「キーロック」という活字をみて「ローキック」と読み間違えた人がいた(嘘)。だが、どうもそれくらいキーロックという技の知名度は下がっているらしい。
残念ながら、最近はめったに見ない。かつては、大試合にはよく登場した古典的技だった。
タイトルマッチなどでは、試合中盤に繋ぎ技として相手を痛めつけ体力を奪う技が必ず出る。それは、執拗なヘッドロックであったり、また足にはトーホールドやインディアンデスロック。そして腕には、キーロックがよく出された。ことにUWFがアームロックなどをメジャーにするまでは、腕への攻撃といえばやはりキーロック。これで腕を殺し、終盤相手がバックドロップなどを放とうとするとクラッチが甘くなったりする。「キーロックが効いてますね」。そんな様子をよく見た。重要な技だったはずだが。
キーロックとは、相手をマットに仰向けに倒した状態で片方の腕をとり、その腕を畳んで、その「く」の字型に曲がったところ(肘関節内側)へ自分の腕を差し込み、その自分の腕が中に入った状態で「く」の字を上から押しつぶすように両足で締め上げる。足でぐっと絞り上げるのだから、肘の内側に棒を差し込み万力で捻じり上げるに等しい。引っ張り込むように力を入れればなおさら効く。そりゃ痛いだろう。さらに、血流も止まってしまう。
この技の、見た目にもキツさがわかるのはその血流で、掛けられた相手の手が血の気を失い真っ白になってゆく。長時間になれば壊死するぞ。それだけでも「締まってるな」との実感が見えるが、さらに掛ける側も、腕を一本差し込んでいるのだからこっちの血流も止まる。痺れるのか感覚が失われるのか、よく差し込んだ手をもう一方の手で叩いて感覚を確かめるしぐさも、この技の恒例である。
その形状から基本的にはキーロックと呼ばれるが、古館伊知郎アナはよくショートアームシザースとも言っていた。scissorsって鋏なのね。これも、雰囲気はわかる。
広義でいえば関節技の範疇であり、極限にまで締めれば肘関節の脱臼にも繋がるが、どちらかといえば関節、ジョイント部分を極めるというよりも絞り上げる技である。筋肉を破壊するとでも言うか。
元祖は、僕はずっとダニー・ホッジだと思っていたのだが、ホッジよりも古い時代からあるらしい。もしかしたらプロレスのオリジナル技ではない可能性もある。ただ、プロレス技とすれば地味な部類なのだろうが、サブミッション技としては相手への密着度合いがそれほど高くなく、また攻める側が起き上がっているので観客に見やすく、そういう意味ではプロレス的といえる。
昔は、馬場さんのようなタイプを除けば、みんな使ったのではないか。大木金太郎や猪木。タイガージェットシンまでも使っていたように記憶している。
キーロックは、簡単には外れない。相手の片方の腕に両脚でもって掛けているわけで、アームロックなどと異なりパワーの違いも歴然としている。何とかロープブレイクに持ち込む以外方法がないが、掛けられている側は概して仰向けであり、ボストンクラブのようにほふく前進でロープには逃げられない。しかも相手の身体が頭部に近いところに位置するため、4の字固めなどのように背中で這ってズリズリとも行けない。また、その相手の位置から、蹴りなどで外させることも難しい。
何とか起き上がって、自分の腕に丸まってまとわりついている相手を押し込んで、エビ固めの如く両肩をマットにつけフォールに行こうとする、しかし相手が両脚にさらに力をいれ体勢をうんせと元に戻し、また悶絶する、というのもこの技の見どころかもしれない。
その逃げ方として、最終手段がある。片腕にまとわりつく相手をそのかいな力でもって持ち上げ、ロープまで運ぶというもの。これは、技を掛けられていて痛いうえに、片腕で相手の体重をものともせずよっこらしょと持ち上げなければならないため(レスラーはたいてい100kg超えしている)、非現実的である。重量挙げの世界記録だって260kgくらいで、片腕だとその半分となるが、そんなキーロックを掛けられたまま相手を持ち上げることが出来れば、重量挙げでもオリンピックで通用するはず。
しかし、これを力自慢のレスラーはやるのだな。これもキーロックにおける名場面のひとつとして挙げられる。
そんなことを最初に誰がやったのかは知らないが、有名なのはカール・ゴッチである。ゴッチはキーロックの返しに長けていて、猪木のキーロックを逆にエビ固めで返してフォール、なんてのもあったが(体重の掛け方が絶妙なのだろうが猪木の返しをゴッチは許さなかった)、テーズとタッグを組んだ試合では、キーロックを掛けられたままで猪木をよっこらしょと担ぎ上げ肩の上に乗せてコーナーポストまで持っていった。
常人ではない。
これは、前述したように非現実的でいくら力自慢であってもなかなか出来ないことなのだ。存在そのものが非現実的なアンドレ・ザ・ジャイアントなら軽いものかもしれないが(しかし猪木もアンドレにキーロックを仕掛けるかね^^;)、100kg超えの人間を、技を掛けられながらそう簡単には持ち上げられない。長州力がやはり猪木を持ち上げようとして失敗していた。腕力だけではなく技術もやはり必要なのではないか。
僕が印象に残るのはボブ・バックランドで、何度もキーロックを持ち上げている。バックランドも相当なテクニシャンで、しかしWWFのチャンピオンであるからパワーファイトを要求されるという矛盾の中で戦っていたが、このキーロックのリフトアップ外しはそういうレスリングに長けた、ドン・レオ・ジョナサンやバックランドのようなファイターに許されるものであるような気がする。ボブ・サップなどはやはり失敗している。
リフトアップの話が長すぎた。
さっきから猪木のキーロックの話ばかりになっているが、のちキーロックは、藤波辰巳へと継承されていく。ヘビーに転向してからの藤波はよくキーロックを仕掛けた。
「長すぎたショートアームシザース」というフレーズがある。当時新日本プロレスは金曜8時の生放送だったが、藤波が執拗にキーロックを掛けすぎたために放送時間内に決着がつかず、古館伊知郎アナが「長すぎたショートアームシザース!」と叫んだ。ロングとショートをひっ掛けた台詞で、古館さんはうまく言ったと思っただろうな。
状況によってはキーロックを長時間掛けることで生まれるドラマも当然あったと思う。我慢比べは見ごたえにも通じる。
しかし、この長すぎたショートアームシザースは批判も浴びた。
時代が移り変わる途上であったこともあるだろう。昔のような序盤は静かに組み立て徐々に盛り上がって終盤を迎える、ある意味牧歌的なプロレスは徐々に影を潜め、最初からスピーディーで息をつかせない試合展開が望まれる時代となっていた。全日本はまだ馬場さんが君臨していたためにさほどでも無かったが、新日本はスピード化が進んだ。そのスピード化プロレスの先鞭をつけたのは、新日本プロレスにおいては藤波自身であり、タイガーマスクの登場によって決定的なものとなった。ヘビー級においても、タイガージェットシンやブッチャーのような流血、反則、善玉悪玉の時代は過ぎ、ハンセンやブロディ、ホーガンといったテンポの良いレスラーが主役に躍り出た時代。キーロックは試合が膠着するため「掛けた側が休んでいる」「時間稼ぎ」と見られるようになり、野次も飛んだ。
キーロックの攻防を楽しめなくなった(こう言っていいかどうかわからないが性急な)観客の存在(僕も含めてかもしれない)。それが、この技をリングから追いやった。他にも「消えた技」は多い。首4の字なども時間稼ぎ、休憩と見られた。休んでいるわけではないにせよ、ベアハッグなどの時間がかかる技も。
関節技はその後UWFの台頭によって「極まれば必殺」の十字固めやアキレス腱固め、さらに各種アームロックや脇固めなどが登場し、ハンマーロックやトーホールドなどのかつては決め技だったもののその後「繋ぎ技」となったものは、衰退していった。昔から残っているものは足4の字固めなどのギブアップを狙える技に限られるようになった。
かつての「繋ぎ技」の終焉。しかし、プロレスは3分で試合を終わらせるわけにはいかない。技の攻防がどうしても必要になる。したがってかつての必殺技を序盤から中盤に出さざるを得なくなる。そうしてバックドロップもブレーンバスターも、ジャーマンスープレックスでさえも痛め技の範疇になっていった。そうなるとフォール技はさらに過激なものにならざるを得ない。脳天を打ちつける技。首を破壊する技。雪崩式や断崖式。技のインフレへと進むことになる。
三沢の死までそこに結びつけようとは思わないが、そういうプロレスになってしまったターニングポイントが、この「長すぎるショートアームシザース」(を楽しめない性急な我々)にあるような気がして仕方がない。
キーロックで手のひらがどんどん血の気を失い白くなっていくのを見て恐ろしさを感じたプロレス。もうその時代に還ることはないのだろうか。
いや、「キーロックの終焉」を語るには少し早かったかもしれない。我々にはまだ渕がいた。
渕正信。大仁田厚、ハル薗田と共に若手三羽烏と呼ばれマットに上がっていた頃が、僕が最もプロレスをよく観ていた頃と重なる。その若手だった渕も、58歳となった(2012年現在)。永遠の独身であり、ラッシャー木村に「おい渕…結婚しないのか…心配なんだよ…」としみじみネタにされていたが、その頃のラッシャー木村の年齢を超えた。
全日育ちとしては珍しくカール・ゴッチの薫陶をうけており、そのテクニックは観ていてたまらない。また「悪役商会」などのユーモラスなプロレスも懐ろの内であり、幅が広い。世界Jr.ヘビー級王座には5度輝いており、3度目のときは防衛14回の記録を持ち(当時の最多防衛記録)、そのときの在位期間3年7ヶ月は歴代最長である。馬場さん死後の全日分裂のときは敢然として全日に残った。カッコいい。
もうキャリア39年目だという(→渕ブログ)。この人は、馬場さんと猪木がタッグを組みブッチャー&シン組と戦ったあの伝説の"ハッテンニイロク"プロレス夢のオールスター戦(1979年)に出場しており、それから月落ち星流れ昨年「ALL TOGETHER」武道館大会にも登場した。これは、特筆されてもいいことではないのか。渕正信は、凄い。
そのフッチーが、キーロックを今も使い続けている。
特に、ベテランとして前座試合をこなす最近は、派手な技を避けてキーロックを多用しているとも聞く。前座は技を絞ってメインイベントを盛り立てるという馬場さんの教えからなのだろうが、そこでキーロックの出番となる。しかも、ギブアップさえ奪っているという。何が繋ぎ技だ、キーロックは、決して一休みでも時間稼ぎでもない、と言わんばかりに。痛快極まりない。
と言いつつ、この話は伝聞である。僕は最近全く生観戦をしていないため、その渕の前座試合を観ていない。これはいかんな。一度、その大ベテランのキーロックを観に行かなくては。
残念ながら、最近はめったに見ない。かつては、大試合にはよく登場した古典的技だった。
タイトルマッチなどでは、試合中盤に繋ぎ技として相手を痛めつけ体力を奪う技が必ず出る。それは、執拗なヘッドロックであったり、また足にはトーホールドやインディアンデスロック。そして腕には、キーロックがよく出された。ことにUWFがアームロックなどをメジャーにするまでは、腕への攻撃といえばやはりキーロック。これで腕を殺し、終盤相手がバックドロップなどを放とうとするとクラッチが甘くなったりする。「キーロックが効いてますね」。そんな様子をよく見た。重要な技だったはずだが。
キーロックとは、相手をマットに仰向けに倒した状態で片方の腕をとり、その腕を畳んで、その「く」の字型に曲がったところ(肘関節内側)へ自分の腕を差し込み、その自分の腕が中に入った状態で「く」の字を上から押しつぶすように両足で締め上げる。足でぐっと絞り上げるのだから、肘の内側に棒を差し込み万力で捻じり上げるに等しい。引っ張り込むように力を入れればなおさら効く。そりゃ痛いだろう。さらに、血流も止まってしまう。
この技の、見た目にもキツさがわかるのはその血流で、掛けられた相手の手が血の気を失い真っ白になってゆく。長時間になれば壊死するぞ。それだけでも「締まってるな」との実感が見えるが、さらに掛ける側も、腕を一本差し込んでいるのだからこっちの血流も止まる。痺れるのか感覚が失われるのか、よく差し込んだ手をもう一方の手で叩いて感覚を確かめるしぐさも、この技の恒例である。
その形状から基本的にはキーロックと呼ばれるが、古館伊知郎アナはよくショートアームシザースとも言っていた。scissorsって鋏なのね。これも、雰囲気はわかる。
広義でいえば関節技の範疇であり、極限にまで締めれば肘関節の脱臼にも繋がるが、どちらかといえば関節、ジョイント部分を極めるというよりも絞り上げる技である。筋肉を破壊するとでも言うか。
元祖は、僕はずっとダニー・ホッジだと思っていたのだが、ホッジよりも古い時代からあるらしい。もしかしたらプロレスのオリジナル技ではない可能性もある。ただ、プロレス技とすれば地味な部類なのだろうが、サブミッション技としては相手への密着度合いがそれほど高くなく、また攻める側が起き上がっているので観客に見やすく、そういう意味ではプロレス的といえる。
昔は、馬場さんのようなタイプを除けば、みんな使ったのではないか。大木金太郎や猪木。タイガージェットシンまでも使っていたように記憶している。
キーロックは、簡単には外れない。相手の片方の腕に両脚でもって掛けているわけで、アームロックなどと異なりパワーの違いも歴然としている。何とかロープブレイクに持ち込む以外方法がないが、掛けられている側は概して仰向けであり、ボストンクラブのようにほふく前進でロープには逃げられない。しかも相手の身体が頭部に近いところに位置するため、4の字固めなどのように背中で這ってズリズリとも行けない。また、その相手の位置から、蹴りなどで外させることも難しい。
何とか起き上がって、自分の腕に丸まってまとわりついている相手を押し込んで、エビ固めの如く両肩をマットにつけフォールに行こうとする、しかし相手が両脚にさらに力をいれ体勢をうんせと元に戻し、また悶絶する、というのもこの技の見どころかもしれない。
その逃げ方として、最終手段がある。片腕にまとわりつく相手をそのかいな力でもって持ち上げ、ロープまで運ぶというもの。これは、技を掛けられていて痛いうえに、片腕で相手の体重をものともせずよっこらしょと持ち上げなければならないため(レスラーはたいてい100kg超えしている)、非現実的である。重量挙げの世界記録だって260kgくらいで、片腕だとその半分となるが、そんなキーロックを掛けられたまま相手を持ち上げることが出来れば、重量挙げでもオリンピックで通用するはず。
しかし、これを力自慢のレスラーはやるのだな。これもキーロックにおける名場面のひとつとして挙げられる。
そんなことを最初に誰がやったのかは知らないが、有名なのはカール・ゴッチである。ゴッチはキーロックの返しに長けていて、猪木のキーロックを逆にエビ固めで返してフォール、なんてのもあったが(体重の掛け方が絶妙なのだろうが猪木の返しをゴッチは許さなかった)、テーズとタッグを組んだ試合では、キーロックを掛けられたままで猪木をよっこらしょと担ぎ上げ肩の上に乗せてコーナーポストまで持っていった。
常人ではない。
これは、前述したように非現実的でいくら力自慢であってもなかなか出来ないことなのだ。存在そのものが非現実的なアンドレ・ザ・ジャイアントなら軽いものかもしれないが(しかし猪木もアンドレにキーロックを仕掛けるかね^^;)、100kg超えの人間を、技を掛けられながらそう簡単には持ち上げられない。長州力がやはり猪木を持ち上げようとして失敗していた。腕力だけではなく技術もやはり必要なのではないか。
僕が印象に残るのはボブ・バックランドで、何度もキーロックを持ち上げている。バックランドも相当なテクニシャンで、しかしWWFのチャンピオンであるからパワーファイトを要求されるという矛盾の中で戦っていたが、このキーロックのリフトアップ外しはそういうレスリングに長けた、ドン・レオ・ジョナサンやバックランドのようなファイターに許されるものであるような気がする。ボブ・サップなどはやはり失敗している。
リフトアップの話が長すぎた。
さっきから猪木のキーロックの話ばかりになっているが、のちキーロックは、藤波辰巳へと継承されていく。ヘビーに転向してからの藤波はよくキーロックを仕掛けた。
「長すぎたショートアームシザース」というフレーズがある。当時新日本プロレスは金曜8時の生放送だったが、藤波が執拗にキーロックを掛けすぎたために放送時間内に決着がつかず、古館伊知郎アナが「長すぎたショートアームシザース!」と叫んだ。ロングとショートをひっ掛けた台詞で、古館さんはうまく言ったと思っただろうな。
状況によってはキーロックを長時間掛けることで生まれるドラマも当然あったと思う。我慢比べは見ごたえにも通じる。
しかし、この長すぎたショートアームシザースは批判も浴びた。
時代が移り変わる途上であったこともあるだろう。昔のような序盤は静かに組み立て徐々に盛り上がって終盤を迎える、ある意味牧歌的なプロレスは徐々に影を潜め、最初からスピーディーで息をつかせない試合展開が望まれる時代となっていた。全日本はまだ馬場さんが君臨していたためにさほどでも無かったが、新日本はスピード化が進んだ。そのスピード化プロレスの先鞭をつけたのは、新日本プロレスにおいては藤波自身であり、タイガーマスクの登場によって決定的なものとなった。ヘビー級においても、タイガージェットシンやブッチャーのような流血、反則、善玉悪玉の時代は過ぎ、ハンセンやブロディ、ホーガンといったテンポの良いレスラーが主役に躍り出た時代。キーロックは試合が膠着するため「掛けた側が休んでいる」「時間稼ぎ」と見られるようになり、野次も飛んだ。
