統一教会はあなたの応援鯛<゜)))彡

統一教会のカッパ物語

どんなもんですかねー 22(123号)

2011-03-07 | どんなもんですかねー
- 私の心の中の北方領土問題-10 -

故郷が愁いをもって思い出されるのはそこに戻ることがゆるされないから。

私が不安におののくのは神様と言う故郷が遠くなった時。

都会に生まれてもネオンの光や人の賑わい高層ビルがその人の故郷になるの
だろうか。

今、国家のナショナリズム、環境問題、物質中心主義と私達の住む場所と心の
安住地が危機にさらされている。

「私の心の中の北方領土問題」も10回を数えてしまった。
別に誰からかもっと書いてほしいと人気のあるブログでもないし、後で読み
返せば穴に入りたくなるような内容に自分でもこんなに続くとは不思議なも
のだ。

あざなえる縄の幸・不幸のドラマの中で不幸という環境にいたとしても、何か
しら熱中していたり夢や希望を持って生きている人にとっては幸せな時かも
しれない。

それらをまぜこぜにしながらも、この地球の環境問題は深刻になるばかりだし、
自己中心という悪魔はいろいろな仮面を被って神様の存在を否定しようとして
いる。

様々な提言を北方領土問題を通してしてきましたが、このシリーズ最後の提言
は「家族」です。

前にも書きましたが「エコ」=、ecology(生態系)とeconomy(経済)の両方の
接頭語で、エコ=eco という言葉自体の由来は、ギリシャ語で house(家)=
家族という意味があるそうです。

環境問題、国境問題等、個人から地球までの様々な問題解決の糸口は「家庭」に
あるようです。

統一教会はこの家庭を殊更に重要であると訴えています。

為に生きあう出発点は家庭での愛の触れあいからです。
(右リンクの「Count Down 2013.1.13」を見ているとそう思います)

「愛」という字には心が中心にあります。真の愛は真の心を育て地球的な問題も
解決してくれるのではないでしょうか。

地球を大きな一つの家族として捉えない限りあざなえる縄を幸福を引き寄せる縄
にすることはできないと思います。地球は私達の故郷であり神様ですから。


どんなもんですかねー 21(122号)

2011-03-06 | どんなもんですかねー
- 私の心の中の北方領土問題-9 -

宗教に携わっていると普通の人が経験しないことを経験する。

例えば、涙。

別に感情も高ぶってもいないのに涙がひとりでにポロポロと流れ落ちたり、
逆に、心の中は大雨のずぶ濡れ状態なのに涙が全然でてこないとか。

カッパ親父だけに統一教会に来る前は涙とは縁がないものと思っていたが、
統一教会は内も外も涙腺を弱くさせる団体だ。

礼拝に使われた文鮮明先生の「平和の主人、血統の主人」より抜粋された
一文が、心の中はずぶ濡れにさせるのだが、何故か目からは涙がでてこな
かった。私としてはそれが妙な感覚として残っているためここにしたためてし
まった。
以下その一文です。

*先生が住んでいた村に、障害のある夫婦がいました。女性は足も使えず、
腰も伸ばせませんが、顔の目、耳、鼻は正常です。男性は目は見えず、
話もできず、手足も不自由で座ることもできませんでした。そのような二人が
結婚したのです。
女性の世話で暮らしていたその夫婦が、私の家に来る途中で亡くなりました。
私は墓の場所を決めて埋めてあげようと思いました。(彼らは)十一月に雪が
降り始める前に私の故郷を訪ねてきて、昼食を準備して松の木陰の、夕焼け
のとても暖かい所で二人で食事を取りながら、二人で寄り添って座り、喜びな
がら眠りについて、そのまま逝ったのです。*

当然ながらこの一文の前後に話があり全体としてはまた別の意味合いがある
のですが、なんとも胸が熱くなり心が涙しているのを感じました。
偶然、障害を持つ親の学習会の日程案内を頼まれていたせいか、胸に迫る
ものがあったのでしょう。

私は思うのです。
私の体の中にあるこの魂はなにゆえに、この日本に住む私の体に存在するのかと。
何故「私なにがし」の体にこの魂は同居したのかと。
何故あの障害者やアフリカに生まれなかったのかと、何故北方四島に住むロシアの
人の魂にならなかったのかと。

魂に平等はないのでしょうか?

障害者に宿った魂と私の体に宿った魂とはどこが違うのでしょうか?

私の魂よりずっときれいで純粋な障害者の魂のほうが天の宝物のように思える。

やはり私の魂も北方四島で暮らすロシア人と同居した場合、ここはロシア領だと
主張するのだろうか。

私は思うのです。
魂はもとは一つではなかったのかと。
神様の分身として無限に創りだされる魂として、もとはひとつのところからでてきた
のではと。

一つになることができるのにいつのまにかかみ合わなくなった心と体、あなたと私、
あの団体とこの団体、あの国とこの国。

一つになろうとするとき自分を中心に「力」で一つにしようとしても別な力で倒される。

最初はかみ合わない相手でも、相手を真に思う「祈りの力」を信じるところから始め
ることはできないだろうか。
祈りに力はないと言わず、そこから知恵が生じ、愛する力が生じ、出発の重要な
契機として祈りは、神様が与えて下さった偉大な力ではないでしょうか。

偉い先生方の北方問題解決に状況分析やら賢い提言が多くあります、それでも
私には解決は遠く思えてなりません。
文鮮明先生が呈示する祈りと愛なしでは。