愛媛県、伊予市で仕事。
仕事は午後からだけど、コロナで飛行機の便数が間引きされて、9時半には松山着。
3時間ほど暇。
で、久々に松山城。ほぼ忘れてます。
前回は歩きでしたが、今回は時間を気にしてロープウェイで上がる。
松山城。
以下ウィキ引用。日本三大平山城。
松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城である。日本三大平山城にも数えられる。山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つである。この中では、姫路城と同じく、連立式で、日本三大連立式平山城の1つにも数えられる。1933年ごろまでは、本丸部分には40棟の建造物が現存していたが、1949年までに19棟が火災により失われ、現存建築は21棟にまで減少した。建造物の現存数は二条城(京都府)の28棟に次ぐものである。
幕末に再建された大天守ほか、日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、深さ44メートルにおよぶ本丸の井戸などが保存されている。
- 1602年(慶長7年)、伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明[注釈 2]が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した[注釈 3]。
- 1603年(慶長8年)10月、嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。
東軍の加藤嘉明が、関ケ原の合戦で活躍して築城。
松山の名前も江戸時代の始まりと共にできたようです。
江戸時代の安定期で戦はありませんでしたが、銃を中心とした防御の城であります。
一人の足軽となったつもりで、シミュレーション。
上から銃撃をかわしながら、一つ目の門。
門前でもたつくと、まず回避できない。
門を破る重機を担ぐ兵がバタバタ倒れるも、替わりが来て交代。
なんとか門を一つ突破したと思って、くるっと回り込むと、次の門。
良い景色です。
が、後ろが短いので、勢いつけて門を破るのが難しい。すでにこの高さまで上がってくるだけでも、息が上がっている。とにかく門を壊さないと何も始まらない。
軽装で上がってきた兵と、重機の担ぎ手を次々変えて、門を破る。
自分は銃がないし、銃を持った兵も櫓の穴から打ってくる相手に対応できない。
石垣に隠れて、もう一つの門。
3つ目の門にてこずっているところを、隠れ門から防衛の兵が飛び出し、横から脇腹をグサリ。
こちらも刀を持つ兵を後ろから補充して混戦状態。
とにかく重機を担ぐ兵を守るための防戦が続く。
3つの門を突破しても、長い櫓があり、横から、ピシッ、パシッ、と玉がかすめる中、次の門へ。
4つ目の門の上にも櫓。小窓から銃。ブシュ!・・肩から腹へ銃弾が抜けた。
桜の時期はよさげな広場。
血だらけで見る松山平野。
自分たちには天守が途方もなく遠い。
三方、櫓から銃口が・・。
話が続かないので、ゲームのように実は私、3人目であります。
重機担ぐ兵の担当は、平均8回入れ替わりました。
5つ目の門。さらにブシュ、ブシュと玉が飛んでくる。もはや来る方向もわからない。
6つ目の門。ここに来るまでにさんざん銃弾を撃ち込んだ銃座がありました。
今の自分が死ぬとゲームオーバーですが、一人目みたいなふりをして、なだれ込む。
多勢に無勢。
気味が悪いのか、兵が引きます。
7つ目の門。360度、櫓の中。
停まるとやられるので、数に紛れて、進むしかない。
なんとか城の中。
VR体験ができます。中学生が遠足で来て楽しんでる。
一つ、空かないかなぁ・・。
はっとして、城主、加藤嘉明を探す。
銃座が各所にあり、広場から天守まで、やたらもたついて相当兵が減ってしまった。
そうそう当たらないので、無視して走ったほうが良かったかも。
次の回の反省材料です。
城主、加藤嘉明は参勤交代で不在。
打ち取ることもできず、仕事まで時間もなく、あえなく引き上げる。
広場で休憩。
ご当地ソフトは、伊予柑ソフト。
さっぱりして旨し。
蛇口捻って出てくるミカンジュースもありました。
ここで大量出血で失った水分、糖分を補給。
帰りはリフトで。
まさかの最後で、とどめの一句。
ゲームオーバーとなりました。
正岡子規が悪影響。
打合せ後、日帰りで大阪へ。
今度は道後温泉で一泊したいてくてくでありました。