キーロックの攻防を楽しめなくなった(こう言っていいかどうかわからないが性急な)観客の存在(僕も含めてかもしれない)。それが、この技をリングから追いやった。他にも「消えた技」は多い。首4の字なども時間稼ぎ、休憩と見られた。休んでいるわけではないにせよ、ベアハッグなどの時間がかかる技も。
関節技はその後UWFの台頭によって「極まれば必殺」の十字固めやアキレス腱固め、さらに各種アームロックや脇固めなどが登場し、ハンマーロックやトーホールドなどのかつては決め技だったもののその後「繋ぎ技」となったものは、衰退していった。昔から残っているものは足4の字固めなどのギブアップを狙える技に限られるようになった。
かつての「繋ぎ技」の終焉。しかし、プロレスは3分で試合を終わらせるわけにはいかない。技の攻防がどうしても必要になる。したがってかつての必殺技を序盤から中盤に出さざるを得なくなる。そうしてバックドロップもブレーンバスターも、ジャーマンスープレックスでさえも痛め技の範疇になっていった。そうなるとフォール技はさらに過激なものにならざるを得ない。脳天を打ちつける技。首を破壊する技。雪崩式や断崖式。技のインフレへと進むことになる。
三沢の死までそこに結びつけようとは思わないが、そういうプロレスになってしまったターニングポイントが、この「長すぎるショートアームシザース」(を楽しめない性急な我々)にあるような気がして仕方がない。
キーロックで手のひらがどんどん血の気を失い白くなっていくのを見て恐ろしさを感じたプロレス。もうその時代に還ることはないのだろうか。
いや、「キーロックの終焉」を語るには少し早かったかもしれない。我々にはまだ渕がいた。
渕正信。大仁田厚、ハル薗田と共に若手三羽烏と呼ばれマットに上がっていた頃が、僕が最もプロレスをよく観ていた頃と重なる。その若手だった渕も、58歳となった(2012年現在)。永遠の独身であり、ラッシャー木村に「おい渕…結婚しないのか…心配なんだよ…」としみじみネタにされていたが、その頃のラッシャー木村の年齢を超えた。
全日育ちとしては珍しくカール・ゴッチの薫陶をうけており、そのテクニックは観ていてたまらない。また「悪役商会」などのユーモラスなプロレスも懐ろの内であり、幅が広い。世界Jr.ヘビー級王座には5度輝いており、3度目のときは防衛14回の記録を持ち(当時の最多防衛記録)、そのときの在位期間3年7ヶ月は歴代最長である。馬場さん死後の全日分裂のときは敢然として全日に残った。カッコいい。
もうキャリア39年目だという(→渕ブログ)。この人は、馬場さんと猪木がタッグを組みブッチャー&シン組と戦ったあの伝説の"ハッテンニイロク"プロレス夢のオールスター戦(1979年)に出場しており、それから月落ち星流れ昨年「ALL TOGETHER」武道館大会にも登場した。これは、特筆されてもいいことではないのか。渕正信は、凄い。
そのフッチーが、キーロックを今も使い続けている。
特に、ベテランとして前座試合をこなす最近は、派手な技を避けてキーロックを多用しているとも聞く。前座は技を絞ってメインイベントを盛り立てるという馬場さんの教えからなのだろうが、そこでキーロックの出番となる。しかも、ギブアップさえ奪っているという。何が繋ぎ技だ、キーロックは、決して一休みでも時間稼ぎでもない、と言わんばかりに。痛快極まりない。
と言いつつ、この話は伝聞である。僕は最近全く生観戦をしていないため、その渕の前座試合を観ていない。これはいかんな。一度、その大ベテランのキーロックを観に行かなくては。
TV中継においてアナウンサーが「出た!トペコンだ!」という、その言い回しにどうも慣れない。どうしても違和感が残る。略すことによって軽く聞こえてしまうからだろう。合コンとか糸コンなどと同系列の音に響く。
もう既にプロレス実況も僕より遥か年下のアナウンサーがやっているこの時代となってはただのオールド・ファンの繰言になってしまうのかもしれないが、技の名は、長くてもちゃんとアナウンスして欲しいと本当に思う。寿限無ではないのだから、トペ・コン・ヒーロがそんなに長い名称とも思えない。もっとも、アナウンサー含め現在のファンは「あけおめ」「ことよろ」世代なのだろうからさほどの違和感を感じないのかもしれないが。
トペ・コン・ヒーロという技は、場外にいる相手へ、リングから飛び出していって体当たりをかける技のひとつである。もう少し具体的に言えば、場外で立っている相手に対してロープを越えて前方回転し、背面から相手にぶつかる。いくつかバリエーションがあって、トップロープを掴んで、体操の後ろ回り大車輪のように回転しつつ場外に飛び出し背面から相手にぶつかるもの。またはロープを掴まず助走をつけてトップロープを飛び越えて前方回転し、相手に背面からぶつかるものがある。後者は、ノータッチ式トペ・コン・ヒーロと呼ばれることもある。
これはルチャ・リブレ(メキシコプロレス)の技で、スペイン語である。
コン・ヒーロというのは「回転して」という意味だということだ。初代タイガーマスク全盛期を知っている人であれば「風車式バックブリーカー」のことを古館アナウンサーが「ケブラドーラ・コン・ヒーロ」と呼んでいたのを記憶していると思う。その「風車(回転)式」という部分がコン・ヒーロである。もっと分解すればヒーロというのが回転という意味であり、そこを略してトペコンと言ってしまうと、何の技なのかわからなくなるではないか。
以上のことは屁理屈であるが、何が慣れないかという本音は、トぺと言いつつ背面から当たる技であるということなのだろう。背面から当たる技は、ルチャ・リブレにおいてはセントーンではなかったのか。
もちろん、セントーンは相手が寝転がっている状態のところへ放つ技だということはよく知っている(→セントーン)。この場合は同じ背面から当たる技でも相手が立っている。つまり、背面ではなく腹面からと仮定すれば、ボディプレスとボディアタックの違い。同じ背面を使用する攻撃であっても、名称が異なるのは理解できる。
しかしトペという技は、ドラゴンロケットだったのである。僕にとっては。背面から当たる技ではなく、頭部からから突っ込んで体当たりする技。
これは、僕のただの思い込みだということはもう承知している。子供の頃、トペという技の名を初めて聞いたとき、意味が分からず調べた。そしてトペ(tope スペイン語)とは、英語でいうトップ(top)のことだと知り、ああそれで頭からぶつかる技をトペと言うのだな、と合点したことに始まる。
これは「頭から衝突する」と考えるより「頭から飛び出す」と解釈したほうがいい。なので、頭から飛び出してそのまま相手に衝突するのはもちろんトペだが、回転し結果背面から当たっても、それもトペの一種なのである。
実はあまり納得していないのだが、そうして理解はしている。言うものはしょうがない。
言うものはしょうがないので続けるが、つまりトペ・スイシーダという技とトペ・コン・ヒーロという技は、全く違うものである。トペ・スイシーダがドラゴンロケット。
言葉の話から先にすると、スイシーダ(suicide)とは自殺のこと。英語でも読みは違うが綴りは同じなのでわかりやすい。まるで自殺するほど危険な技であるということか。場外へ飛び出すということは着地はリングのマットではないのだから、ある意味自殺行為ではある。
ならば、同じく場外へ飛び出すトペ・コン・ヒーロもスイシーダではないのか。正しくはトペ・コン・ヒーロ・スイシーダと呼ぶべきだとまた言いたくなる。
屁理屈だとわかっているので止めようとは思うが、もう少しだけ。
場外へ飛び出さないトペというものも、実はある。リング内におけるフライングヘッドバットがそれに当たる。コーナートップから倒れている相手に向けて飛ぶダイビングヘッドバットとは異なり、立っている相手に仕掛ける。相手をロープに振ってカウンターで仕掛ければ衝突力が増す。相手に頭から飛び込んで頭突きをかますわけで、腕を前方に出すフライングクロスチョップなどと違って、勇気が必要なことが傍で見ていてもわかる。気をつけの姿勢で飛んでいくのって怖いよ。またかわされると受身がとりにくい。これは、星野勘太郎がやっていた。さすが男気の塊である勘太郎さんである。ただ、この技をトペと称していたかどうかは記憶にない。
ならば、場外へ飛び出さないトペ・コン・ヒーロも存在する。前方回転して背面から当たればそうなる。相手が立っていればトペ・コン・ヒーロ。倒れていればサマーソルトドロップ(サンセットフリップ)。
プランチャ(ボディアタック)も、リング内であればそのままプランチャであり、場外へ放てばプランチャ・スイシーダ(プランチャ・コン・ヒーロという技もあってややこしいのだが)。
ここまで"拘泥"して実況しろとは言わない。しかし「トペコンだぁ」って言い方はヒドくないかい(まだ言ってる)。
トペ・スイシーダをメキシコから初めて日本へ持ち込んだのは百田光雄であると言われる。しかし、僕は全く見た記憶がないなあ。昔は百田光雄はTVマッチにはほとんど出なかったということもあるかもしれない。前座の百田弟の試合は会場で何度かは観戦しているが、馬場さん時代の全日は前座で派手な技を使用することを嫌っていたため(メインを生かすという理由)、トペ・スイシーダなんて技は出す機会があまりなかったのではないかと想像する。この技を日本に膾炙させたのは、何と言ってもジュニア時代の藤波辰巳だ。
当時は、メキシコの技をそのままスペイン語で呼ぶことは稀だった。僕の記憶だとウラカン・ラナはそう呼んでいたように思うが…記憶違いかもしれない。セントーンという名称もなかったのではないか。当然トペやプランチャという名称も浸透しておらず藤波のトペ・スイシーダは「ドラゴンロケット」と名づけられた。
ジュニアの王者としての藤波の登場は、画期的だった。メキシコのルチャ・リブレというものは既にミル・マスカラスによって日本に広く紹介されてはいたものの、藤波の試合はまたそれとは違った。ルチャの要素を取り入れてはいたものの、それといわゆる新日本の「ストロング・スタイル」をうまく融合させた実に新鮮なものだった。藤波の使用する技も独特のものがあり、それらは「ドラゴン殺法」と呼ばれた。そしてこのドラゴン殺法の中でも、ドラゴンスープレックスとドラゴンロケットは、必殺技の双璧だったと言えるだろう。
ドラゴンスープレックスは、日本ではひとつの普遍的な技の名称として定着した。これは一般的にはフルネルソンスープレックスであり、一時期新日と敵対関係にあった全日(後身のノアも含めて)は絶対に「ドラゴン」と言わなかったが、いつの間にか雪解けした。もはやフルネルソンスープレックスなどとは誰も呼ばない。
他にもドラゴンスクリューをはじめ、ドラゴンスリーパーなど藤波の名を冠した技はいくつも残っている。だが、ドラゴンロケットは「ジャイアントコブラ」や「アントニオドライバー」などと同じく藤波一代で終わった。もちろん藤波の後輩としてタイガーマスクがデビューしたと同時にルチャのスペイン語名技がどっと日本に入り、トペ・スイシーダという名称が一般化したことによる。古館アナウンサーは、前述した舌を噛みそうなケブラドーラ・コン・ヒーロなどという技名もちゃんと伝えていた。そうした中、藤波もヘビー級転向とともに空中殺法を用いなくなってゆき、ドラゴンロケットという名は、消滅した。
トペ・コン・ヒーロが日本に上陸したのは、いつかなあ…。
藤波以来Jr.ヘビー級が日本でも盛んになり、タイガー以降はルチャ・リブレが日本にかなり浸透したため、いつ日本で披露されていてもおかしくはないが、どうもタイガーマスクやチャボゲレロがトペ・コン・ヒーロを日本でやっていたのを観た覚えがないのだ。資料的には日本人第一号はマッハ隼人だと言われるが、日本で披露したのかどうかはわからない。
記憶で言えば、ザ・コブラがやったかもなぁ。これもただのぼんやりとした記憶なので信用しないでほしい。確実なのは、二代目タイガーマスク(三沢光晴)がそのデビュー戦において、トペ・コン・ヒーロを使用している。これは鮮明に憶えている(ビデオに録って繰り返し観たから。しかしそのテープもβで、実家で処分されちゃったかなあ)。
全日本のTV中継の倉持アナウンサーはあまり技をよく知らないため(失礼^^;)、三沢タイガーがトップロープを飛び越え前方回転して相手にぶつかっていったとき「プランチャだ!」と叫んだ。解説の竹内宏介氏が「あれは背中からぶつかっていきましたね」と、プランチャではない旨の訂正を入れても「すごいプランチャ攻撃!」と言い続けた(倉持さんはよくこういうことがあった)。
しかしゴング竹内氏も「背面落とし」とまでは言ったもののトペ・コン・ヒーロとまでは言わなかった。マスカラスヲタでルチャリブレに造詣が深い竹内氏が知らないわけはなく、当時は全くトペ・コン・ヒーロという名称が一般的でなかったことがわかる。
そんなトペ・コン・ヒーロも、以来30年近く経ち「トペコン」などと略されるようになった。
この場外へ飛ぶという「スイシーダ」系の技でも、トペは頭から飛び出していくために勢いが必要だった。プランチャは場外に落ちた相手を見据えながらトップロープを掴んで反動をつけて飛び出すだけでよかったが、トペはそうはいかない。飛び出すスピードが必要なため、一旦反対側のロープへ走って助走距離を確保しなければならない。プランチャと異なり時間がかかる。しかも、相手に避けられれば一大惨事となる。
であるために、場外に落ちた相手のダメージを見極めなくてはいけない。ダメージが強すぎて場外床にのびたままでは、トペは仕掛けられない。相手が立っていなくてはいけないのだ。また、立ち上がっても避けられるようであれば自爆してしまう。その、立っていてしかも避けられないという非常に難解な機微をとらえるのが実に難しい。
藤波と戦っている相手が場外に落ちる。すると、ドラゴンロケットを期待する観客の歓声が一気に上がる。藤波はマット中央で一瞬間を持つ。行くか、行かないか。その間が、この技の肝である。相手の状態を見て(なんせ驚くべき難解な機微)、また走り出そうとする反対側を見る。そうして少し逡巡したのち、思い切って走り出す。観客の興奮の針が振り切れる瞬間である。
藤波の「行くか、行かないか、さあどうするか」の一瞬の大見得は、トペ・スイシーダを出す場合のアクションとして今も受け継がれている。また初代タイガーマスクは、これに一味加えた。走り出したはいいが相手の体力の見極めに誤りがあり、相手が避けようとした。自爆必至。そのときタイガーは、飛び出そうとしたトップロープとセカンドロープの間でロープを掴み、くるりと一回転してマットに戻る。そんな離れ技も出した。
トペ・コン・ヒーロともなると大変な跳躍力が必要とされる。ドラゴンロケットに代表されるトペ・スイシーダがトップとセカンドロープ間を抜けるのに対し、ノータッチ式などはトップロープを越えていく。しかも回転しつつ飛ぶので、相手の位置が確認できない。実に、危険である。まさにスイシーダ技だと言える。
なのに、背面から当たる必然性があまり感じられないことが、惜しい。というか、背中に目がないためまずジャストミートすることはないし、当たったとしてもそれほど相手にダメージを与えられているのかどうかが観客に分かりにくい。頭からぶつかった方が衝突力がより鮮明に見える。派生技で三沢光晴が「エルボー・スイシーダ」をやるが、これがスイシーダ系技の中では最強であるようにも感じられる。トペ・スイシーダとて、リング内で出されるトペ(フライングヘッドバット)の如く、完全に頭突きをやれているわけではあるまい。頭方面からぶつかっているだけだ(手を前に出して飛ばないと怖い)。エルボーがおそらくもっとも破壊力があるだろう。
ノータッチ式のトペ・コン・ヒーロは、確かに技としては派手である。だが、命を賭してまでやる価値が本当にあるのかは、わからない。
興ざめするようなことを書くようだが、僕はこれら「スイシーダ系」の技が、あまり好きではない。プランチャもスイシーダでないほうがいい。
それは、技はリング内で完結してほしい、という考え方からきている。だって、見にくいじゃないか。リング内の、ライトが当たっているところで技は出してくれ。
そして、技にレスラーの肉体以外の要因が入るのも好きではない。リングのマットから場外には、落差がある。フラットではないため、異なるファクターが入る。それは、雪崩式や断崖式と呼ばれる技が好きではないのと同じ理由である。僕は、トップロープからの攻撃も好きなほうではない。利用していいのは、ロープの反動くらいにしてほしい。
そして、危険すぎるということ。
片山明の悲劇を、プロレスファンなら知っていると思う。彼は新日からSWSへと渡ったレスラーで、僕も新日時代は会場で試合を見たことがある。跳躍力があり、トペを得意技としていた。彼のトペ・スイシーダは、トップロープを越えて放たれる。それだけでも並みの跳躍力でないことがわかる。
この片山の放ったトペ・スイシーダが乱れ、片山は頭から場外の床に突き刺さった。
瞬間の動画はネット上にも上がっていたが、張らない。もう20年前のことだ。
この事故は、何かが引っかかったアクシデントと言われていたが、金沢克彦氏の著作に片山明さんのインタビューが載っており、それを読むと、そのままトペでゆくかそれともコン・ヒーロでやるか一瞬迷った上でのことであるように語られている。片山さんは一命をとりとめたが、今も車椅子の生活である。歳は、僕とかわらない。
こういうのは、嫌だ。
スイシーダ系の技は、見にくいこともあり、しかも「難解な機微」問題もあって、それほどみんなが使う技でなくなっても、僕はいいと思っている。ただ、それでもレスラーたちは飛び出し続けるのだろうな。
