順徳系の皇子は位を継げなくなり、泰時が強引に擁立した経緯がある。
さて、後嵯峨天皇はまず長男の後深草天皇に位を譲り自らは院政を始めた。ところが、後嵯峨院は後深草天皇があまり自分の言う事を聞かないために疎んじたか、あるいは次男の方が可愛くなってしまったのか、どっちの理由かはわからないけれど、後深草に譲位を迫ってこれを辞めさせ、次男(後深草の弟)を天皇にしてしまう。これが亀山天皇。
これだけなら古代からよくある話。しかもまだ後嵯峨が院政を執り続けているのだから政治は全く問題がない。しかし亡くなるときに後嵯峨院は、その後どうするか、ということをきっちりと遺言せずに崩じたらしいのだ。
これで話はややこしくなる。院政を引き続き行うのなら後深草上皇がする、というパターンがある。しかし後深草は先代に退位させられていて、もはやラインからは外れている。それに、亀山天皇の皇子が既に皇太子となっている。後嵯峨院の考えは、明らかに亀山天皇系の皇統で行く、ということだろう。
しかし後深草もおさまらない。自分にも息子はいる。そこでひと揉めあった、ということ。はっきりと後嵯峨院が、「後深草はダメ」と言っておけば後深草も諦めたかもしれないのだが。だが現実は亀山天皇系に皇統は移っている。後深草は嘆き、出家する、と騒いだという話もある。その状況から、時の執権時宗は、後深草に同情したとも言われている。そしてその結果、時宗はとんでもない事を言い出す。
「亀山天皇の次は、亀山の子供(邦治親王)が皇太子にもう決定しているからしょうがない。しかし、その邦治親王が即位したら、その次は後深草の子供(熙仁親王)を皇太子としなさい。」
これが、南北朝時代の原因といってもいいと思う。キッカケを作ったのは後嵯峨院だが、そのまま放置しておけば亀山天皇の子孫が皇統を引き継ぐだけで、後深草系統は失意のまま埋もれて行ったはず。時宗が余計なことを命じたばかりに、この後深草系統(持明院統)と亀山系統(大覚寺統)で分裂する。そして、この皇統分裂と、お互いに交互に天皇を出していくシステムが、南北朝へと繋がっていくのだ。
承久の乱以降、幕府は皇位継承にも口を出すようになる。後嵯峨即位は北条泰時の意向であった。その後も、朝廷監視体制をとっていったと思われる。
時宗のオヤジさんの時頼は、亀山天皇即位のときには執権ではなかったがいわゆる得宗であった。責任者ということですね。その責任者が、後深草→亀山という弟への譲位を普通に認めているのだ。この時に「長子相続でないと後でややこしくなるよ」と朝廷に言えば、亀山天皇即位はなかったかもしれない。しかし、時頼はむしろこういう兄を蔑ろにして弟が即位する、という継承をむしろ「良し」としていた様子がある。皇室が弱体化するとでも踏んだのだろうか。
となれば、時宗の皇統を分断させ皇位をいったりきたりさせるというやり方も、時頼を倣って皇室の弱体化を図ったものかもしれない。しかし時宗は、この作戦がのちのちとんでもない戦乱の世の中を生み出すとまでは想像してはいまい。
持明院統と大覚寺統の皇位継承の不具合は、後にとんでもない人物を生み出すことになる。それはもちろん後醍醐天皇である。
後醍醐天皇は、大覚寺統である。つまり亀山天皇系。であるから、もしも北条時頼が、後深草が亀山に譲位する、となったときに「おいおいそれはないだろう」と言っていれば後醍醐は居なかったことになる。しかしこの「if」はちょっと強引すぎると自分でも思う。北条時頼が亀山天皇即位を後押しした、ということであれば話は別だが、そこまではなかっただろう。
では、後醍醐出現は必然か、ということになるとまたそうも言い切れないと思う。
後醍醐は、亀山天皇の皇子の邦治親王(後宇多天皇)の次男である。本来なら傍系の傍系(次男の長男の次男)でとても天皇にはなれないが、何故か即位にまでこぎつけてしまったのである。両統の皇位のやりとりの末に30歳を過ぎてから出番がまわってきてしまったのだ。
つまり皇位は両統で順番だったわけだが、その前の大覚寺統の後二条天皇(後醍醐の兄)が若くして崩じ、次は持明院統の花園天皇が継ぐ。しかし、両統は揉めてばかりいるので、幕府は両統が交代で皇位につく方式(両統迭立)の原則を定めようとして、いわゆる「文保の和談」を提案する。それによって、両統交代で皇位につきなさい、ということが確認されたわけだが、在位年数を10年とせよ、10年交代だ、ということも確約されたと言われる。この確約は諸説あるが、現に花園天皇は元気なのに10年で退位しているので、幕府の介入があったと見ていいだろう。
