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小山 青巖寺

三重県津市一志町小山にある真宗高田派のお寺です。

願い

2015年12月25日 | 聞法会・月例法座
 今日は、聞法会でした。
 いつもは30日なのですが、12月は年末で忙しいので、毎年12月は25日に行っています。

 今回は、四十八願の内の第一願から第十七願までを読みました。

 法蔵菩薩が願った第一番目の願いは、「私の国に、地獄や餓鬼や畜生がいませんように」というものでした。

 思えば、『観経』では、イダイケ夫人がお釈迦さまに、「憂い悩みのない世界に往生したい」と頼んでいました。「この世は、地獄や餓鬼や畜生のもので満ちている」と言って。

 この世で苦しんでいるものにとって、この世は、地獄や餓鬼や畜生のものが満ちている世界なのでしょう。

 この世で苦しんでいるものを救いたい、それが法蔵菩薩の願いでした。だから、まず一番初めに、地獄や餓鬼や畜生のものがいない世界をつくることを誓われたのでしょう。

 と、このように、一つ一つの願いをじっくりと見ていきました。

 来月は、第十七願から第二十願までを見てみたいと思います。
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五劫思惟

2015年11月30日 | 聞法会・月例法座
 今日は、聞法会でした。今は『仏説無量寿経』の現代語訳を読んでいます。

 前回、「歎仏偈」まで進んだので、今回は、その続きです。

 法蔵菩薩は、世自在王仏によって、諸仏の国土を見せてもらい、その後、五劫という長い間、すべての人々を救う方法を考え続け、ついにその方法を考えついたのでした。

 法蔵菩薩と世自在王仏の言葉のやりとりや、ソクラテスの「無知の知」について、また五劫という時間の長さ、さらに、なぜそれほど長い時間がかかったのかについて、お話しさせていただきました。

 
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そのままのお救い

2015年11月16日 | 聞法会・月例法座
 今日は、月例法座の日でした。

 ずっと『絵ものがたり正信偈-ひかりになった、王子さま』を読んできましたが、今日で読了です。

 来月は、あとがきを読んだり、この1年の総括などを行って、来年度から新しいテキストに入りたいと思います。

 で、今回は、一蓮院秀存師や三河のおそのさんのお話を通して、「そのままのお救い」ということについて、お話しさせていただきました。

 「そのままのお救い」というのは、自分で自分を見て、このままでいいんだと開き直ることではありません。その場合、見ているのは自分であって、どこにも阿弥陀さまがいらっしゃいません。だから、何も変わりませんし、お浄土という「さとり」の世界への歩みもありません。

 「そのままのお救い」とは、阿弥陀さまが、私に、そのままでいいよ、と仰っていることです。

 自分には真実もなければ、仏法もありません。その真実もなく、仏法もないこの私に対して、阿弥陀仏は「お前を必ず救う」と仰るのです。

 真実もなく、仏法もない私だからこそ、阿弥陀仏は「私が修行して功徳を積んで、その功徳を回向して、お前を必ず救う」と仰るのです。

 どれほど努力しても救われようのない私であるからこそ、阿弥陀仏は兆載永劫の修行を経て仏となって、この私を救おうとされているのです。

 「お前を必ず救う」という阿弥陀仏からのお言葉が、「南無阿弥陀仏」です。

 このことを本当に知らされた時、「申し訳ない、ありがたい」という思いが生まれます。

 その時、お浄土という「さとり」の世界への歩みが始まります。

 真実なき私の、おぼつかない歩みではありますが、でも、真実である阿弥陀さまがいつもそばにいらっしゃいます。いつでも、どこでも、阿弥陀さまとご一緒です。

 煩悩いっぱいの私の、煩悩いっぱいの日暮らしそのものが、阿弥陀さまが働きづめに働かれている場所そのものだったのです。

 おかげで、歩めば歩むほど、自分の愚かさを、ますます知らされます。だからこそ、阿弥陀さまのありがたさが、ますます感じられます。

 それが「そのままのお救い」です。

 
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歎仏偈

2015年09月30日 | 聞法会・月例法座
 今日は、聞法会でした。

 いつものように午後1時半から本堂で、重誓偈・文類偈・和讃・念仏・回向文を、みんなでご唱和いたしました。

 そして本堂で、11月に迎える三尊さんの法会について少しご説明させていただいた後、茶所に移動していただきました。

 茶所では、今は『大経』の現代語訳を読んでいます。今回は、歎仏偈の箇所でした。

 歎仏偈は、世自在王仏のお徳を誉め讃えた偈文ですが、後半には法蔵菩薩の決意が述べられています。

 こういう固い決意をされた方だったんですね~、と、お話しさせていただきました。

 いつもは、午後3時までお話しさせていただくのですが、今日は2時半で終わらせていただきました。

 2時半から(いつもは3時から)は、お茶とお菓子を食べながら、坊守との茶話会となります。
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『仏説無量寿経』を読み始めました

2015年07月30日 | 聞法会・月例法座
 今日は、午前中、本山へ行き、教師検定委員会に出席した後、宝物館で宝物展示のお手伝いをしてきました。

 午後からは、青巖寺で、聞法会でした。
 今月から、『仏説無量寿経』の現代語訳を読みます。今日はその第一回目でした。

 お釈迦さまとお弟子さんたちが王舎城の耆闍崛山にいらっしゃいました。そして、そのお弟子さんたちはお釈迦さまと同じような方ばかりでした。
 ということで、今回はお釈迦さまのご一生を紹介させていただきました。