もう再び「事故」がおこらないことを切に願うしかない。そして「トペコン」なんて略して煽るのはもう止めたらどうか。軽々しすぎるようにも聞こえる。
もう既にプロレス実況も僕より遥か年下のアナウンサーがやっているこの時代となってはただのオールド・ファンの繰言になってしまうのかもしれないが、技の名は、長くてもちゃんとアナウンスして欲しいと本当に思う。寿限無ではないのだから、トペ・コン・ヒーロがそんなに長い名称とも思えない。もっとも、アナウンサー含め現在のファンは「あけおめ」「ことよろ」世代なのだろうからさほどの違和感を感じないのかもしれないが。
トペ・コン・ヒーロという技は、場外にいる相手へ、リングから飛び出していって体当たりをかける技のひとつである。もう少し具体的に言えば、場外で立っている相手に対してロープを越えて前方回転し、背面から相手にぶつかる。いくつかバリエーションがあって、トップロープを掴んで、体操の後ろ回り大車輪のように回転しつつ場外に飛び出し背面から相手にぶつかるもの。またはロープを掴まず助走をつけてトップロープを飛び越えて前方回転し、相手に背面からぶつかるものがある。後者は、ノータッチ式トペ・コン・ヒーロと呼ばれることもある。
これはルチャ・リブレ(メキシコプロレス)の技で、スペイン語である。
コン・ヒーロというのは「回転して」という意味だということだ。初代タイガーマスク全盛期を知っている人であれば「風車式バックブリーカー」のことを古館アナウンサーが「ケブラドーラ・コン・ヒーロ」と呼んでいたのを記憶していると思う。その「風車(回転)式」という部分がコン・ヒーロである。もっと分解すればヒーロというのが回転という意味であり、そこを略してトペコンと言ってしまうと、何の技なのかわからなくなるではないか。
以上のことは屁理屈であるが、何が慣れないかという本音は、トぺと言いつつ背面から当たる技であるということなのだろう。背面から当たる技は、ルチャ・リブレにおいてはセントーンではなかったのか。
もちろん、セントーンは相手が寝転がっている状態のところへ放つ技だということはよく知っている(→セントーン)。この場合は同じ背面から当たる技でも相手が立っている。つまり、背面ではなく腹面からと仮定すれば、ボディプレスとボディアタックの違い。同じ背面を使用する攻撃であっても、名称が異なるのは理解できる。
しかしトペという技は、ドラゴンロケットだったのである。僕にとっては。背面から当たる技ではなく、頭部からから突っ込んで体当たりする技。
これは、僕のただの思い込みだということはもう承知している。子供の頃、トペという技の名を初めて聞いたとき、意味が分からず調べた。そしてトペ(tope スペイン語)とは、英語でいうトップ(top)のことだと知り、ああそれで頭からぶつかる技をトペと言うのだな、と合点したことに始まる。
これは「頭から衝突する」と考えるより「頭から飛び出す」と解釈したほうがいい。なので、頭から飛び出してそのまま相手に衝突するのはもちろんトペだが、回転し結果背面から当たっても、それもトペの一種なのである。
実はあまり納得していないのだが、そうして理解はしている。言うものはしょうがない。
言うものはしょうがないので続けるが、つまりトペ・スイシーダという技とトペ・コン・ヒーロという技は、全く違うものである。トペ・スイシーダがドラゴンロケット。
言葉の話から先にすると、スイシーダ(suicide)とは自殺のこと。英語でも読みは違うが綴りは同じなのでわかりやすい。まるで自殺するほど危険な技であるということか。場外へ飛び出すということは着地はリングのマットではないのだから、ある意味自殺行為ではある。
ならば、同じく場外へ飛び出すトペ・コン・ヒーロもスイシーダではないのか。正しくはトペ・コン・ヒーロ・スイシーダと呼ぶべきだとまた言いたくなる。
屁理屈だとわかっているので止めようとは思うが、もう少しだけ。
場外へ飛び出さないトペというものも、実はある。リング内におけるフライングヘッドバットがそれに当たる。コーナートップから倒れている相手に向けて飛ぶダイビングヘッドバットとは異なり、立っている相手に仕掛ける。相手をロープに振ってカウンターで仕掛ければ衝突力が増す。相手に頭から飛び込んで頭突きをかますわけで、腕を前方に出すフライングクロスチョップなどと違って、勇気が必要なことが傍で見ていてもわかる。気をつけの姿勢で飛んでいくのって怖いよ。またかわされると受身がとりにくい。これは、星野勘太郎がやっていた。さすが男気の塊である勘太郎さんである。ただ、この技をトペと称していたかどうかは記憶にない。
ならば、場外へ飛び出さないトペ・コン・ヒーロも存在する。前方回転して背面から当たればそうなる。相手が立っていればトペ・コン・ヒーロ。倒れていればサマーソルトドロップ(サンセットフリップ)。
プランチャ(ボディアタック)も、リング内であればそのままプランチャであり、場外へ放てばプランチャ・スイシーダ(プランチャ・コン・ヒーロという技もあってややこしいのだが)。
ここまで"拘泥"して実況しろとは言わない。しかし「トペコンだぁ」って言い方はヒドくないかい(まだ言ってる)。
トペ・スイシーダをメキシコから初めて日本へ持ち込んだのは百田光雄であると言われる。しかし、僕は全く見た記憶がないなあ。昔は百田光雄はTVマッチにはほとんど出なかったということもあるかもしれない。前座の百田弟の試合は会場で何度かは観戦しているが、馬場さん時代の全日は前座で派手な技を使用することを嫌っていたため(メインを生かすという理由)、トペ・スイシーダなんて技は出す機会があまりなかったのではないかと想像する。この技を日本に膾炙させたのは、何と言ってもジュニア時代の藤波辰巳だ。
当時は、メキシコの技をそのままスペイン語で呼ぶことは稀だった。僕の記憶だとウラカン・ラナはそう呼んでいたように思うが…記憶違いかもしれない。セントーンという名称もなかったのではないか。当然トペやプランチャという名称も浸透しておらず藤波のトペ・スイシーダは「ドラゴンロケット」と名づけられた。
ジュニアの王者としての藤波の登場は、画期的だった。メキシコのルチャ・リブレというものは既にミル・マスカラスによって日本に広く紹介されてはいたものの、藤波の試合はまたそれとは違った。ルチャの要素を取り入れてはいたものの、それといわゆる新日本の「ストロング・スタイル」をうまく融合させた実に新鮮なものだった。藤波の使用する技も独特のものがあり、それらは「ドラゴン殺法」と呼ばれた。そしてこのドラゴン殺法の中でも、ドラゴンスープレックスとドラゴンロケットは、必殺技の双璧だったと言えるだろう。
ドラゴンスープレックスは、日本ではひとつの普遍的な技の名称として定着した。これは一般的にはフルネルソンスープレックスであり、一時期新日と敵対関係にあった全日(後身のノアも含めて)は絶対に「ドラゴン」と言わなかったが、いつの間にか雪解けした。もはやフルネルソンスープレックスなどとは誰も呼ばない。
他にもドラゴンスクリューをはじめ、ドラゴンスリーパーなど藤波の名を冠した技はいくつも残っている。だが、ドラゴンロケットは「ジャイアントコブラ」や「アントニオドライバー」などと同じく藤波一代で終わった。もちろん藤波の後輩としてタイガーマスクがデビューしたと同時にルチャのスペイン語名技がどっと日本に入り、トペ・スイシーダという名称が一般化したことによる。古館アナウンサーは、前述した舌を噛みそうなケブラドーラ・コン・ヒーロなどという技名もちゃんと伝えていた。そうした中、藤波もヘビー級転向とともに空中殺法を用いなくなってゆき、ドラゴンロケットという名は、消滅した。
トペ・コン・ヒーロが日本に上陸したのは、いつかなあ…。
藤波以来Jr.ヘビー級が日本でも盛んになり、タイガー以降はルチャ・リブレが日本にかなり浸透したため、いつ日本で披露されていてもおかしくはないが、どうもタイガーマスクやチャボゲレロがトペ・コン・ヒーロを日本でやっていたのを観た覚えがないのだ。資料的には日本人第一号はマッハ隼人だと言われるが、日本で披露したのかどうかはわからない。
記憶で言えば、ザ・コブラがやったかもなぁ。これもただのぼんやりとした記憶なので信用しないでほしい。確実なのは、二代目タイガーマスク(三沢光晴)がそのデビュー戦において、トペ・コン・ヒーロを使用している。これは鮮明に憶えている(ビデオに録って繰り返し観たから。しかしそのテープもβで、実家で処分されちゃったかなあ)。
全日本のTV中継の倉持アナウンサーはあまり技をよく知らないため(失礼^^;)、三沢タイガーがトップロープを飛び越え前方回転して相手にぶつかっていったとき「プランチャだ!」と叫んだ。解説の竹内宏介氏が「あれは背中からぶつかっていきましたね」と、プランチャではない旨の訂正を入れても「すごいプランチャ攻撃!」と言い続けた(倉持さんはよくこういうことがあった)。
しかしゴング竹内氏も「背面落とし」とまでは言ったもののトペ・コン・ヒーロとまでは言わなかった。マスカラスヲタでルチャリブレに造詣が深い竹内氏が知らないわけはなく、当時は全くトペ・コン・ヒーロという名称が一般的でなかったことがわかる。
そんなトペ・コン・ヒーロも、以来30年近く経ち「トペコン」などと略されるようになった。
この場外へ飛ぶという「スイシーダ」系の技でも、トペは頭から飛び出していくために勢いが必要だった。プランチャは場外に落ちた相手を見据えながらトップロープを掴んで反動をつけて飛び出すだけでよかったが、トペはそうはいかない。飛び出すスピードが必要なため、一旦反対側のロープへ走って助走距離を確保しなければならない。プランチャと異なり時間がかかる。しかも、相手に避けられれば一大惨事となる。
であるために、場外に落ちた相手のダメージを見極めなくてはいけない。ダメージが強すぎて場外床にのびたままでは、トペは仕掛けられない。相手が立っていなくてはいけないのだ。また、立ち上がっても避けられるようであれば自爆してしまう。その、立っていてしかも避けられないという非常に難解な機微をとらえるのが実に難しい。
藤波と戦っている相手が場外に落ちる。すると、ドラゴンロケットを期待する観客の歓声が一気に上がる。藤波はマット中央で一瞬間を持つ。行くか、行かないか。その間が、この技の肝である。相手の状態を見て(なんせ驚くべき難解な機微)、また走り出そうとする反対側を見る。そうして少し逡巡したのち、思い切って走り出す。観客の興奮の針が振り切れる瞬間である。
藤波の「行くか、行かないか、さあどうするか」の一瞬の大見得は、トペ・スイシーダを出す場合のアクションとして今も受け継がれている。また初代タイガーマスクは、これに一味加えた。走り出したはいいが相手の体力の見極めに誤りがあり、相手が避けようとした。自爆必至。そのときタイガーは、飛び出そうとしたトップロープとセカンドロープの間でロープを掴み、くるりと一回転してマットに戻る。そんな離れ技も出した。
トペ・コン・ヒーロともなると大変な跳躍力が必要とされる。ドラゴンロケットに代表されるトペ・スイシーダがトップとセカンドロープ間を抜けるのに対し、ノータッチ式などはトップロープを越えていく。しかも回転しつつ飛ぶので、相手の位置が確認できない。実に、危険である。まさにスイシーダ技だと言える。
なのに、背面から当たる必然性があまり感じられないことが、惜しい。というか、背中に目がないためまずジャストミートすることはないし、当たったとしてもそれほど相手にダメージを与えられているのかどうかが観客に分かりにくい。頭からぶつかった方が衝突力がより鮮明に見える。派生技で三沢光晴が「エルボー・スイシーダ」をやるが、これがスイシーダ系技の中では最強であるようにも感じられる。トペ・スイシーダとて、リング内で出されるトペ(フライングヘッドバット)の如く、完全に頭突きをやれているわけではあるまい。頭方面からぶつかっているだけだ(手を前に出して飛ばないと怖い)。エルボーがおそらくもっとも破壊力があるだろう。
ノータッチ式のトペ・コン・ヒーロは、確かに技としては派手である。だが、命を賭してまでやる価値が本当にあるのかは、わからない。
興ざめするようなことを書くようだが、僕はこれら「スイシーダ系」の技が、あまり好きではない。プランチャもスイシーダでないほうがいい。
それは、技はリング内で完結してほしい、という考え方からきている。だって、見にくいじゃないか。リング内の、ライトが当たっているところで技は出してくれ。
そして、技にレスラーの肉体以外の要因が入るのも好きではない。リングのマットから場外には、落差がある。フラットではないため、異なるファクターが入る。それは、雪崩式や断崖式と呼ばれる技が好きではないのと同じ理由である。僕は、トップロープからの攻撃も好きなほうではない。利用していいのは、ロープの反動くらいにしてほしい。
そして、危険すぎるということ。
片山明の悲劇を、プロレスファンなら知っていると思う。彼は新日からSWSへと渡ったレスラーで、僕も新日時代は会場で試合を見たことがある。跳躍力があり、トペを得意技としていた。彼のトペ・スイシーダは、トップロープを越えて放たれる。それだけでも並みの跳躍力でないことがわかる。
この片山の放ったトペ・スイシーダが乱れ、片山は頭から場外の床に突き刺さった。
瞬間の動画はネット上にも上がっていたが、張らない。もう20年前のことだ。
この事故は、何かが引っかかったアクシデントと言われていたが、金沢克彦氏の著作に片山明さんのインタビューが載っており、それを読むと、そのままトペでゆくかそれともコン・ヒーロでやるか一瞬迷った上でのことであるように語られている。片山さんは一命をとりとめたが、今も車椅子の生活である。歳は、僕とかわらない。
こういうのは、嫌だ。
スイシーダ系の技は、見にくいこともあり、しかも「難解な機微」問題もあって、それほどみんなが使う技でなくなっても、僕はいいと思っている。ただ、それでもレスラーたちは飛び出し続けるのだろうな。
もう再び「事故」がおこらないことを切に願うしかない。そして「トペコン」なんて略して煽るのはもう止めたらどうか。軽々しすぎるようにも聞こえる。
プリンス・デヴィットというアイルランドのレスラーがいて、ここのところ新日本プロレスジュニアの第一人者となっている。実に運動神経がいい。その跳躍力には時として惚れ惚れする。技も多彩で、高さがあるために常に美しく映える。
彼は、80kgそこそこに体重を絞っている。ジュニアヘビー級は100kg未満であればOKなので、まだまだ体重は増やせるはずなのだが、より技の切れをよくするためにストイックにそれ以上増やさないのだろう。プロレスラーは受身を取るためにあるていどの体の分厚さというものは必要で、痩せているとダメージが大きくなるため、肉の鎧を付けるのが一般的である。無差別級ならその体重は青天井であり、階級別なら制限ギリキリまで太るほうが有利である。打撃技の威力は体重に比例する。そういう競技の中で、いかにも体脂肪率が低そうなデヴィットの体躯は、修行僧を思わせる。
技も多彩だ。ペガサスキッド以来のスープレックスをはじめ、投げ技、打撃技、身軽さを活用した体当たり系技などを息つく間もなく繰り広げる。完全にジュニアのエースとして君臨している。
そこまで身体能力に優れ精進を重ねるレスラーであるのに、彼はどうしてダイビングフットスタンプを得意技にしているのだろうか。
フットスタンプという技は、そのまま解釈すればいい。マットに倒れている相手に向かって、飛び上がってドスンと足裏で踏みつける。相手のボディの上に着地すると言ってもいい。多くは、両足を揃えて踏む。その場合、完全に体重が足裏の面積でかかることになる。
自分の体重を相手に浴びせてゆく打撃技として、ボディプレス、ヒップドロップ、ニードロップ、エルボードロップ、ダイビングヘッドと様々あるが、負荷を他に逃がすことなく100%相手に浴びせる技は、セントーン(巧いサマーソルトドロップ含)と、このフットスタンプしかない。
さらに、セントーンと比べて体重の乗る面積が小さい(背中と足裏では必然的にそうなる)。したがって、よりフットスタンプの方がその面積に対する負荷が大きいこととなる。レスラーの体重が、その足裏に集中して飛んでくる。
より高くから飛べば、物理の法則でどんどん衝撃が増す。ダイビングフットスタンプという技は、コーナーに上って飛び降りる。多くは腹部を狙うために、相手が仰向け状態のところへ落ちてくる。
考えてもみればいい。僕なら腹の上にボウリングの球を落とされても終わりだろうに、プロレスラーがジャンプして足を揃えて落ちてくるのだ。悶絶必至であることはいうまでもない。
数多いプロレス技において、その拷問度合いはトップクラスだろう。
にもかかわらず、こんなにつまらない技もそう多くはない。はっきり言って、僕は嫌いだ。
なぜ「嫌い」とまで明言するのかといえば、まずこの技は、全く技術を必要としないからである。僕でも簡単にできる。倒れている相手の腹の上に飛び上がって足を揃えて乗るだけでいい。それだけで相手はゲフッとなり悶え苦しむ。コーナートップから飛び降りるにはちょっと勇気がいるが、それも可能である。目測を誤るということもあるまい。
そして、リスクが生じない。
普通のフットスタンプはもちろんのこと、コーナートップから飛び降りたとしても、全くノーリスクである。コーナーからのダイブ技は常に「自爆」という危険性を伴う。ニードロップを避けられればヒザをマットにしたたか打ち付けることになる。ヘッドバットもセントーンも、失敗すれば大変なダメージを負う。それでも果敢にレスラーは飛ぶわけで、そこに、普通の人では出来ないレスラーならではの勇気と受身技術が必要となってくる。ところがこのフットスタンプには自爆がない。避けられたらそのままマットに着地すればいいだけ。こんなの、ずるい(幼稚な表現だが本音)。