そして、大覚寺統から次の天皇を出す番となって、後二条天皇の子の邦良親王はまだ若く病弱であったために、後二条の弟(邦良親王の叔父)である後醍醐天皇が「つなぎ」として即位するわけである。
この後醍醐天皇の任期は、やはり10年、と決まっていたと考えられる。10年以上は出来ないのだ。その後はまた持明院統に皇位はいく。そして、また10年経って大覚寺統に皇位が還ってきた時は、邦良親王が継ぐことになるのだ。それが幕府の意向である。
後醍醐は面白くない。10年以上やりたい。また皇位は自分の皇子に継がせたいに決まっている。しかし幕府はダメだという。現役の天皇が自由に出来ないなんて…と思いつめた後醍醐は、ついに倒幕を決行するに至る。
武家の政治から天皇親政へ。朱子学の徒である後醍醐天皇はそう考えた。理想は高かったのである。しかし倒幕の直接のきっかけは、この10年任期と、自分の皇子を皇太子に出来ないことからである。つまり文保の和談による幕府の介入が後醍醐を立たせた、と言っていい。これが鎌倉幕府滅亡の直接原因である。
この直接原因を生んだのが両統迭立というややこしい皇位継承だ。そしてこの両統迭立は、そのまま南北朝へと移行するのである。
ややこしくて話がわかりにくいと思います。すみません。
実際の南北朝にまで話がいかず、持明院統と大覚寺統までしか書けなかった。また機会を改めて南北朝も書いてみたい。
鎌倉時代の終焉から、室町時代にかけてのTV、あるいは小説などを見るたびになんとなく釈然としない思いにいつもかられてしまう。勉強不足だと言ってしまえばそれまでなんだけれど、高校日本史を20年以上も前にやっただけの僕にはややこしすぎる。
そもそも、なんで南北朝時代なんてものが出現しちゃったんだろうか。
南北朝の原点は、持明院統と大覚寺統の対立に始まる、ということくらいはわかる。
じゃなんでそんなふうに皇室が分裂しちゃったのかと言うと、それは後嵯峨天皇の皇位継承のやり方にあった。
後嵯峨天皇とはいつの人かと言うと、鎌倉執権で言えば北条経時、つまり泰時と時頼の間の頃の人。承久の乱があり、後鳥羽、順徳系の皇子は位を継げなくなり、泰時が強引に擁立した経緯がある。
さて、後嵯峨天皇はまず長男の後深草天皇に位を譲り自らは院政を始めた。ところが、後嵯峨院は後深草天皇があまり自分の言う事を聞かないために疎んじたか、あるいは次男の方が可愛くなってしまったのか、どっちの理由かはわからないけれど、後深草に譲位を迫ってこれを辞めさせ、次男(後深草の弟)を天皇にしてしまう。これが亀山天皇。
これだけなら古代からよくある話。しかもまだ後嵯峨が院政を執り続けているのだから政治は全く問題がない。しかし亡くなるときに後嵯峨院は、その後どうするか、ということをきっちりと遺言せずに崩じたらしいのだ。
これで話はややこしくなる。院政を引き続き行うのなら後深草上皇がする、というパターンがある。しかし後深草は先代に退位させられていて、もはやラインからは外れている。それに、亀山天皇の皇子が既に皇太子となっている。後嵯峨院の考えは、明らかに亀山天皇系の皇統で行く、ということだろう。
しかし後深草もおさまらない。自分にも息子はいる。そこでひと揉めあった、ということ。はっきりと後嵯峨院が、「後深草はダメ」と言っておけば後深草も諦めたかもしれないのだが。だが現実は亀山天皇系に皇統は移っている。後深草は嘆き、出家する、と騒いだという話もある。その状況から、時の執権時宗は、後深草に同情したとも言われている。そしてその結果、時宗はとんでもない事を言い出す。
「亀山天皇の次は、亀山の子供(邦治親王)が皇太子にもう決定しているからしょうがない。しかし、その邦治親王が即位したら、その次は後深草の子供(熙仁親王)を皇太子としなさい。」
これが、南北朝時代の原因といってもいいと思う。キッカケを作ったのは後嵯峨院だが、そのまま放置しておけば亀山天皇の子孫が皇統を引き継ぐだけで、後深草系統は失意のまま埋もれて行ったはず。時宗が余計なことを命じたばかりに、この後深草系統(持明院統)と亀山系統(大覚寺統)で分裂する。そして、この皇統分裂と、お互いに交互に天皇を出していくシステムが、南北朝へと繋がっていくのだ。
承久の乱以降、幕府は皇位継承にも口を出すようになる。後嵯峨即位は北条泰時の意向であった。その後も、朝廷監視体制をとっていったと思われる。