 次回は、お釈迦さまと同じように人々を救っている人たちが集まった法座で、お釈迦さまがお話しされた話とは…、ということで、いよいよ本題に入ります。

 聞法会は、毎月30日、午後1時半から、青巖寺にて、開催しています。

 
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海一味

2015年06月16日 | 聞法会・月例法座
 今日は、高田短大で、四諦八正道の続きを講義してきました。

 夜は、月例法座でした。今回は、「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」についてお話ししました。

 いろんな川があります。渓谷の急流、ゆったりとした大河、青い川、白い川、緑の川、水流の多い川、少ない川、曲がりくねった川、まっすぐな川……。

 でも、どんな川でも、最後には、海に辿り着きます。そして、海に流れ込めば、みんな、海という一つの味になります。

 どんな人生を送ってきた人でも、阿弥陀仏の願いの海に抱き込まれれば、誰もが平等に救われます。

 がんばったから救われるのではありません。苦労してきたから救われるのでもありません。

 あなたを救いたいと願ってもらっているから、救われるのです。

 何の条件もなく、ただただあなたを救いたいという願いが、あなたにはかけられています。

 そのことに気づかされた時、私たちは阿弥陀仏の願いの海に抱き込まれます。

 最初から、阿弥陀仏の願いの海は、私たちが気づくのをずっとずっと待ってくれていたのでした。

 そんな話をさせていただきました。

 
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聞思

2015年05月25日 | 聞法会・月例法座
 今日は、聞法会でした。(本当は30日なのですが、今月だけ少し早めて25日にしていただきました。)

 ずっと都路惠子さんの『アジャセからの贈りもの』を読んできましたが、いよいよ今日で最後です。

 今回は、「聞思」ということ、特に「聞」について、お話しさせていただきました。

 仏教の教えは、出世間の教えなので、世間の常識にはおさまりません。たとえば、「仏が私に呼びかけている」と言われても、世間の知恵で考える限り、理解不可能です。無理に理解しようとすれば、「きっとこういうことなのだろう」と自分勝手に誤解することになります。では、どうすればいいのか?

 それは、ただ「聞く」だけです。こちらの世間的な浅はかな知恵を差し挟むことなく、ただ「聞く」だけです。

 「聞く」という行為は、自分一人だけでは成り立ちません。無音の状態では、何も聞くことができないからです。「聞く」という行為は、他からのはたらきかけがあって成り立つものです。すでに他からはたらきかけてもらっているからこそ成り立つ行為です。「聞く」だけではなく、「食べる」ことも、「着る」ことも、「話す」ことも、すべて、すでに他からはたらきかけてもらっていたからこそできるようになったことばかりです。

 このように、「聞く」という行為を通して、私たちの行為はすべて、先に他からのはたらきかけがあってこそ成り立っていること、しかも私たちは普段そのことに気づいていないこと、そしてその気づいていない私に気づかせようとはたらいているはたらきこそお念仏であることをお話しさせていただきました。

 そして、「聞いた」ことが、自分の中で、自分の人生を通して「思」に熟成される時、「仏に呼びかけられていた私」に気づかされます。その時、自分勝手な誤解ではなく、ありのままをありのままに知らさせていただくことになります。そして、それこそが「アジャセからの贈りもの」だったのです。そのようなことをお話しさせていただきました。

 さて、来月からは、新しく『仏説無量寿経』を読んでいきます。楽しみにしてください。

 
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二つの海

2015年05月16日 | 聞法会・月例法座

 今日は、月例法座の日でした。群生海と本願海についてお話ししました。

 群生海とは、私たちが生きている迷いの世界のことで、「生死の苦海」とも「煩悩海」とも「衆生海」とも呼ばれます。

 それに対して、本願海とは、仏のさとりの世界のことで、「一乗海」とも「真如海」とも「慈悲海」とも呼ばれます。

 しかし、これは別々の世界があるのではなく、同じ世界でありながら、凡夫の目で見た場合と、仏の眼で見た場合とでは、全く別の世界のように見える、ということだと思います。

 そして、仏の眼つまり智慧の眼で見た世界を知らせてくださるのが、お念仏です。

  「 智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり

    信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし 」

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ひかりのなかで

2015年04月30日 | 聞法会・月例法座
 今日は、聞法会でした。ずっと読んできた『アジャセからの贈りもの』も、来月で終わりそうです。

 今日は、「在家仏教者の誕生」の箇所を読みました。その中に、こんな文章がありました。

 「人はそれぞれ自分の意志にかかわらず、それぞれの業を背負って生きています。すべてのいのちとのつながりのなかで、どんな状態であったとしても「今」の自分自身のありのまま・そのままを受け入れ、感謝しつつ生き抜く力を与えられる」

 この文章についてお話しする中で、大平光代さんのことと、その著『ひかりのなかで』を紹介させていただきました。

 

 その中に、こんな文章があります。

 「人は生まれてから死ぬまで、多くの“ひかり”に照らされ、導かれているのだ」と。

 本当に、多くの“ひかり”に照らされて生きている私たちです。そのおかげで、「今」の自分自身のありのままを受け入れ、感謝できる身にならせていただくことが可能となります。南無阿弥陀仏
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十二光

2015年04月16日 | 聞法会・月例法座
 今日は、月例法座でした。今は、みなさんと一緒に『絵ものがたり正信偈―ひかりになった、王子さま』を読んでいます。

 今回は、十二光について、お話ししました。

 あと「本願名号正定業、至心信楽願為因」を読んでいて、改めて、「至心信楽の願」が「因」なんだ、と気づかされました。いつまで経っても、教えてもらうことばかりです。
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