さらに、見栄えが悪い。
この技を得意としていたレスラーに越中詩郎、佐野直喜、小川良成らがいるが、いずれもかわりばえせず相手の腹の上に足を揃えて落ちてくるだけ。体勢は直立不動のままであり、アクションが少ない。ただの自由落下である。なので悶絶技にもかかわらずそれが伝わりにくい。表現すれば「チョンと相手の上に乗る」くらいの感じである。よくよく考えればこれはえげつない技なのだが、よくよく考えねばならないところに、この技の致命的欠陥があるといっていいかもしれない。
観客も沸きにくい。後に佐野直喜は、コーナートップからマットへのダイブだけではなく、リング下の相手にも放ついわゆる「断崖式」も繰り出すようになったが、それでも仕掛ける側はただ直立して落ちるだけなので、こけしの如く見栄えがしない。
以上の理由で、僕の中では「つまらない技」の最右翼となってしまう。技と言えるかどうかも、僕には疑問である。
プリンス・デヴィットのダイビングフットスタンプは、それらとは確かに一味違う。
彼は、コーナートップから飛び降りるのではない。そこから上昇して、十分に高度を稼ぐ。その最高到達地点でヒザを抱えるように縮める。ジャンプして脚を屈するために空中で一瞬止まって見える。これはつまり滞空時間を長く感じさせるわけで、そこから相手の腹部めがけて落下と同時に脚を思い切り突き伸ばす。落下と同時に屈伸式ドロップキックを叩き込むようなもので、それは見栄えがすると同時に多大な悶絶への説得力を生じさせる。これは、本当にえげつない。
このデヴィットの技は確かに、僕でも可能な「腹の上にチョンと乗る」フットスタンプとは一線を画する。
しかしそれでも、フットスタンプはフットスタンプなのである。これだけ身体能力が高く技術力のあるデヴィットがどうしてもやらねばならぬ技ではない。
では、フットスタンプはどうすればプロレスの中で生きるのだろうか。
まずは、見栄えである。それは、デヴィットが体現している。高さ、そして滞空時間の長さ、さらに脚を突き出すことによる串刺し感。これで、フットスタンプは技に昇華する。
しかし、これはデヴィットだから出来るのである。前述したように、デヴィットは80kgそこそこしかない。だから、ここまで危険なことが可能なのである。ジュニアヘビーでも、軽い部類のレスラーのみ可能。もうひとり、ロウ・キーのフットスタンプも印象に残る。彼も、体重はさほどではない。
逆に言えば、越中や佐野ではこういう形のフットスタンプは無理なのである。越中や佐野は実に器用なレスラーであり、デヴィット式の突き刺すようなフットスタンプくらいおやすい御用で繰り出せるだろう。しかし100kg超えしている彼らがデヴィットやロウ・キーのようなフットスタンプをやれば、相手の腹腔が破れてしまう。プロレスは、相手を殺すための競技ではない。なので、足を揃えて直立姿勢でチョンと降りる程度しか出来ないのだ。
そして、佐野や越中はかつてジュニアヘビーで一時代を築いたレスラー。つまりヘビー級の中では軽量だ。相手はたいてい彼らよりデカい。なので、いかにも軽い技に見えてしまうのである。相手に全体重を浴びせるという技にも関わらず。
なので、彼らがフットスタンプをやることに賛成が出来ない。
もっと重量級のレスラーがフットスタンプをやれば、それはえげつなさが伝わるに違いない。アンドレがセカンドロープに上って落ちてくれば観客は皆「やめろー!」と叫ぶだろう。ただ自由落下するだけで迫力満点となる。しかし、それは無理である。相手が確実に怪我をする。
僕が知る限りで、「やめてくれ!」と思わず叫びそうになったフットスタンプは、橋本真也のそれである。あれだけデカいのが落ちてくれば、相手はどうなることかと思ってしまう。あれくらいのレスラーでないとフットスタンプは活きない、と言える。
しかしながら、その橋本のフットスタンプでさえ、やはり違和感をどうしても持ってしまうのである。何故か。それは前述した「技術いらず」「リスクを負わない」という点において、だ。これは「ずるい技」であるという感覚がどうしても抜けないからである。
逆に言えば、これはレスラーのキャラクター次第で活かせるのだ。
今のプロレス、ことに日本のプロレスは、もはや善玉悪玉の区別で感情移入して観る視点が減じた。技術の凌ぎ合いが観点の主流である。それはそれでもちろんいいと思うのだが、フットスタンプのような技は「悪役」がやってこそ生きると僕は思う。凶器攻撃にせよチョークなどの反則にせよ、いずれも「ずるい」技は悪役がやるものだ。
フットスタンプは、反則ではない。しかし、リスクを負わず省エネで最大限の効果をあげるこの技は、悪役がやってこそはえるのではないか。デヴィットがこれをやることの最大の違和感は、ここにある。
ケビン・サリバンというレスラーがいた。今はどうしているのかな。若い頃はテクニシャンとして知られたケビンだったが、のちに悪役として名を馳せた。凶器攻撃で血を流すスタイルだった。
彼が、ダイビングフットスタンプをやった。実に似合っていた。この技は、腹の上にドスンと落ちてきて相手が悶絶するのを舌なめずりして喜んでいるくらいのレスラーでないと似合わないような気がする。そのリスクなしというずるさも、観客の感情移入に役立つ。
矢野通などは、フットスタンプが似合いそうだと思う。フィニッシュにせず、苦しむ様子をしばらく眺めているような佇まいを見てみたいものだと思う。もう既にやっていたとすればごめんなさい。
さて、フットスタンプのもうひとつの道は、技術的に極めることである。デヴィットのフットスタンプも極限までいっているとは思うが、それでも見方によればプロでなくても真似できる技だ。その、さらに上をいく必要性がある。
ムーンサルト・フットスタンプというのがある。その名の如くコーナートップからムーンサルト回転をして両足で相手ボディに着地するという離れ技で、福岡晶が開発したとも言われる。女子プロレスをはじめ、男子でも現在は使い手が何人もいるようだ。これもリスクを負わない点は残るものの、その素人には決して真似できない技術力によって、善玉がやっても必殺技として認めうるものになってくる。
しかし、ちょっとエグくないかいこの技。遠心力が加わるのはまたキツいよ。何度か凄惨な場面を見たぞ。そこまでしてフットスタンプをやらなくてもいいのではないのだろうか、とつい思う。
フットスタンプという技は、足裏に体重をのせて踏みつける技、との定義もできる。さすれば、近い技はストンピングである。
ストンピングになると、急に卑怯な感じが失せる。視点とは、勝手なものだと思う。だいたい、これは基本技である。とにかく相手を踏み倒す技であり、誰でもやる。ただし、フィニッシュには結びつかない。
ストンピングは蹴りだろう、との見方もあるが、stompとstampは類義語のようですね。辞書ひいてもイマイチよくわからんけれども、stompはドシンドシンと踏み鳴らす意味らしく。足の甲ないしは爪先、踵、踝をつかえば蹴り、足裏であれば踏みつけ、と定義してみるかな。じゃローリングソバットはストンピングの一種か、と問われればまた迷宮に入るのだが、ストンピングは足裏を使い、ドシンドシンと相手を踏む(ように蹴る・蹴り倒す)。力のベクトルは下方、ということでいいかな。
僕などは、長州の鬼気迫るストンピングは印象に残るなあ。インタータッグ戦で谷津と組んで、鶴田天龍を相手にしたときの、肋骨を痛めながら空を飛ばんばかりに勢いをつけて相手を踏み倒そうとしたストンピングは今でも思い出す。蹴れば肋骨に響くのに何度も何度も渾身の力を振り絞ってね。ああいう試合がまた観たい。
両技とも足裏に体重をのせて相手に対峙することには共通項があるが、ストンピングはもちろん片足でガンガン踏み倒そうとするわけで、両足をそろえるフットスタンプとはその点で明確に違う、とも言える。その場でジャンプして相手を踏みつける場合は確かに違う。しかし、コーナーから飛び降りて片足で踏みつければ、それはストンピングかフットスタンプなのか。ダイビング・ストンピングなど聞いたことがなく、やはりそれはフットスタンプではないか。シングル・フットスタンプ。
しかし、両足でも体重の乗る面積が小さく衝撃が強いのに、全体重が片足では腹に足がめり込んでしまう。そんな危険なことは誰もしないので、技として成立しないから誰も考えないのだろう。
ならば、ディック・ザ・ブルーザーのアトミック・ボムズ・アウェイは何なのだろうか。あれは、コーナーから片足で踏み潰さんと落下してくるのだぞ。
とはいいながら、僕のように力道山が死んでから生まれた世代では、「生傷男」デック・ザ・ブルーザー・アフィルスなど伝説上の人で、もちろん全盛期など知らず懐かしプロレスのビデオで数回観たにすぎない。しかし、その迫力たるや凄まじいレスラーで、ある意味不世出であるとも言える。胸板というかその体躯は、異常に分厚い。あんな身体は見たことがない。そのパンパンの盛り上がった、しかもボディビル的ではない膨れ上がった筋肉。プリンス・デヴィットと比べるのも変だが、明らかに異形の人だったと思う。
技らしい技は、ない。とにかく殴る蹴る。顔をつかんで捻じ曲げる(チンロックに近いがもっと力任せ)。腕をつかんで捻りあげる(関節技というにはあまりにも力任せ)。クロー攻撃(というより掴んで握りつぶす)。コーナーに叩きつける。全くのところ、規格外のレスラーだ。技は、ボディスラムくらいか。用心棒あがりらしいが、さもありなんとも言えるファイトスタイル。喧嘩だな。何でもいいから相手を叩きのめすのだ。
そのフィニッシュホールドが、アトミック・ボムズ・アウェイと呼ばれる技である。
相手に殴る蹴るの暴行をくわえて(格闘技であるプロレスでこの表現はおかしいがそう言いたくなるのだ)、相手が抵抗できなくなったらマットに叩きつけ、自分はコーナートップに上がる。そして、ジャンプ一番、マットに飛び降りて相手を踏み潰すのだ。それが、アトミック・ボムズ・アウェイ。足を揃えて落下してくるフットスタンプなんてものではない。踏み潰し技だ。
ただ、古いレスラーなので僕も数例しか観てはいない。しかし最近は動画サイトというものがあってまことに有難く、Dick The Bruiserで検索していくつも観戦した。いやはや、やはりすさまじい。こんなのやこんなのが典型かなとは思うが、もう少し若い頃はニードロップも使っていたようだ。いくつかそういう例を見た。
これは、自爆を避けるためにヒザから落ちるのをやめたのだろうか。いや、このおっさんはそんなチンケなことなど考えてはいまい。だいたい、アトミック・ボムズ・アウェイを出す前に既に相手はノックアウト状態であることが多く、よけようにもよけられないではないか。
思うに、ニーでもストンピングでもどっちでも良かったのではないか。コーナーに上がってとどめを刺すのは、それが派手だからやっていたのであって、それ以上ではなかったように思える。相手を潰せて自分が満足ゆくなら、ヒザでも足裏でもどっちでもいい。踏み潰すほうが楽そうだな。じゃそっちにするか。その程度のことだろう。
こういうタイプのレスラーは、もういない。腕力が強いということと、腕っぷしが強いというのは違う。技の切れをよくするため身体を絞り込み最高のパフォーマンスを見せようとするデヴィットのようなレスラーも好きだけれど、身体に肉をつけまくって相手が抵抗しようともかまわず前進して叩き潰すブルーザーのような個性もまた、見たい。そしてフットスタンプが似合うとすればそれはブルーザーだろう。本人は、串刺しフットスタンプなんてしゃらくさい、俺は踏み潰すだけだ、と言うだろうけれども。
彼は、80kgそこそこに体重を絞っている。ジュニアヘビー級は100kg未満であればOKなので、まだまだ体重は増やせるはずなのだが、より技の切れをよくするためにストイックにそれ以上増やさないのだろう。プロレスラーは受身を取るためにあるていどの体の分厚さというものは必要で、痩せているとダメージが大きくなるため、肉の鎧を付けるのが一般的である。無差別級ならその体重は青天井であり、階級別なら制限ギリキリまで太るほうが有利である。打撃技の威力は体重に比例する。そういう競技の中で、いかにも体脂肪率が低そうなデヴィットの体躯は、修行僧を思わせる。
技も多彩だ。ペガサスキッド以来のスープレックスをはじめ、投げ技、打撃技、身軽さを活用した体当たり系技などを息つく間もなく繰り広げる。完全にジュニアのエースとして君臨している。
そこまで身体能力に優れ精進を重ねるレスラーであるのに、彼はどうしてダイビングフットスタンプを得意技にしているのだろうか。
フットスタンプという技は、そのまま解釈すればいい。マットに倒れている相手に向かって、飛び上がってドスンと足裏で踏みつける。相手のボディの上に着地すると言ってもいい。多くは、両足を揃えて踏む。その場合、完全に体重が足裏の面積でかかることになる。
自分の体重を相手に浴びせてゆく打撃技として、ボディプレス、ヒップドロップ、ニードロップ、エルボードロップ、ダイビングヘッドと様々あるが、負荷を他に逃がすことなく100%相手に浴びせる技は、セントーン(巧いサマーソルトドロップ含)と、このフットスタンプしかない。
さらに、セントーンと比べて体重の乗る面積が小さい(背中と足裏では必然的にそうなる)。したがって、よりフットスタンプの方がその面積に対する負荷が大きいこととなる。レスラーの体重が、その足裏に集中して飛んでくる。
より高くから飛べば、物理の法則でどんどん衝撃が増す。ダイビングフットスタンプという技は、コーナーに上って飛び降りる。多くは腹部を狙うために、相手が仰向け状態のところへ落ちてくる。
考えてもみればいい。僕なら腹の上にボウリングの球を落とされても終わりだろうに、プロレスラーがジャンプして足を揃えて落ちてくるのだ。悶絶必至であることはいうまでもない。
数多いプロレス技において、その拷問度合いはトップクラスだろう。
にもかかわらず、こんなにつまらない技もそう多くはない。はっきり言って、僕は嫌いだ。
なぜ「嫌い」とまで明言するのかといえば、まずこの技は、全く技術を必要としないからである。僕でも簡単にできる。倒れている相手の腹の上に飛び上がって足を揃えて乗るだけでいい。それだけで相手はゲフッとなり悶え苦しむ。コーナートップから飛び降りるにはちょっと勇気がいるが、それも可能である。目測を誤るということもあるまい。
そして、リスクが生じない。
普通のフットスタンプはもちろんのこと、コーナートップから飛び降りたとしても、全くノーリスクである。コーナーからのダイブ技は常に「自爆」という危険性を伴う。ニードロップを避けられればヒザをマットにしたたか打ち付けることになる。ヘッドバットもセントーンも、失敗すれば大変なダメージを負う。それでも果敢にレスラーは飛ぶわけで、そこに、普通の人では出来ないレスラーならではの勇気と受身技術が必要となってくる。ところがこのフットスタンプには自爆がない。避けられたらそのままマットに着地すればいいだけ。こんなの、ずるい(幼稚な表現だが本音)。
さらに、見栄えが悪い。
この技を得意としていたレスラーに越中詩郎、佐野直喜、小川良成らがいるが、いずれもかわりばえせず相手の腹の上に足を揃えて落ちてくるだけ。体勢は直立不動のままであり、アクションが少ない。ただの自由落下である。なので悶絶技にもかかわらずそれが伝わりにくい。表現すれば「チョンと相手の上に乗る」くらいの感じである。よくよく考えればこれはえげつない技なのだが、よくよく考えねばならないところに、この技の致命的欠陥があるといっていいかもしれない。
観客も沸きにくい。後に佐野直喜は、コーナートップからマットへのダイブだけではなく、リング下の相手にも放ついわゆる「断崖式」も繰り出すようになったが、それでも仕掛ける側はただ直立して落ちるだけなので、こけしの如く見栄えがしない。
以上の理由で、僕の中では「つまらない技」の最右翼となってしまう。技と言えるかどうかも、僕には疑問である。
プリンス・デヴィットのダイビングフットスタンプは、それらとは確かに一味違う。
彼は、コーナートップから飛び降りるのではない。そこから上昇して、十分に高度を稼ぐ。その最高到達地点でヒザを抱えるように縮める。ジャンプして脚を屈するために空中で一瞬止まって見える。これはつまり滞空時間を長く感じさせるわけで、そこから相手の腹部めがけて落下と同時に脚を思い切り突き伸ばす。落下と同時に屈伸式ドロップキックを叩き込むようなもので、それは見栄えがすると同時に多大な悶絶への説得力を生じさせる。これは、本当にえげつない。
このデヴィットの技は確かに、僕でも可能な「腹の上にチョンと乗る」フットスタンプとは一線を画する。
しかしそれでも、フットスタンプはフットスタンプなのである。これだけ身体能力が高く技術力のあるデヴィットがどうしてもやらねばならぬ技ではない。
では、フットスタンプはどうすればプロレスの中で生きるのだろうか。
まずは、見栄えである。それは、デヴィットが体現している。高さ、そして滞空時間の長さ、さらに脚を突き出すことによる串刺し感。これで、フットスタンプは技に昇華する。
しかし、これはデヴィットだから出来るのである。前述したように、デヴィットは80kgそこそこしかない。だから、ここまで危険なことが可能なのである。ジュニアヘビーでも、軽い部類のレスラーのみ可能。もうひとり、ロウ・キーのフットスタンプも印象に残る。彼も、体重はさほどではない。