時宗のオヤジさんの時頼は、亀山天皇即位のときには執権ではなかったがいわゆる得宗であった。責任者ということですね。その責任者が、後深草→亀山という弟への譲位を普通に認めているのだ。この時に「長子相続でないと後でややこしくなるよ」と朝廷に言えば、亀山天皇即位はなかったかもしれない。しかし、時頼はむしろこういう兄を蔑ろにして弟が即位する、という継承をむしろ「良し」としていた様子がある。皇室が弱体化するとでも踏んだのだろうか。
となれば、時宗の皇統を分断させ皇位をいったりきたりさせるというやり方も、時頼を倣って皇室の弱体化を図ったものかもしれない。しかし時宗は、この作戦がのちのちとんでもない戦乱の世の中を生み出すとまでは想像してはいまい。
持明院統と大覚寺統の皇位継承の不具合は、後にとんでもない人物を生み出すことになる。それはもちろん後醍醐天皇である。
後醍醐天皇は、大覚寺統である。つまり亀山天皇系。であるから、もしも北条時頼が、後深草が亀山に譲位する、となったときに「おいおいそれはないだろう」と言っていれば後醍醐は居なかったことになる。しかしこの「if」はちょっと強引すぎると自分でも思う。北条時頼が亀山天皇即位を後押しした、ということであれば話は別だが、そこまではなかっただろう。
では、後醍醐出現は必然か、ということになるとまたそうも言い切れないと思う。
後醍醐は、亀山天皇の皇子の邦治親王(後宇多天皇)の次男である。本来なら傍系の傍系(次男の長男の次男)でとても天皇にはなれないが、何故か即位にまでこぎつけてしまったのである。両統の皇位のやりとりの末に30歳を過ぎてから出番がまわってきてしまったのだ。
つまり皇位は両統で順番だったわけだが、その前の大覚寺統の後二条天皇(後醍醐の兄)が若くして崩じ、次は持明院統の花園天皇が継ぐ。しかし、両統は揉めてばかりいるので、幕府は両統が交代で皇位につく方式(両統迭立)の原則を定めようとして、いわゆる「文保の和談」を提案する。それによって、両統交代で皇位につきなさい、ということが確認されたわけだが、在位年数を10年とせよ、10年交代だ、ということも確約されたと言われる。この確約は諸説あるが、現に花園天皇は元気なのに10年で退位しているので、幕府の介入があったと見ていいだろう。
そして、大覚寺統から次の天皇を出す番となって、後二条天皇の子の邦良親王はまだ若く病弱であったために、後二条の弟(邦良親王の叔父)である後醍醐天皇が「つなぎ」として即位するわけである。
この後醍醐天皇の任期は、やはり10年、と決まっていたと考えられる。10年以上は出来ないのだ。その後はまた持明院統に皇位はいく。そして、また10年経って大覚寺統に皇位が還ってきた時は、邦良親王が継ぐことになるのだ。それが幕府の意向である。
後醍醐は面白くない。10年以上やりたい。また皇位は自分の皇子に継がせたいに決まっている。しかし幕府はダメだという。現役の天皇が自由に出来ないなんて…と思いつめた後醍醐は、ついに倒幕を決行するに至る。
武家の政治から天皇親政へ。朱子学の徒である後醍醐天皇はそう考えた。理想は高かったのである。しかし倒幕の直接のきっかけは、この10年任期と、自分の皇子を皇太子に出来ないことからである。つまり文保の和談による幕府の介入が後醍醐を立たせた、と言っていい。これが鎌倉幕府滅亡の直接原因である。
この直接原因を生んだのが両統迭立というややこしい皇位継承だ。そしてこの両統迭立は、そのまま南北朝へと移行するのである。
ややこしくて話がわかりにくいと思います。すみません。
実際の南北朝にまで話がいかず、持明院統と大覚寺統までしか書けなかった。また機会を改めて南北朝も書いてみたい。
不勉強でよくわからないんですが、この頃の天皇の仕事って何だったんでしょうか
天皇の仕事。本当にこれも難しいですね。これは古代、そして中世、現代まで一貫して考えられることだとは思いますが、この特殊な南北朝の頃は如実に示されているのではと思ってしまい、つい深く考え込んだりしてしまいます(笑)。
「神聖にして不可侵なもの」「象徴」「日本の神主の総元締め」「かつての独裁者」いろいろなことを言う人は居ますが、どれも的を得ていない。このことについては一度じっくりと書いて自分の考えを整理したい誘惑に駆られますが、なんせ現在も天皇は存するわけで言葉を選ばないと難しい。まあボチボチと散りばめていこうとは思いますが(汗)。
コメントさえもマトモに書けない…^^;
僕にそんな文章力とやらがあるのなら、もう少し簡潔でわかりやすい話が書けるはずです(汗)。
当時の幕府の人々ならわかっていたんでしょうかね
何となく、「天皇」の存在って「ローマ法王」に似ていませんか?