逆に言えば、越中や佐野ではこういう形のフットスタンプは無理なのである。越中や佐野は実に器用なレスラーであり、デヴィット式の突き刺すようなフットスタンプくらいおやすい御用で繰り出せるだろう。しかし100kg超えしている彼らがデヴィットやロウ・キーのようなフットスタンプをやれば、相手の腹腔が破れてしまう。プロレスは、相手を殺すための競技ではない。なので、足を揃えて直立姿勢でチョンと降りる程度しか出来ないのだ。
そして、佐野や越中はかつてジュニアヘビーで一時代を築いたレスラー。つまりヘビー級の中では軽量だ。相手はたいてい彼らよりデカい。なので、いかにも軽い技に見えてしまうのである。相手に全体重を浴びせるという技にも関わらず。
なので、彼らがフットスタンプをやることに賛成が出来ない。
もっと重量級のレスラーがフットスタンプをやれば、それはえげつなさが伝わるに違いない。アンドレがセカンドロープに上って落ちてくれば観客は皆「やめろー!」と叫ぶだろう。ただ自由落下するだけで迫力満点となる。しかし、それは無理である。相手が確実に怪我をする。
僕が知る限りで、「やめてくれ!」と思わず叫びそうになったフットスタンプは、橋本真也のそれである。あれだけデカいのが落ちてくれば、相手はどうなることかと思ってしまう。あれくらいのレスラーでないとフットスタンプは活きない、と言える。
しかしながら、その橋本のフットスタンプでさえ、やはり違和感をどうしても持ってしまうのである。何故か。それは前述した「技術いらず」「リスクを負わない」という点において、だ。これは「ずるい技」であるという感覚がどうしても抜けないからである。
逆に言えば、これはレスラーのキャラクター次第で活かせるのだ。
今のプロレス、ことに日本のプロレスは、もはや善玉悪玉の区別で感情移入して観る視点が減じた。技術の凌ぎ合いが観点の主流である。それはそれでもちろんいいと思うのだが、フットスタンプのような技は「悪役」がやってこそ生きると僕は思う。凶器攻撃にせよチョークなどの反則にせよ、いずれも「ずるい」技は悪役がやるものだ。
フットスタンプは、反則ではない。しかし、リスクを負わず省エネで最大限の効果をあげるこの技は、悪役がやってこそはえるのではないか。デヴィットがこれをやることの最大の違和感は、ここにある。
ケビン・サリバンというレスラーがいた。今はどうしているのかな。若い頃はテクニシャンとして知られたケビンだったが、のちに悪役として名を馳せた。凶器攻撃で血を流すスタイルだった。
彼が、ダイビングフットスタンプをやった。実に似合っていた。この技は、腹の上にドスンと落ちてきて相手が悶絶するのを舌なめずりして喜んでいるくらいのレスラーでないと似合わないような気がする。そのリスクなしというずるさも、観客の感情移入に役立つ。
矢野通などは、フットスタンプが似合いそうだと思う。フィニッシュにせず、苦しむ様子をしばらく眺めているような佇まいを見てみたいものだと思う。もう既にやっていたとすればごめんなさい。
さて、フットスタンプのもうひとつの道は、技術的に極めることである。デヴィットのフットスタンプも極限までいっているとは思うが、それでも見方によればプロでなくても真似できる技だ。その、さらに上をいく必要性がある。
ムーンサルト・フットスタンプというのがある。その名の如くコーナートップからムーンサルト回転をして両足で相手ボディに着地するという離れ技で、福岡晶が開発したとも言われる。女子プロレスをはじめ、男子でも現在は使い手が何人もいるようだ。これもリスクを負わない点は残るものの、その素人には決して真似できない技術力によって、善玉がやっても必殺技として認めうるものになってくる。
しかし、ちょっとエグくないかいこの技。遠心力が加わるのはまたキツいよ。何度か凄惨な場面を見たぞ。そこまでしてフットスタンプをやらなくてもいいのではないのだろうか、とつい思う。
フットスタンプという技は、足裏に体重をのせて踏みつける技、との定義もできる。さすれば、近い技はストンピングである。
ストンピングになると、急に卑怯な感じが失せる。視点とは、勝手なものだと思う。だいたい、これは基本技である。とにかく相手を踏み倒す技であり、誰でもやる。ただし、フィニッシュには結びつかない。
ストンピングは蹴りだろう、との見方もあるが、stompとstampは類義語のようですね。辞書ひいてもイマイチよくわからんけれども、stompはドシンドシンと踏み鳴らす意味らしく。足の甲ないしは爪先、踵、踝をつかえば蹴り、足裏であれば踏みつけ、と定義してみるかな。じゃローリングソバットはストンピングの一種か、と問われればまた迷宮に入るのだが、ストンピングは足裏を使い、ドシンドシンと相手を踏む(ように蹴る・蹴り倒す)。力のベクトルは下方、ということでいいかな。
僕などは、長州の鬼気迫るストンピングは印象に残るなあ。インタータッグ戦で谷津と組んで、鶴田天龍を相手にしたときの、肋骨を痛めながら空を飛ばんばかりに勢いをつけて相手を踏み倒そうとしたストンピングは今でも思い出す。蹴れば肋骨に響くのに何度も何度も渾身の力を振り絞ってね。ああいう試合がまた観たい。
両技とも足裏に体重をのせて相手に対峙することには共通項があるが、ストンピングはもちろん片足でガンガン踏み倒そうとするわけで、両足をそろえるフットスタンプとはその点で明確に違う、とも言える。その場でジャンプして相手を踏みつける場合は確かに違う。しかし、コーナーから飛び降りて片足で踏みつければ、それはストンピングかフットスタンプなのか。ダイビング・ストンピングなど聞いたことがなく、やはりそれはフットスタンプではないか。シングル・フットスタンプ。
しかし、両足でも体重の乗る面積が小さく衝撃が強いのに、全体重が片足では腹に足がめり込んでしまう。そんな危険なことは誰もしないので、技として成立しないから誰も考えないのだろう。
ならば、ディック・ザ・ブルーザーのアトミック・ボムズ・アウェイは何なのだろうか。あれは、コーナーから片足で踏み潰さんと落下してくるのだぞ。
とはいいながら、僕のように力道山が死んでから生まれた世代では、「生傷男」デック・ザ・ブルーザー・アフィルスなど伝説上の人で、もちろん全盛期など知らず懐かしプロレスのビデオで数回観たにすぎない。しかし、その迫力たるや凄まじいレスラーで、ある意味不世出であるとも言える。胸板というかその体躯は、異常に分厚い。あんな身体は見たことがない。そのパンパンの盛り上がった、しかもボディビル的ではない膨れ上がった筋肉。プリンス・デヴィットと比べるのも変だが、明らかに異形の人だったと思う。
技らしい技は、ない。とにかく殴る蹴る。顔をつかんで捻じ曲げる(チンロックに近いがもっと力任せ)。腕をつかんで捻りあげる(関節技というにはあまりにも力任せ)。クロー攻撃(というより掴んで握りつぶす)。コーナーに叩きつける。全くのところ、規格外のレスラーだ。技は、ボディスラムくらいか。用心棒あがりらしいが、さもありなんとも言えるファイトスタイル。喧嘩だな。何でもいいから相手を叩きのめすのだ。
そのフィニッシュホールドが、アトミック・ボムズ・アウェイと呼ばれる技である。
相手に殴る蹴るの暴行をくわえて(格闘技であるプロレスでこの表現はおかしいがそう言いたくなるのだ)、相手が抵抗できなくなったらマットに叩きつけ、自分はコーナートップに上がる。そして、ジャンプ一番、マットに飛び降りて相手を踏み潰すのだ。それが、アトミック・ボムズ・アウェイ。足を揃えて落下してくるフットスタンプなんてものではない。踏み潰し技だ。
ただ、古いレスラーなので僕も数例しか観てはいない。しかし最近は動画サイトというものがあってまことに有難く、Dick The Bruiserで検索していくつも観戦した。いやはや、やはりすさまじい。こんなのやこんなのが典型かなとは思うが、もう少し若い頃はニードロップも使っていたようだ。いくつかそういう例を見た。
これは、自爆を避けるためにヒザから落ちるのをやめたのだろうか。いや、このおっさんはそんなチンケなことなど考えてはいまい。だいたい、アトミック・ボムズ・アウェイを出す前に既に相手はノックアウト状態であることが多く、よけようにもよけられないではないか。
思うに、ニーでもストンピングでもどっちでも良かったのではないか。コーナーに上がってとどめを刺すのは、それが派手だからやっていたのであって、それ以上ではなかったように思える。相手を潰せて自分が満足ゆくなら、ヒザでも足裏でもどっちでもいい。踏み潰すほうが楽そうだな。じゃそっちにするか。その程度のことだろう。
こういうタイプのレスラーは、もういない。腕力が強いということと、腕っぷしが強いというのは違う。技の切れをよくするため身体を絞り込み最高のパフォーマンスを見せようとするデヴィットのようなレスラーも好きだけれど、身体に肉をつけまくって相手が抵抗しようともかまわず前進して叩き潰すブルーザーのような個性もまた、見たい。そしてフットスタンプが似合うとすればそれはブルーザーだろう。本人は、串刺しフットスタンプなんてしゃらくさい、俺は踏み潰すだけだ、と言うだろうけれども。
某喫茶店にて。BGMにグレープの「朝刊」のイントロが聴こえてきた。有線なのか、店主の趣味なのかは知らない(別にいきつけの店ではなく通りすがりなので)。グレープ時代も含め、さだまさしの曲はよく聴いているので、イントロが始まればすぐにわかる。
僕はこの曲を聴くと、まっさんの度量の大きさというものをいつも感じるのである。
前に親父が来たときも 僕の好物のカラスミを手土産にとくれたのに
わざわざまた煮て駄目にして 「ごめんなさい」っていいながら一番笑いこけたのは君
ピンきりではあろうけれども、カラスミというものは概して高価なものである。ボラの卵を時間をかけて加工した珍味で、ちょっと立派なものならひとハラ1万円くらいしてしまう。それを薄く切って、場合によっては大根の薄切りとあわせて食べたりするが、少量づつ食べるのならそこまでせずともそのままチビチビと食べればいい。上質のものはねっとりとして、酒の肴には抜群である。
邱永漢氏が書いていたのだが、台湾では炙って、ニンニクをつけあわせて食べるらしい。そういう食べ方はしたことがないが、アリなのかもしれないな、とは思う。絶対に生で食べなければならないものではない。しかし、これを煮てしまってはどうしようもあるまい。
さだまさしの歌だから、この主人公の実家の設定は長崎だろう。カラスミの産地だから、意外に手軽に手に入るものなのかもしれない。しかしそれでも、廉価ではなかろう。それを知らないとはいえ、煮るとは。…だが、ここまではまだ僕も許せるかもしれない。ドジでかわいい新妻のしたことだ。しかし、それで「笑いこける」とは何事であるのか。義父の思いを考えれば、もう少し申し訳ない気持ちを表明してもいいのではないか。
…と、どうしても思ってしまう。僕には度量が無い。されどからすみであっても、たかがからすみではないか。これがタラコであったなら、いかに父親のことを思えども僕だって笑って済ませたのではないだろうか。値で換算するとは、なんとも僕は人間が小さい。
おっとそういう話をしようとしたのではなかった。閑話休題。
このうたは、朝の情景から始まる。奥さんが朝刊の受け売りをはじめる。
きみは早起きしたのがさも得意そうに ねぼけまなこの僕を朝食に追いたて
ねェまた巨人が負けたってさって 高田の背番号も知らないくせに
高田の背番号か。
この奥さんは背番号を知らないだけだが、今の若い人がこれを聴けば、何の話かわからないに違いない。この高田とは、高田繁さんのことである。このあいだまでヤクルトの監督、今シーズンからはDeNAベイスターズのGMとなったあの高田氏。当時は、読売Gの花形選手だった。
ちょっと調べてみると、朝刊のリリースは昭和50年。ということは、長嶋監督初年度である。前年読売GはV10を逃し、長嶋が「巨人軍は永久に不滅です」とか言って引退し、監督となった。その監督初年度は負けに負け、とうとう最下位となったが、その年のうたである。そりゃ「巨人がまた負けた」となるだろう。ちなみに高田は塀際の魔術師とも称された天下一品の左翼手だったが、翌年読売Gは日本ハムから張本勲を獲得し、張本がレフトなので高田はサードにコンバートされた。そしてこの大型補強で読売は優勝する。このチームの体質は、FA制度以前からあまりかわらない。以上、関係ない話。ちなみに高田の背番号は8である。
話題にしたいのは、時事ネタを扱ったうたである。
本来、うたというものは不変の価値をもつ。名曲は、いつまでも人々の心に残るもの。そうした中で、歌詞に時事を扱うと、とたんにうた自体が古びてしまう危険性を内包してしまう。しかしその反面「うたは世につれ世はうたにつれ」である。時代を取り込んでいかないと、ヒットしない。
こういう話をするときに必ず話題となるのが国武万里さんの「ポケベルが鳴らなくて」だろう。
ポケベルが、今も存在しているのかどうかはよく知らないけれども、携帯電話の普及によって一般的にはほぼ消滅したといっていいだろう。だが、かつては隆盛を誇ったツールだった。僕も持たされたが、そういう業務的な使用以外に、女子高生などの暗号的活用の流行など、時代の象徴だったと言っていい。
おもしろいことに、普遍的なものではなく「時代の最先端」のものを採りあげると、あっという間に古びてしまう。だから歌詞に「フラフープ」「たまごっち」「ツイッター」などは採りあげないのが良いのだが、作る側もそれを承知で「消耗品」として送り出しているのだろう。作詞したのはやはり秋元康だった。
しかし、まさかその後廃れてしまうとは思わずに作詞した場合も多いだろう。BOROは「踊り疲れたディスコの帰り」と歌ったが、ディスコがここまで衰退し「クラブ」とかいうものにとってかわられるとは予想していなかったに違いない。「私がオバさんになってもディスコに連れてくの?」と森高千里は歌ったが、その後20年経っても森高はちっともオバさんにならず、逆にディスコが無くなってしまった。
こういうたぐいのものは、いっぱいある。
電話というアイテムは、恋をうたうためには必須。昔はケータイはなくポケベルもない。ポケベルはプッシュホン文化だが、ダイヤルの時代は長かった。ダイヤル回して手を止めて恋に落ちる人。涙のリクエストをあの娘に伝えたくてダイヤルをまわす。その手段は「コイン」。公衆電話すらもう見かけない。テレホンカードではなくコインだ。やしきたかじんは「もしもし…10円玉はまだありますか」と歌った。みどりの電話さえ探さなければいけないこのご時世、赤電話の恋などいまの若者には理解できまい(暴論)。
そういううたの媒体も、またかわった。
前述のグレープの時代は、まだレコードだった。出世作「精霊流し」では、いっしょにあなたの愛したレコードも流す。このレコードの時代が終わるとは思わなかったなあ。今はCDですらなくて主体は「配信」である。いつ頃からレコードが廃れたのだったっけ。スピッツが「思い出のレコードと大げさなエピソードを…」とうたったのは、もう平成もずいぶん過ぎていたはずだから、結構命脈を保ってたんだろうか。
「レコード大賞」もまだ存在しているらしく、言葉が失われたわけではない。そして、ディスコではなく「クラブ」においてDJはまだターンテーブルの前でレコードをキュキュっと鳴らす(と聞く。見たことないけど^^;)。だから、まだ生きているとは言えるけれども、「A面で恋をして」なんて聞いて、今の子供達は瞬時にレコードを連想してくれるのかなー。
こういうのは、風俗である。設定が古びてしまうのは避けようがないのかもしれない。「ポケベルが鳴らなくて」や「夜霧のハウスマヌカン」なんてのは特殊例とも言えるのであって、たいていはその風俗描写も「少し時代を感じさせる」程度に留まっている。それに、レコードも公衆電話もなくなったわけでもない。ダイヤル電話さえ、僕の実家でまだ老いた両親が使っている。カセットテープも我が家ではカーステで使用している。擦り切れたカセットはユーミンの「リフレインが叫んでる」とともに現役である。
歌詞で困るのは、時事を扱った場合だろう。
「ミセス・ロビンソン」のジョー・ディマジオ、また「朝刊」の高田繁氏のように、固有名詞などは時代が完全に特定されてしまうために、後々困ってしまう。このうたは新婚夫婦の話でありそこが微笑ましいのだが、この「巨人が負けたって」ってことでこの年が昭和50年(1975)と特定されてしまい、ああこの夫婦はもうじき結婚して40年になるじゃないか、もうダンナは定年で孫がいて、カラスミのおとうさんはまだご健在だろうか…なんて話になってしまう。どうも調子が狂うのである。うたの登場人物は、すべてサザエさん方式に年をとらないほうが感情移入できるのではないだろうか。
このうたはグレープ時代のものであるために、さだまさしのライブではさほど登場頻度が高くないのかもしれないが、それでもいっときまっさんは「ねぇまたマリナーズが負けたってさって イチローの背番号も知らないくせに」と歌詞を変更したと聞く。無理があったと思っているのだろう。
このうたの場合は、背番号8の高田が脇役的に登場してくるだけだから、まだいい。ピンクレディーの「サウスポー」には「背番号1のスゴいヤツ」が主役として登場してくる。今の子供達には説明しないとわかってもらえないし、説明したとしても「世界のホームラン王」についての実感がないため、イメージがわかないだろうなと想像する。王貞治という名前こそ明言されていないものの、阿久悠さんもやはり、うたは消耗品だと考えていたのだろうか。
しかしながら、これには違う見方もあるだろう。うたとはそういうものだったのではないか、ということである。ことに、フォークソングは。
川上音二郎のオッペケペー節にまでさかのぼるのは行き過ぎだけれども、うたというものは芸術、また娯楽のみならず「風刺」をも時としてはらんできた。フォークはそうした流れから、最初の隆盛がうまれた。反戦フォーク。平和を我らの手に。そうしたうたは「プロテスト・ソング(社会抗議歌)」と呼ばれた。こうしたうたは「風に吹かれて」他、枚挙にいとまがない。自衛隊に入ろう。教訓Ⅰ。反戦だけではない。この東日本大震災と福島の事故によって、ふたたび忌野清志郎の「原発いらねぇ」をテーマにしたかつての歌が脚光を浴びてきている。清志郎さんはもういないけれども、新たな原子力反対のうたは生まれてきているようだ。こういうものは、「トピカル・ソング(時事歌)」ともいう。
時事をテーマに風刺をこめてうたう歌。これは、消耗されることを覚悟でうたっていると言っていいだろう。時事歌の代表として、僕はやはり高田渡の「三億円強奪事件の唄(ニコニコ)」を挙げたいと思うが、他にも様々なものがある。岡林信康に名曲が多い。
時事歌の定義というものを僕はよく知らないので、どこまで含めていいのかはわからないのだけれど。僕個人としては風刺を含んでいて欲しいが、例えば山本正之の「燃えよドラゴンズ」なども時事歌になるのだろうか。「さらばハイセーコー」とか。いずれも、その時代を切り取って、その時代だけに生きるうたとして、潔いといえばいさぎよい。時代が過ぎれば、史料的価値は高くても共感をよぶのは難しくなる。
だが、そうした時事を含んだうたも、名曲であれば必然的に生き残ってしまう。風刺ではないが「朝刊」「サウスポー」を例にしてもいい。そして、遠藤賢司の代表作と言ってもいい「カレーライス」も、名曲であるがゆえに時事を含みつつ、ここまで歌い継がれてきた。このうたには、読み込めば風刺もありまた毒もある。
君も 猫も 僕も みんな好きだよね カレーライスが
エンケンさんはもう今年(2012)、65歳になられたのだそうだ。異常に若いような気がする。亡くなられた高田渡氏とつい比べてしまうからかもしれないけど(あの人は老けすぎていたがエンケン氏より年下)。やっぱり突っ張ってらっしゃるからだろうか。岡林や拓郎と同級生ということか。
この人は、やっぱりライブがすさまじいのだろうと思うなあ。世代が違う僕は実際に拝見したことはなくTVを通してくらいしか知らないが、まあ最初に見たときはビックリした。「夜汽車のブルース」だったと思うけれども、ギターのストローク奏法においては日本一だと思った。とにかく衝撃だった。ストロークって、こんなにすごいものなのか、と。もちろん、ストロークのみならずこの方はギターの超絶テクニックを誇っておられるわけで、坂崎幸之助を最初に見たときは「うわ、うめーなー!」であったが、遠藤賢司にはひたすら驚愕の「スゲーなー」だった。こういう感想を持ったミュージシャンは、他には長谷川きよしくらいか。
遠藤賢司のうたは、そうして尖がった攻撃的なものが目立つようにも思うのだけれど、おそらく最も人々に知られているうたが、この一聴して静かにも感じられる「カレーライス」であるというのもまた不思議な思いがする。それだけ名曲であるということだろう。
君はトントン じゃがいもにんじんを切って 涙を浮かべてたまねぎを切って
バカだな バカだな ついでに自分の手も切って 僕は座ってギターを弾いてるよ
なんとも平和なうたである。むしろ、極めて平和に、静かに日常をうたっている。そのことが後に効果を生むのだが、問題の部分は後半に出てくる。
うーん とってもいい匂いだね 僕は寝転んでテレビを見てるよ
誰かがおなかを切っちゃったって うーん とっても痛いだろうにねえ
ははーぁはぁん カレーライス
この「誰かがおなかを切っちゃった」というニュースがTVで流れて彼はそれを見たのだが、その感想をただ「痛いだろうにね」でとどめる。政治的なことは一切挟まず、あくまでTVの向こう側のこととして処理し、そしてこのニュースは平和な日常風景を乱すことなく、その後もカレーが甘いのが好きか辛いのが好きか、という話を繰り返す。関心の所在は、おなかを切った人よりも、カレーライス。
つまり、このTVの向うのおなかを切った人を無視する(あるいは「痛いだろうにね」とある意味揶揄する)わけだが、この「おなかを切った」人とは、三島由紀夫のことである。つまり、1970年の楯の会事件における三島由紀夫の割腹自殺を指している。楯の会とは三島由紀夫が組織した団体であり、彼らは憲法改正を要求して、市ヶ谷の陸自総監室を占拠し、自衛隊決起を促す演説をおこない後に、三島は割腹して果てた。
遠藤賢司自身の思想がどこにあるのか、はともかくとして、このうたのなかではその三島事件を「とるにたらぬもの」的な扱いをしている。そんなことよりこの平和な日常とカレーライスのほうが大事。そういう扱いにすることにより、反戦、憲法改正反対を暗に訴えているとみることもできる。
さて、この「カレーライス」といううたが世に出たときは、もう既に三島事件から一年が経過していた。だが、この事件の衝撃は相当に強く、「おなかを切った」と言えば皆、三島事件を想起したはずだ。そうでないと、うたが成立しなくなる。
だが、この「ノーベル賞候補の作家が切腹して果てた」という三島事件は衝撃的かつ歴史的出来事であったとは思うが、時は残酷であり、残念ながら徐々に人々の記憶から薄れてゆく。「時事」である宿命をかぶり、当該部分は意味が通じなくなってゆく。
「カレーライス」の歌詞には、もうひとつのバージョンがある。以下。
そしたらどっかの誰かが パッとおなかを切っちゃったって
ははーぁはぁん 痛いだろうにね
三島事件を説明はしていないが、「どっかの」という言葉を加えることによりふくらみをもたせている。どっちにせよ三島事件を知らないとよくわからないことには違いないが、仮に知らなくてもなんとなしに意味が通るようになっている。
しかし、少し長くなった。そのことは、少し残念ではある。日常において割腹事件がカレーライスより関心を呼ばない、というところにこのうたのキモをみている僕としては。
ライブを中心に活動をされてらっしゃるはずなので、おそらくは他にも様々なバージョンがあるのではないか、と僕は推測している。
僕が知っているので、こういうのがある。今から26、7年前だが、エンケンさんが「タモリ倶楽部」に出演してカレーライスを歌ったのをVTRに録った。それが、まだ手元にある。そこでは、こう歌っていた
そしたらあの 保険をかけるのが趣味でペイズリーが趣味で 嘘泣き上手の疑惑の人がタイホされたってさ
ははーぁはぁん カレーライス
完全に破調だが、これは「ロス疑惑」で報道が過熱状態にあった三浦和義のことにおきかえられてうたわれている。三島事件から15年ほどが経ち、もう完全に風化してしまったことを踏まえての歌詞であろうと思われるが、これにはちょっとがっかりした。当時のワイドショーネタであり、風刺の精神が残念ながらこれでは消えてしまっている。
もう三浦事件からもずいぶん経った。先だって彼がロスの留置場で亡くなったと報道されたときには記憶が甦った人も多かっただろうとは思うが、今ではまた完全に過去だろう。時事の宿命からはなかなか逃れられない。
このうたを、今始めて耳にする人も多いだろう。いったいどのような感想をもたれるだろうか。ほんわかしたやわらかなやさしいうただと思うだろうか。若い人は、果たして時事歌だと気が付くだろうか。
時間の波を超えて「カレーライス」は生き残った。もちろんうたの力によってここまで永らえてきたのだとは思うが、もうひとつ、エンケンさんが現役であってくださることも大きい。いつまでも尖っていてほしいなと思う。
僕はこの曲を聴くと、まっさんの度量の大きさというものをいつも感じるのである。
前に親父が来たときも 僕の好物のカラスミを手土産にとくれたのに
わざわざまた煮て駄目にして 「ごめんなさい」っていいながら一番笑いこけたのは君
ピンきりではあろうけれども、カラスミというものは概して高価なものである。ボラの卵を時間をかけて加工した珍味で、ちょっと立派なものならひとハラ1万円くらいしてしまう。それを薄く切って、場合によっては大根の薄切りとあわせて食べたりするが、少量づつ食べるのならそこまでせずともそのままチビチビと食べればいい。上質のものはねっとりとして、酒の肴には抜群である。
邱永漢氏が書いていたのだが、台湾では炙って、ニンニクをつけあわせて食べるらしい。そういう食べ方はしたことがないが、アリなのかもしれないな、とは思う。絶対に生で食べなければならないものではない。しかし、これを煮てしまってはどうしようもあるまい。
さだまさしの歌だから、この主人公の実家の設定は長崎だろう。カラスミの産地だから、意外に手軽に手に入るものなのかもしれない。しかしそれでも、廉価ではなかろう。それを知らないとはいえ、煮るとは。…だが、ここまではまだ僕も許せるかもしれない。ドジでかわいい新妻のしたことだ。しかし、それで「笑いこける」とは何事であるのか。義父の思いを考えれば、もう少し申し訳ない気持ちを表明してもいいのではないか。
…と、どうしても思ってしまう。僕には度量が無い。されどからすみであっても、たかがからすみではないか。これがタラコであったなら、いかに父親のことを思えども僕だって笑って済ませたのではないだろうか。値で換算するとは、なんとも僕は人間が小さい。
おっとそういう話をしようとしたのではなかった。閑話休題。
このうたは、朝の情景から始まる。奥さんが朝刊の受け売りをはじめる。
きみは早起きしたのがさも得意そうに ねぼけまなこの僕を朝食に追いたて
ねェまた巨人が負けたってさって 高田の背番号も知らないくせに
高田の背番号か。
この奥さんは背番号を知らないだけだが、今の若い人がこれを聴けば、何の話かわからないに違いない。この高田とは、高田繁さんのことである。このあいだまでヤクルトの監督、今シーズンからはDeNAベイスターズのGMとなったあの高田氏。当時は、読売Gの花形選手だった。
ちょっと調べてみると、朝刊のリリースは昭和50年。ということは、長嶋監督初年度である。前年読売GはV10を逃し、長嶋が「巨人軍は永久に不滅です」とか言って引退し、監督となった。その監督初年度は負けに負け、とうとう最下位となったが、その年のうたである。そりゃ「巨人がまた負けた」となるだろう。ちなみに高田は塀際の魔術師とも称された天下一品の左翼手だったが、翌年読売Gは日本ハムから張本勲を獲得し、張本がレフトなので高田はサードにコンバートされた。そしてこの大型補強で読売は優勝する。このチームの体質は、FA制度以前からあまりかわらない。以上、関係ない話。ちなみに高田の背番号は8である。
話題にしたいのは、時事ネタを扱ったうたである。
本来、うたというものは不変の価値をもつ。名曲は、いつまでも人々の心に残るもの。そうした中で、歌詞に時事を扱うと、とたんにうた自体が古びてしまう危険性を内包してしまう。しかしその反面「うたは世につれ世はうたにつれ」である。時代を取り込んでいかないと、ヒットしない。
こういう話をするときに必ず話題となるのが国武万里さんの「ポケベルが鳴らなくて」だろう。
ポケベルが、今も存在しているのかどうかはよく知らないけれども、携帯電話の普及によって一般的にはほぼ消滅したといっていいだろう。だが、かつては隆盛を誇ったツールだった。僕も持たされたが、そういう業務的な使用以外に、女子高生などの暗号的活用の流行など、時代の象徴だったと言っていい。
おもしろいことに、普遍的なものではなく「時代の最先端」のものを採りあげると、あっという間に古びてしまう。だから歌詞に「フラフープ」「たまごっち」「ツイッター」などは採りあげないのが良いのだが、作る側もそれを承知で「消耗品」として送り出しているのだろう。作詞したのはやはり秋元康だった。
しかし、まさかその後廃れてしまうとは思わずに作詞した場合も多いだろう。BOROは「踊り疲れたディスコの帰り」と歌ったが、ディスコがここまで衰退し「クラブ」とかいうものにとってかわられるとは予想していなかったに違いない。「私がオバさんになってもディスコに連れてくの?」と森高千里は歌ったが、その後20年経っても森高はちっともオバさんにならず、逆にディスコが無くなってしまった。
こういうたぐいのものは、いっぱいある。
電話というアイテムは、恋をうたうためには必須。昔はケータイはなくポケベルもない。ポケベルはプッシュホン文化だが、ダイヤルの時代は長かった。ダイヤル回して手を止めて恋に落ちる人。涙のリクエストをあの娘に伝えたくてダイヤルをまわす。その手段は「コイン」。公衆電話すらもう見かけない。テレホンカードではなくコインだ。やしきたかじんは「もしもし…10円玉はまだありますか」と歌った。みどりの電話さえ探さなければいけないこのご時世、赤電話の恋などいまの若者には理解できまい(暴論)。
そういううたの媒体も、またかわった。
前述のグレープの時代は、まだレコードだった。出世作「精霊流し」では、いっしょにあなたの愛したレコードも流す。このレコードの時代が終わるとは思わなかったなあ。今はCDですらなくて主体は「配信」である。いつ頃からレコードが廃れたのだったっけ。スピッツが「思い出のレコードと大げさなエピソードを…」とうたったのは、もう平成もずいぶん過ぎていたはずだから、結構命脈を保ってたんだろうか。
「レコード大賞」もまだ存在しているらしく、言葉が失われたわけではない。そして、ディスコではなく「クラブ」においてDJはまだターンテーブルの前でレコードをキュキュっと鳴らす(と聞く。見たことないけど^^;)。だから、まだ生きているとは言えるけれども、「A面で恋をして」なんて聞いて、今の子供達は瞬時にレコードを連想してくれるのかなー。
こういうのは、風俗である。設定が古びてしまうのは避けようがないのかもしれない。「ポケベルが鳴らなくて」や「夜霧のハウスマヌカン」なんてのは特殊例とも言えるのであって、たいていはその風俗描写も「少し時代を感じさせる」程度に留まっている。それに、レコードも公衆電話もなくなったわけでもない。ダイヤル電話さえ、僕の実家でまだ老いた両親が使っている。カセットテープも我が家ではカーステで使用している。擦り切れたカセットはユーミンの「リフレインが叫んでる」とともに現役である。
歌詞で困るのは、時事を扱った場合だろう。
「ミセス・ロビンソン」のジョー・ディマジオ、また「朝刊」の高田繁氏のように、固有名詞などは時代が完全に特定されてしまうために、後々困ってしまう。このうたは新婚夫婦の話でありそこが微笑ましいのだが、この「巨人が負けたって」ってことでこの年が昭和50年(1975)と特定されてしまい、ああこの夫婦はもうじき結婚して40年になるじゃないか、もうダンナは定年で孫がいて、カラスミのおとうさんはまだご健在だろうか…なんて話になってしまう。どうも調子が狂うのである。うたの登場人物は、すべてサザエさん方式に年をとらないほうが感情移入できるのではないだろうか。
このうたはグレープ時代のものであるために、さだまさしのライブではさほど登場頻度が高くないのかもしれないが、それでもいっときまっさんは「ねぇまたマリナーズが負けたってさって イチローの背番号も知らないくせに」と歌詞を変更したと聞く。無理があったと思っているのだろう。
このうたの場合は、背番号8の高田が脇役的に登場してくるだけだから、まだいい。ピンクレディーの「サウスポー」には「背番号1のスゴいヤツ」が主役として登場してくる。今の子供達には説明しないとわかってもらえないし、説明したとしても「世界のホームラン王」についての実感がないため、イメージがわかないだろうなと想像する。王貞治という名前こそ明言されていないものの、阿久悠さんもやはり、うたは消耗品だと考えていたのだろうか。
しかしながら、これには違う見方もあるだろう。うたとはそういうものだったのではないか、ということである。ことに、フォークソングは。
川上音二郎のオッペケペー節にまでさかのぼるのは行き過ぎだけれども、うたというものは芸術、また娯楽のみならず「風刺」をも時としてはらんできた。フォークはそうした流れから、最初の隆盛がうまれた。反戦フォーク。平和を我らの手に。そうしたうたは「プロテスト・ソング(社会抗議歌)」と呼ばれた。こうしたうたは「風に吹かれて」他、枚挙にいとまがない。自衛隊に入ろう。教訓Ⅰ。反戦だけではない。この東日本大震災と福島の事故によって、ふたたび忌野清志郎の「原発いらねぇ」をテーマにしたかつての歌が脚光を浴びてきている。清志郎さんはもういないけれども、新たな原子力反対のうたは生まれてきているようだ。こういうものは、「トピカル・ソング(時事歌)」ともいう。
時事をテーマに風刺をこめてうたう歌。これは、消耗されることを覚悟でうたっていると言っていいだろう。時事歌の代表として、僕はやはり高田渡の「三億円強奪事件の唄(ニコニコ)」を挙げたいと思うが、他にも様々なものがある。岡林信康に名曲が多い。
時事歌の定義というものを僕はよく知らないので、どこまで含めていいのかはわからないのだけれど。僕個人としては風刺を含んでいて欲しいが、例えば山本正之の「燃えよドラゴンズ」なども時事歌になるのだろうか。「さらばハイセーコー」とか。いずれも、その時代を切り取って、その時代だけに生きるうたとして、潔いといえばいさぎよい。時代が過ぎれば、史料的価値は高くても共感をよぶのは難しくなる。
だが、そうした時事を含んだうたも、名曲であれば必然的に生き残ってしまう。風刺ではないが「朝刊」「サウスポー」を例にしてもいい。そして、遠藤賢司の代表作と言ってもいい「カレーライス」も、名曲であるがゆえに時事を含みつつ、ここまで歌い継がれてきた。このうたには、読み込めば風刺もありまた毒もある。
君も 猫も 僕も みんな好きだよね カレーライスが