日本人の根底にある信仰心、というか、原宗教みたいなもの、その象徴が「玉」と呼ばれる天皇の存在なのでしょう。
「ローマ法王」に実に近いですが、法王があくまでも神の使いであるのに対し、天皇は神の末裔なのです。人々は法王の後ろに居る神を崇拝していますが、天皇は「現人神」なのですねぇ。なので影響力は計り知れない。アマテラスの子孫ですから。
日本史の面白いところは、端的に言ってしまえば「神」であるところの天皇がずーっと現存していることです。どっちかの味方につけることも可能。「朝敵」や「官軍」が恣意的に作れるのです。だから「玉」の奪い合い。その状況が最も現われた時代が「南北朝」ではなかったかと。
子孫ということであれば、後深草も亀山も後醍醐もみんな子孫であるわけです。その中で、神器を持つものだけが神聖な立場に立てる。不思議ですね。神器の方が偉いのか、てなことも思ったりしますが。
そのような中で天皇の仕事を考えるのなら、祝福したり呪詛したり、ということなのでしょうね。具体的には祈ったり歌を詠んだりなのでしょうが。敵にまわせばアマテラス以来の神々が祟るので、それが一番怖いからみんな味方につけようとする。
多大なる影響力なのですが、うまく書けないなー(汗)。お許しください。いつか整理します(滝汗)。
す~っごく続きが聞きたいんですが、このコメント欄で私だけが読んでしまってはもったいないので、整理がすんで書き上げて下さるのを楽しみに待っています♪
凛太郎さんが南北朝編を書くまでちゃんと読んでおこうっと!!
思わず図書館で見つけて速攻借りてしまいました!
横レスになってしまいますが天皇家は昔も今も祭祀の最高責任者だと単純に思っています。
でもこの多宗教(無宗教?)の日本にとっていつでも手を合わせる神様は生活に根付いていて一番大切な部分ですよね。天皇はアマテラス他諸々の神々の声を聞くことができる(コンタクトをとれる??)唯一の家系なんじゃないでしょうか?
天皇家をもし滅ぼしたら、天皇家が今まで鎮めていてくれてた数々の怨霊も復活したりしてそれも怖かったんじゃないかな??
なーんて、凛太郎さんのコメントとほぼ同じでしたね(^^; ....
やっぱり三種の神器も似た解釈です。
たぶん怨霊封じには神器が必要なのかと‥。
うーん、やっぱり文章が散漫になってきましたね‥ではこれにて!!
失礼しました。m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
PS鶴田の番組、週刊ゴングの編集長が解説してました。
鶴田唯一の欠点は性格!って面白かったです(^_-)
鶴田のバックドロップもう一度見たいですねぇ!
しかしこの話は整理しようがないのですが、自分なりの現時点での考えは近いうちに書きます。(;^^A アセアセ・・・
しかし、期待されるようなことは書けませんから。残念! ! (汗)
鶴田の唯一の欠点が性格ですか。しかし、性格もそうですが僕はもう一つ欠点はあったと思っています。
それは、「顔」(笑)
あの優しそうな顔ではどうしても迫力が出ないのです。また、強力な技を繰り出しても「まるで遊んでいるように」見えてしまうあの温和な顔はレスラー向きではなかったですねぇ。(^-^)