エンケンさんはもう今年(2012)、65歳になられたのだそうだ。異常に若いような気がする。亡くなられた高田渡氏とつい比べてしまうからかもしれないけど(あの人は老けすぎていたがエンケン氏より年下)。やっぱり突っ張ってらっしゃるからだろうか。岡林や拓郎と同級生ということか。
この人は、やっぱりライブがすさまじいのだろうと思うなあ。世代が違う僕は実際に拝見したことはなくTVを通してくらいしか知らないが、まあ最初に見たときはビックリした。「夜汽車のブルース」だったと思うけれども、ギターのストローク奏法においては日本一だと思った。とにかく衝撃だった。ストロークって、こんなにすごいものなのか、と。もちろん、ストロークのみならずこの方はギターの超絶テクニックを誇っておられるわけで、坂崎幸之助を最初に見たときは「うわ、うめーなー!」であったが、遠藤賢司にはひたすら驚愕の「スゲーなー」だった。こういう感想を持ったミュージシャンは、他には長谷川きよしくらいか。
遠藤賢司のうたは、そうして尖がった攻撃的なものが目立つようにも思うのだけれど、おそらく最も人々に知られているうたが、この一聴して静かにも感じられる「カレーライス」であるというのもまた不思議な思いがする。それだけ名曲であるということだろう。
君はトントン じゃがいもにんじんを切って 涙を浮かべてたまねぎを切って
バカだな バカだな ついでに自分の手も切って 僕は座ってギターを弾いてるよ
なんとも平和なうたである。むしろ、極めて平和に、静かに日常をうたっている。そのことが後に効果を生むのだが、問題の部分は後半に出てくる。
うーん とってもいい匂いだね 僕は寝転んでテレビを見てるよ
誰かがおなかを切っちゃったって うーん とっても痛いだろうにねえ
ははーぁはぁん カレーライス
この「誰かがおなかを切っちゃった」というニュースがTVで流れて彼はそれを見たのだが、その感想をただ「痛いだろうにね」でとどめる。政治的なことは一切挟まず、あくまでTVの向こう側のこととして処理し、そしてこのニュースは平和な日常風景を乱すことなく、その後もカレーが甘いのが好きか辛いのが好きか、という話を繰り返す。関心の所在は、おなかを切った人よりも、カレーライス。
つまり、このTVの向うのおなかを切った人を無視する(あるいは「痛いだろうにね」とある意味揶揄する)わけだが、この「おなかを切った」人とは、三島由紀夫のことである。つまり、1970年の楯の会事件における三島由紀夫の割腹自殺を指している。楯の会とは三島由紀夫が組織した団体であり、彼らは憲法改正を要求して、市ヶ谷の陸自総監室を占拠し、自衛隊決起を促す演説をおこない後に、三島は割腹して果てた。
遠藤賢司自身の思想がどこにあるのか、はともかくとして、このうたのなかではその三島事件を「とるにたらぬもの」的な扱いをしている。そんなことよりこの平和な日常とカレーライスのほうが大事。そういう扱いにすることにより、反戦、憲法改正反対を暗に訴えているとみることもできる。
さて、この「カレーライス」といううたが世に出たときは、もう既に三島事件から一年が経過していた。だが、この事件の衝撃は相当に強く、「おなかを切った」と言えば皆、三島事件を想起したはずだ。そうでないと、うたが成立しなくなる。
だが、この「ノーベル賞候補の作家が切腹して果てた」という三島事件は衝撃的かつ歴史的出来事であったとは思うが、時は残酷であり、残念ながら徐々に人々の記憶から薄れてゆく。「時事」である宿命をかぶり、当該部分は意味が通じなくなってゆく。
「カレーライス」の歌詞には、もうひとつのバージョンがある。以下。
そしたらどっかの誰かが パッとおなかを切っちゃったって
ははーぁはぁん 痛いだろうにね
三島事件を説明はしていないが、「どっかの」という言葉を加えることによりふくらみをもたせている。どっちにせよ三島事件を知らないとよくわからないことには違いないが、仮に知らなくてもなんとなしに意味が通るようになっている。
しかし、少し長くなった。そのことは、少し残念ではある。日常において割腹事件がカレーライスより関心を呼ばない、というところにこのうたのキモをみている僕としては。
ライブを中心に活動をされてらっしゃるはずなので、おそらくは他にも様々なバージョンがあるのではないか、と僕は推測している。
僕が知っているので、こういうのがある。今から26、7年前だが、エンケンさんが「タモリ倶楽部」に出演してカレーライスを歌ったのをVTRに録った。それが、まだ手元にある。そこでは、こう歌っていた
そしたらあの 保険をかけるのが趣味でペイズリーが趣味で 嘘泣き上手の疑惑の人がタイホされたってさ
ははーぁはぁん カレーライス
完全に破調だが、これは「ロス疑惑」で報道が過熱状態にあった三浦和義のことにおきかえられてうたわれている。三島事件から15年ほどが経ち、もう完全に風化してしまったことを踏まえての歌詞であろうと思われるが、これにはちょっとがっかりした。当時のワイドショーネタであり、風刺の精神が残念ながらこれでは消えてしまっている。
もう三浦事件からもずいぶん経った。先だって彼がロスの留置場で亡くなったと報道されたときには記憶が甦った人も多かっただろうとは思うが、今ではまた完全に過去だろう。時事の宿命からはなかなか逃れられない。
このうたを、今始めて耳にする人も多いだろう。いったいどのような感想をもたれるだろうか。ほんわかしたやわらかなやさしいうただと思うだろうか。若い人は、果たして時事歌だと気が付くだろうか。
時間の波を超えて「カレーライス」は生き残った。もちろんうたの力によってここまで永らえてきたのだとは思うが、もうひとつ、エンケンさんが現役であってくださることも大きい。いつまでも尖っていてほしいなと思う。
2011年という年は、いろいろなことがあった。
世間的には、未曾有の大地震があり、その他にも災害が多く、また原発事故があり収束せぬまま年の瀬を迎えている。おそらくは後年の歴史書に特筆され、また永く人々の記憶に残るに違いない。
そんな年に小さな小さなことかもしれないが、僕個人にも様々な出来事があった。
以降書くことは、一応虚構だ。僕も具体的なことは語れないしまた書けない。ならば書かなければいいのだが、何となしにその心象風景のようなものは自分史として書き留めておきたくなり、虚構の形を借りて、その思いを刻んでおくことにする。以下に書くことの骨格は作り話である。しかしながら、心が揺れ動くさまは、本当の話である。
春先、ひとつのチャンスが僕に訪れた。
それは簡単に書けば、長い間夢見ていた独立起業が可能になるかもしれない、ということだった。今まで模索しても全く取っ掛かりすら見出せなかったものが、突然に開けた。
夢が、叶う。僕は狂喜し、その日から生活が一変した。一日は24時間しかないため、睡眠を削った。厳しい日々が続いたが、僕の夢を知る家族も共に喜び、助けてくれた。何より目標があるということが、多少の無理を可能にした。僕はとにかく懸命に邁進した。
だがその夢が、ある日突然に途絶えた。
遠因には震災もあったのかもしれないが、出資者が手を引いた。それも僕の力不足だったのだろう。夢は途上で潰えた。あとには、負債のようなものが残った。
僕は悔しさに打ちひしがれていたが、同時に体調がおかしくなっていくのを感じた。いや、そもそももっと以前から体調の異変はあったのだが、そんなことに関わっている余裕がなかったため、覆い隠していたと言ってもいい。それが噴出した。
胸部の臓器が痛み出した。これは以前からそうだったのだが、ここに来て酷くなってきた。加えて、どうも身体そのものの力が減じていく実感があった。だるく、すぐ疲れ、息が切れる。
これはもしかしたら病気ではないのか。癌か。
検診を受けてからもう一年近くになろうとしていた。以降、相当に不摂生を重ねた。そういうことがあったとしても、おかしくはない。
おりしも、同時期に従兄弟が癌で死んだ。僕より年下だった。日頃から健康には留意していた、と叔母から聞いたが、分かったときには末期だったらしい。痛みが出だしたらもう終わりなのよ、と叔母は泣きながら言った。幼い頃はよく遊んだ従兄弟だったので僕も悲しかったが、「痛みが出たら終わり」という言葉が強く僕に突き刺さった。
おかしなもので、それ以外にもそういう情報がやたら入ってくる。いや、これは今まで気にも留めていなかったことに過敏になっているからだろう。若くして亡くなった人の話がとにかく耳に入る。共通していることは、自覚症状があればそれは相当に進行している、ということ。
僕は病院に行くことにした。
もちろん、直ぐに疑いが晴れることを期待していた。だが医者は、少し深刻な顔をした。とにかくその場ではシロだとの診断はつかず、さらに検査を重ねた。結果が出るのは一週間後だと言う。
僕はぶっちゃけ聞いてみた。癌の可能性はあるのか、と。医者は肯定した。そして、もしもそうであれば即座に入院加療の必要がある、と。なるほどそうか。
あの時を顧みるに、自分は非常に冷静だった、とそのときは思っていた。ある程度の覚悟は出来ていたし、精神の平衡を失うようなことはなかった。だが、根のところではやはり冷静さを欠いていたのだろう。まだ結論も出ていなかったのに、俺はもう死ぬ、と思い込んだのだから。
帰宅途中、様々なことを考えた。妻には、今日病院に行くとも言っていない。おそらくは何の心配もしていないはずだろう。もちろん、それが最悪の結果であれば、告げなければならない。そのことは、気が重い。
妻との間には、子供が居ない。二人きりの生活をずっと続けている。
結婚10年目だったか。どうも子供を授かりそうにない僕らは、こんな話をしたことがある。
「私たち、死ぬときが困るね。たぶん誰も看取ってくれる人がいないから」
「それはそうやけど、おまえは困らんやろ」
「どうしてよ」
「ワシのほうが長生きするからや」
「わたし、100歳まで生きるかもよ」
「ほんならワシは101歳まで生きる。心配するな」
「そうなったらあんたのほうが心配よ。101歳の一人暮らし(笑)」
そんな軽口を叩き合って、暫らく経った。今さらあのときの約束を反故にする、とは言いたくない。
不思議と、死ぬことは怖くなかった。ただ全てが終わりになるだけ。僕自身の感覚としては、何もかもおっぽり出して逃げる、ということに近い。これが夢の途中であれば、頑強に生への未練を持っただろうが、ちょうどその時はそういう意識もなかった。 あれもしておけば良かった、これもやっておけば…ということは、きりのないこと。そしてまた、自分という人間がそんなに値打ちのあるイキモノではない、ということもよく自覚している。僕が居なくなって困るという人はそう多くないはず。運命であればそれは受け入れる。ここまでの人生は、少なくとも幸せだった。
ただ、とにかく気懸りなのは、今一緒に暮らしている人の未来。それだけだった。親や兄妹も悲しむだろうけれども、それはいたしかたない。ただ「一生食わしていくから」といって結婚したこの人のことは、どう責任をとればいいのか。それだけは辛い。僕が資産家であれば何も恐れることはないが、そうではない。生命保険も、高額なものには入っていない。いや、かつては入っていたのだが、子供が結局出来ないことを鑑みて、積立年金型のものに変更した。将来を考えてのことだったが、それが今となっては悔やまれる。
さて、どうするか。一週間後に結果が出て、それが最悪のパターンとなった場合は当然ちゃんと妻には話さなくてはいけないが、僕はその日は何も言わなかった。それまでは、笑っていてくれ。どんなときでも笑顔を絶やさないこの人の曇った顔を見るのは好きじゃない。また、無理して笑う姿も見たくない。
その日から、僕は身辺整理を始めた。
公的には、とにかく辻褄合わせに必死だったと言っていい。何事も継続していれば、見込み報告だって出来る。しかし突然それが途切れると「何月何日には可能」と言っていたことが全て嘘になる。僕が突然いなくなっても、全てがうまく回っていくようにしておかなければいけない。仮に入院したときに「あれはどうなったのか」なんて聞きに来られるのは困る。
そして、私的にはどうすればいいか。とにかく、手続き的なことを簡略に出来るように用意したいと思った。財産と言えるほどのものはないが、少しでも今後役に立つようなものは全て妻に帰するように。大げさだが、遺言書のようなものも作成した。何せ、もしかして一旦入院すればもう出てこられないかもしれないのだ。従兄弟は、そうだった。
一日、休日があった。その日は僕も妻も別々の所用があったのだが、僕はそれをキャンセルして、一人うちに居た。
我が家には、面倒臭い性格の夫がいるために、モノが多い。これらは、僕が居なくなればほとんど必要でなくなるものばかりだ。今のうちに処分してしまおうか、流行の断捨離だ、とも思ったが、そんなことは急には出来ない。僕は、机周りから整理を始めた。
別に、見られて困るものはもうない。変態趣味のDVDなどもない。押入れの中の箱のひとつに、昔の彼女との手紙などは残っているが、まあそれも愛嬌だろう。いや、やっぱり処分しておくか。そんなことをつらつら考えながらあちこち整理した。
最も見られて困るのは、PCの中身かもしれない。そう思った。特に、僕がこんなブログを書いていることは知られたくない。恥ずかしい。いざとなれば、履歴とブックマークを消せばいい。しかし、ブログは突然途切れるな。どうしようか。僕は、オンとオフに全く接点はない。
一人気の弱い後輩が居る。こいつにだけ因果を含めて打ち明けるか。で、そういう局面が来たら「もうこれで終りです」という記事を書いてアップして、全てのPC内履歴を消す。そして「死んだらあいつには連絡してくれ」と妻に言っておく。あいつはその記事に「凛太郎は逝きました」とコメントしてくれればいい。
そんなことまで真剣に考えた。
山のような書籍は、もうしょうがない。特に値打ちのあるものもないから、ブックオフに電話して引き取ってもらえばいい。あとは、音源とか。カセットテープはもうゴミだな。ビデオテープも山ほどある。もうビデオの時代も終わったな。中身はほとんどプロレスである。僕が居なくなれば、これもゴミだ。
CDなどはあまり大したものはないが、レコードはどうだろうか。もしかしたら売れるかもしれないな。オークションのやり方を教えておこうか。そんな末梢的なことまで考えた。しかしこれもよく考えたら、今はよっぽどの好事家でないと、レコードプレイヤーさえ持っていないよね。やっぱりゴミか。
ふと思いついて、プレイヤーを開けた。しばらく使っていないが、まだ現役だ。
ラックには、LPレコードがずらりと並ぶ。どれもこれも、愛着のあるものばかり。入手したときの思い出がこもる。その中に、ごく僅かだがシングルレコードがある。
ナターシャーセブンのものばかりだ。
少年の頃は、財力がない。なので、1曲あたりのコストが高いシングルにはまず手を出さない。ただナターシャだけは特別だった。
僕が生まれて初めて買ったシングルレコードは「孤独のマラソン・ランナー」。小学生だった。ナターシャに、夢中だった。
若者が走るよ 街のビルの谷間を 若者の足どりは 風を切ってゆくよ
レコードに針を下ろすという作業も、久しぶりだった。
孤独のマラソン・ランナーは、自切俳人(北山修)の作詞作曲。北山修氏の作曲というのも珍しいと思うが、これはいい曲だ。今聴き返して、しみじみそう思った。同時に、脳内が当時にフラッシュバックした。あの頃は、夢しかなかったような気がする。
その後ナターシャは「107ソングブック」という大企画を完成させ、絶頂期を迎える。「ズバリク(京都の深夜放送)」のリスナーだった僕は、宵々山コンサートにも出かけた。
ナターシャが次に仕掛けた企画は「シングル文庫」だった。その第1弾・あき「私に人生と言えるものがあるなら」の発売は中学2年。もちろん、予約して購入した。
以降、ふゆ「時には化粧を変えてごらんなさい」、はる「春を待つ少女」と続くが、ここらで主要メンバーである木田高介氏が脱退してしまう。
木田高介氏が脱退したのは、確か冬。そして春に、木田さんは衝撃的な交通事故死を遂げる。31歳。
こういう死に方というのは、あんまりじゃないかと思う。突然にぷつりと生への道を閉ざされるのは。木田さんの奥さんの嘆きはいかばかりだったか。そのあまりの悲嘆の場面を葬儀で見ていた五輪真弓が、その嘆きをもとに「恋人よ」を作ったという話がある。
こういう予期せぬ突然の死というのは、最も避けたい。これなら、まだ別れの時間をくれる病死の方がいい。この震災で亡くなった多くの人たちも、突然に命を奪われた。またナターシャ関連で言えば、マネージャーの榊原詩朗氏がそのあと、ホテルニュージャパンの火災で死去する。こういうのは、家族にも何も告げられない。
シングル文庫の第5弾・なつ「君よそよ風になれ」が木田高介氏の編曲で、遺作となった。
君のベスト・フレンドは君だから 思いどうりに生きてごらん
やりたいことに手を伸ばして 行きたい所に足を伸ばして
僕はシングル文庫では、これがいちばん好きだった。何よりシングル文庫オリジナルであるし、爽やかだ。
ナターシャは、その後徐々に活動をしなくなり、僕が大学に入る頃には活動を停止した。僕も、この世に生を受けて以来、いろんな人の音楽を聴いてきたけれども、明確に「ファン」になったのはナターシャが最初だ。シングルもアルバムも、初めて買ったミュージシャンはナターシャ。コンサートも、初めては宵々山でありナターシャが出ていたからである。
いろんなことを、思い出していた。
僕の好きだったナターシャはもういない。坂庭省吾さんも、もう亡くなって久しい。53歳、癌だった。そんなに若いのに、とあの時は思った。しかし病魔は、年齢に関係ないんだ。
シングル文庫を聴き終わって、僕は「道づれは南風」に針を下ろした。
南の風が好きだよ 涙を吹き飛ばすから
この曲を最後に、僕はナターシャのシングルを買っていない。それは、ナターシャの活動が下火になったこともあろうし、僕も高校生となって、いろんな音楽に広がりだしてナターシャ一辺倒ではいられなくなったからだろう。
ただ、この曲は好きだ。
きみはまだ眠っているだろ 安らかな窓の下で
青い絵はがき届いたら 思い出してよ僕を
僕がこの世から消えたら。誰かはふと思い出してくれるときがあるだろうか。
もしも強く思い出す人がいたとしたら、それは忘れてもらったほうがいい。強い悲しみは僕も望むところではない。ただ、記憶の片隅に留めてくれればいいんだ。で、ときどき、あんなやつが居たな、と思い出してくれればいい。
人は忘却の生き物。そんなことこちらが望まずとも、みんな忘れてゆく。それでいいのかもしれない。
光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
歩いてゆくよこの道を 君に逢えるまで
「光の中のかたつむり。せめて夢を背負いながら…か」
そのとき、僕の箍が外れた。
想いが、堰を切って溢れた。出てくる涙を、もう止めることは出来なかった。嗚咽が出た。誰もいないことを幸いに、ただ泣いた。
光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
俺だって生きてきたんだよな。小さな存在だったけれど。
毎日、世界中で溢れんばかりの数の子供達が生まれ、そして同じように人は死んでゆく。大きな歴史の流転を考えれば、一人一人の生き死になんて、ただの小さな波にすぎない。さざなみにも満たないかもしれないよ。でもその一人一人は、懸命にもがきながら生きてるんだ。小さな夢を背負いながら。
涙は、悲しみからきたのではなかった。それははっきりしていた。じゃなんだと言われたらそれはよくわからない。強いて言えば、自分の軌跡を思い出したからかもしれない。あの両親の元に生まれて、愛されて育って、旅をして、恋をして、共に歩む人と出逢って…。よく「走馬灯のように」という形容詞があるが、あれは本当なのだなと思った。自分がいちばんよく知る物語、その追憶というドラマに心が震えてしまったのだろう。
光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
歩いて行くよこの道を 君に会えるまで
僕は、今も生きている。こうしてブログも書いている。
幸いにして、妻に、そして多くの人に別れを告げずに済んだ。
だからと言って、別に精神的なものでもなく、疾患がないわけでは無かったが、それでも生き延びている。しかしおそらくは、まだまだ死なないだろうと思っている。
このときのことは多分にノイローゼ的なことになってしまったのだと思うが、僕としては貴重な経験だったので、備忘録的に文章にしてみた。以後、身体を大切にしていきたいと思っている。
繰り返すが、この話は虚構である。
世間的には、未曾有の大地震があり、その他にも災害が多く、また原発事故があり収束せぬまま年の瀬を迎えている。おそらくは後年の歴史書に特筆され、また永く人々の記憶に残るに違いない。
そんな年に小さな小さなことかもしれないが、僕個人にも様々な出来事があった。
以降書くことは、一応虚構だ。僕も具体的なことは語れないしまた書けない。ならば書かなければいいのだが、何となしにその心象風景のようなものは自分史として書き留めておきたくなり、虚構の形を借りて、その思いを刻んでおくことにする。以下に書くことの骨格は作り話である。しかしながら、心が揺れ動くさまは、本当の話である。
春先、ひとつのチャンスが僕に訪れた。
それは簡単に書けば、長い間夢見ていた独立起業が可能になるかもしれない、ということだった。今まで模索しても全く取っ掛かりすら見出せなかったものが、突然に開けた。
夢が、叶う。僕は狂喜し、その日から生活が一変した。一日は24時間しかないため、睡眠を削った。厳しい日々が続いたが、僕の夢を知る家族も共に喜び、助けてくれた。何より目標があるということが、多少の無理を可能にした。僕はとにかく懸命に邁進した。
だがその夢が、ある日突然に途絶えた。
遠因には震災もあったのかもしれないが、出資者が手を引いた。それも僕の力不足だったのだろう。夢は途上で潰えた。あとには、負債のようなものが残った。
僕は悔しさに打ちひしがれていたが、同時に体調がおかしくなっていくのを感じた。いや、そもそももっと以前から体調の異変はあったのだが、そんなことに関わっている余裕がなかったため、覆い隠していたと言ってもいい。それが噴出した。
胸部の臓器が痛み出した。これは以前からそうだったのだが、ここに来て酷くなってきた。加えて、どうも身体そのものの力が減じていく実感があった。だるく、すぐ疲れ、息が切れる。
これはもしかしたら病気ではないのか。癌か。
検診を受けてからもう一年近くになろうとしていた。以降、相当に不摂生を重ねた。そういうことがあったとしても、おかしくはない。
おりしも、同時期に従兄弟が癌で死んだ。僕より年下だった。日頃から健康には留意していた、と叔母から聞いたが、分かったときには末期だったらしい。痛みが出だしたらもう終わりなのよ、と叔母は泣きながら言った。幼い頃はよく遊んだ従兄弟だったので僕も悲しかったが、「痛みが出たら終わり」という言葉が強く僕に突き刺さった。
おかしなもので、それ以外にもそういう情報がやたら入ってくる。いや、これは今まで気にも留めていなかったことに過敏になっているからだろう。若くして亡くなった人の話がとにかく耳に入る。共通していることは、自覚症状があればそれは相当に進行している、ということ。
僕は病院に行くことにした。
もちろん、直ぐに疑いが晴れることを期待していた。だが医者は、少し深刻な顔をした。とにかくその場ではシロだとの診断はつかず、さらに検査を重ねた。結果が出るのは一週間後だと言う。
僕はぶっちゃけ聞いてみた。癌の可能性はあるのか、と。医者は肯定した。そして、もしもそうであれば即座に入院加療の必要がある、と。なるほどそうか。
あの時を顧みるに、自分は非常に冷静だった、とそのときは思っていた。ある程度の覚悟は出来ていたし、精神の平衡を失うようなことはなかった。だが、根のところではやはり冷静さを欠いていたのだろう。まだ結論も出ていなかったのに、俺はもう死ぬ、と思い込んだのだから。
帰宅途中、様々なことを考えた。妻には、今日病院に行くとも言っていない。おそらくは何の心配もしていないはずだろう。もちろん、それが最悪の結果であれば、告げなければならない。そのことは、気が重い。
妻との間には、子供が居ない。二人きりの生活をずっと続けている。
結婚10年目だったか。どうも子供を授かりそうにない僕らは、こんな話をしたことがある。
「私たち、死ぬときが困るね。たぶん誰も看取ってくれる人がいないから」
「それはそうやけど、おまえは困らんやろ」
「どうしてよ」
「ワシのほうが長生きするからや」
「わたし、100歳まで生きるかもよ」
「ほんならワシは101歳まで生きる。心配するな」
「そうなったらあんたのほうが心配よ。101歳の一人暮らし(笑)」
そんな軽口を叩き合って、暫らく経った。今さらあのときの約束を反故にする、とは言いたくない。
不思議と、死ぬことは怖くなかった。ただ全てが終わりになるだけ。僕自身の感覚としては、何もかもおっぽり出して逃げる、ということに近い。これが夢の途中であれば、頑強に生への未練を持っただろうが、ちょうどその時はそういう意識もなかった。 あれもしておけば良かった、これもやっておけば…ということは、きりのないこと。そしてまた、自分という人間がそんなに値打ちのあるイキモノではない、ということもよく自覚している。僕が居なくなって困るという人はそう多くないはず。運命であればそれは受け入れる。ここまでの人生は、少なくとも幸せだった。
ただ、とにかく気懸りなのは、今一緒に暮らしている人の未来。それだけだった。親や兄妹も悲しむだろうけれども、それはいたしかたない。ただ「一生食わしていくから」といって結婚したこの人のことは、どう責任をとればいいのか。それだけは辛い。僕が資産家であれば何も恐れることはないが、そうではない。生命保険も、高額なものには入っていない。いや、かつては入っていたのだが、子供が結局出来ないことを鑑みて、積立年金型のものに変更した。将来を考えてのことだったが、それが今となっては悔やまれる。
さて、どうするか。一週間後に結果が出て、それが最悪のパターンとなった場合は当然ちゃんと妻には話さなくてはいけないが、僕はその日は何も言わなかった。それまでは、笑っていてくれ。どんなときでも笑顔を絶やさないこの人の曇った顔を見るのは好きじゃない。また、無理して笑う姿も見たくない。
その日から、僕は身辺整理を始めた。
公的には、とにかく辻褄合わせに必死だったと言っていい。何事も継続していれば、見込み報告だって出来る。しかし突然それが途切れると「何月何日には可能」と言っていたことが全て嘘になる。僕が突然いなくなっても、全てがうまく回っていくようにしておかなければいけない。仮に入院したときに「あれはどうなったのか」なんて聞きに来られるのは困る。
そして、私的にはどうすればいいか。とにかく、手続き的なことを簡略に出来るように用意したいと思った。財産と言えるほどのものはないが、少しでも今後役に立つようなものは全て妻に帰するように。大げさだが、遺言書のようなものも作成した。何せ、もしかして一旦入院すればもう出てこられないかもしれないのだ。従兄弟は、そうだった。
一日、休日があった。その日は僕も妻も別々の所用があったのだが、僕はそれをキャンセルして、一人うちに居た。
我が家には、面倒臭い性格の夫がいるために、モノが多い。これらは、僕が居なくなればほとんど必要でなくなるものばかりだ。今のうちに処分してしまおうか、流行の断捨離だ、とも思ったが、そんなことは急には出来ない。僕は、机周りから整理を始めた。
別に、見られて困るものはもうない。変態趣味のDVDなどもない。押入れの中の箱のひとつに、昔の彼女との手紙などは残っているが、まあそれも愛嬌だろう。いや、やっぱり処分しておくか。そんなことをつらつら考えながらあちこち整理した。
最も見られて困るのは、PCの中身かもしれない。そう思った。特に、僕がこんなブログを書いていることは知られたくない。恥ずかしい。いざとなれば、履歴とブックマークを消せばいい。しかし、ブログは突然途切れるな。どうしようか。僕は、オンとオフに全く接点はない。
一人気の弱い後輩が居る。こいつにだけ因果を含めて打ち明けるか。で、そういう局面が来たら「もうこれで終りです」という記事を書いてアップして、全てのPC内履歴を消す。そして「死んだらあいつには連絡してくれ」と妻に言っておく。あいつはその記事に「凛太郎は逝きました」とコメントしてくれればいい。
そんなことまで真剣に考えた。
山のような書籍は、もうしょうがない。特に値打ちのあるものもないから、ブックオフに電話して引き取ってもらえばいい。あとは、音源とか。カセットテープはもうゴミだな。ビデオテープも山ほどある。もうビデオの時代も終わったな。中身はほとんどプロレスである。僕が居なくなれば、これもゴミだ。
CDなどはあまり大したものはないが、レコードはどうだろうか。もしかしたら売れるかもしれないな。オークションのやり方を教えておこうか。そんな末梢的なことまで考えた。しかしこれもよく考えたら、今はよっぽどの好事家でないと、レコードプレイヤーさえ持っていないよね。やっぱりゴミか。
ふと思いついて、プレイヤーを開けた。しばらく使っていないが、まだ現役だ。
ラックには、LPレコードがずらりと並ぶ。どれもこれも、愛着のあるものばかり。入手したときの思い出がこもる。その中に、ごく僅かだがシングルレコードがある。
ナターシャーセブンのものばかりだ。
少年の頃は、財力がない。なので、1曲あたりのコストが高いシングルにはまず手を出さない。ただナターシャだけは特別だった。
僕が生まれて初めて買ったシングルレコードは「孤独のマラソン・ランナー」。小学生だった。ナターシャに、夢中だった。
若者が走るよ 街のビルの谷間を 若者の足どりは 風を切ってゆくよ
レコードに針を下ろすという作業も、久しぶりだった。
孤独のマラソン・ランナーは、自切俳人(北山修)の作詞作曲。北山修氏の作曲というのも珍しいと思うが、これはいい曲だ。今聴き返して、しみじみそう思った。同時に、脳内が当時にフラッシュバックした。あの頃は、夢しかなかったような気がする。
その後ナターシャは「107ソングブック」という大企画を完成させ、絶頂期を迎える。「ズバリク(京都の深夜放送)」のリスナーだった僕は、宵々山コンサートにも出かけた。
ナターシャが次に仕掛けた企画は「シングル文庫」だった。その第1弾・あき「私に人生と言えるものがあるなら」の発売は中学2年。もちろん、予約して購入した。
以降、ふゆ「時には化粧を変えてごらんなさい」、はる「春を待つ少女」と続くが、ここらで主要メンバーである木田高介氏が脱退してしまう。
木田高介氏が脱退したのは、確か冬。そして春に、木田さんは衝撃的な交通事故死を遂げる。31歳。
こういう死に方というのは、あんまりじゃないかと思う。突然にぷつりと生への道を閉ざされるのは。木田さんの奥さんの嘆きはいかばかりだったか。そのあまりの悲嘆の場面を葬儀で見ていた五輪真弓が、その嘆きをもとに「恋人よ」を作ったという話がある。
こういう予期せぬ突然の死というのは、最も避けたい。これなら、まだ別れの時間をくれる病死の方がいい。この震災で亡くなった多くの人たちも、突然に命を奪われた。またナターシャ関連で言えば、マネージャーの榊原詩朗氏がそのあと、ホテルニュージャパンの火災で死去する。こういうのは、家族にも何も告げられない。
シングル文庫の第5弾・なつ「君よそよ風になれ」が木田高介氏の編曲で、遺作となった。
君のベスト・フレンドは君だから 思いどうりに生きてごらん
やりたいことに手を伸ばして 行きたい所に足を伸ばして
僕はシングル文庫では、これがいちばん好きだった。何よりシングル文庫オリジナルであるし、爽やかだ。
ナターシャは、その後徐々に活動をしなくなり、僕が大学に入る頃には活動を停止した。僕も、この世に生を受けて以来、いろんな人の音楽を聴いてきたけれども、明確に「ファン」になったのはナターシャが最初だ。シングルもアルバムも、初めて買ったミュージシャンはナターシャ。コンサートも、初めては宵々山でありナターシャが出ていたからである。
いろんなことを、思い出していた。
僕の好きだったナターシャはもういない。坂庭省吾さんも、もう亡くなって久しい。53歳、癌だった。そんなに若いのに、とあの時は思った。しかし病魔は、年齢に関係ないんだ。
シングル文庫を聴き終わって、僕は「道づれは南風」に針を下ろした。
南の風が好きだよ 涙を吹き飛ばすから
この曲を最後に、僕はナターシャのシングルを買っていない。それは、ナターシャの活動が下火になったこともあろうし、僕も高校生となって、いろんな音楽に広がりだしてナターシャ一辺倒ではいられなくなったからだろう。
ただ、この曲は好きだ。
きみはまだ眠っているだろ 安らかな窓の下で
青い絵はがき届いたら 思い出してよ僕を
僕がこの世から消えたら。誰かはふと思い出してくれるときがあるだろうか。
もしも強く思い出す人がいたとしたら、それは忘れてもらったほうがいい。強い悲しみは僕も望むところではない。ただ、記憶の片隅に留めてくれればいいんだ。で、ときどき、あんなやつが居たな、と思い出してくれればいい。
人は忘却の生き物。そんなことこちらが望まずとも、みんな忘れてゆく。それでいいのかもしれない。
光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
歩いてゆくよこの道を 君に逢えるまで
「光の中のかたつむり。せめて夢を背負いながら…か」
そのとき、僕の箍が外れた。
想いが、堰を切って溢れた。出てくる涙を、もう止めることは出来なかった。嗚咽が出た。誰もいないことを幸いに、ただ泣いた。
光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
俺だって生きてきたんだよな。小さな存在だったけれど。
毎日、世界中で溢れんばかりの数の子供達が生まれ、そして同じように人は死んでゆく。大きな歴史の流転を考えれば、一人一人の生き死になんて、ただの小さな波にすぎない。さざなみにも満たないかもしれないよ。でもその一人一人は、懸命にもがきながら生きてるんだ。小さな夢を背負いながら。
涙は、悲しみからきたのではなかった。それははっきりしていた。じゃなんだと言われたらそれはよくわからない。強いて言えば、自分の軌跡を思い出したからかもしれない。あの両親の元に生まれて、愛されて育って、旅をして、恋をして、共に歩む人と出逢って…。よく「走馬灯のように」という形容詞があるが、あれは本当なのだなと思った。自分がいちばんよく知る物語、その追憶というドラマに心が震えてしまったのだろう。
光の中のかたつむり せめて夢を背負いながら
歩いて行くよこの道を 君に会えるまで
僕は、今も生きている。こうしてブログも書いている。
幸いにして、妻に、そして多くの人に別れを告げずに済んだ。
だからと言って、別に精神的なものでもなく、疾患がないわけでは無かったが、それでも生き延びている。しかしおそらくは、まだまだ死なないだろうと思っている。
このときのことは多分にノイローゼ的なことになってしまったのだと思うが、僕としては貴重な経験だったので、備忘録的に文章にしてみた。以後、身体を大切にしていきたいと思っている。
繰り返すが、この話は虚構である。